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第四章

身代わり濃姫(80)

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 その夜、信長が少し深刻そうな顔をして美夜みやの元を訪れたので、美夜はすぐに信長の用件が何であるかに気づいた。
 おそらく信長はまた城を離れることになったのだろうと美夜は思い、自分から先に口を開いた。
「あの、信長様……私のことは気にしなくて大丈夫です。病気じゃないですし、それに、もう前回みたいなことは起きないと思いますし。だから、私のことは気にせず、信長様はご自身のことだけを考えてください」
 そう美夜のほうから言うと、信長は苦りきったような表情をする。
「今宵は俺がそなたを気遣うつもりでさまざまな言葉まで考えて用意してきたのに、すべて無駄になったな……」
「す、すみません……もしかして、先回りしすぎてしまいましたか?」
「先回りも良いところだ。まあ、分かってくれているのなら、話は早い。明後日には清洲きよすを出立し、しばらく戻れぬ……今度は今までよりも長くなる可能性がある」
「はい……分かりました」
 そう微笑みながら答えるのは、自分の本当の気持ちとは反していたが、美夜自身、もう信長に些細な心配もかけたくないという気持ちがあった。
 今が織田家にとってどれだけ大切な時期なのか……そのぐらいのことは、この時代のことに疎い美夜にも分かる。
「できればこの清洲に残りたい気持ちはあったのだが、今度ばかりはそうは行かない事情がある……」
「大丈夫です。そんなに辛そうな顔をしないでください。私には甘音も侍女たちもついていますし、蔵ノ介さんもいますし」
「ああ……そうだな。それに、緒川おがわ城とこの清洲はさほど距離は離れていないから、何かあったらすぐに戻ってくる」
「はい……ありがとうございます」
「では、ゆっくり休むと良い」
 信長は接吻して美夜から離れようとしたが、気がつけば美夜は信長の袖を引っ張っていた。
 自分でも無意識の行動だったので、美夜は慌てて握っていた信長の袖を離した。
「どうした?」
 信長は座り直して、美夜の顔をのぞき込んでくる。
「あ、えっと……今日も……別の部屋で休まれるのですか?」
 美夜の具合が悪いことに気遣ってか、清洲へ戻ってからというもの、信長はずっと美夜とは別の部屋で休んでいるようだった。
 自分を気遣ってくれているのだと分かってはいるし、信長もゆっくりは休めないだろうと美夜も思うから、そのほうが良いのかもしれない。
 けれども、今夜はいつもよりは具合も良かったし、美夜の中でももう少し信長と一緒にいたいという気持ちがわいてきたのかもしれなかった。
「俺がいるとそなたはゆっくりできぬであろう」
「あの、今日はもうちょっと一緒にいて欲しい気がするんですけど……駄目ですか?」
 美夜がそう言うと、信長は笑った。
「駄目なわけがなかろう……むしろ俺は嬉しい」
 信長はそう言うと、布団の中に潜り込んでくる。
 末森城に連れ去られる前、信長は緒川城へ出向いて不在だったこともあり、実際にこうして信長と一緒に寝るのは、本当に久しぶりのことだった。
「もし俺が傍にいることが辛いようであれば、言って欲しい。男の俺にはそなたの辛さが正確には分からぬのだ……」
「大丈夫です……こうして信長様が傍にいてくれるだけで、何だかとても安心できます」
「そうか……」
 信長は美夜の身体を包み込むように抱きしめる。
 美夜はその温もりに包まれながら、幸せな気持ちが広がっていくのを感じていた。
 信長は美夜の腹の辺りにそっと手を添えてくる。
 まだ膨らみもまったくないその場所に触れて、信長は何を感じているのだろうかと思う。
 そして、美夜はふと、このところずっと考えていたことについて、信長に聞いてみようと思った。
「あの……信長様は親になるということについて、どんな気持ちですか?」
 信長の返答は、少し間を置いてから返ってきた。
「親か……なったことがないから分からぬ……と言いたいところだが、不思議な気持ちではあるな」
「不思議な気持ち……」
「俺は良い親と良くない親の両方を見て育ってきたゆえ、親というものの定義がよく分かっておらぬのだ。だから、そういうよく分からぬものになるのだと思うと、不思議な気持ちになる。そなたはどうなのだ? 母親になる気持ちというのは?」
「私も……まだよく分からないことだらけです。この時代、この世界のこともよく分かっていないのに、母親になっても良いのかなって思うこともあります……私にその資格があるのかなって……」
「俺はこの腹の子は幸せだと思うぞ。そなたのような者を母親として生まれてくるのだから」
「そう……でしょうか……?」
「ああ……そなたは人を思いやることができるし、強いし、何より愛情が深い。俺にとっては父上がそのような存在であったが、母がそのような者であるということは、この子にとっては幸せなことだと俺は思う」
 美夜は信長の複雑な家庭事情を考え、少し胸が痛んだ。
 信長は実の母によって、これまでも何度も殺されそうになってきたという事実がある。
 今も信行を通じて美夜を襲わせたり、さらわせたり、敵対するなどして、信長を苦しめ続けている。
 美夜もそうしたことに巻き込まれながら、義母とはいえ、決して土田御前どたごぜんに良い感情は抱いていなかった。
 それに、美夜には自分の子に対してそこまでできるその土田御前の心が、まったく理解はできていない。
「俺もこの子の父として、父上のようにできる限りの愛情を注ぎ、育てるつもりだ。そなた一人が気負うことはない」
「はい……」
 美夜は頷いてから、もうひとつ、以前から気になっていたことを聞いてみる。
「あの、信長様は生まれてすぐにお母さんから離されてしまったのですよね。この子も……そうなるのでしょうか?」
「いや、俺はそうはさせぬつもりだ」
 信長がまずそう言ってくれたので、美夜は心の中に安堵あんどが広がっていくのを感じた。
「俺の場合は事情が特殊だったらしい。母親が産後の状態が良くなく、それで乳母が育てたと聞いている」
「そうなんですか……」
「生まれてくる子が男子か女子かにもよるが、俺はできる限り、ある程度の年齢まではそなたの手で育ててやって欲しいと考えておる。もしもそなたの負担にならないのであればな」
 信長のその言葉に、美夜は目を見開いた。
「本当にそれで良いのですか?」
「ああ、自我が芽生え始める頃までは、母親の愛情というものも必要だと俺は思う。俺は乳母めのとによってそれを与えられたが、実の母親にそれができるのなら、そのほうが良い。そして、そなたなら、本当の愛情を持って子を育てることができると俺は思うておるのだがな」
「はい……責任を持って育てていきます」
「ただ、この子には織田家の子として、この厳しい時代を生き抜く術も教えなくてはならぬ。それは理解してもらいたい」
「はい……」
 美夜が生きていた時代とは違い、この時代の成人は早い。
 十四や十五といった年齢で成人するのだから、親も早く子離れする必要がある、というのは、美夜にも理解できるところだった。
 むしろ、成人してなお、母親の元から離れられない信行が少しおかしいのかもしれない……美夜がそう考えていると、信長も信行のことを思い出していたようだった。
「実は俺は、末森城に入ったとき、父上が存命であった時代との雰囲気の違いに驚いた。あまりにも城の雰囲気がだらしがないと。そして、そなたの気を悪くさせてしまうかもしれぬが、信行に多少の同情をしたのだ……」
「同情……」
 信長の意外な言葉に、美夜は思わず首をかしげた。
 信長はその意味を美夜に説明する。
「俺は父上から、上に立つ者の心得や覚悟を教えていただいた。けれども、信行はずっと母に守られてきたゆえに、そうしたことを教えられずに育った。父上もそうしたことを信行に教えようとしたことはあったのであろうが、母に守られていれば難しかったはずだ」
「はい……」
「だから、あやつには今もって分からぬのだ。どうすれば家臣たちの心を掴み、そして彼らを守って行くことができるのかということが……」
「…………」
「信行はおそらく、母上や家臣らの言いなりになっているだけなのであろう。自分でそれらを動かしている気にはさせられてはいるが、実際には彼らの手のひらの上で遊ばされておるだけだ。俺は自分の子をそんな道化どうけには育てたくはない……」
「はい……」
 美夜自身も信長と同じ気持ちだった。
 少なくとも、自分の子を信行のようにはさせたくないと思う。
「この子は将来、多くの責任を抱え、辛い思いもするであろうが、どのようなことになっても自身で道を切り開く力のある子に育てたいのだ。だからその術は伝えたい。それはそなたにも理解してもらえるであろうか?」
 信長に問われて、美夜はしっかりと頷いた。
「はい、私も信長様と同じです。信長様が言われるように、この子には育って欲しいと思います」
 美夜にもこの時代に織田家の子として生まれた者が生きる厳しさは、理解できているつもりだ。
 これまで信長の生い立ちに同情してしまったこともあるが、しかしもしも信長が信行のように甘やかされて育ったのだとしたら、今頃織田家は悲惨な末路を迎えていただろうし、美夜も信長に想いを寄せることができず、苦しんでいたかもしれない。
 そう考えると、子に対してただ優しくして、好きなことをさせて育てるだけでは駄目だということはよく分かる気がした。
「この子が育つまでに戦がなくなっておれば、もっと気楽に育ててもやれるのだろうが……そうもいかぬだろうしな……」
 もしもこの子が男子であれば、織田家の将来を背負って行かなくてはならず、そのためには、信長が受けてきたような厳しい教育をして行く必要もある……それは美夜も覚悟はしていたことだった。
 女子であっても、この時代に生まれたからには、いずれ親の決めた相手のもとへ嫁ぐことになるのだろう。
 そうしたときに、強く逞しく生きていくための術を教えるのは、美夜の責任になるのかもしれない。
「まあ、今はともかく、そなたが無事に出産を終え、そしてこの子も無事に生まれてきてくれることを願うのみだな。今の俺にはそれだけ十分とも思える……」
 そう告げて、信長はそっと美夜の腹を撫でた。
「はい……私も無事にこの子をお腹から出してあげたいです……今はそれだけを考えます」
「さあ、あまり夜更かしは腹の子にも良くない。もう休め」
「はい……おやすみなさい……」
 信長の腕に抱きしめられながら、美夜は目を閉じた。

 その頃、末森城では、柴田勝家しばたかついえが信行の呼び出しを受けていた。
義姉上あねうえを逃がす手伝いをしたのは、お前の手の者だというのは本当ですか、勝家?」
 信行にそう詰め寄られ、勝家は憮然とした顔で頷いた。
「はい、その通りです、信行様。此度こたびのことに関しましては、内部からも批判の声が少なくありませんでした。ですから、私が指示を出し、そのようにしたのです」
「なぜ、私の邪魔をするのですか! お前の主は私でしょう、勝家!」
「主だからこそです。どうぞ信長様と正々堂々と戦ってください。そのために私は力を尽くすつもりでおります」
「お前は武勲ぶくんが欲しいだけでしょう。そんな名誉欲のために、楽に勝てたはずの策をぶちこわしにするとは……母上も黙ってはいないでしょう」
「もとよりとがめは覚悟の上です。お好きになさればよろしい」
「開き直る気ですか、勝家」
「開き直るというよりも、これが臣としての正しき道と心得ております」
「分かりました。そのつもりならもう良いです。お前はこの先の戦に出る必要はありません。義姉上の代わりに牢に入りなさい。母上と相談の上、お前の処分を決めます。その間、お前の家臣たちは皆、私の直属とし、私が直接指示を出します」
 信行がそう告げると、周囲にいた信行の近習きんじゅうたちが柴田勝家の周りを取り囲んだ。
 勝家は抵抗することなく、自ら身につけていた武器をすべて外し、信行の近習たちに渡した。
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