20 / 109
第一章
身代わり濃姫(19)
しおりを挟む
「退け! いったん退けい!」
すでにもう夜は更け、周囲の様子も明らかではない。
清洲城には松明が明々とともり、鎧兜に身を包んだ敵兵たちの姿を映し出す。
信長はまだ手勢のみを出したり引いたりしながら戦っていた。
このやりとりは、もう昼過ぎ頃からずっと続けられていた。
信長たちが清洲を攻めることはすでに城主の信友たちの知るところとなっており、敵は万全の体勢で信長たちを待ち構えていた。
対する信長は、とても城攻めとは思えない少人数での特攻を繰り返している。
「やはりあれはうつけだの」
「ああ、噂に聞いたとおりだ」
「まったく、うつけの遊びに付き合わされるこちらの身にもなってくれ」
昼過ぎから続くこのやりとりに、清洲の兵たちは食傷気味になってきているようだった。
敵があの人数ならば、城から出て一気に抑えてしまえば良いのにという家臣たちの意見を拒んだのは信友だった。
城にこもって守りを固めよというのが信友の命令だ。
いったい何の目的でそのような命令を下したのか、清洲の家臣や兵たちにはまったく理解が不能だった。
夜がさらに更けてくると、清洲の兵たちは完全に油断をし始める。
そのうちに、ちょっと外へ出てちょっかいをかけてやろうと言い出す者が現れるのは自然の流れだったのかもしれない。
運が良ければ、織田家の嫡男の首を取ることができる。常に巧妙の機会を狙い続けるのが、この時代の武士の習いだった。
信長たちの人数の三倍ほどの兵が、夜の闇に紛れて城門から出てくるのが見えた。
「よし、合図を出せ!」
信長がそう命じると、貝が吹かれ、狼煙単語があげられ、何本かの火矢が空高くとんだ。
ぎょっとしたのは、城門から出てきた清洲の兵たちだったに違いない。
先ほどまでは、自分たちをおちょくるように近づいたり遠のいたりを繰り返すだけだった信長たちが、何かの意思を伝えるように貝を吹き、合図を出したのだ。
しかし、すぐに信長たちとの斬り合いが始まり、彼らは城の中に戻る機会を失った。
仕方なく少人数の敵を相手に斬り合いを始めた清洲の兵たちだったが、すぐに異変に気づいた。
まるで地響きのような音が近づいてくるのが聞こえたからだ。
そして、信じられないものでも見たように、清洲の兵たちは目を見開く。
千を越えると思われる敵兵が、城門に向かって突撃して来たからだ。
硬く閉ざされていたはずの城門は、今は開け放たれている。
「し、しまった! 敵の計略だ! 城門を閉ざせ!」
誰かがそう叫んだがもう遅かった。
城門を閉じようとした清洲の兵は、矢に打たれて皆地面に倒れた。
城門は半分開いたまま維持されており、そこから突如として現れた大量の兵が一気に城内になだれ込んでいく。
気がついた時には、城門は完全に破壊されていた。
「よし、俺たちも城内へ行くぞ、光秀」
「はい!」
剣を交わしていた清洲の兵たちをすべて斬り、信長と光秀は美濃の兵たちに混じって城門を突破した。
突然のことに、城内は大混乱になった。
信長たちの人数が少人数だったこともあり、清洲の兵たちは城内に待機はしていたものの、完全に油断していた。
そのうえに、夜の闇も手伝って、敵がいったいどのぐらいの規模なのかも見当が付かないのだ。
自分たちと同数程度の数だと分かっていたなら、もっと冷静に対応できたかもしれないが。
しかし、夜だったのがまずかった。
戦闘準備を完全に整えていた側と、ただ待機していただけの側とでは、人数以上の戦力差ができている。
城内は驚くほどあっけなく制圧された。
ほどなく信友自害の報せが届き、清洲城は信長のものとなった。
那古野城では、夜明け前には信行たちの出陣準備も完全に整っていた。
命令を無視して城を出ようとした者たちもすでに解放され、城門前に待機してている。
夜が明けたら城門を開く――そう告げておいたので、信行たちはおとなしく城門の前に集まっていた。
空の色が少し変わり始めた頃、信行たちを見送るために、美夜も城門へと向かう。
信行とは二度と顔を合わせたくない気持ちはあったが、仮であるとはいえ、城主として見送りに出ないというわけにもいかなかった。
城門の前に信行の姿を見つけ、先刻の出来事を思い出し、美夜はもやもやとした気持ちがこみ上げてくるのを感じる。
(誰も彼の本性を知らないのかしら? それとも、知っていて利用しているだけ?)
美夜に迫ってきた信行は、とうてい皆が口にする品行方正だとか、信長よりも跡目に相応しいなどと言われる信行とは違っていた。
(私なら、本性を見せても簡単にねじ伏せられると舐められていたのかしら……)
たぶんそれが本当のところだろうと美夜は思い、改めてこの世界は嫌な世界だと思った。
美夜が嫌な気持ちを吐き出すようにため息をついたその時、城壁の上で歩哨に立っていた兵が声を上げた。
「信長様です! 信長様が戻って来られました!」
「何――!?」
信行は驚愕するように、声が振ってきた城壁の上を見上げた。
美夜の身体は自然に動いて、城門のほうへ向かって走っていた。
(信長様が生きて戻ってきた……!)
美夜は城門前の信行の兵たちをかき分け、必死に前へ進んだ。
やがて城門が開け放たれると、泥や埃にまみれた信長が馬を下りた。その姿を見ただけで、彼がひと晩、どれだけ激しい戦いをしていたのかが分かる。
そして、信長は死ぬことなく、生きているのだということも。
「信長様……」
生きて戻ってきたその姿を見ることができただけでも、美夜は胸がいっぱいになった。
信長は大丈夫だと自分に言い聞かせてひと晩を必死に耐えたけれども、死の可能性をまったく考えないということはできなかった。
美夜が嫁いできてから信長を戦に送り出すのはこれが初めてのことだった。
城内での殺害未遂という事件は幾度かあったが、戦もまた激しい命のやりとりをする場だ。しかも、信行が来たことで、信長たちが立てていた作戦は急遽大幅な変更を強いられた。
本当は心配で堪らなかった。
でも、信長に城を預けられた以上、それを口に出すことも顔に出すこともできなかった。
その上に、城内での信行や信行家臣たちへの対応もあり、美夜は信長の生死について、考える暇さえ与えてもらえなかった。
(でも、本当に生きて帰ってきた……)
美夜は泥だらけの信長に抱きついた。
「わっ、ま、待て帰蝶。俺は今汚れていてだな……」
信長は慌てたが、すぐに美夜の異変に気づいた。
「そなた、泣いて……おるのか?」
「……当然です」
「また俺が泣かせてしもうたのか……?」
「……その通りです」
「参ったな……」
信長が苦笑する気配がした。
そして、信長も腕を回して美夜の身体を抱きしめる。
「約束通り、俺は戻ってきた。だから、もう泣くな」
「…………」
信長の腕に包まれてその温もりを感じ、美夜はようやく胸の中に安堵感が広がっていくのを感じた。
「兄上、お疲れ様です。夜明けと共に出陣との指示がありましたが、清洲は……?」
「落ちた。信友は自害した」
一瞬、言葉に詰まったような気配が信行から感じられた。
しかし、すぐに信行は満面の笑みを浮かべて信長の勝利を言祝ぐ。
「それはおめでとうございます。私の助力など必要ないと仰られた兄上の言葉は間違いではなかったのですね」
「そなたには足労をかけたな、信行」
「いえ。父上にこのようなめでたい報告ができるのは、喜ばしいことです。では、私はこのまま末森城へ戻るとしましょう」
「そうか。俺からもまた直接ご報告にあがるつもりではあるが、父上によろしく伝えてくれ」
「承知しました。では、義姉上も城の宰領、お疲れ様でした。私はいったん父の元へ戻ります。いずれまた……」
信行はわざわざ美夜に言葉を残すと、自分の兵たちに帰還の指示を出し始める。
「どうした? 身体が震えておるようだが?」
美夜の異変に、信長はすぐに気づいたようだった。
美夜は顔をあげて信長を見る。
(信行のことは、絶対に言えない……言えばきっと大変なことになってしまう……)
「いえ、大丈夫です……」
美夜は微笑んで信長に告げた。
「お、泣き止んだか。それは良かった」
信長は美夜の涙が止まっていることに、安堵したようだった。
美夜としては、信行にかけられた言葉で、我に返ったということもある。敵がすぐそばにまだいるのに、泣いている場合ではないと。
(もう二度と会いたくない人だけど……)
信行が信長の実弟である以上、きっとまた会わなければならない時が来るのだろうと思う。
那古野城を出立した信行は、表面上は平静を装いながらも、腹立たしい気持ちを必死に堪えていた。
(信友が死んだか……使い物にならないやつ……)
本来であれば、信長と信行はともに出陣し、清洲を攻めるという予定だった。
そして、その戦いのさなか、信行の兵と清洲の兵とで信長の命を集中的に狙う作戦だったのだ。
信友が籠城し、兵を一切外に出さなかったのは、信行の到着を待っていたからだろう。
今度こそ、必ず兄を滅ぼすことができると踏んでいた信行は、とんだ計算違いに怒りを抑えることができない。
城を出て信友と連絡を取り合うことができたなら、もっと状況も変わっていたかもしれないが、義姉の帰蝶がそれを許さなかった。
何度も使者を送ろうとしては失敗に終わり、使者役の信行の配下はすべて地下牢に放り込まれた。
夜明け前には全員牢から出されたものの、事が終わってしまってからでは何の役にも立たない。
(ともあれ、義姉上にも、きついお仕置きが必要ですね……)
気がつくと信行は薄く笑っていた。
今後のことに考えを巡らせるのは楽しい。
(義姉上、貴方はそう遠くないうちに、私のものになりますよ……)
(何という人使いの荒い人でしょうね……)
光秀は苦笑しつつ、一任された清洲城内の者たちへの対応に当たっていた。
昨夜は一睡もしておらず、いや、それどころか清洲攻めが決まってから今日までの間もほとんど眠っていないにも関わらず、膨大な量の仕事を押しつけられた。
そのうえに、昨日は何度も突撃と撤退を繰り返す心身共に消耗の激しい戦いが半日以上も続いたのだ。いくら体力には自信のある光秀とはいえ、疲れないわけがない。
そして、当の信長は帰蝶の待つ那古野城へと、馬を飛ばして戻ってしまったのだ。
(まあ、戦に勝ったからよしとしましょうか……眠いですし疲れてもいますが、仕方ありません……清洲はこれから信長にとっても私にとっても、大切な足がかりの場所となるのですから……)
城内の人間を投降する者たちと投降を拒む者たちに分け、投降を拒む者には引き続き説得を続ける。
信長の指示は『信友以外は罰するな』ということだけだった。
その信友はすでに自害して亡く、首の検分も終わっている。
城内のほとんどの者は投降の意思を示したが、信友に近かった家臣の中には投降を頑として拒む者たちがいる。
その中でも有力な家臣などは光秀が直接説得に当たった。
相手の資質を見極めつつ、仕官するための条件などを提示し、少しずつ揺さぶっていく作戦だ。
そうした城内の処理だけではなく、清洲城下の町の整理もある。
しかし、城下の町の者が寝ている間に戦が終わったこともあり、町の者たちは起きたら城主が変わっていたことに驚いたものの、特に大きな混乱はなかったようだ。
光秀は時折襲ってくる強烈な眠気を何とかよそへ追いやりながら、信長に命じられた事後処理に当たり続けた。
すでにもう夜は更け、周囲の様子も明らかではない。
清洲城には松明が明々とともり、鎧兜に身を包んだ敵兵たちの姿を映し出す。
信長はまだ手勢のみを出したり引いたりしながら戦っていた。
このやりとりは、もう昼過ぎ頃からずっと続けられていた。
信長たちが清洲を攻めることはすでに城主の信友たちの知るところとなっており、敵は万全の体勢で信長たちを待ち構えていた。
対する信長は、とても城攻めとは思えない少人数での特攻を繰り返している。
「やはりあれはうつけだの」
「ああ、噂に聞いたとおりだ」
「まったく、うつけの遊びに付き合わされるこちらの身にもなってくれ」
昼過ぎから続くこのやりとりに、清洲の兵たちは食傷気味になってきているようだった。
敵があの人数ならば、城から出て一気に抑えてしまえば良いのにという家臣たちの意見を拒んだのは信友だった。
城にこもって守りを固めよというのが信友の命令だ。
いったい何の目的でそのような命令を下したのか、清洲の家臣や兵たちにはまったく理解が不能だった。
夜がさらに更けてくると、清洲の兵たちは完全に油断をし始める。
そのうちに、ちょっと外へ出てちょっかいをかけてやろうと言い出す者が現れるのは自然の流れだったのかもしれない。
運が良ければ、織田家の嫡男の首を取ることができる。常に巧妙の機会を狙い続けるのが、この時代の武士の習いだった。
信長たちの人数の三倍ほどの兵が、夜の闇に紛れて城門から出てくるのが見えた。
「よし、合図を出せ!」
信長がそう命じると、貝が吹かれ、狼煙単語があげられ、何本かの火矢が空高くとんだ。
ぎょっとしたのは、城門から出てきた清洲の兵たちだったに違いない。
先ほどまでは、自分たちをおちょくるように近づいたり遠のいたりを繰り返すだけだった信長たちが、何かの意思を伝えるように貝を吹き、合図を出したのだ。
しかし、すぐに信長たちとの斬り合いが始まり、彼らは城の中に戻る機会を失った。
仕方なく少人数の敵を相手に斬り合いを始めた清洲の兵たちだったが、すぐに異変に気づいた。
まるで地響きのような音が近づいてくるのが聞こえたからだ。
そして、信じられないものでも見たように、清洲の兵たちは目を見開く。
千を越えると思われる敵兵が、城門に向かって突撃して来たからだ。
硬く閉ざされていたはずの城門は、今は開け放たれている。
「し、しまった! 敵の計略だ! 城門を閉ざせ!」
誰かがそう叫んだがもう遅かった。
城門を閉じようとした清洲の兵は、矢に打たれて皆地面に倒れた。
城門は半分開いたまま維持されており、そこから突如として現れた大量の兵が一気に城内になだれ込んでいく。
気がついた時には、城門は完全に破壊されていた。
「よし、俺たちも城内へ行くぞ、光秀」
「はい!」
剣を交わしていた清洲の兵たちをすべて斬り、信長と光秀は美濃の兵たちに混じって城門を突破した。
突然のことに、城内は大混乱になった。
信長たちの人数が少人数だったこともあり、清洲の兵たちは城内に待機はしていたものの、完全に油断していた。
そのうえに、夜の闇も手伝って、敵がいったいどのぐらいの規模なのかも見当が付かないのだ。
自分たちと同数程度の数だと分かっていたなら、もっと冷静に対応できたかもしれないが。
しかし、夜だったのがまずかった。
戦闘準備を完全に整えていた側と、ただ待機していただけの側とでは、人数以上の戦力差ができている。
城内は驚くほどあっけなく制圧された。
ほどなく信友自害の報せが届き、清洲城は信長のものとなった。
那古野城では、夜明け前には信行たちの出陣準備も完全に整っていた。
命令を無視して城を出ようとした者たちもすでに解放され、城門前に待機してている。
夜が明けたら城門を開く――そう告げておいたので、信行たちはおとなしく城門の前に集まっていた。
空の色が少し変わり始めた頃、信行たちを見送るために、美夜も城門へと向かう。
信行とは二度と顔を合わせたくない気持ちはあったが、仮であるとはいえ、城主として見送りに出ないというわけにもいかなかった。
城門の前に信行の姿を見つけ、先刻の出来事を思い出し、美夜はもやもやとした気持ちがこみ上げてくるのを感じる。
(誰も彼の本性を知らないのかしら? それとも、知っていて利用しているだけ?)
美夜に迫ってきた信行は、とうてい皆が口にする品行方正だとか、信長よりも跡目に相応しいなどと言われる信行とは違っていた。
(私なら、本性を見せても簡単にねじ伏せられると舐められていたのかしら……)
たぶんそれが本当のところだろうと美夜は思い、改めてこの世界は嫌な世界だと思った。
美夜が嫌な気持ちを吐き出すようにため息をついたその時、城壁の上で歩哨に立っていた兵が声を上げた。
「信長様です! 信長様が戻って来られました!」
「何――!?」
信行は驚愕するように、声が振ってきた城壁の上を見上げた。
美夜の身体は自然に動いて、城門のほうへ向かって走っていた。
(信長様が生きて戻ってきた……!)
美夜は城門前の信行の兵たちをかき分け、必死に前へ進んだ。
やがて城門が開け放たれると、泥や埃にまみれた信長が馬を下りた。その姿を見ただけで、彼がひと晩、どれだけ激しい戦いをしていたのかが分かる。
そして、信長は死ぬことなく、生きているのだということも。
「信長様……」
生きて戻ってきたその姿を見ることができただけでも、美夜は胸がいっぱいになった。
信長は大丈夫だと自分に言い聞かせてひと晩を必死に耐えたけれども、死の可能性をまったく考えないということはできなかった。
美夜が嫁いできてから信長を戦に送り出すのはこれが初めてのことだった。
城内での殺害未遂という事件は幾度かあったが、戦もまた激しい命のやりとりをする場だ。しかも、信行が来たことで、信長たちが立てていた作戦は急遽大幅な変更を強いられた。
本当は心配で堪らなかった。
でも、信長に城を預けられた以上、それを口に出すことも顔に出すこともできなかった。
その上に、城内での信行や信行家臣たちへの対応もあり、美夜は信長の生死について、考える暇さえ与えてもらえなかった。
(でも、本当に生きて帰ってきた……)
美夜は泥だらけの信長に抱きついた。
「わっ、ま、待て帰蝶。俺は今汚れていてだな……」
信長は慌てたが、すぐに美夜の異変に気づいた。
「そなた、泣いて……おるのか?」
「……当然です」
「また俺が泣かせてしもうたのか……?」
「……その通りです」
「参ったな……」
信長が苦笑する気配がした。
そして、信長も腕を回して美夜の身体を抱きしめる。
「約束通り、俺は戻ってきた。だから、もう泣くな」
「…………」
信長の腕に包まれてその温もりを感じ、美夜はようやく胸の中に安堵感が広がっていくのを感じた。
「兄上、お疲れ様です。夜明けと共に出陣との指示がありましたが、清洲は……?」
「落ちた。信友は自害した」
一瞬、言葉に詰まったような気配が信行から感じられた。
しかし、すぐに信行は満面の笑みを浮かべて信長の勝利を言祝ぐ。
「それはおめでとうございます。私の助力など必要ないと仰られた兄上の言葉は間違いではなかったのですね」
「そなたには足労をかけたな、信行」
「いえ。父上にこのようなめでたい報告ができるのは、喜ばしいことです。では、私はこのまま末森城へ戻るとしましょう」
「そうか。俺からもまた直接ご報告にあがるつもりではあるが、父上によろしく伝えてくれ」
「承知しました。では、義姉上も城の宰領、お疲れ様でした。私はいったん父の元へ戻ります。いずれまた……」
信行はわざわざ美夜に言葉を残すと、自分の兵たちに帰還の指示を出し始める。
「どうした? 身体が震えておるようだが?」
美夜の異変に、信長はすぐに気づいたようだった。
美夜は顔をあげて信長を見る。
(信行のことは、絶対に言えない……言えばきっと大変なことになってしまう……)
「いえ、大丈夫です……」
美夜は微笑んで信長に告げた。
「お、泣き止んだか。それは良かった」
信長は美夜の涙が止まっていることに、安堵したようだった。
美夜としては、信行にかけられた言葉で、我に返ったということもある。敵がすぐそばにまだいるのに、泣いている場合ではないと。
(もう二度と会いたくない人だけど……)
信行が信長の実弟である以上、きっとまた会わなければならない時が来るのだろうと思う。
那古野城を出立した信行は、表面上は平静を装いながらも、腹立たしい気持ちを必死に堪えていた。
(信友が死んだか……使い物にならないやつ……)
本来であれば、信長と信行はともに出陣し、清洲を攻めるという予定だった。
そして、その戦いのさなか、信行の兵と清洲の兵とで信長の命を集中的に狙う作戦だったのだ。
信友が籠城し、兵を一切外に出さなかったのは、信行の到着を待っていたからだろう。
今度こそ、必ず兄を滅ぼすことができると踏んでいた信行は、とんだ計算違いに怒りを抑えることができない。
城を出て信友と連絡を取り合うことができたなら、もっと状況も変わっていたかもしれないが、義姉の帰蝶がそれを許さなかった。
何度も使者を送ろうとしては失敗に終わり、使者役の信行の配下はすべて地下牢に放り込まれた。
夜明け前には全員牢から出されたものの、事が終わってしまってからでは何の役にも立たない。
(ともあれ、義姉上にも、きついお仕置きが必要ですね……)
気がつくと信行は薄く笑っていた。
今後のことに考えを巡らせるのは楽しい。
(義姉上、貴方はそう遠くないうちに、私のものになりますよ……)
(何という人使いの荒い人でしょうね……)
光秀は苦笑しつつ、一任された清洲城内の者たちへの対応に当たっていた。
昨夜は一睡もしておらず、いや、それどころか清洲攻めが決まってから今日までの間もほとんど眠っていないにも関わらず、膨大な量の仕事を押しつけられた。
そのうえに、昨日は何度も突撃と撤退を繰り返す心身共に消耗の激しい戦いが半日以上も続いたのだ。いくら体力には自信のある光秀とはいえ、疲れないわけがない。
そして、当の信長は帰蝶の待つ那古野城へと、馬を飛ばして戻ってしまったのだ。
(まあ、戦に勝ったからよしとしましょうか……眠いですし疲れてもいますが、仕方ありません……清洲はこれから信長にとっても私にとっても、大切な足がかりの場所となるのですから……)
城内の人間を投降する者たちと投降を拒む者たちに分け、投降を拒む者には引き続き説得を続ける。
信長の指示は『信友以外は罰するな』ということだけだった。
その信友はすでに自害して亡く、首の検分も終わっている。
城内のほとんどの者は投降の意思を示したが、信友に近かった家臣の中には投降を頑として拒む者たちがいる。
その中でも有力な家臣などは光秀が直接説得に当たった。
相手の資質を見極めつつ、仕官するための条件などを提示し、少しずつ揺さぶっていく作戦だ。
そうした城内の処理だけではなく、清洲城下の町の整理もある。
しかし、城下の町の者が寝ている間に戦が終わったこともあり、町の者たちは起きたら城主が変わっていたことに驚いたものの、特に大きな混乱はなかったようだ。
光秀は時折襲ってくる強烈な眠気を何とかよそへ追いやりながら、信長に命じられた事後処理に当たり続けた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
389
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる