58 / 109
第三章
身代わり濃姫(57)
しおりを挟む
新年の慌ただしい出来事が少し落ち着いた頃、信長は清洲城下で雑貨の店を営む正之助の訪問を受けていた。
正之助は信長と美夜がお忍びで城下へ出向いた際に縁のあった商人で、今は雑貨のみならず、信長から直接指示を受けて商品の買い付けを行い、納品したりしている。
信長に頼まれた品物を買い付けるために堺のほうへ行っていたという正之助は、今日もそれらの品を携えて登城して来たのだった。
信長が正之助に買い付けさせたのは、堺で手に入る南蛮製の最新の鉄砲類と、美夜のための細工物などだったということもあり、この日は美夜も同席していた。
広間には物々しい雰囲気の鉄砲が何丁か並んでいて、美夜は驚いた。
(鉄砲って……こんなに大きいんだ……)
中にはその長さが美夜の身長ほどあるものもあり、戦場でこれを使うとなると、よほど戦術を考えないと難しいだろうなと、素人ながらに思った。
「どれも良いな。そなた、武器のほうもなかなかの目利きではないか」
信長が褒めると、正之助は嬉しそうに顔をほころばせる。
「そう仰っていただけますと、鉄砲などは私の専門の範疇外でしたが、一生懸命に勉強いたしましたかいがございます」
「よく勉強する者は良い商人になる。そなたがその良い例だな」
「ありがとうございます。それと、頼まれておりました濃姫様用の細工物ですが、いろいろと珍しいものを見つけまして……気に入っていただけるかどうかは分かりませんが、ひとまずご覧いただければと……」
「ああ、見せてもらおう」
「何点か、見繕って参りました。気に入ったものだけお求めください」
そう言って正之助は堺で仕入れてきたという細工物を信長の前に並べた。
「帰蝶もこちらへ来て見よ。そなたのものなのだからな」
「あ、は、はい……」
美夜は遠慮がちに信長の隣で並べられた品物を見る。
自分のものを買ってくれるという信長の言葉は嬉しいが、慣れないこともあって、どうして良いか分からない。
とりあえず美夜はそこに並んでいた細工の物を見てみた。
(どれも可愛い……)
正之助はそもそも女性ものの小物を売る店を営んでいただけあって、そこに並べられていたものは、すべてセンスの良いものばかりだった。
「そなたが気に入ったのなら、すべて選んでも良いのだぞ」
「こ、こんなに必要ないと思いますけど……」
「そのようなことを言うと、正之助が悲しむぞ。それに、俺はそなたに何か贈ってやりたいのだ。いつも大変な思いばかりさせているからな」
信長の言葉は嬉しかったが、さすがにこれ全部は多すぎると美夜は思った。
(どれかひとつかふたつぐらい選ばないと、本当に信長様は全部買うって言ってしまいそう……)
そんな危惧も感じたので、美夜は真剣に物色し始める。
(でも、こんなにあるとかえって迷う……昔から私、買い物になると優柔不断だったから……)
並べられたものに視線を泳がせながら、美夜はふと、目の前に並べられずに箱の中に入ったままの髪飾りを見つけた。
「それ……」
「あ、これですか? これはさすがにちょっと濃姫様には地味かと思いましたので、外しておいたのですが」
「あの、見せてもらえますか?」
「え、ええ、どうぞ。でも、さすがに地味ではないですかね……」
正之助は心配そうに言いながら、美夜にその髪飾りを手渡してくる。
(これは……)
美夜は髪飾りを手にしたまま、しばらくそれを凝視するように見つめた。
さすがに様子がおかしいと思ったのか、正之助が怪訝そうに声をかけてくる。
「あの、濃姫様、どうかしましたか?」
まるで正之助の声も聞こえていないかのように、美夜はさらにその髪飾りを食い入るように見つめた。
信長がそっと美夜の肩に手を置く。
「正之助、帰蝶が手にしているこれと、ここに並べてあるものすべて買おう。もう帰って良いぞ。代金はいつものように後で請求しろ」
「え? あ、ありがとうございます! 本当に全部お買い上げで?」
「ああ、良いものを選んでくれた。礼を言う」
「いえ! いつもありがとうございます! では、また何か仕入れましたら、お持ちさせていただきます!」
持ってきた品物がすべて売れた正之助は、上機嫌で部屋を出て行った。
「美夜……もしかしてそれは兄上に関するものなのか?」
どうやら信長が正之助を帰したのは、美夜の様子を見て察していたからのようだった。
美夜は髪飾りを見つめたまま、頷いた。
「はい……たぶん、間違いありません。これは兄様が作ったものだと思います」
「なぜ、そうと分かるのだ?」
「これは……四つ葉のクローバーと私たちの時代では呼ばれているものなんですけど、見つけると幸せになれるって言われているんです」
「ほう……」
「四つ葉のクローバーは白詰草の葉です。花のほうは、信長様がいつか摘んできてくださいましたよね?」
「ああ、そういえば、そなたに一度花をやったことがあったな」
「この時代の人なら、必ず花のほうを題材にすると思います。それに、白詰草の葉は多くはは三つ葉なんです。四つ葉は滅多になくて、珍しくて……だから見つけると幸せになるって言われているんですけど……」
必死に訴える美夜の言葉を、信長は真剣に聞いてくれる。
「白詰草の花ではなく、わざわざ葉のほう……それも四つ葉を選んだのは、四つ葉のクローバーの話を知っている兄様しかいないと思います」
美夜がそう言うと、信長は頷いた。
「分かった……すぐに人をやって、正之助にこの飾りを買った店の詳細を聞きに行かせよう。それから藤ノ助に連絡を付ける」
「はい……」
信長はさっそく藤吉郎を読んで、正之助の後を追わせた。
(兄様……無事でいてくれたんだ……)
ようやく掴めた兄の消息の手がかりに、美夜は安堵する。
美夜は兄を探す手がかりになるであろう四つ葉のクローバーをかたどった髪飾りを、壊れないように気を付けながらそっと握りしめた。
小さい頃、よく兄が四つ葉のクローバーを美夜のために探し出してくれたことを思い出す。
美夜は自分で見つけたことがほとんどなかった。
いつも兄が先に見つけてくれていたから――。
ふと気がつくと、信長が美夜の目元に手を伸ばし、指で触れてくる。
いつの間に溢れだしてしまっていた涙を、信長が拭ってくれたようだった。
「心配するな。必ず兄上に会わせてやる」
「信長様……」
涙が止まらなくなってしまった美夜を、信長は強く抱きしめる。
「すまぬな……なかなか兄上を見つけてやることができなくて」
「いいえ……信長様はできることをすべてやってくださっていると思います。だから謝らないでください……」
「俺に気を遣わずとも良いから、好きなだけ泣け……」
信長はそう言って、美夜の頭を優しく撫でてくれる。
その感触が兄の雪春を思い起こさせてしまい、美夜は涙が止まらなくなってしまった。
信長の胸に顔を埋めて泣きじゃくる美夜を、その涙が止まるまで信長はずっと抱きしめてくれた。
――その頃、堺では。
「起きていて大丈夫なのか、律?」
「はい、大丈夫です。少し動いているぐらいが、たぶんちょうどいいと思います」
年が明けると、律の悪阻もほとんどなくなり、寝込むことも少なくなった。
鷺山城にいた頃に比べると、律は本来の明るさを取り戻したようで、その年頃の少女らしい笑みを浮かべることも増えていった。
ひょっとすると、鷺山城にいた頃は、雪春と同じような閉塞感を、律も感じていたのかもしれないと雪春は思った。
それに初めて男を知るというような経験もあり、さまざまに感情が揺れてもいたのだろうと、今の雪春なら当時の律を思いやることもできる。
「今度のも、とても可愛らしいですね」
「律がそう言ってくれるのなら、これもちゃんと売れてくれるかな」
「はい、私だったら、迷わずに買ってしまうと思います」
他愛ない話をしながらも、雪春は手を動かし続ける。
ひとまず、牛丸の細やかな営業活動のおかげもあって、雪春の細工物を買い取ってくれる得意先も増え、食べるにこと欠く心配はない。
律と牛丸、それから生まれてくる赤ん坊を養うぐらいのことはできそうだと、雪春はここでの生活に少し自信が出てきたところだった。
「雪春様、良かったら休憩してください。朝からずっと休んでおられないでしょう?」
「ああ、そうだな。ありがとう」
律が入れてくれたお茶は、城にいた頃のような上等なものではなく、ほとんど味のしない出がらしだったが、それでも美味いと感じることができるのだということを、雪春はここの生活で知った。
ここで暮らし始めてそろそろひと月。
このひと月の間に、雪春の気持ちは随分と変化があったように感じる。
鷺山城にいた頃に比べると、日々の気持ちは穏やかになり、たとえ食べるものが贅沢でなくとも、ささやかな幸せを感じることができるようになった。
そして、何より、少しずつ膨らんでいく律の腹を見ているうちに、何ともいえない愛おしさを感じている自分に気づいて、雪春は驚いていた。
このひと月は、自分にそんな感情があるのだということに驚かされる日々だったように思う。
牛丸の素直さ、そして律の明るさと健気さは、雪春の壊れかけていた心を癒やし、美夜以外の他人のことを思いやることのできなかった自分にも、他者を慈しむこともできるのだということを教えてくれた。
それもこれも、美夜が今、幸せであるということを知っているからこそのことであり、もしも美夜が今不幸な状態にあったならば、雪春にこうした内面の変化はなかったかもしれない。
「ただいま戻りました」
雪春の作った細工物を売るために、商人のところや馴染みの商店に出かけていた牛丸が戻ってきた。
「おかえり、牛丸。寒かったでしょう。すぐにお茶を入れるわね」
「ありがとうございます、姉上。あ、義兄上、今日も全部売れました。次はもっとたくさん持ってきてくれって言われたんですけど、それは無理だって言っておきました」
牛丸の言葉に、雪春は肩をすくめて苦笑する。
「そう言ってくれるのはありがたいが、これ以上作るとなると、眠る時間がなくなってしまうだろうな」
「そうですよ。今のままでも十分食べていけるんですから、雪春様が無理をする必要なんてないです」
「私もそう思います。それと、義兄上、後で少し教えていただきたいことがあるのですが」
「ああ、構わない。この作業が終われば、時間ができる」
「ありがとうございます! 義兄上の教えてくださる学問は、とても面白くて、私塾の先生よりも分かりやすいですから!」
ここしばらく、雪春は牛丸に、雪春の知る数学の類いのものを教えていた。
足し算やかけ算、九九や立方体の面積の求め方など、簡単なものから教えていったのだが、牛丸の飲み込みが早く、雪春は大学時代に家庭教師をしていた時のことを思い出しながら、現在は中学生レベル程度の数学を牛丸に教えていた。
それが彼にとってどんなふうに役に立つのかは分からないが、牛丸はとにかく勉強が大好きなようで、どんなことを教えても、本当に嬉しそうにするのが、雪春にとっても微笑ましかった。
それに、元はといえば、雪春と律のために、せっかく通っていた私塾をやめることなってしまっており、雪春にとってはそのせめてもの罪滅ぼしという意味もある。
「はい、お疲れ様、牛丸。これを飲んであったまりなさい」
「ありがとうございます、姉上。いただきます」
贅沢ではないが、ささやかな暮らし……。
この暮らしがいつまでも続いて欲しいと雪春は思う。
そして、その延長線上で、いつか妹と再会できれば、と。
ただ、斉藤家からの追っ手はいつやって来るかも分からず、相変わらず、雪春と律はほとんど家から出ることができないでいた。
(一年も経てば……もっと安心して暮らすこともできるのだろうが……)
ひとまず当面は油断をせず、警戒して生活をすることが必要だと雪春は考えていた。
正之助は信長と美夜がお忍びで城下へ出向いた際に縁のあった商人で、今は雑貨のみならず、信長から直接指示を受けて商品の買い付けを行い、納品したりしている。
信長に頼まれた品物を買い付けるために堺のほうへ行っていたという正之助は、今日もそれらの品を携えて登城して来たのだった。
信長が正之助に買い付けさせたのは、堺で手に入る南蛮製の最新の鉄砲類と、美夜のための細工物などだったということもあり、この日は美夜も同席していた。
広間には物々しい雰囲気の鉄砲が何丁か並んでいて、美夜は驚いた。
(鉄砲って……こんなに大きいんだ……)
中にはその長さが美夜の身長ほどあるものもあり、戦場でこれを使うとなると、よほど戦術を考えないと難しいだろうなと、素人ながらに思った。
「どれも良いな。そなた、武器のほうもなかなかの目利きではないか」
信長が褒めると、正之助は嬉しそうに顔をほころばせる。
「そう仰っていただけますと、鉄砲などは私の専門の範疇外でしたが、一生懸命に勉強いたしましたかいがございます」
「よく勉強する者は良い商人になる。そなたがその良い例だな」
「ありがとうございます。それと、頼まれておりました濃姫様用の細工物ですが、いろいろと珍しいものを見つけまして……気に入っていただけるかどうかは分かりませんが、ひとまずご覧いただければと……」
「ああ、見せてもらおう」
「何点か、見繕って参りました。気に入ったものだけお求めください」
そう言って正之助は堺で仕入れてきたという細工物を信長の前に並べた。
「帰蝶もこちらへ来て見よ。そなたのものなのだからな」
「あ、は、はい……」
美夜は遠慮がちに信長の隣で並べられた品物を見る。
自分のものを買ってくれるという信長の言葉は嬉しいが、慣れないこともあって、どうして良いか分からない。
とりあえず美夜はそこに並んでいた細工の物を見てみた。
(どれも可愛い……)
正之助はそもそも女性ものの小物を売る店を営んでいただけあって、そこに並べられていたものは、すべてセンスの良いものばかりだった。
「そなたが気に入ったのなら、すべて選んでも良いのだぞ」
「こ、こんなに必要ないと思いますけど……」
「そのようなことを言うと、正之助が悲しむぞ。それに、俺はそなたに何か贈ってやりたいのだ。いつも大変な思いばかりさせているからな」
信長の言葉は嬉しかったが、さすがにこれ全部は多すぎると美夜は思った。
(どれかひとつかふたつぐらい選ばないと、本当に信長様は全部買うって言ってしまいそう……)
そんな危惧も感じたので、美夜は真剣に物色し始める。
(でも、こんなにあるとかえって迷う……昔から私、買い物になると優柔不断だったから……)
並べられたものに視線を泳がせながら、美夜はふと、目の前に並べられずに箱の中に入ったままの髪飾りを見つけた。
「それ……」
「あ、これですか? これはさすがにちょっと濃姫様には地味かと思いましたので、外しておいたのですが」
「あの、見せてもらえますか?」
「え、ええ、どうぞ。でも、さすがに地味ではないですかね……」
正之助は心配そうに言いながら、美夜にその髪飾りを手渡してくる。
(これは……)
美夜は髪飾りを手にしたまま、しばらくそれを凝視するように見つめた。
さすがに様子がおかしいと思ったのか、正之助が怪訝そうに声をかけてくる。
「あの、濃姫様、どうかしましたか?」
まるで正之助の声も聞こえていないかのように、美夜はさらにその髪飾りを食い入るように見つめた。
信長がそっと美夜の肩に手を置く。
「正之助、帰蝶が手にしているこれと、ここに並べてあるものすべて買おう。もう帰って良いぞ。代金はいつものように後で請求しろ」
「え? あ、ありがとうございます! 本当に全部お買い上げで?」
「ああ、良いものを選んでくれた。礼を言う」
「いえ! いつもありがとうございます! では、また何か仕入れましたら、お持ちさせていただきます!」
持ってきた品物がすべて売れた正之助は、上機嫌で部屋を出て行った。
「美夜……もしかしてそれは兄上に関するものなのか?」
どうやら信長が正之助を帰したのは、美夜の様子を見て察していたからのようだった。
美夜は髪飾りを見つめたまま、頷いた。
「はい……たぶん、間違いありません。これは兄様が作ったものだと思います」
「なぜ、そうと分かるのだ?」
「これは……四つ葉のクローバーと私たちの時代では呼ばれているものなんですけど、見つけると幸せになれるって言われているんです」
「ほう……」
「四つ葉のクローバーは白詰草の葉です。花のほうは、信長様がいつか摘んできてくださいましたよね?」
「ああ、そういえば、そなたに一度花をやったことがあったな」
「この時代の人なら、必ず花のほうを題材にすると思います。それに、白詰草の葉は多くはは三つ葉なんです。四つ葉は滅多になくて、珍しくて……だから見つけると幸せになるって言われているんですけど……」
必死に訴える美夜の言葉を、信長は真剣に聞いてくれる。
「白詰草の花ではなく、わざわざ葉のほう……それも四つ葉を選んだのは、四つ葉のクローバーの話を知っている兄様しかいないと思います」
美夜がそう言うと、信長は頷いた。
「分かった……すぐに人をやって、正之助にこの飾りを買った店の詳細を聞きに行かせよう。それから藤ノ助に連絡を付ける」
「はい……」
信長はさっそく藤吉郎を読んで、正之助の後を追わせた。
(兄様……無事でいてくれたんだ……)
ようやく掴めた兄の消息の手がかりに、美夜は安堵する。
美夜は兄を探す手がかりになるであろう四つ葉のクローバーをかたどった髪飾りを、壊れないように気を付けながらそっと握りしめた。
小さい頃、よく兄が四つ葉のクローバーを美夜のために探し出してくれたことを思い出す。
美夜は自分で見つけたことがほとんどなかった。
いつも兄が先に見つけてくれていたから――。
ふと気がつくと、信長が美夜の目元に手を伸ばし、指で触れてくる。
いつの間に溢れだしてしまっていた涙を、信長が拭ってくれたようだった。
「心配するな。必ず兄上に会わせてやる」
「信長様……」
涙が止まらなくなってしまった美夜を、信長は強く抱きしめる。
「すまぬな……なかなか兄上を見つけてやることができなくて」
「いいえ……信長様はできることをすべてやってくださっていると思います。だから謝らないでください……」
「俺に気を遣わずとも良いから、好きなだけ泣け……」
信長はそう言って、美夜の頭を優しく撫でてくれる。
その感触が兄の雪春を思い起こさせてしまい、美夜は涙が止まらなくなってしまった。
信長の胸に顔を埋めて泣きじゃくる美夜を、その涙が止まるまで信長はずっと抱きしめてくれた。
――その頃、堺では。
「起きていて大丈夫なのか、律?」
「はい、大丈夫です。少し動いているぐらいが、たぶんちょうどいいと思います」
年が明けると、律の悪阻もほとんどなくなり、寝込むことも少なくなった。
鷺山城にいた頃に比べると、律は本来の明るさを取り戻したようで、その年頃の少女らしい笑みを浮かべることも増えていった。
ひょっとすると、鷺山城にいた頃は、雪春と同じような閉塞感を、律も感じていたのかもしれないと雪春は思った。
それに初めて男を知るというような経験もあり、さまざまに感情が揺れてもいたのだろうと、今の雪春なら当時の律を思いやることもできる。
「今度のも、とても可愛らしいですね」
「律がそう言ってくれるのなら、これもちゃんと売れてくれるかな」
「はい、私だったら、迷わずに買ってしまうと思います」
他愛ない話をしながらも、雪春は手を動かし続ける。
ひとまず、牛丸の細やかな営業活動のおかげもあって、雪春の細工物を買い取ってくれる得意先も増え、食べるにこと欠く心配はない。
律と牛丸、それから生まれてくる赤ん坊を養うぐらいのことはできそうだと、雪春はここでの生活に少し自信が出てきたところだった。
「雪春様、良かったら休憩してください。朝からずっと休んでおられないでしょう?」
「ああ、そうだな。ありがとう」
律が入れてくれたお茶は、城にいた頃のような上等なものではなく、ほとんど味のしない出がらしだったが、それでも美味いと感じることができるのだということを、雪春はここの生活で知った。
ここで暮らし始めてそろそろひと月。
このひと月の間に、雪春の気持ちは随分と変化があったように感じる。
鷺山城にいた頃に比べると、日々の気持ちは穏やかになり、たとえ食べるものが贅沢でなくとも、ささやかな幸せを感じることができるようになった。
そして、何より、少しずつ膨らんでいく律の腹を見ているうちに、何ともいえない愛おしさを感じている自分に気づいて、雪春は驚いていた。
このひと月は、自分にそんな感情があるのだということに驚かされる日々だったように思う。
牛丸の素直さ、そして律の明るさと健気さは、雪春の壊れかけていた心を癒やし、美夜以外の他人のことを思いやることのできなかった自分にも、他者を慈しむこともできるのだということを教えてくれた。
それもこれも、美夜が今、幸せであるということを知っているからこそのことであり、もしも美夜が今不幸な状態にあったならば、雪春にこうした内面の変化はなかったかもしれない。
「ただいま戻りました」
雪春の作った細工物を売るために、商人のところや馴染みの商店に出かけていた牛丸が戻ってきた。
「おかえり、牛丸。寒かったでしょう。すぐにお茶を入れるわね」
「ありがとうございます、姉上。あ、義兄上、今日も全部売れました。次はもっとたくさん持ってきてくれって言われたんですけど、それは無理だって言っておきました」
牛丸の言葉に、雪春は肩をすくめて苦笑する。
「そう言ってくれるのはありがたいが、これ以上作るとなると、眠る時間がなくなってしまうだろうな」
「そうですよ。今のままでも十分食べていけるんですから、雪春様が無理をする必要なんてないです」
「私もそう思います。それと、義兄上、後で少し教えていただきたいことがあるのですが」
「ああ、構わない。この作業が終われば、時間ができる」
「ありがとうございます! 義兄上の教えてくださる学問は、とても面白くて、私塾の先生よりも分かりやすいですから!」
ここしばらく、雪春は牛丸に、雪春の知る数学の類いのものを教えていた。
足し算やかけ算、九九や立方体の面積の求め方など、簡単なものから教えていったのだが、牛丸の飲み込みが早く、雪春は大学時代に家庭教師をしていた時のことを思い出しながら、現在は中学生レベル程度の数学を牛丸に教えていた。
それが彼にとってどんなふうに役に立つのかは分からないが、牛丸はとにかく勉強が大好きなようで、どんなことを教えても、本当に嬉しそうにするのが、雪春にとっても微笑ましかった。
それに、元はといえば、雪春と律のために、せっかく通っていた私塾をやめることなってしまっており、雪春にとってはそのせめてもの罪滅ぼしという意味もある。
「はい、お疲れ様、牛丸。これを飲んであったまりなさい」
「ありがとうございます、姉上。いただきます」
贅沢ではないが、ささやかな暮らし……。
この暮らしがいつまでも続いて欲しいと雪春は思う。
そして、その延長線上で、いつか妹と再会できれば、と。
ただ、斉藤家からの追っ手はいつやって来るかも分からず、相変わらず、雪春と律はほとんど家から出ることができないでいた。
(一年も経てば……もっと安心して暮らすこともできるのだろうが……)
ひとまず当面は油断をせず、警戒して生活をすることが必要だと雪春は考えていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
放課後の保健室
一条凛子
恋愛
はじめまして。
数ある中から、この保健室を見つけてくださって、本当にありがとうございます。
わたくし、ここの主(あるじ)であり、夜間専門のカウンセラー、**一条 凛子(いちじょう りんこ)**と申します。
ここは、昼間の喧騒から逃れてきた、頑張り屋の大人たちのためだけの秘密の聖域(サンクチュアリ)。
あなたが、ようやく重たい鎧を脱いで、ありのままの姿で羽を休めることができる——夜だけ開く、特別な保健室です。
黒の神官と夜のお世話役
苺野 あん
恋愛
辺境の神殿で雑用係として慎ましく暮らしていたアンジェリアは、王都からやって来る上級神官の夜のお世話役に任命されてしまう。それも黒の神官という異名を持ち、様々な悪い噂に包まれた恐ろしい相手だ。ところが実際に現れたのは、アンジェリアの想像とは違っていて……。※完結しました
密室に二人閉じ込められたら?
水瀬かずか
恋愛
気がつけば会社の倉庫に閉じ込められていました。明日会社に人 が来るまで凍える倉庫で一晩過ごすしかない。一緒にいるのは営業 のエースといわれている強面の先輩。怯える私に「こっちへ来い」 と先輩が声をかけてきて……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる