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第31話 鍵の向こうで — Behind the Door
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朝から、オフィスの空気は静かだった。
週明けの会議も滞りなく終わり、メールの返信を片づけながら、ようやくひと息つける。
そんなとき、正面の席から低い声が落ちた。
「おい、あいつ、また来るらしいじゃないか」
顔を上げると、匠真が資料の束を手にしている。
いつもの落ち着いた調子。けれど、その目の奥は少しだけ険しい。
「あいつって?」
「城ノ内隆哉だよ」
その名前で、心臓が小さく跳ねた。
城ノ内隆哉…アメリカに留学していたときの大学の同級生だ。
「……そうなの? 聞いてないけど」
「これを見ろ」
匠真がデスク越しに差し出したのは、営業部に回ってきた取引先リスト。
そこには、見慣れた社名と名前。
《SynApex Japan/代表:城ノ内隆哉》――来日予定は本日。
「あ、本当だ……」
隆哉は大学卒業後にSynApex Japanという会社を立ち上げ、うちの会社の仕事もしている。
だから日本に来るのは不思議じゃない。
ただ、くるならくるで、こっちに連絡があってもいいのにな…と少し不思議に思った。
画面の文字を追った瞬間、ポケットの中のスマホが震えた。
ディスプレイに表示されたのは、その名前。
「……隆哉」
通話ボタンを押す。
「颯? 今、日本着いた。これからそっちに行くけど、夕食でもどう?」
「え、今日?」
「そう。久しぶりに会うんだし、軽く話したい。行ける?」
「ちょっと待って、スケジュール確認してあとで連絡する。じゃあね」
慌てて電話を切ると、目の前の匠真が、黙ってこちらを見ていた。
「……今の電話、誰だ」
「隆哉。今、日本に着いたって」
「やっぱりな。で、飯に誘われたんだろ」
「うん。でも、どうしようかなと思って」
匠真は短く息を吐き、机の端に肘をついた。
「今日、隆哉とご飯行っていい?」
そう言った瞬間、空気がわずかに張りつめた。
彼の眉がゆっくりと上がる。
「……おまえ、俺の神経を試してるのか?」
「そんなつもりじゃないよ。
匠真がどうしてもダメだって言うなら、断る」
沈黙。
匠真は数秒だけ考え込み、手元の書類を閉じた。
「……門限は22時だ。おまえのマンションの下で待ってるからな」
「待たなくていいって。ちゃんと時間までに帰るから」
「信用できるか」
その声は冷たいのに、どこか優しい。
俺は少し笑って言った。
「……じゃあ、合鍵、渡すよ」
胸ポケットから小さな鍵を取り出して、手のひらにのせた。
「いつか渡そうと思ってたし。
これで、外で待たなくても大丈夫だろ?」
匠真の表情が、ほんの少しだけ緩む。
「……本気か?」
「うん」
「でもやっぱり外で待ってる。そのほうが、おまえも焦るだろ?」
「性格わる」
「そうだよ。知らなかったのか?」
笑いながら、匠真は鍵を受け取った。
指先でそれを軽く回し、ポケットにしまう。
「合鍵は受け取っておく」
声の調子が、わずかに柔らかくなっていた。
◆
夕方、オフィスの窓の向こうにオレンジ色の光が差し込む。
隆哉からのメッセージには「19時、六本木のホテルラウンジ」と書かれていた。
行かない理由も、特別な口実もない。
“仕事の延長”だと自分に言い聞かせながら、ジャケットの襟を整えた。
◆
六本木のラウンジ。
窓の外には、ゆるやかに沈む街の光。
テーブルの向こうで、隆哉がワイングラスを傾けた。
「急だったから、びっくりした。うちの会社の案件だけ?」
「いや、他にもいろいろ。この間は、個展来てくれてありがとう」
前回は3ヶ月ほど前、グラフィックアーティストでもある隆哉は、個展のために来日していたのだ。
あの時、匠真を挑発するようなことを言って、それ以来、匠真の隆哉に対する印象は最悪だ。
匠真は隆哉が俺に対して恋愛感情のようなものを抱いていると、すっかり勘違いしている。
隆哉の言い方も確かに悪かったけど…彼が俺に恋愛感情を抱いているというのは、さすがに勘ぐりすぎな気がする。
「SynApex Japanも順調そうだな」
「おかげさまで。……そういえば、面白い話がある」
「面白い話?」
「九条ホールディングスって知ってる? 日本の古い財閥系。
最近、AI事業への出資を検討しててね。うちにも声がかかってる」
「へえ…」
九条…と、その名前を聞きながら、俺はなるべく平静を装った。
匠真と九条が関係あることを知っているのは、俺や怜央などのごく限られた人間だけだ。
だから隆哉にそのことを伝える必要はない。
「表向きは投資の話だけど、内部は複雑らしい。
伝統とか直系とか……古い家系の事情って、面倒だな」
「……そうだな」
ワインの表面が、静かに揺れた。
時計を見ると、21時30分。
タクシーを使ってうちのマンションまで20分ほど。
そろそろ切り上げて戻るのがいいだろう。
俺はグラスを置いて、立ち上がる。
「もう行くの?」
「うん、明日も早いから」
「そっか、大変だな」
「その分、安定して給料もらってるからさ。自分で会社をやってる隆哉は、もっと大変だよ」
「まあ、俺は会社員とか無理そうだし」
「確かに、似合わないな、隆哉には」
俺がそう言うと、隆哉も笑って立ち上がった。
「ここは持つよ。経営者の特権。会社の経費で落としておく」
「じゃあ、遠慮なく」
会計を済ませて店を出る。
タクシーはすぐにやってきた。
「颯」
「なに?」
「俺、まだハンティング、諦めてないから」
「え…」
「タクシー来たよ」
「あ、うん…」
何かを言わないと…と思いつつも、俺はそのままタクシーに乗り込んだ。
◆
マンション前に着いたのは、21時58分。
外灯の下で腕を組み、誰かが立っている。
「……ほんとに待ってたのか」
「当たり前だろ。22時って言った」
「鍵、渡した意味ないじゃん」
「鍵は受け取った。でも俺は性格が悪い」
思わず笑ってしまう。
匠真が一歩近づき、髪をそっと撫でた。
「ちゃんと時間前に帰ってきたな」
「当たり前だろ」
「……いい子だ」
街灯の下、彼の横顔がやわらかく光る。
******************
「風を捕まえる手 ― 再会は逃れられない衝動」は、YouTubeチャンネル「BL Soundscape」 にて公開されるオリジナル楽曲と完全連動しています。
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「鍵の向こうで — Behind the Door」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
♫「鍵の向こうで — Behind the Door」はこちら⇒ https://youtu.be/9TWZQy9qMps
週明けの会議も滞りなく終わり、メールの返信を片づけながら、ようやくひと息つける。
そんなとき、正面の席から低い声が落ちた。
「おい、あいつ、また来るらしいじゃないか」
顔を上げると、匠真が資料の束を手にしている。
いつもの落ち着いた調子。けれど、その目の奥は少しだけ険しい。
「あいつって?」
「城ノ内隆哉だよ」
その名前で、心臓が小さく跳ねた。
城ノ内隆哉…アメリカに留学していたときの大学の同級生だ。
「……そうなの? 聞いてないけど」
「これを見ろ」
匠真がデスク越しに差し出したのは、営業部に回ってきた取引先リスト。
そこには、見慣れた社名と名前。
《SynApex Japan/代表:城ノ内隆哉》――来日予定は本日。
「あ、本当だ……」
隆哉は大学卒業後にSynApex Japanという会社を立ち上げ、うちの会社の仕事もしている。
だから日本に来るのは不思議じゃない。
ただ、くるならくるで、こっちに連絡があってもいいのにな…と少し不思議に思った。
画面の文字を追った瞬間、ポケットの中のスマホが震えた。
ディスプレイに表示されたのは、その名前。
「……隆哉」
通話ボタンを押す。
「颯? 今、日本着いた。これからそっちに行くけど、夕食でもどう?」
「え、今日?」
「そう。久しぶりに会うんだし、軽く話したい。行ける?」
「ちょっと待って、スケジュール確認してあとで連絡する。じゃあね」
慌てて電話を切ると、目の前の匠真が、黙ってこちらを見ていた。
「……今の電話、誰だ」
「隆哉。今、日本に着いたって」
「やっぱりな。で、飯に誘われたんだろ」
「うん。でも、どうしようかなと思って」
匠真は短く息を吐き、机の端に肘をついた。
「今日、隆哉とご飯行っていい?」
そう言った瞬間、空気がわずかに張りつめた。
彼の眉がゆっくりと上がる。
「……おまえ、俺の神経を試してるのか?」
「そんなつもりじゃないよ。
匠真がどうしてもダメだって言うなら、断る」
沈黙。
匠真は数秒だけ考え込み、手元の書類を閉じた。
「……門限は22時だ。おまえのマンションの下で待ってるからな」
「待たなくていいって。ちゃんと時間までに帰るから」
「信用できるか」
その声は冷たいのに、どこか優しい。
俺は少し笑って言った。
「……じゃあ、合鍵、渡すよ」
胸ポケットから小さな鍵を取り出して、手のひらにのせた。
「いつか渡そうと思ってたし。
これで、外で待たなくても大丈夫だろ?」
匠真の表情が、ほんの少しだけ緩む。
「……本気か?」
「うん」
「でもやっぱり外で待ってる。そのほうが、おまえも焦るだろ?」
「性格わる」
「そうだよ。知らなかったのか?」
笑いながら、匠真は鍵を受け取った。
指先でそれを軽く回し、ポケットにしまう。
「合鍵は受け取っておく」
声の調子が、わずかに柔らかくなっていた。
◆
夕方、オフィスの窓の向こうにオレンジ色の光が差し込む。
隆哉からのメッセージには「19時、六本木のホテルラウンジ」と書かれていた。
行かない理由も、特別な口実もない。
“仕事の延長”だと自分に言い聞かせながら、ジャケットの襟を整えた。
◆
六本木のラウンジ。
窓の外には、ゆるやかに沈む街の光。
テーブルの向こうで、隆哉がワイングラスを傾けた。
「急だったから、びっくりした。うちの会社の案件だけ?」
「いや、他にもいろいろ。この間は、個展来てくれてありがとう」
前回は3ヶ月ほど前、グラフィックアーティストでもある隆哉は、個展のために来日していたのだ。
あの時、匠真を挑発するようなことを言って、それ以来、匠真の隆哉に対する印象は最悪だ。
匠真は隆哉が俺に対して恋愛感情のようなものを抱いていると、すっかり勘違いしている。
隆哉の言い方も確かに悪かったけど…彼が俺に恋愛感情を抱いているというのは、さすがに勘ぐりすぎな気がする。
「SynApex Japanも順調そうだな」
「おかげさまで。……そういえば、面白い話がある」
「面白い話?」
「九条ホールディングスって知ってる? 日本の古い財閥系。
最近、AI事業への出資を検討しててね。うちにも声がかかってる」
「へえ…」
九条…と、その名前を聞きながら、俺はなるべく平静を装った。
匠真と九条が関係あることを知っているのは、俺や怜央などのごく限られた人間だけだ。
だから隆哉にそのことを伝える必要はない。
「表向きは投資の話だけど、内部は複雑らしい。
伝統とか直系とか……古い家系の事情って、面倒だな」
「……そうだな」
ワインの表面が、静かに揺れた。
時計を見ると、21時30分。
タクシーを使ってうちのマンションまで20分ほど。
そろそろ切り上げて戻るのがいいだろう。
俺はグラスを置いて、立ち上がる。
「もう行くの?」
「うん、明日も早いから」
「そっか、大変だな」
「その分、安定して給料もらってるからさ。自分で会社をやってる隆哉は、もっと大変だよ」
「まあ、俺は会社員とか無理そうだし」
「確かに、似合わないな、隆哉には」
俺がそう言うと、隆哉も笑って立ち上がった。
「ここは持つよ。経営者の特権。会社の経費で落としておく」
「じゃあ、遠慮なく」
会計を済ませて店を出る。
タクシーはすぐにやってきた。
「颯」
「なに?」
「俺、まだハンティング、諦めてないから」
「え…」
「タクシー来たよ」
「あ、うん…」
何かを言わないと…と思いつつも、俺はそのままタクシーに乗り込んだ。
◆
マンション前に着いたのは、21時58分。
外灯の下で腕を組み、誰かが立っている。
「……ほんとに待ってたのか」
「当たり前だろ。22時って言った」
「鍵、渡した意味ないじゃん」
「鍵は受け取った。でも俺は性格が悪い」
思わず笑ってしまう。
匠真が一歩近づき、髪をそっと撫でた。
「ちゃんと時間前に帰ってきたな」
「当たり前だろ」
「……いい子だ」
街灯の下、彼の横顔がやわらかく光る。
******************
「風を捕まえる手 ― 再会は逃れられない衝動」は、YouTubeチャンネル「BL Soundscape」 にて公開されるオリジナル楽曲と完全連動しています。
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