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第8話 声の隙間に — In the Silent Gap
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その夜、時計の針がいつもの時間を少し過ぎても、画面は静かなままだった。
“既読”の灰色が動かない。秒針の音が、やけに耳に触る。
(忙しいんだろう。今日は特に大変って言ってたし)
そう言い聞かせては、またスマホを手に取ってロックを外す。通知は来ない。
ベランダのガラスに映る自分の顔が、少し強張っているのが分かった。
待つだけの時間は、思っているよりも体力を削る。
飲みかけのミネラルウォーターを一口含んで、深呼吸をする。二度、三度。
やがて、我慢の糸が静かに切れた。
通話ボタンを押す。コール音が夜の部屋に鳴り、胸の鼓動と重なる。
「……はい。もしもーし?」
女性の声だった。
碧は一瞬、パニックになりかけたが、何とか声を振り絞った。
「えっと……あの、涼介、いますか?」
「今、会計してるから、外していて。でも、すぐ戻ると思いますよ、涼介。かけ直すように言っておきましょうか?」
呼び捨て。
その二文字が、腹の底に冷たい石のように沈んだ。
「……そうですか。すみません。折り返しは、大丈夫です」
「えっと、涼介に伝えておくわね。お名前は…?」
「……そうですか。すみません。折り返しは、大丈夫です」
切ったあと、部屋の空気が音を立てて動いた気がした。膝の力が抜けて、ベッドの端に腰を落とす。
心臓の鼓動が耳の奥で反響している。
どこにいるの? 今は何時? なぜ、電話に彼女が出る? しかも呼び捨てで。
(あの人は…誰?)
掌の中のスマホが、じんわりと汗ばむ。
窓の外で遠くにサイレンが走り、赤い光の影がカーテンを一瞬だけ染めた。胸のざわつきが、波のように寄せては返す。
◆
十分か、三十分か、時間の感覚が曖昧になった頃、やっと着信が鳴った。彼の名前。
通話に応じると、息を整える気配が先に届いた。
「……碧。ごめん。遅くなった」
「ううん。大丈夫。……今、どこ?」
一拍の間。受話口の向こうで、低い人のざわめきがする。
「ちょっと、トラブルがあって。職場の……対応してた」
「そっか。――さっき電話、出た人、誰?」
「……上司。部署の」
やはり。胸の底で何かが小さく音を立てた。
「どうして、その人が涼介の電話に出るの」
「悪い。手が離せないときで……勝手に出たんだと思う」
「“思う”って、そこにいたんだよね? 今も一緒?」
沈黙。続けて、遠くで番号を呼ぶアナウンスがかすかに混じる。
「……さっきまで。もう解散した」
「こんな時間まで、二人で?」
「対応が長引いた。――心配、させたな」
咄嗟に喉の奥まで上ってきた言葉を、碧は飲み下した。
怒りたいわけじゃない。ただ、知りたい。何が起きて、彼がどこで、何をしていたのか。
「……具合、悪くなったりしてない?」
自分でも意外な言葉が出た。直感のような、祈りのような。
「……大丈夫だ」
一瞬、言葉が遅れた。
微細な隙間。そこに疑いの靄が忍び込む。
「さっき“会計”って、言ってた。あの人」
沈黙。受話口の向こうで、息がほんのわずかに吸い込まれる音がした。
「――心配、させたくなかった」
「涼介」
「倒れた。職場で。……夜間で診てもらって、今、会計を終えたところだ」
重い石が、やっと言葉に形を得た。
胸の痛みと安堵が、一度に押し寄せてくる。
「どうして、すぐ言ってくれないの」
「おまえは、心配すると眠れなくなるだろ。……俺は大丈夫だって、言いたかった。けど、うまく言えなかった」
いつもの彼の声だ。誠実で、丁寧で、少し不器用な。
それでも、胸の中の靄は晴れなかった。あの女の人の声。呼び捨て。夜の病院。二人で。
「上司、なんだよね」
「ああ。直属の」
「……“涼介”って、呼んでいた」
「そう……なのか。知らなかった」
困ったような苦笑が、イヤホン越しに伝わってくるようだった。
信じたい。信じている。けれど、信じるという行為は、時々とても孤独だ。
「――ごめん。今日は、寝ろ。俺も帰って、明日、またちゃんと話す」
「うん」
口ではそう言った。
通話が切れても、画面はしばらく明るいまま、手のひらに光を落としていた。
◆
ベッドに横たわっても、天井の色は変わらない。
浅い呼吸を意識的に整えながら、閉じた瞼の裏で、あの女性の声が何度も再生される。
(“涼介なら、すぐ戻ると思いますよ”)
呼び捨て。
あの距離感は、仕事の現場だけで育つものなのか、それとも――。
(違う。違うはずだ)
自分に言い聞かせる声が、だんだん弱くなる。
遠距離は、声の温度と、文面の短さで世界を測る。
隣にいないという事実は、どんな些細なノイズでも、容易に増幅してしまう。
テーブルの上で、スマホが一度震えた。
――“無事帰宅。今日は本当にごめん。明日、話す。おやすみ”
綺麗な文章。誠実な行。
それでも胸の底の砂は、まだ完全には沈まない。
(信じたい。信じてる。――けど)
耳の奥に、あの日の涼介の声が微かに蘇る。
“俺以外の男が、ここにいたんだなって思うと”
ならば、今の自分はどうだろう。
画面の向こうにいる、名前も知らない“彼女”の影に、同じ言葉を返すのだろうか。
目を閉じる。
眠りは薄く、浅い波のように寄せては返す。
夜の深い静けさの中で、スマホの小さな光だけが、枕元にひっそりと残っていた。
不安は、何ひとつ拭えないまま。
遠距離の夜は、長い。
************
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「声の隙間に — In the Silent Gap」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
「声の隙間に — In the Silent Gap」はこちら⇒ https://youtu.be/2rgSoHnwDuA
“既読”の灰色が動かない。秒針の音が、やけに耳に触る。
(忙しいんだろう。今日は特に大変って言ってたし)
そう言い聞かせては、またスマホを手に取ってロックを外す。通知は来ない。
ベランダのガラスに映る自分の顔が、少し強張っているのが分かった。
待つだけの時間は、思っているよりも体力を削る。
飲みかけのミネラルウォーターを一口含んで、深呼吸をする。二度、三度。
やがて、我慢の糸が静かに切れた。
通話ボタンを押す。コール音が夜の部屋に鳴り、胸の鼓動と重なる。
「……はい。もしもーし?」
女性の声だった。
碧は一瞬、パニックになりかけたが、何とか声を振り絞った。
「えっと……あの、涼介、いますか?」
「今、会計してるから、外していて。でも、すぐ戻ると思いますよ、涼介。かけ直すように言っておきましょうか?」
呼び捨て。
その二文字が、腹の底に冷たい石のように沈んだ。
「……そうですか。すみません。折り返しは、大丈夫です」
「えっと、涼介に伝えておくわね。お名前は…?」
「……そうですか。すみません。折り返しは、大丈夫です」
切ったあと、部屋の空気が音を立てて動いた気がした。膝の力が抜けて、ベッドの端に腰を落とす。
心臓の鼓動が耳の奥で反響している。
どこにいるの? 今は何時? なぜ、電話に彼女が出る? しかも呼び捨てで。
(あの人は…誰?)
掌の中のスマホが、じんわりと汗ばむ。
窓の外で遠くにサイレンが走り、赤い光の影がカーテンを一瞬だけ染めた。胸のざわつきが、波のように寄せては返す。
◆
十分か、三十分か、時間の感覚が曖昧になった頃、やっと着信が鳴った。彼の名前。
通話に応じると、息を整える気配が先に届いた。
「……碧。ごめん。遅くなった」
「ううん。大丈夫。……今、どこ?」
一拍の間。受話口の向こうで、低い人のざわめきがする。
「ちょっと、トラブルがあって。職場の……対応してた」
「そっか。――さっき電話、出た人、誰?」
「……上司。部署の」
やはり。胸の底で何かが小さく音を立てた。
「どうして、その人が涼介の電話に出るの」
「悪い。手が離せないときで……勝手に出たんだと思う」
「“思う”って、そこにいたんだよね? 今も一緒?」
沈黙。続けて、遠くで番号を呼ぶアナウンスがかすかに混じる。
「……さっきまで。もう解散した」
「こんな時間まで、二人で?」
「対応が長引いた。――心配、させたな」
咄嗟に喉の奥まで上ってきた言葉を、碧は飲み下した。
怒りたいわけじゃない。ただ、知りたい。何が起きて、彼がどこで、何をしていたのか。
「……具合、悪くなったりしてない?」
自分でも意外な言葉が出た。直感のような、祈りのような。
「……大丈夫だ」
一瞬、言葉が遅れた。
微細な隙間。そこに疑いの靄が忍び込む。
「さっき“会計”って、言ってた。あの人」
沈黙。受話口の向こうで、息がほんのわずかに吸い込まれる音がした。
「――心配、させたくなかった」
「涼介」
「倒れた。職場で。……夜間で診てもらって、今、会計を終えたところだ」
重い石が、やっと言葉に形を得た。
胸の痛みと安堵が、一度に押し寄せてくる。
「どうして、すぐ言ってくれないの」
「おまえは、心配すると眠れなくなるだろ。……俺は大丈夫だって、言いたかった。けど、うまく言えなかった」
いつもの彼の声だ。誠実で、丁寧で、少し不器用な。
それでも、胸の中の靄は晴れなかった。あの女の人の声。呼び捨て。夜の病院。二人で。
「上司、なんだよね」
「ああ。直属の」
「……“涼介”って、呼んでいた」
「そう……なのか。知らなかった」
困ったような苦笑が、イヤホン越しに伝わってくるようだった。
信じたい。信じている。けれど、信じるという行為は、時々とても孤独だ。
「――ごめん。今日は、寝ろ。俺も帰って、明日、またちゃんと話す」
「うん」
口ではそう言った。
通話が切れても、画面はしばらく明るいまま、手のひらに光を落としていた。
◆
ベッドに横たわっても、天井の色は変わらない。
浅い呼吸を意識的に整えながら、閉じた瞼の裏で、あの女性の声が何度も再生される。
(“涼介なら、すぐ戻ると思いますよ”)
呼び捨て。
あの距離感は、仕事の現場だけで育つものなのか、それとも――。
(違う。違うはずだ)
自分に言い聞かせる声が、だんだん弱くなる。
遠距離は、声の温度と、文面の短さで世界を測る。
隣にいないという事実は、どんな些細なノイズでも、容易に増幅してしまう。
テーブルの上で、スマホが一度震えた。
――“無事帰宅。今日は本当にごめん。明日、話す。おやすみ”
綺麗な文章。誠実な行。
それでも胸の底の砂は、まだ完全には沈まない。
(信じたい。信じてる。――けど)
耳の奥に、あの日の涼介の声が微かに蘇る。
“俺以外の男が、ここにいたんだなって思うと”
ならば、今の自分はどうだろう。
画面の向こうにいる、名前も知らない“彼女”の影に、同じ言葉を返すのだろうか。
目を閉じる。
眠りは薄く、浅い波のように寄せては返す。
夜の深い静けさの中で、スマホの小さな光だけが、枕元にひっそりと残っていた。
不安は、何ひとつ拭えないまま。
遠距離の夜は、長い。
************
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「声の隙間に — In the Silent Gap」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
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