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第四章

身代わり濃姫(89)

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 城を挟んだ戦いは、守り手の有利になることが多いが、末森城の場合も、当初は守り手の優勢が続いているかに見えた。
 しかし、守り手の側の兵も無尽蔵むじんぞうというわけではなく、攻め続ければその数も減っていく。
 末森城に残っていると考えられる守り手の数は、信長が率いる攻め手の数の僅か四分の一程度……降伏を考えている者の数を合わせれば、それ以下の数字だ。
 それが分かっているから、戦の指揮を任されている光秀も、味方の力を温存しつつ、時間をかけてじりじりと守り手の数を減らしていった。
「そろそろ頃合いでしょうかね……」
 光秀が信長を見ると、信長は頷いてそれに答えた。
「城中に突撃します。待機していた部隊は出撃の準備を」
 城の守り手からの攻撃も温くなってきたと感じた光秀は、温存していた近接の部隊に突撃を命じた。
 城門から少し離れた場所には念の為に鉄砲隊を配置していたが、今回の戦にはおそらく必要がないだろう。
 城から攻撃するには鉄砲はある程度使えるが、籠城ろうじょうする敵に対しては弓のほうが役に立つ。
 籠城する敵を相手の戦で鉄砲を使う戦法に関しては、まだまだ改良の余地がある……などということを光秀は頭の中で考えることができる余裕もあった。
(やはり戦は数が大事ですね……)
 光秀が信長と最初に挑んだ清洲きよす城の戦いでは、数の上で圧倒的に不利だったこともあり、とにかく苦戦した思い出しかない。
 あの戦で何とか勝つことができたから今の信長も光秀もあるわけだが、できれば味方の数が少ない戦は経験したくないとは思う。
 ただ、清洲攻めほどの苦しい戦は、今後は二度と経験することはないだろうと、今となっては光秀にとって貴重な思い出ともなっているのだが。
 これまで後方に控えていた大軍が、一気に城門に向けてなだれ込んでいく。
 城壁からはいくつかの矢が飛んでは来たものの、押し寄せる軍勢に対してはほとんど無力だった。
 城門はあっという間に破られ、城の中には多くの兵がなだれ込んでいった。
 事前に降伏する者に危害を加えないということ、信行や土田御前どたごぜんは生きて捕らえることを信長は厳命していた。
 城の中に入った兵たちはその命を守り、降伏する者には手を出さずに捕らえて後方へ送り、向かってくる者だけを相手に、城を奥へと進んでいった。
 やがて、城内の喧噪けんそうしずまっていき、末森城は制圧され、信行と土田御前は城中の隠れ部屋にいるのを発見されて捕らえられた。

 信長はある種の覚悟のような気持ちを抱きながら、信行と土田御前が捕らえられている部屋へと向かった。
 信行に対しては、腹の立つことも多々あるが、物心ついた頃から母の支配下にあり、本人の自意識というものが信行には存在していないように信長には思われていた。
(もしも信行が俺と同じように父上の手によって育てられていたならば、この関係も変わっていたかもしれぬ……)
 信長は人間の情として信行に対して哀れに思える部分もあり、権力を取り上げる以上のことはしないことをすでに決めていた。
 実はこの信行の処置についてのことは、美夜みやからの提案でもあったのだ。
 信長は一昨日の夜のことを思い出す……。

 一昨日の夜は美夜の体調が良かったこともあり、久しぶりに床を共にした。
 信長は忙しい中でも頻繁に美夜を見舞っていたのだが、ゆっくりと話をするのは久しぶりのことかもしれなかった。
 その床の中で、美夜は信長に遠慮がちに聞いてきたのだった。
「信長様……信行殿やお母様を殺すおつもりなんですか?」
 腹の子にさわるかもしれないからと、信行たちのことはあまり語らないようにしていた信長だったが、美夜に率直に聞かれて、信長は少し驚きつつも答えた。
 聞かれたからには、正直に答えるしかない。
「それは当然そうなるであろうな。これまでのあやつらの行動は、十分に死に値するものだ」
 信長がそう告げると、美夜は顔を曇らせた。
「でも、何も死んで償うだけが償いではないと思います。私もこれまでされてきたことを考えると腹も立ちますけど……でも、正直に言って、死んで欲しいとまでは思いません……」
「まったく道理の異なる世界から来たそなたはそう考えるのであろうが、俺たちの理の中では、こういう場合は死を与えるのが当然のこととなっている」
 信長は美夜を諭すように言ったが、まだ納得できていないようだった。
「ただ、織田家には信行殿の味方をしようと考えてきた人たちもたくさんいますよね? その人たちは信行殿を処刑されると、やはり心情的に信長様には良い思いを抱かないのではないですか?」
「それはそうであろうな。俺もすべての者から好かれたいなどとは思わぬが」
「それでも、敵が多いより、味方が多い方が良いはずです。今後は美濃との戦いもあるのでしょうし……だから、今後のことを考えると、生きて償わせる道もあって良いのではないかと私は思います」
 美夜の言葉を、信長はある意味で新鮮な感動を覚えながら聞いていた。
 確かに、信行や母の土田御前の行ったことを考えれば、死罪が相当するのは間違いない。
 ただ、これまで長く信行につかえてきた……たとえば柴田勝家しばたかついえのような家臣たちの心情を考えれば、殺すことが必ずしも正しいとは信長にも思えないところがあった。
 こういうときはこうするのだという信長の中の定義があり、信行を捕らえたら当然処刑……信長はそう考えていたのだった。
 けれども、美夜の話を聞いて、信長は思い直すところが多々あったのだった。
「そうだな……確かにそなたの言っておることは理にかなっておる。信行や母の処置については、慎重に検討し直してみよう」
 信長がそう言うと、美夜は慌てて付け足すように言った。
「でも、私はこういうことに関してはまったくの素人ですから、蔵ノ介さんや光秀殿の意見もしっかり聞いてくださいね」
 美夜の言葉に信長は笑って頷いた。
「ああ、分かっている。明日にでも彼らに相談してみよう」
 信長がそう告げると、美夜は安堵したように微笑んだ。

 翌日、信長はさっそく蔵ノ介や光秀らと話し合いの機会をもうけ、美夜の提案を自分なりに考えた末の言葉を用いて告げた。
 蔵ノ介らも信行や土田御前は当然死罪と考えていたようだったが、信長の話を聞き、少し考え直すところがあったようだった。
 話し合いはかなり長い時間にわたって続けられたが、結果的に織田家の今後のことを考えると、信行を安易に処刑するのではなく、権力をすべて奪い取ったうえで生かす道がもっとも良いのではないかという結論に達した。
 これまで信行を利用してきた者たちが再び同じことをするとも限らないので、信行の身柄は厳しい管理下に置かれることにはなるが、今のところ、里に身柄を置くのがもっとも良いのではないかと蔵ノ介が提案している。
 母親の土田御前に関しては、結論が出ないままだった。
 これまでのさまざまな情報を重ね合わせると、信行の行動もすべては土田御前の意思が働いているように考えられる。
 ひとまず、信行は処刑せずに生かし、土田御前と信行は引き離す必要がある、というところまでは意見が一致したが、土田御前のその後の処置については、まだ意見が分かれているし、信長自身、答えが出ていなかった。
 翌日までにその結論を出そうという話をしたところで、木村源三郎が清洲城にやって来て、急遽出陣ということになったので、ひとまずは二人を捕らえてから、土田御前の処置については考えるということに今のところはなっている。
 結論が曖昧なままに母の土田御前に会うことに、信長は複雑な気持ちを抱いていた。
 結論が出ていたならば、母の顔を見ても、何を言われても動じないだけの自信はあるが……。
(問題は……俺が感情を抑えることができるかどうか、だな……)
 母と顔を合わせるのは婚儀の席以来だが、その後に起こったさまざまなこと……特に美夜に対する数々の仕打ちや近習きんじゅうの佐々木信親のぶちかのことを思えば、すぐにでも首を斬り落としてやりたい気持ちになる。
 だが、織田家の主として、信長は冷静にならなくてはならないことも理解していた。
 感情だけで動いてしまっては、結果的に美夜の気持ちも裏切ることになってしまうと、信長は自分に言い聞かせた。

 二人が捕らえられている部屋の前には、藤吉郎が立っていた。
「武器はすべて取り上げ、身体も拘束していますが、信行様のほうがかなり興奮しておられますので、気を付けてください……」
 藤吉郎の言葉に頷いて、信長は二人がいる部屋の中に入っていった。
 信行は信長の顔を見たとたん、彼特有の歪んだ笑みを浮かべながら抗議してくる。
「ああ、兄上ですか。早くこのいましめを解いてもらえませんか? 私や母上にこんなことをして、他の者が黙っているなどと思っておられはしないでしょうね?」
 信行のその言葉を聞き、信長はこれまでの中で最大限の哀れみを弟に感じた。
 信行は、すでにほぼすべての家臣たちが信行を見限り、降伏しているのだということを知らないのだ。
「信行……そなたのしたことは本来であれば死罪に値する。しかし、そなたのこれまでの功績なども踏まえ、死罪は免除する。その上で、そなたを指導させる者をつけ、その監視下に置き、そなたには改心の機会を与えるものとする」
 信長が淡々と告げると、信行は改心かいしんそうな顔をした。
「は? 何を言っているのですか、兄上。私を従える者など、いるはずがないでしょう? 私は織田信秀の子なのですよ?」
 信行のその言葉には、信長は苦笑するしかなかった。
「そなたはまだ気づいておらぬのか。そなたは家臣たちを従えているようで、ずっと従えられていたのだ」
 信長の言葉を聞いた信行は、きょとんと首をかしげる。
「兄上の仰ることは、私にはよく分かりません。ともかく、すぐにこの縛めを解かせてください。そうでないと、私の家臣が黙っていませんよ?」
 どうやら信行が自身の立場を理解するためには、少し時間が必要なようだった。
 信行を放っておいて、信長は母の土田御前に視線を向ける。
「母上には信行とは別の場所へ行ってもらいます。母上に関する処置はまだ家中で正式には決まっておりませんので、そこでその沙汰さたを待ってください」
 信長がそう告げても土田御前は動揺しなかったが、むしろ信行のほうが大いに動揺したようだった。
「は、母上をどうするつもりですか、兄上!」
「だから、まだ決まっておらぬと言っておる」
「決まっていないとは……まさか母上を殺すつもりではないでしょうね? 自分の母親なのに」
「確かにこの人は俺の母ではあるが、だからといってその罪がなくなるわけではない。母上、それでよろしいか?」
 信長がそう問うと、土田御前は正体不明の笑みを浮かべて信長を見た。
「お前がいつか私を殺すことは前から分かっていたことです。何しろ、お前は生まれてくるときにも私を殺そうとしたのですから」
 土田御前のその言葉に、彼女が信長を生んだ後、長く伏せり、そのために自分は乳母に育てられたことを思い出した。
 信長はさまざまにこみ上げてくる複雑な思いをすべて飲み込んで、母に告げた。
「俺を生んでいただいたことは感謝しています。しかし、それと貴方の罪とは別の問題です。家中の者たちをこれだけ振り回した貴方の罪は大きい」
 信長はそう告げてから、背後の者たちを振り返った。
「母上をお連れしろ」
「待て!! 母上をどこへ連れて行くつもりだ!! 母上!! 母上!!」
 信行の声に、土田御前は振り返って微笑んだ。
「大丈夫よ、信行。いつだって、何があっても大丈夫だったでしょう? 今回も同じことよ」
「母上……そうですね……大丈夫ですよね……母上も、そして私も……」
 土田御前のその言葉で、信行は落ち着きを取り戻したようだった。
 土田御前は身体を縛められたまま、部屋から連れ出されていった。
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