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第一章

身代わり濃姫(9)

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 鷺山さぎやま城の庭の一角で、木刀を打ち合うような音が響いている。
 その音の中心には、二人の男の姿があった。
「せい――!」
「は――!」
 一人は雪春ゆきはる、そしてもう一人は雪春よりも少し年若の眉目秀麗な青年だった。
 二人はしばらくの間、木刀を使った立ち合いを続けていた。
「お疲れ様です、雪春様、光秀様」
 やがて立ち合いがひと息ついたのを見計らって、律が雪春と光秀と呼んだ青年に汗をぬぐうための布を手渡す。
「冷たいですね。冷やしておいてくれたのですか?」
 律のひと手間に気づいた光秀が、感心したように微笑んだ。
「はい。お稽古が終わる直前まで、井戸で組んできたばかりのお水で冷やしていました」
「ありがとう、律。とても冷たくて気持ちいいよ」
 雪春も礼を言うと、律は嬉しそうに頬を赤らませた。
 季節はいつの間にか初夏。
 まだセミまでは鳴いてないとはいえ、少し身体を動かせば、汗もかく気候だ。
 これからこの世界は梅雨を迎え、そして夏になる。
「光秀殿、今日もありがとうございました」
「いえ。雪春殿は筋がよろしい。こちらとしても、教えがいがあります。以前いた……その、別の世界では何か武道を?」
「剣ではない武道を多少やっていましたが、剣は光秀殿に教わるまでは持ったこともありませんでした」
 おそらく、合気道などと言っても通じないだろうと思ったので、雪春はそう答えた。
「そうですか。ですが、もう実戦に出ても問題ないと思われるところまで来ていると思います。やはり筋が良いのでしょう」
 雪春に剣を教えている青年は、明智光秀あけちみつひでという。
 この鷺山城で明智光秀の名を聞いた時、雪春は驚いたが、どうやら斎藤道三さいとうどうさんと光秀は親戚関係にあるらしい。道三の正室である小見おみかたが、光秀の叔母になるのだそうだ。つまり、帰蝶きちょうは光秀にとっていとこに当たることになる。
(明智光秀……織田信長の家臣として信頼もあつく、しかし後に織田信長に反旗を翻し、彼の命を奪う男……)
 雪春が光秀に剣を教えてもらうという名目で近づいたのは、彼がいずれ、織田信長に近づき、そして裏切ると雪春は知っているからだった。
 専門的な知識までなくとも、ある程度の歴史の流れは雪春の頭の中にある。
(その裏切り……もっと早めてもらえれば、美夜を早く取り返すこともできるはず……)
 しかし、稽古の合間などにさりげなく信長の話題を振ってみても、今の光秀は信長にはまったく興味がないようだった。
 『織田は気の毒ですね。せっかく今の当主である信秀殿が国を大きくしたのに、嫡子があのようなたわけでは、先は望めますまい』というのが、光秀の見解のようだった。
 それよりも光秀は西の情勢を気にしているようだった。
 数日後には美濃を立つことにしているが、那古野城なごやじょうには立ち寄らずに京に向かう、と光秀は考えているようだ。
 なかなかうまくは行かないものだな、と雪春は思う。
 美夜が尾張の信長のもとへ嫁いで早くもひと月。
 呪術師文観もんかんとの接触はまだ叶っていないが、二日前に律の弟である牛丸うしまるが、道三の伝手つてをたどって遊学するため、京へと旅立ったところだ。
 牛丸は律にも似て素直で利発な少年だった。
 律の言うことなら、何でも素直に聞くというその言葉を信じ、牛丸には文観の行方を捜してもらうしかない。
 光秀もほどなく京へ向かうということだから、それまでにもう少し親しくなっておけば、雪春の伝手として利用することもできるかもしれない。
 ただし、光秀は利にさとく、牛丸のように一筋縄ではいかない男だから、言動には十分に注意を払う必要があるだろう。
 気がついた時には裏切り、斎藤道三にすべてを告げられているというような可能性も少なくはない。
(せめて何とかして、光秀を信長に接触させることができれば良いが……)
「あの、お茶をどうぞ。冷たいものを入れてきました」
 光秀と二人、庭の縁側で休んでいると、律が茶をふたつ入れて持ってきてくれた。
「ありがとうございます、律殿。本当に貴方はとても気が利きますね」
「いえ、あの……こういうことしかできませんので」
 はにかんだように微笑む律が、ちらりと雪春に視線を向けてくる。雪春が笑みを返すと、律は顔を赤らめ、二人の会話の邪魔にならないよう、ぱたぱたと立ち去っていった。
「律殿は良い娘ですね」
「はい。俺のような奇妙な人間の世話を、嫌がらずにやってくれます」
 雪春がそう言うと、光秀は思い出したように聞いてくる。
「まだ半信半疑なのですが、雪春殿は何百年も先の世界からやって来たというのは本当ですか?」
 光秀のほうからその話を振ってきたので、雪春はチャンスかもしれないと思う。
 光秀は道三から、雪春がこの世界に召喚されたあらましをある程度聞いているらしい。
 これまでも何度か元の世界のことを聞かれたことはあったが、雪春は慎重に答えていた。
 しかし、今は少し踏み込んだ会話をしてみるのも良いかもしれない。
「たぶん、そうなのだと思います。ここが俺たちの知る過去と同一なのかどうかの断定はできませんが……しかし、貴方のお名前は俺たちの世界では有名ですよ、光秀殿」
 雪春の言葉に、光秀は少し目を開いた。
「ほう。私はそのように名を馳せると?」
 光秀が驚くのも無理はない。今の光秀は、叔母である道三の正室の小見の方の庇護を受けているが、仕える家を持たない一介の浪人に過ぎないのだ。
「俺たちの時代で、貴方の名を知らぬ者はおりません」
「それは光栄なことです。悪名でなければ良いのですが」
 光秀はまんざらでもなさそうな様子だ。
 後世の光秀への評価は賛否両論だ。
 しかし、その否の部分を当人に正直に伝えることの利点は、今のところないだろう。
 大切なのは、光秀が食らいついた今のチャンスを逃さないということだ。
「光秀殿は天下に近いところまで上られます。そして、織田信長も」
 織田信長の名を出したとたん、光秀の顔がぴくりとした。
「織田……信長。あのたわけ男が」
「はい。今はうつけやたわけかもしれませんが、信長は鉄砲を利用した戦を展開し、やがて天下を目指します」
「鉄砲……」
 考え込むようにつぶやく光秀に、雪春は頷いた。
「この時代を境に、戦の方法が変わります。剣や弓で戦う時代から、鉄砲を使う時代に」
「それは……とても興味深い話ですね」
 どうやら光秀は雪春の話に興味を抱いてくれたようだった。
 もう少し突っ込んだ話をしてみても、問題はないだろうと雪春は判断した。
「光秀殿も鉄砲を得意とされていたと、後世には伝えられていますが」
「今はまだ触ったことがあるという程度です。しかし確か、道三様も鉄砲をいくつか調達していたはず。後で少し借りてきましょう」
「早いうちに鉄砲の使い方を覚えるのは良いと思います。きっとどの陣営にいっても重宝されるはずです」
「しかし、戦で鉄砲ですか……鉄砲は弓のように融通がきかないですし、戦には不向きなほどに重いですし、数を集めるのも大変です。戦で使うにはかなりの工夫が必要になるでしょう」
「信長がいずれ、鉄砲を主とした戦を生み出します」
「信じられないな……私が調べた限り、信長という男は穀潰しごくつぶしで、その上に実は凶人ではないかとも言われています。貴方の妹君が嫁がれたのが気の毒に思えるほどの人物でしか、私の中ではないのですが」
(美夜……)
 いったい今頃、どうしているだろうか……。
 信長のような男の元へ嫁ぎ、心細い思いをしているに違いない。
 しかし、信長がこの戦国時代に突出した才能を見せたのは歴史が物語る事実でもある。
 雪春はこの部分を冷静に見つめなければならない。
「光秀殿、あなたが天下を取るためには、やがて信長が邪魔になります」
「私が……天下を?」
「はい。信長さえいなければ、貴方が天下を取っていたとも俺たちの時代では伝えられています」
「…………」
「まだ未熟な今のうちに信長を排除するか、さもなくば信長を利用して力をつけ、機会を見て討つか。今から考えておいたほうが良いと思います」
 雪春の言葉に、光秀は少し驚いたようだった。
 自分と信長が、雪春の住む未来の世界ではそのような因縁で伝わっているとは。
「ご忠告に感謝します。しかし、信長は私のいとこの夫でもあります。実際には貴方の妹君ではあるのですが……それにしても、うかつな行動は取れません。しかし、雪春殿の話はとても興味深かったです。那古野城に立ち寄るつもりはありませんでしたが……少し様子を見に行ってみるのも良いかもしれませんね」
「那古野城へ立ち寄るのなら、事情を知る光秀殿ですから、少し甘えてお願いしたいことがあります」
「何でしょう?」
「妹に……帰蝶に俺からの手紙を渡してもらいたいのです。光秀殿でしたら、直接帰蝶に会うことも可能でしょう?」
「ええ、構いませんよ。その程度のこと、お安いご用です」
「ありがとうございます」
 安堵したように礼を言うと、光秀は雪春の顔を見て微笑んだ。
「貴方は……信長から帰蝶を……妹君を取り戻したいのですね?」
 光秀に問われて、雪春は素直に頷いた。
「はい。彼女は帰蝶として信長に嫁いでいますが、俺にとって大切な妹です。それが本人の意を無視して信長のような男のもとへ嫁いでいることは、俺にとっては許しがたいことです」
「そのお気持ちはとてもよく分かります]
「実は……光秀殿の名をお聞きしたとき、貴方ならば信長を倒し、妹を……美夜を救うことができるのではないかと考えたのです」
「今のところ、私個人は信長に対して良いとも悪いとも何とも思っていません」
 光秀はあくまでも慎重だった。
「しかしもしも……光秀殿の目から見て信長の存在が危険だと判断されたら……その時は……」
「ええ、その時は私もきっと動くことでしょう」
「厚かましいお願いかもしれませんが、その時が来たなら私も共に連れて行ってもらいたいのです。妹をこの手で救い出したい……剣の修練もそのために始めました」
 雪春が真摯に訴えると、光秀はその意を理解したようで、微笑んで頷いた。
「分かりました。もしも私にそのような時が来ることがあったなら……その時は何としても貴方を連れて行きましょう」
「ありがとうございます。それだけで十分です」
「ただ、あまり過度な期待はしないでください。貴方たちの時代にどう伝わっているかは分かりませんが、私は自分でも自負するほどに慎重な性質たちなのです。勢いで迂闊な行動を取ったりすることはありません」
「分かっています」
「それに、私を支援してくれている叔母を始めとする斉藤家への恩もありますし、斉藤家に刃を向けるような真似もできません。したがって、そうした時期が早く来るという幻想は抱かないでいただきたいのです」
「それも承知しています。ただ、斉藤家にとっても信長が邪魔だとなった時には……」
「ええ、その時にはもう迷う必要はありませんね。織田を討ちます。もちろん、信長も」
 きっぱりと言い切った光秀の言葉に、雪春は少し安堵する。
 しかし、今すぐにでも美夜を救いたいと願う雪春にとっては、かなり気の長い話だった。
(美夜……すまない。今の俺にはこれが精一杯だ……)
 京へ行った牛丸が文観との接触に成功し、元の世界へ戻る方法を手に入れるのが早いか、それとも光秀が信長を討つのが早いか……。
 いずれにしても、相当に時間がかかるということだけは間違いない。
 しかしそれはもう、雪春ではどうしようもないことだった。
「雪春殿、貴方の話はとても興味深かった。これからも、貴方の知る未来の情報を教えてくだされば嬉しい」
「はい。俺の知る情報で光秀殿が知りたいと思うことがあれば、もちろんお話しさせていただきます」
 ひとまず雪春は、光秀に信長への興味を植え付けることに成功した。
 未来に起こる『本能寺の変』を早めることが可能かどうかまでは分からない。
 けれども、そのために必要な布石はうつことができたはずだ。
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