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第一章
身代わり濃姫(4)
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泣きながら戻ってきた美夜を見て、信長の教育係である政秀は顔を真っ赤にして彼を責めた。
「若! またいったい何をなさったのですか!? 嫁に来たばかりの娘を泣かせるなど、男として恥ずべき行為ですぞ!」
「いや、俺は……」
信長は何か言うのかと思ったが、それ以上は何も言わなかった。
信長が悪いわけではないのだから、本当のことを言ってしまえば良いのに。
「濃姫様、本当に申し訳ございません。若はご自分で謝るという習性がございませんので、私が謝罪させていただきます。申し訳ございませんでした!」
「…………」
美夜は何も言えなかった。
まだ気持ちが落ち着かず、口を開けば収まりかけた涙が再び溢れてきそうになるからだ。
信長にも政秀にも悪いと思いつつも、ただ黙って涙を堪えるしかなかった。
「そろそろ出発いたしますが、大丈夫ですか?」
織田家の者が遠慮がちに聞いてきたので、美夜はこくりと頷いた。
どうせ行った先では何かを話すこともないので、ただ泣くのを我慢していれば良いだけのことだ。それぐらいならできる。
ここで怖じ気づいて逃げ出してしまうという選択肢は、美夜にはなかった。
途中に多少のハプニングはあったものの、何とか一日の行事を無事に終え、夜になって美夜は寝室に戻ってきた。
「今日はお疲れになられたでしょう? ゆっくりお休みください」
いたわるように告げてくる各務野の言葉が、今の美夜には嬉しい。
「ありがとう。心配かけてごめんなさい……」
「いえ。帰蝶様はご立派にお役目を果たされているとわたくしは思います」
「そう……かな? 戸惑うことばかりで、この生活になじめるかどうか不安ばかりだけど……馴染むしかないものね……」
「女子には、自分で何かを選択するという機会がほとんどございません」
「そうよね……この世界は」
「帰蝶様がいらした世界では、違っていたのですか?」
各務野の問いかけに、美夜はこくりと頷いた。
「私が元いたところは、もっと自由だったの。恋も自由。仕事も自分で選べるし。結婚相手だって自由に選べる。結婚するかしないかも自由……」
「そう……なのですね。そのような世界があるのなら、私も一度行ってみとうございます」
各務野は心底羨ましそうに言った。
各務野は美夜が別の世界から来たということに関して最初のうちは半信半疑だったが、今は少し信じてくれているのかもしれない。
「各務野は……結婚はしていないんだっけ?」
「一度だけ……いたしましたが、夫は結婚してまもなく戦の最中に亡くなりました。ですから今は独り身でございます」
戦で亡くなった……この時代はそうした死に方も珍しくはないのだと美夜は思い知る。
早く元の世界に帰る方法を探さないと、兄がそうしたことに巻き込まれてしまう可能性も否定できない。
「そうだったんだ……辛いことを聞いてごめんなさい」
「いえ、夫といっても、家と家が決めた相手ですから。実はわたくしは、今もそれほどよく夫のことを知っているわけではないのです。結婚生活もごく短かったですし」
「そう……なんだ」
「ですから、今は独り身の気楽さを楽しんでおります」
そう言って各務野は微笑むが、もしかすると彼女にも夫の他に好いた相手がいたのかもしれないと何となく美夜は感じた。
「私もまだ十六年しか生きてないから……どちらの世界が良いのかは分からない。でも、自分の結婚相手ぐらい、自分で選べるほうがいいな……とは思う」
「そうですね……でも、結婚の相手を自由に選べるのは、本当にごく一部の方々だけだと思います。結婚は個人の問題ではないですから」
「でも、帰蝶さんは……選んだのよね。信長様と結婚しない人生。好きな人と一緒に逝く人生を……」
「ええ……とても残念でございました。わたくしは帰蝶様が赤子の頃からお世話をさせていただいておりましたので……」
「そう……だったの。じゃあ、私のような者が帰蝶さんの身代わりになっているのは複雑な気持ちでしょう?」
「いいえ、そのようなことはございません。貴方は本当に帰蝶様に生き写しですし……ご事情があるとはいえ、斉藤家のために、精一杯なさってくださっているとわたくしは感謝いたしております」
「あの……答えたくなかったら答えなくてもいいんだけど……本物の帰蝶さんって、どんな人だったの?」
信長は本物の帰蝶に会っている。会話は交わしていないと道三は言っていたが、少し知っておいたほうが良いような気がした。
「とても……お優しい方でございました。道三様はあのように剛胆な御方ですが、その血を受け継いでいるとは思えないほどに、お優しく……そしてとても弱い一面もお持ちでした」
弱い一面……それがあったから、帰蝶は結婚ではなく死を選んだのだろうか……。
「帰蝶さんと一緒に亡くなった男の人って……どんな人だったの?」
「斉藤家に仕える家臣の息子でございました。道三様も目をかけておられて。信長様との婚姻のお話がなければ、おそらくその方と帰蝶様はご結婚されていたと思います」
「そうなんだ。じゃあ、この時代にはめずらしく、相思相愛の結婚が実現しそうだったのね?」
「ええ……道三様も正式にはまだお認めになってはおられませんでしたが、ゆくゆくはと考えておいでのようでした」
帰蝶が死を選んだのは、信長と結婚したくないからというのもあるのだろうが、何よりも好きな人と結婚できないという絶望が理由だったのかもしれない。
「今回の結婚は織田家のほうから申し入れがあったの?」
「はい。織田と斉藤でここ数年ほどは領地を争う戦が長い間続いていたのですが、このところ、斉藤家は織田に押され気味の状態で旗色も悪く……織田家からの申し入れは、道三様に取りましても、渡りに舟だったのでございます」
「そっか……だから、この結婚は国と国との約束だって道三は言っていたのね。そういう事情があれば、まさか帰蝶さんが好きな男の人と心中したので結婚はなかったことに、なんて言えないものね……」
「ええ……ですから、道三様はあらゆる伝手をたどって、文観殿を見つけ、帰蝶様にうり二つの容姿を持つ者を探すように命じたのです」
そして、美夜と雪春がこの世界に喚ばれてしまった。
「私……そんなに似ているのかしら? 帰蝶さんに」
「ええ、本当に生き写しのようでございます」
きっぱりと各務野は頷いたが、生前の帰蝶を見たことのない美夜にはやはり実感がわかなかった。
一度帰蝶と対面しているはずの信長も、美夜が本物の帰蝶だと疑ってはいないようだったし。
「そういえば……あの文観って人は、いったいどこで見つけてきたの?」
「わたくしも詳しくは存じ上げませんが、元は京のほうで加持祈祷などを行っておられたのだとか。道三様も美濃を治められるようになるまでは諸国を巡っておられたそうで、その頃のご縁からの繋がりと聞いております」
「そっか……」
文観については、雪春も調べてくれていると思うが、やはり謎の多い人物ではあるようだ。
しかし、自分たちをここへ召喚した文観なら、ひょっとすると元の世界へ戻る方法についても知っているかもしれない。
兄への手紙には、直接的な言葉で文観を調べて欲しいとは書かなかった。美夜がそれを頼むような形になれば、きっと雪春は無茶をしてしまうだろうし。
しかし、雪春も文観を調べることの重要性については認識しているだろうと美夜は考えている。無理のない範囲で調べていてくれれば……美夜はそう願わずにはいられない。
「ごめんなさい。話が長くなって。一人でゆっくり眠れるのは今日までだものね。もう寝るわ」
「ええ。そうなさってください。おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」
布団に入り、各務野が襖を閉める音を聞きながら、美夜は目を閉じる。
明日の夜は信長との『初夜』。
その作法についてはおおよその流れしか知らないが、信長が何とかしてくれるだろうと覚悟を決める。
(明日は今日みたいに情けない姿を見せないようにしないと……もう私には逃げ道なんてないのだから――)
婚儀も三日目となると、疲れもピークを通り越し、愛想笑いも苦痛ではなくなってきた。
基本的にこの尾張の人たちは、陽気であまり裏がないように美夜には思える。
こんなに素朴で温かな雰囲気は、美夜のいた世界にはあまりなかったものだ。
いつか兄と二人で元の世界へ戻ることが目標ではあるものの、現実的にはある程度の時間はこの世界で過ごさなければならない。
それならば、自分も少しでも楽しく明るく過ごせるようにしたいと美夜は考えていた。
それに、いざという時のためにも、一人でも多くの味方を得ているにこしたことはない。
斎藤道三が信長を裏切る可能性は、絶対にないとは限らない。ましてや、自分は姿かたちはそっくりなものの、道三の本物の娘ではない。裏切りにもためらいはないだろう。
さらには、織田家が道三を裏切る可能性もないとはいえない。今は同盟が両家にとって利があるのだとしても、時は戦国時代。状況は刻一刻と変化しているはずだ。
そうなったとき、兄の命を守るためには、この織田家で美夜が少しでも力を付けることが必要だった。
(昨日は少し取り乱してしまったけど、しっかりしないと。今夜は初夜……なんだし……)
ちらりと、隣に座る信長を見ると、まるで欠伸をかみ殺したような顔をしている。
正直に言って、このまるでまだ少年のような夫とキス以上のことをするなどという想像はまったくできない。現実の世界の同級生の男子たちのほうが、まだ大人っぽいし、落ち着いているように思える。
でも、今夜はそれをしなければならない。
(大丈夫……これは自分の身体じゃないと思えば良いわ。元の世界に戻れば、私の身体は別にあるって……)
「何を考えている?」
唐突に声をかけられ、美夜は思わず変な声をあげてしまいそうになった。
「え、あの……こ、この家の人たちは皆良い方が多いな、とか……」
「そうか? 一癖も二癖もある者たちばかりだぞ」
(それを貴方が言うの?)
と美夜は思ったが、さすがに口に出すのはやめた。
朝からずっと目の前で繰り返される挨拶に会釈をしたり笑顔を向けたり。そんなことの繰り返しで、信長も退屈し始めてきたのかもしれない。
ようやく夜になり、美夜は一連の行事から解放された。
覚悟はしていたことだったが、終わったと聞かされた時の疲労感は尋常ではなかった。
このままいつもの寝室に戻って眠りたいという欲求はあったが、今日はまだもう一つ大切な行事が残っている。
湯を使って身体を洗い、着替えを済ませ、各務野に導かれていつもとは違う寝所へと向かう。
各務野が襖を開けると、まだ信長は寝所に到着していないようだった。
「では帰蝶様、わたくしはこれで」
すっと襖を閉めて各務野が去ってしまうと、美夜はとたんに心細くなってしまった。
奥の部屋に、布団が二つ並んで敷かれてある。
(あそこで……私は信長に抱かれる)
今夜は信長と二人で過ごさなければならないと思うと、途方に暮れそうになる。
昨日は途中で逃げることもできたが、今日はそうはいかない。
いったい今夜は長くなるのか、それともあっという間なのか……。
美夜が知っているその作法は、男女が裸になって抱き合うというところまでだ。その後でまたキスをするのだろうか。そもそも、裸になって、いったいどのように抱き合うのだろうか……。
考えないようにしようとしていたことが目前に迫り、美夜は少し焦ってくる。
(そういう知識も……もっと勉強しておけば良かったのかも。各務野はすべて信長に任せておけば大丈夫としか教えてくれなかったし……)
そんなことを考えていると、乱暴な足音が近づいてきて、襖が開け放たれた。
振り返ると、信長がそこに立っていた。
「早かったのだな、お濃」
「私も先ほど来たところです」
「そうか」
こうして落ち着いて二人で対面してみると、言いたいと思って言えなかったことが、すらすらと口から出てくる。
「信長様、私の名は帰蝶です。お濃というのは、皆が濃姫と呼んでいるからそのようにお呼びになられるのかもしれませんが、信長様は私の夫になられたのですから、帰蝶と呼んでください」
「む……分かった。では、これからはそなたのことを帰蝶と呼ぼう」
あっさりと了承した信長に、美夜は少し肩すかしを食らった気分だった。
しかし信長は、それきり口を閉ざしてしまった。
気まずいような沈黙だけが続いていく。
向かい合って座ってはいるものの、この後どうして良いか分からない。すべては信長に任せろと各務野も言っていたし、余計なことはしないでおこうと美夜は決めた。
「…………」
「…………」
しかし、信長はじっと美夜の顔を見つめたまま、動こうとしない。信長が動かない以上、美夜も動くことができない。
この三日間で忍耐力は鍛えられたと思うが、奪われ続けた体力のおかげで、その忍耐にも限界がきそうだった。
さらにしばらくの間、美夜は信長につきあい、対面したまま見つめ合っていたが、絶え間なく睡魔が襲ってきてかなり辛い。
欠伸をかみ殺すのが精一杯だ。
何かをしているならともかく、何もしないで見つめ合っているままだと、疲労による眠気に負けてしまいそうになる。
とうとう我慢ができなくなって、美夜はつい口を開いてしまった。
「あの……とても眠いので、することがあるのなら、早く済ませていただきたいのですが……」
自分の状況を正直に伝えると、ずっとしかめっ面をしていた信長がおかしそうに笑い出してしまった。
確かに場違いな発言ではあったかもしれないが、この三日間……いや、この世界へ召喚されてからの五日間はあまりにもいろいろなことがありすぎて、美夜は本当に疲れ果てているのだ。美夜にとっては、大笑いされるようなことではない。
「笑い事じゃありません。真剣に言ってるんです」
「真剣だからこそ、おもしろい」
「おもしろくありません。何もなさらないのでしたら、私は先に休ませていただきます」
美夜はだんだん腹が立ってきて、先に布団の中に潜り込んだ。そのまま眠ってしまい、眠っている間に何かされてももう構うものかと思った。
さすがに少し慌てたような信長の声が聞こえた。
「待て。そのような話は聞いておらぬぞ」
「知りません。おやすみなさい」
そう言って目を閉じると、うとうとと眠気がすぐにやって来る。何の苦もなく眠れそうだと思っていると、ごそごそと信長が布団の中に入ってくる気配がした。
背後から抱きしめられ、やっぱりするのか、と思っていると……。
「俺も眠い……帰蝶、そなたも今宵は寝ろ……」
そんな声が聞こえてきたかと思うと、美夜を抱きしめたまま、信長は寝息を立て始めたのだった。
「若! またいったい何をなさったのですか!? 嫁に来たばかりの娘を泣かせるなど、男として恥ずべき行為ですぞ!」
「いや、俺は……」
信長は何か言うのかと思ったが、それ以上は何も言わなかった。
信長が悪いわけではないのだから、本当のことを言ってしまえば良いのに。
「濃姫様、本当に申し訳ございません。若はご自分で謝るという習性がございませんので、私が謝罪させていただきます。申し訳ございませんでした!」
「…………」
美夜は何も言えなかった。
まだ気持ちが落ち着かず、口を開けば収まりかけた涙が再び溢れてきそうになるからだ。
信長にも政秀にも悪いと思いつつも、ただ黙って涙を堪えるしかなかった。
「そろそろ出発いたしますが、大丈夫ですか?」
織田家の者が遠慮がちに聞いてきたので、美夜はこくりと頷いた。
どうせ行った先では何かを話すこともないので、ただ泣くのを我慢していれば良いだけのことだ。それぐらいならできる。
ここで怖じ気づいて逃げ出してしまうという選択肢は、美夜にはなかった。
途中に多少のハプニングはあったものの、何とか一日の行事を無事に終え、夜になって美夜は寝室に戻ってきた。
「今日はお疲れになられたでしょう? ゆっくりお休みください」
いたわるように告げてくる各務野の言葉が、今の美夜には嬉しい。
「ありがとう。心配かけてごめんなさい……」
「いえ。帰蝶様はご立派にお役目を果たされているとわたくしは思います」
「そう……かな? 戸惑うことばかりで、この生活になじめるかどうか不安ばかりだけど……馴染むしかないものね……」
「女子には、自分で何かを選択するという機会がほとんどございません」
「そうよね……この世界は」
「帰蝶様がいらした世界では、違っていたのですか?」
各務野の問いかけに、美夜はこくりと頷いた。
「私が元いたところは、もっと自由だったの。恋も自由。仕事も自分で選べるし。結婚相手だって自由に選べる。結婚するかしないかも自由……」
「そう……なのですね。そのような世界があるのなら、私も一度行ってみとうございます」
各務野は心底羨ましそうに言った。
各務野は美夜が別の世界から来たということに関して最初のうちは半信半疑だったが、今は少し信じてくれているのかもしれない。
「各務野は……結婚はしていないんだっけ?」
「一度だけ……いたしましたが、夫は結婚してまもなく戦の最中に亡くなりました。ですから今は独り身でございます」
戦で亡くなった……この時代はそうした死に方も珍しくはないのだと美夜は思い知る。
早く元の世界に帰る方法を探さないと、兄がそうしたことに巻き込まれてしまう可能性も否定できない。
「そうだったんだ……辛いことを聞いてごめんなさい」
「いえ、夫といっても、家と家が決めた相手ですから。実はわたくしは、今もそれほどよく夫のことを知っているわけではないのです。結婚生活もごく短かったですし」
「そう……なんだ」
「ですから、今は独り身の気楽さを楽しんでおります」
そう言って各務野は微笑むが、もしかすると彼女にも夫の他に好いた相手がいたのかもしれないと何となく美夜は感じた。
「私もまだ十六年しか生きてないから……どちらの世界が良いのかは分からない。でも、自分の結婚相手ぐらい、自分で選べるほうがいいな……とは思う」
「そうですね……でも、結婚の相手を自由に選べるのは、本当にごく一部の方々だけだと思います。結婚は個人の問題ではないですから」
「でも、帰蝶さんは……選んだのよね。信長様と結婚しない人生。好きな人と一緒に逝く人生を……」
「ええ……とても残念でございました。わたくしは帰蝶様が赤子の頃からお世話をさせていただいておりましたので……」
「そう……だったの。じゃあ、私のような者が帰蝶さんの身代わりになっているのは複雑な気持ちでしょう?」
「いいえ、そのようなことはございません。貴方は本当に帰蝶様に生き写しですし……ご事情があるとはいえ、斉藤家のために、精一杯なさってくださっているとわたくしは感謝いたしております」
「あの……答えたくなかったら答えなくてもいいんだけど……本物の帰蝶さんって、どんな人だったの?」
信長は本物の帰蝶に会っている。会話は交わしていないと道三は言っていたが、少し知っておいたほうが良いような気がした。
「とても……お優しい方でございました。道三様はあのように剛胆な御方ですが、その血を受け継いでいるとは思えないほどに、お優しく……そしてとても弱い一面もお持ちでした」
弱い一面……それがあったから、帰蝶は結婚ではなく死を選んだのだろうか……。
「帰蝶さんと一緒に亡くなった男の人って……どんな人だったの?」
「斉藤家に仕える家臣の息子でございました。道三様も目をかけておられて。信長様との婚姻のお話がなければ、おそらくその方と帰蝶様はご結婚されていたと思います」
「そうなんだ。じゃあ、この時代にはめずらしく、相思相愛の結婚が実現しそうだったのね?」
「ええ……道三様も正式にはまだお認めになってはおられませんでしたが、ゆくゆくはと考えておいでのようでした」
帰蝶が死を選んだのは、信長と結婚したくないからというのもあるのだろうが、何よりも好きな人と結婚できないという絶望が理由だったのかもしれない。
「今回の結婚は織田家のほうから申し入れがあったの?」
「はい。織田と斉藤でここ数年ほどは領地を争う戦が長い間続いていたのですが、このところ、斉藤家は織田に押され気味の状態で旗色も悪く……織田家からの申し入れは、道三様に取りましても、渡りに舟だったのでございます」
「そっか……だから、この結婚は国と国との約束だって道三は言っていたのね。そういう事情があれば、まさか帰蝶さんが好きな男の人と心中したので結婚はなかったことに、なんて言えないものね……」
「ええ……ですから、道三様はあらゆる伝手をたどって、文観殿を見つけ、帰蝶様にうり二つの容姿を持つ者を探すように命じたのです」
そして、美夜と雪春がこの世界に喚ばれてしまった。
「私……そんなに似ているのかしら? 帰蝶さんに」
「ええ、本当に生き写しのようでございます」
きっぱりと各務野は頷いたが、生前の帰蝶を見たことのない美夜にはやはり実感がわかなかった。
一度帰蝶と対面しているはずの信長も、美夜が本物の帰蝶だと疑ってはいないようだったし。
「そういえば……あの文観って人は、いったいどこで見つけてきたの?」
「わたくしも詳しくは存じ上げませんが、元は京のほうで加持祈祷などを行っておられたのだとか。道三様も美濃を治められるようになるまでは諸国を巡っておられたそうで、その頃のご縁からの繋がりと聞いております」
「そっか……」
文観については、雪春も調べてくれていると思うが、やはり謎の多い人物ではあるようだ。
しかし、自分たちをここへ召喚した文観なら、ひょっとすると元の世界へ戻る方法についても知っているかもしれない。
兄への手紙には、直接的な言葉で文観を調べて欲しいとは書かなかった。美夜がそれを頼むような形になれば、きっと雪春は無茶をしてしまうだろうし。
しかし、雪春も文観を調べることの重要性については認識しているだろうと美夜は考えている。無理のない範囲で調べていてくれれば……美夜はそう願わずにはいられない。
「ごめんなさい。話が長くなって。一人でゆっくり眠れるのは今日までだものね。もう寝るわ」
「ええ。そうなさってください。おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」
布団に入り、各務野が襖を閉める音を聞きながら、美夜は目を閉じる。
明日の夜は信長との『初夜』。
その作法についてはおおよその流れしか知らないが、信長が何とかしてくれるだろうと覚悟を決める。
(明日は今日みたいに情けない姿を見せないようにしないと……もう私には逃げ道なんてないのだから――)
婚儀も三日目となると、疲れもピークを通り越し、愛想笑いも苦痛ではなくなってきた。
基本的にこの尾張の人たちは、陽気であまり裏がないように美夜には思える。
こんなに素朴で温かな雰囲気は、美夜のいた世界にはあまりなかったものだ。
いつか兄と二人で元の世界へ戻ることが目標ではあるものの、現実的にはある程度の時間はこの世界で過ごさなければならない。
それならば、自分も少しでも楽しく明るく過ごせるようにしたいと美夜は考えていた。
それに、いざという時のためにも、一人でも多くの味方を得ているにこしたことはない。
斎藤道三が信長を裏切る可能性は、絶対にないとは限らない。ましてや、自分は姿かたちはそっくりなものの、道三の本物の娘ではない。裏切りにもためらいはないだろう。
さらには、織田家が道三を裏切る可能性もないとはいえない。今は同盟が両家にとって利があるのだとしても、時は戦国時代。状況は刻一刻と変化しているはずだ。
そうなったとき、兄の命を守るためには、この織田家で美夜が少しでも力を付けることが必要だった。
(昨日は少し取り乱してしまったけど、しっかりしないと。今夜は初夜……なんだし……)
ちらりと、隣に座る信長を見ると、まるで欠伸をかみ殺したような顔をしている。
正直に言って、このまるでまだ少年のような夫とキス以上のことをするなどという想像はまったくできない。現実の世界の同級生の男子たちのほうが、まだ大人っぽいし、落ち着いているように思える。
でも、今夜はそれをしなければならない。
(大丈夫……これは自分の身体じゃないと思えば良いわ。元の世界に戻れば、私の身体は別にあるって……)
「何を考えている?」
唐突に声をかけられ、美夜は思わず変な声をあげてしまいそうになった。
「え、あの……こ、この家の人たちは皆良い方が多いな、とか……」
「そうか? 一癖も二癖もある者たちばかりだぞ」
(それを貴方が言うの?)
と美夜は思ったが、さすがに口に出すのはやめた。
朝からずっと目の前で繰り返される挨拶に会釈をしたり笑顔を向けたり。そんなことの繰り返しで、信長も退屈し始めてきたのかもしれない。
ようやく夜になり、美夜は一連の行事から解放された。
覚悟はしていたことだったが、終わったと聞かされた時の疲労感は尋常ではなかった。
このままいつもの寝室に戻って眠りたいという欲求はあったが、今日はまだもう一つ大切な行事が残っている。
湯を使って身体を洗い、着替えを済ませ、各務野に導かれていつもとは違う寝所へと向かう。
各務野が襖を開けると、まだ信長は寝所に到着していないようだった。
「では帰蝶様、わたくしはこれで」
すっと襖を閉めて各務野が去ってしまうと、美夜はとたんに心細くなってしまった。
奥の部屋に、布団が二つ並んで敷かれてある。
(あそこで……私は信長に抱かれる)
今夜は信長と二人で過ごさなければならないと思うと、途方に暮れそうになる。
昨日は途中で逃げることもできたが、今日はそうはいかない。
いったい今夜は長くなるのか、それともあっという間なのか……。
美夜が知っているその作法は、男女が裸になって抱き合うというところまでだ。その後でまたキスをするのだろうか。そもそも、裸になって、いったいどのように抱き合うのだろうか……。
考えないようにしようとしていたことが目前に迫り、美夜は少し焦ってくる。
(そういう知識も……もっと勉強しておけば良かったのかも。各務野はすべて信長に任せておけば大丈夫としか教えてくれなかったし……)
そんなことを考えていると、乱暴な足音が近づいてきて、襖が開け放たれた。
振り返ると、信長がそこに立っていた。
「早かったのだな、お濃」
「私も先ほど来たところです」
「そうか」
こうして落ち着いて二人で対面してみると、言いたいと思って言えなかったことが、すらすらと口から出てくる。
「信長様、私の名は帰蝶です。お濃というのは、皆が濃姫と呼んでいるからそのようにお呼びになられるのかもしれませんが、信長様は私の夫になられたのですから、帰蝶と呼んでください」
「む……分かった。では、これからはそなたのことを帰蝶と呼ぼう」
あっさりと了承した信長に、美夜は少し肩すかしを食らった気分だった。
しかし信長は、それきり口を閉ざしてしまった。
気まずいような沈黙だけが続いていく。
向かい合って座ってはいるものの、この後どうして良いか分からない。すべては信長に任せろと各務野も言っていたし、余計なことはしないでおこうと美夜は決めた。
「…………」
「…………」
しかし、信長はじっと美夜の顔を見つめたまま、動こうとしない。信長が動かない以上、美夜も動くことができない。
この三日間で忍耐力は鍛えられたと思うが、奪われ続けた体力のおかげで、その忍耐にも限界がきそうだった。
さらにしばらくの間、美夜は信長につきあい、対面したまま見つめ合っていたが、絶え間なく睡魔が襲ってきてかなり辛い。
欠伸をかみ殺すのが精一杯だ。
何かをしているならともかく、何もしないで見つめ合っているままだと、疲労による眠気に負けてしまいそうになる。
とうとう我慢ができなくなって、美夜はつい口を開いてしまった。
「あの……とても眠いので、することがあるのなら、早く済ませていただきたいのですが……」
自分の状況を正直に伝えると、ずっとしかめっ面をしていた信長がおかしそうに笑い出してしまった。
確かに場違いな発言ではあったかもしれないが、この三日間……いや、この世界へ召喚されてからの五日間はあまりにもいろいろなことがありすぎて、美夜は本当に疲れ果てているのだ。美夜にとっては、大笑いされるようなことではない。
「笑い事じゃありません。真剣に言ってるんです」
「真剣だからこそ、おもしろい」
「おもしろくありません。何もなさらないのでしたら、私は先に休ませていただきます」
美夜はだんだん腹が立ってきて、先に布団の中に潜り込んだ。そのまま眠ってしまい、眠っている間に何かされてももう構うものかと思った。
さすがに少し慌てたような信長の声が聞こえた。
「待て。そのような話は聞いておらぬぞ」
「知りません。おやすみなさい」
そう言って目を閉じると、うとうとと眠気がすぐにやって来る。何の苦もなく眠れそうだと思っていると、ごそごそと信長が布団の中に入ってくる気配がした。
背後から抱きしめられ、やっぱりするのか、と思っていると……。
「俺も眠い……帰蝶、そなたも今宵は寝ろ……」
そんな声が聞こえてきたかと思うと、美夜を抱きしめたまま、信長は寝息を立て始めたのだった。
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