身代わり濃姫~若き織田信長と高校生ヒロインが、結婚してから恋に落ちる物語~

梵天丸

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第四章

身代わり濃姫(78)

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(本当に帰ってきた……)
 見慣れたはずの清洲きよす城の天守を懐かしく見上げながら、美夜みやはようやく戻ってきたのだという実感を感じていた。
 ここから連れ去られてたった三日しか経っていないはずなのに、もっと長く離れていた気がしてしまう。
 信長が自ら命を差し出してしまうのではないかという恐怖、そして信行に何をされるか分からないという恐怖……そうした恐怖を繰り返し感じながら過ごした末森城での日々は、本当に生きた心地のしない日々でもあった。
 でも、こうして生きている信長と再会することができ、美夜はようやく安堵あんどすることを許された気がしている。
 城門前に着くと、信長は美夜を抱いて鈴音すずねから下ろしてくれる。
 今のところ、体調に激しい異変はないので、お腹の中の子に何かあったということはないと思うし、そう思いたかった。
 城門が開かれ、その中に足を踏み入れると、本当に戻ってくることができたという安堵感が、さらに美夜の胸の中に広がっていった。
「信長様、蔵ノ介様……それに帰蝶きちょう様も……!」
 城門に入ると、城の留守を預けられていた藤吉郎が、真っ先に出迎えてくれる。
 おそらく藤吉郎は一睡もせずに、信長たちの帰りを待っていたのだろうと美夜は思った。
 最悪の場合、蔵ノ介も、そして信長も帰蝶も戻らない可能性まで考えていたのだろうか……藤吉郎は、心の底から安堵したような表情を浮かべていた。
 しかし、信長の顔を見たとたん、藤吉郎は何かを思い出したように顔を強ばらせた。
「ご無事のお戻り、本当によろしゅうございました。信長様……あの……」
 藤吉郎が言おうとする言葉を、信長は遮った。
「藤吉郎。世話をかけたな。この通り、帰蝶も無事に戻ってきた」
「い、いえ、信長様……私は……」
 藤吉郎がさらに言いかけると、信長は笑った。
「薬のことはもう気にするな。あの時、そなたがそうしなければならなかった立ち場だということを、俺は理解しておる」
「はい……」
「それよりも城の守り、ご苦労であった。そなたも眠っておらぬのであろう? 少し休むと良い」
「ありがとうござります。では、蔵ノ介様へのご報告が終わりましたら、休ませていただきまする」
 藤吉郎の言葉に頷いて、信長は美夜の手を引き、城の中へと入っていく。
「信長様……」
「信長様……あの、薬って? どこか具合でも悪かったのですか?」
 先ほどの藤吉郎の言葉が気になって美夜が聞くと、信長は苦笑した。
「それはそなたが気にすることではない。さあ、早く部屋に戻ろう。すぐに侍医を呼ぶ」
「はい……」
 信長に手を引かれて城門をくぐりながら、美夜は藤吉郎が口にした『薬』という言葉が気になっていた。
 だが、信長が美夜に詳しく話す必要はないと判断したことなのだとしたら、美夜もこれ以上は深く聞かない方が良いのだろうと思った。

 部屋に戻るとすぐに侍医が呼ばれ、美夜は診察を受けた。
 侍医の診察によると、もう少し時間が経過しないと確定はできないが、確かに懐妊の兆しがいくつか見られ、懐妊はほぼ間違いないという。
 当面の間は絶対安静という診断がくだされたが、その後美夜は、床を離れることができない状態が続いた。
 末森城にいた間は収まっていたはずの悪阻つわりの症状が、再び出始めてしまったからだ。
(せっかく戻ってきたのに……寝てばかり……でも、仕方がないのかな……)
 病気ではないと分かっていても、悪阻の症状は辛い。
 この辛さはきっと、今の時代も美夜のいた時代も変わらないのだろうなと思う。
(私のお母さんも、こんなふうにして私を産んでくれたのかな……)
 美夜が赤ん坊の頃に両親は亡くなってしまったから、そういう話を聞く機会もなかったが、程度の違いはあれど、母親もこうして自分を生んでくれたに違いないと思う。
 こんなに大変な思いをして自分を生んでくれたのだろうと思うたび、美夜は記憶にはまったく残っていない母親に、感謝の気持ちがこみ上げてくるのだった。
 美夜が伏せっている間、信長は一日に何度も美夜を見舞ってくれた。
 信行側との戦のこともあって忙しいはずなのに、信長はそんな様子は美夜の前では微塵みじんも感じさせない。
 今もまた、忙しい執務の合間に、信長は美夜を見舞ってくれていた。
「具合はどうだ?」
 信長は美夜の手をそっと握りしめながら聞いてくる。
「はい……何とか……ちょっとずつましにはなってきている気はするんですが……」
「聞けば悪阻というものは、ひと月ほどは続くという。だから、そなたは焦らず、余計な気遣いもせず、自分の身を養生することだけを考えると良い」
「はい……」
 これまでも信長は美夜に対して常に優しくしてくれていたが、城へ戻ってきてからは、それがいっそう強くなったように感じる。
 そういう信長の優しさが、悪阻の辛さをかなり緩和してくれてもいた。
「ここへ来る前に各務野かがみのの様子を見てきたが、時々、意識が戻るようになったそうだ。そなたが無事に戻ってきたことを知らせたら、喜んでおったらしい」
 その話を聞き、美夜は心に安堵が広がっていくのを感じた。
「良かった……早く私もお見舞いに行きたいですけど、まだお医者様が駄目だって……」
「ああ、そなたはまず自分の身をいたわることだ。各務野もそれを望んでおるはずだからな」
「そうですね……私がこんな調子だと、かえって心配をかけてしまいますよね……」
 悪阻は病気ではないということは各務野ももちろん理解はしているだろうが、それでも今の状態で見舞いに行けば、重症の怪我人である各務野を心配させてしまう可能性があるだろう。
「そなたはまず、自分が体力をつけることをしなければな」
「はい……」
 信長は美夜に食欲がないことを心配して、毎日何をどのぐらい食べたのかを侍女たちにも細かく確認してくれているらしい。
 だから美夜も何とか頑張って少しでも多く食べなければと思うのだが、結局食べられるものや量は限られてしまっている。
 美夜が表情を沈ませてしまったのを気遣うように、信長は話題を変えてくる。
「藤ノ助からの連絡によれば、そなたの兄上の奥方のほうの体調はすっかり回復したそうだ。悪阻の症状もほぼおさまっていて、こちらの準備が整い次第、清洲に来てもらうというふうに話を進めておる。兄上も、そなたに会うのを楽しみにしておるそうだ」
「そうですか……良かった……悪阻ってこんなに苦しいものだって知らなかったけど……兄様の奥様も、私よりひとつ年下なのに、こんな大変なことを乗り越えたんですよね……私も頑張らないと」
「厨房の者たちも、そなたが口にできそうなものを日々考えて作ってくれておるようだ。少しでも食べられる量が増えていけば良いのだがな」
「はい……それは私が頑張らないといけないことですから、頑張ります。食べるのを頑張らないといけない経験なんて初めてですけど……」
「無理はしなくても良いが……できる限りで良いから頑張ってもらえると、俺も他の者たちも安堵できる」
「はい……」
 信長が心から心配してくれているのが伝わってきて、美夜はあたたかい気持ちになる。
 身体は辛いこともあるが、こうして心配してくれる人が傍にいてくれるということは、本当に幸せなことなのだと美夜は改めて思った。

 美夜の見舞いを終えた信長は、すぐに軍議に戻った。
 ずっと美夜の傍にいたい気持ちはあるが、信長の立ち場はそれを許してはくれないし、一刻も早く戦を落ち着かせ、美夜に城の中で安堵して過ごしてもらいたいという気持ちもあった。
 それに、美夜の兄夫婦にも、安堵して暮らせる場所を提供してやりたいという気持ちもある。
 今の最優先事項は、駿府すんぷ今川館いまがわやかたにいる竹千代の救出だった。
 竹千代を救出し、竹千代を当主とした松平家を味方に付け、一気に信行側との決着を付けるというのが、現在の織田家としての当面の方針だった。
「では、竹千代様の救出に関しては、そのような手はずで進めていくことを、岡崎城の本多忠真ほんだただざね殿にも報せましょう。藤吉郎、また使いを頼みます」
 蔵ノ介がそう告げると、藤吉郎は指をついて応じた。
「はい。かしこまりました」
 駿府の今川館に捕らわれている竹千代の救出作戦については、この軍議で作戦がおおよそまとまった。
 作戦の陣頭指揮は明智光秀がとり、その補佐と、実際の竹千代救出の実行役として木下藤吉郎がつく。
 太原雪斎たいげんせっさいによって今川館の細かな内部の間取りが分かったこともあり、今川館から連れ出す手順についてはほぼ問題ないと思われた。
 今川館から連れ出した後は、海路を使って竹千代の叔父のいる緒川おがわ城へ行き、そこでしばらく竹千代を保護することになっている。
 現状では緒川城周辺の今川勢力については、先の戦いでほぼ制圧ができていた。
 それに緒川城の周囲には、那古野なごや城、寺本城といった織田家の拠点の城が点在している。
 だから今のところ、緒川城周辺は安全な状態になっており、竹千代を保護するには最適ともいえた。
 本多忠真ら、松平家の者たちにもいったん緒川城へ移動してもらい、その後、竹千代を総大将として織田軍も加勢して岡崎城を攻め、岡崎城を今川勢の手から取り戻すというのが、今後のおおよその作戦だった。
「問題は、岡崎城の周囲の今川勢だな。こちらには美濃から借り受けた兵もおるゆえ、数的には問題はないが、戦があまりに長引けば、美濃の兵たちを止め置くことも難しくなる」
「その点は問題ありますまい。現状、今川には指揮官らしい指揮官がおりませぬ。こちらが手はず通りに動けば、制圧にはさほど時間はかからぬと存じまする」
 雪斎の言葉に、信長は苦笑する。
「そうであったな。今川にはもはや、義元もおらず、そなたすらいないのだからな。よし、まずは竹千代の救出だ。藤吉郎、さっそく岡崎城へ行き、詳細を本多忠真に伝えよ。準備が整い次第、竹千代との合流地点である緒川城に移動するようにと」
「はい。かしこまりました。では、すぐにでも出発いたしまする」
 藤吉郎はそう応じて、すぐに席を立ち、岡崎へと出立していった。
(いつか竹千代に海を見せてやると約束したことがあったが……まさかこんな形で叶うことになるとはな……)
 今度の作戦では、海路を使って竹千代を織田領まで運ぶため、竹千代は生まれて初めて船に乗ることになる。
 信長は懐かしい日々のことを思い出しながら、今度の作戦で何としても竹千代の救出を成功させなくてはならないと思った。
 それと同時に、再び清洲を離れなければならないことに、不安も感じる。
 ほどなく信長は、緒川城に出向き、しばらくそこに待機する予定になっていて、そのことはまだ美夜には伝えていなかった。
 身重の美夜を置いていかなければならない不安と心苦しさはあるが、信長は立場上、清洲にずっと居続けるということができなかった。
 ただ、蔵ノ介も今回の件があったことで、城の警護や美夜の周辺の警護にこれまで以上に手は尽くすだろうから、信長としてはそれを信頼し、任せるしかない。
(今夜辺り、話さねばならぬな……)
 どのように伝えれば、美夜に心配をかけずに済むのか、信長の頭は今、そのことに腐心ふしんしていた。
 

 そうした事態の動きを、竹千代自身も駿府の今川館で何となく予想はしていた。
 あれから藤吉郎の接触はないものの、藤吉郎なら無事に自分の書状を信長と本多忠真に届け、それによってこれまで膠着していた事態は急速に動き出すだろうと竹千代は考えていた。
 今川義元の死により、混乱を極めている今川家だが、その義元を長年にわたって支え続けた太原雪斎が信長に降ったという話も、竹千代はすでに伝え聞いている。
 主であり愛弟子である義元を死に追いやった氏真のことを、雪斎が認め、許すはずがなく、であればその敵である信長に味方するであろうと考えていた竹千代の予想は、ほぼ当たったことになる。
(もうすぐ……ここから出られるのですね……自由というのは、いったいどんなに素晴らしいものなのでしょうか……)
 生まれてから一度も城を出たことがなく、初めて城を出た後は人質生活が続いた竹千代にとって、自由というものがどういうものかということを、具体的に想像することはできない。
 けれども、自分が今、その『自由』というものをようやく手に入れる寸前まで来ているのだということを、竹千代は実感していた。
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