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第十話 約束の行方 — Where Promises Lead(最終回)
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一ヶ月が過ぎた。
あの夜、逃れられない熱の底で繰り返した約束は、朝の光に冷めることなく、生活の細部に染みていった。
互いの部屋を行き来する日々。冷蔵庫の中に並ぶ同じブランドのヨーグルト、歯ブラシは二本、洗濯機の上には同じ柔軟剤のボトル。
――同棲じゃない。けれど、どちらの部屋にも、いつももう一人の気配があった。
外に出れば、世界は忙しく動いている。
休日の昼、ふたりで商店街を歩いていると、背後から弾んだ声が跳ねた。
「HARUTOくんですよね!? 写真いいですか!」
陽翔が振り返る。眩しそうに目を細め、いつもの不器用な笑顔で頷いた。
「ありがとうございます。じゃあ一枚だけ」
彼は丁寧に距離を取り、ファンのスマホに合わせて軽くポーズを作る。もう一人が気づけば、自然と輪が生まれる。通りのガラスに映る自分の姿は、滑稽なほど固く見えた。
人波から抜けたところで、俺は言った。
「……最近は顔、知られてるな。どこで誰に見られてるか分からない」
「うん。増えた」
「じゃあさ、外で会うのは控えたほうが――互いの部屋で会うほうがいいんじゃないか。男が恋人だって、ばれたら……」
言い終える前に、陽翔は俺の手を取った。人目の少ない路地に入ってから、指を絡める。
「別に、ばれてもいい。カミングアウトすればいいだけだろ」
「そんな簡単な話じゃない。仕事に影響が――」
「影響が出たら、その時にまた考える。……俺は、悠真のほうが大事だから」
静かな声だった。強がりではなく、決めている人間の声音。
「でも、お前の未来は、俺なんかより広い」
「“俺なんか”って言うなよ」
陽翔は絡めた指を、ぎゅっと握った。
「俺は選んでる。誰に見られても、隣にいてほしい人を」
そして、俺の三十路の誕生日が来た。
仕事から戻ると、部屋はいつもより明るかった。LEDの間接照明が壁に柔らかな影を作り、テーブルには一枚のメニューカード。
《HAPPY 30th, YUUMA》
《今夜のコース》
・生姜と大葉の鶏団子スープ
・胡瓜と茗荷の浅漬け
・出汁巻き
・特製オムライス “30”
・小さな苺のショートケーキ
思わず笑った。
陽翔はエプロン姿で、真剣な顔のままウインクした。
さすがにプロのモデルだけあって、ウィンクも嫌みなくサマになっている。
陽翔が作ってくれた手料理は、派手さはないものの、ひとつひとつが丁寧に作られているのが分かる味で、とてもおいしかった。
しっかり俺の好みを理解してくれているのも嬉しい。
食後、苺の小さなケーキのろうそくに火を灯す。
「願いごと、して」
俺はろうそくを見つめ、短く息を吹いた。
「何、願った?」
「内緒だ」
「ずるい」
「じゃあ、お前は」
「俺? “離れない”」
「願いごとじゃなくて、宣言だな」
「うん。宣言」
言葉の端が、わずかに震えていた。
プレゼントは、食器棚の上に置かれていた。黒い布製の小さな箱。開けると、中には細い革紐と、真鍮色のリングが一つ。
「キーホルダー?」
「うん。こっちの部屋の鍵を、それにつけて。俺の部屋の鍵と色違い。――“行き来自由”の印」
胸の奥が、きゅっとなった。
「……ありがとう。受け取る」
鍵を通すと、リングが小さく鳴った。あの歌詞みたいに、ドアが遠くでノックされる音が脳裏で蘇る。俺はもう、締め出されない。
◆
食器を片付けて、灯りをひとつ落とす。
「誕生日プレゼント、もうひとつある」
「まだあるのか」
「うん。こっちは、“今”しか渡せないやつ」
陽翔が一歩、近づいた。
誕生日の夜のキスは、祝福ではじまり、祈りで深くなる。舌先が触れ合うところから、体の温度は簡単に昔を思い出し、もっと奥を求める。指がシャツの裾から滑り込み、背中に回って、肌のきめを確かめるようにゆっくりと撫でた。
「三十路のドア、叩かれた気分は?」
「もう開けた」
三十路を迎えることが、こんなに複雑な気持ちになるとは思わなかった。
祝ってもらえる喜びの一方で、年下の陽翔と比べてしまう自分がいる。
――でも、向かい合って笑う彼の顔がある限り、この歳を迎えたことを後悔したくはない。
「じゃあ、入るね」
悪戯っぽく笑って、真剣な目に戻る。その二拍の切り替えが、どうしようもなく好きだった。
唇が再び深く重ねられる。今度は単なるキスじゃない。互いの存在を確かめ、所有を宣言するような、深く、長い口づけ。シャツのボタンを一つ一つ外す指つきは、焦るでもなく、ためらうでもなく、ただ当然のように俺の肌を暴いていく。
布がはだけるたびに、部屋の空気が肌に触れ、陽翔の視線がそこに落ちるのを感じて体が熱くなった。
ベッドサイドの常夜灯が、輪郭にだけ色を置く。
ゆっくりと、慎重に、しかし貪欲に。互いの場所を覚えている指先が、記憶の奥を探り当てるたび、今夜の音に上書きされていく。陽翔の唇が、俺の首筋から鎖骨へと滑り、甘く肌を食む。そのたびに、背筋に痺れるような快感が走った。
「悠真、きれいだ…」
吐息混じりの声が、耳元で囁かれる。
もうどちらからともなく、互いのすべてを剥がし取っていく。完全に肌と肌が触れ合った瞬間、体の隙間に陽翔がするりと降りて来た。
「痛くない?」
「大丈夫。お前がいるから」
息を飲む音が耳のすぐそばで震え、額と額が触れる。陽翔の指が、俺の奥を優しく探り、準備ができたことを確かめる。その丁寧な愛撫に、不安など入り込む隙はなかった。
ゆっくりと沈んでくる熱に、背中が弓なりに反る。一気に貫くのではなく、俺の体が受け入れるのを確かめるように、少しずつ、深く。体の芯が熱いもので満たされていく感覚に、思わず声が漏れた。
「……はるとっ…」
「ここにいるよ、悠真」
完全に繋がりきったところで、陽翔は一度動きを止めた。ただ深く結合したまま、俺の髪を優しく撫でる。その静かな時間が、かえって体の奥を疼かせた。
やがて、ゆっくりと腰が動き出す。浅く引いては、深く届く。長い息の波が二人を同じリズムに揃え、名前がこぼれるたび、夜が濃くなる。
「悠真、見て」
言われるままに視線を合わせる。汗で濡れた陽翔の瞳の奥に、あの夜の不安はもういない。代わりにいるのは、俺だけを選び続ける、燃えるような強さだけ。
「……好きだ」
単純すぎるその言葉に、心が一瞬、無防備になる。体の奥が、きゅんと締め付けられた。
「俺もだ」
応えると、陽翔の腰が一際深く沈み、世界が一度反転した。そこからはもう、理性の箍が外れる。互いを求めるままに、腰を突き上げ、受け入れる。幾度も、幾度も。シーツを握りしめる指が、いつしか陽翔の背中を掻いていた。
限界の縁で、陽翔が俺の手を取り、指を強く絡めた。
「離れない」
「……あぁ」
その言葉が合図だった。零れ落ちる熱に、視界が白く滲む。体の奥深くで熱い奔流が放たれ、全身の力が抜けていく。指の間に、未来の断片みたいな明滅が見えた。
快楽に沈む瞬間、未来の不安も焦燥も、すべて同じ熱に溶かされていく。
――世界がどう変わっても、この瞬間だけは確かだ。
体の奥に刻まれる熱が、「共に歩く」という約束の証のように思えた。
◆
しばらくして、重なる呼吸だけが部屋に残った。
汗のにじむ額に、陽翔が口づけを落とす。指を絡めたまま、彼が目を細める。
「誕生日、おめでとう」
「……最高の祝福だ」
「明日、早い?」
「午後から」
眠りに落ちる前、ふと不安が首をもたげた。
この寝顔も、いつか遠いどこかへ行ってしまうのではないか。取材、海外、もっと大きな仕事。
「……陽翔」
「ん」
「不安になる。勝手に」
陽翔は目を開け、俺の不安をじっと見た。
「不安は、消さないでいい。持ったままで並べばいい。俺が右に立つから、悠真は左」
「左右、決まってるのか」
「写真の構図、バランスね。慣れてるほうが、ブレない」
くだらない理屈に笑いながら、胸の芯がじんわりと温かくなる。
「それ、続けられるか?」
「続ける。続けたい、じゃなくてね。続ける」
言い切る声は、静かで強い。
朝。
出汁の匂いに起こされた俺は、キッチンに立つ陽翔の背中を眺めた。鍋の前に置かれたスマホがぶるぶると震える。
撮影、掲載、イベントの通知。
スマホの画面には、国内雑誌の撮影スケジュールに混ざって、英語の通知が一瞬だけ映った。
《海外ブランドの広告撮影オファー》
指がそれを隠すように画面を伏せるのを、俺は見逃さなかった。
――彼の世界は、本当にもう俺の知らないところまで広がり始めている。
陽翔は一度だけ画面を伏せ、火加減に目を戻した。
「大丈夫か」
「大丈夫。今は味噌汁に集中」
湯気の向こうで笑うその横顔に、世界の喧騒が一瞬だけ遠のいた。
食後、玄関のフックに新しいキーホルダーをかける。俺の鍵。真鍮のリングが陽光を受けて小さく光る。その隣には、色違いの革紐に通された陽翔の鍵。二本の鍵が、ぶつかり合って音を立てた。
「音、覚えた」
「俺も」
靴紐を結ぶ陽翔に言う。
「今日は寄れそうか」
「夜、遅くなる。でも、寄る。少しでも」
「少しでいい」
「少しじゃ嫌だ、って言うかと思った」
「少しでも、が積み重なるほうが、本物になる」
「うん、分かる」
ドアを開けると、朝の光が廊下を満たしていた。
行ってきます、の代わりに短いキスをする。
陽翔はエレベーターのほうへ歩き出し、数歩のところで振り返った。
「ねぇ、悠真」
「何だ」
「約束の行方、どこにあると思う?」
少し考えて、答える。
「たぶん、次の“ただいま”の中」
陽翔は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今夜、持って帰る」
「頼む」
閉まりかけのドアの隙間から、彼の背中が朝の光に溶ける。
未来は相変わらず曖昧で、世界は俺たちの都合を待ってはくれない。
それでも――
テーブルの上には昨夜のメニューカードが残り、キッチンには出汁の匂いがあり、玄関には二本の鍵が並んでいる。
そして、胸の内側には、何度も口にして形になった言葉がある。
離れない。
“今は”じゃなくて、“これからも”。
約束の行方は、誰かの掌の中にあるものじゃない。
俺たちが今日の扉を開ける音の、そのすぐ先にある。
鍵が小さく鳴った。
次の「ただいま」までの短い距離を、俺はゆっくりと歩き始めた。
**************
陽翔 × 悠真 編は今回で最終回です!
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
楽曲「約束の行方 — Where Promises Lead」も配信中ですので、良かったら音楽の方も聴いてみてくださいね♫
「約束の行方 — Where Promises Lead」はこちら⇒ https://youtu.be/I5tRBRYsf10
あの夜、逃れられない熱の底で繰り返した約束は、朝の光に冷めることなく、生活の細部に染みていった。
互いの部屋を行き来する日々。冷蔵庫の中に並ぶ同じブランドのヨーグルト、歯ブラシは二本、洗濯機の上には同じ柔軟剤のボトル。
――同棲じゃない。けれど、どちらの部屋にも、いつももう一人の気配があった。
外に出れば、世界は忙しく動いている。
休日の昼、ふたりで商店街を歩いていると、背後から弾んだ声が跳ねた。
「HARUTOくんですよね!? 写真いいですか!」
陽翔が振り返る。眩しそうに目を細め、いつもの不器用な笑顔で頷いた。
「ありがとうございます。じゃあ一枚だけ」
彼は丁寧に距離を取り、ファンのスマホに合わせて軽くポーズを作る。もう一人が気づけば、自然と輪が生まれる。通りのガラスに映る自分の姿は、滑稽なほど固く見えた。
人波から抜けたところで、俺は言った。
「……最近は顔、知られてるな。どこで誰に見られてるか分からない」
「うん。増えた」
「じゃあさ、外で会うのは控えたほうが――互いの部屋で会うほうがいいんじゃないか。男が恋人だって、ばれたら……」
言い終える前に、陽翔は俺の手を取った。人目の少ない路地に入ってから、指を絡める。
「別に、ばれてもいい。カミングアウトすればいいだけだろ」
「そんな簡単な話じゃない。仕事に影響が――」
「影響が出たら、その時にまた考える。……俺は、悠真のほうが大事だから」
静かな声だった。強がりではなく、決めている人間の声音。
「でも、お前の未来は、俺なんかより広い」
「“俺なんか”って言うなよ」
陽翔は絡めた指を、ぎゅっと握った。
「俺は選んでる。誰に見られても、隣にいてほしい人を」
そして、俺の三十路の誕生日が来た。
仕事から戻ると、部屋はいつもより明るかった。LEDの間接照明が壁に柔らかな影を作り、テーブルには一枚のメニューカード。
《HAPPY 30th, YUUMA》
《今夜のコース》
・生姜と大葉の鶏団子スープ
・胡瓜と茗荷の浅漬け
・出汁巻き
・特製オムライス “30”
・小さな苺のショートケーキ
思わず笑った。
陽翔はエプロン姿で、真剣な顔のままウインクした。
さすがにプロのモデルだけあって、ウィンクも嫌みなくサマになっている。
陽翔が作ってくれた手料理は、派手さはないものの、ひとつひとつが丁寧に作られているのが分かる味で、とてもおいしかった。
しっかり俺の好みを理解してくれているのも嬉しい。
食後、苺の小さなケーキのろうそくに火を灯す。
「願いごと、して」
俺はろうそくを見つめ、短く息を吹いた。
「何、願った?」
「内緒だ」
「ずるい」
「じゃあ、お前は」
「俺? “離れない”」
「願いごとじゃなくて、宣言だな」
「うん。宣言」
言葉の端が、わずかに震えていた。
プレゼントは、食器棚の上に置かれていた。黒い布製の小さな箱。開けると、中には細い革紐と、真鍮色のリングが一つ。
「キーホルダー?」
「うん。こっちの部屋の鍵を、それにつけて。俺の部屋の鍵と色違い。――“行き来自由”の印」
胸の奥が、きゅっとなった。
「……ありがとう。受け取る」
鍵を通すと、リングが小さく鳴った。あの歌詞みたいに、ドアが遠くでノックされる音が脳裏で蘇る。俺はもう、締め出されない。
◆
食器を片付けて、灯りをひとつ落とす。
「誕生日プレゼント、もうひとつある」
「まだあるのか」
「うん。こっちは、“今”しか渡せないやつ」
陽翔が一歩、近づいた。
誕生日の夜のキスは、祝福ではじまり、祈りで深くなる。舌先が触れ合うところから、体の温度は簡単に昔を思い出し、もっと奥を求める。指がシャツの裾から滑り込み、背中に回って、肌のきめを確かめるようにゆっくりと撫でた。
「三十路のドア、叩かれた気分は?」
「もう開けた」
三十路を迎えることが、こんなに複雑な気持ちになるとは思わなかった。
祝ってもらえる喜びの一方で、年下の陽翔と比べてしまう自分がいる。
――でも、向かい合って笑う彼の顔がある限り、この歳を迎えたことを後悔したくはない。
「じゃあ、入るね」
悪戯っぽく笑って、真剣な目に戻る。その二拍の切り替えが、どうしようもなく好きだった。
唇が再び深く重ねられる。今度は単なるキスじゃない。互いの存在を確かめ、所有を宣言するような、深く、長い口づけ。シャツのボタンを一つ一つ外す指つきは、焦るでもなく、ためらうでもなく、ただ当然のように俺の肌を暴いていく。
布がはだけるたびに、部屋の空気が肌に触れ、陽翔の視線がそこに落ちるのを感じて体が熱くなった。
ベッドサイドの常夜灯が、輪郭にだけ色を置く。
ゆっくりと、慎重に、しかし貪欲に。互いの場所を覚えている指先が、記憶の奥を探り当てるたび、今夜の音に上書きされていく。陽翔の唇が、俺の首筋から鎖骨へと滑り、甘く肌を食む。そのたびに、背筋に痺れるような快感が走った。
「悠真、きれいだ…」
吐息混じりの声が、耳元で囁かれる。
もうどちらからともなく、互いのすべてを剥がし取っていく。完全に肌と肌が触れ合った瞬間、体の隙間に陽翔がするりと降りて来た。
「痛くない?」
「大丈夫。お前がいるから」
息を飲む音が耳のすぐそばで震え、額と額が触れる。陽翔の指が、俺の奥を優しく探り、準備ができたことを確かめる。その丁寧な愛撫に、不安など入り込む隙はなかった。
ゆっくりと沈んでくる熱に、背中が弓なりに反る。一気に貫くのではなく、俺の体が受け入れるのを確かめるように、少しずつ、深く。体の芯が熱いもので満たされていく感覚に、思わず声が漏れた。
「……はるとっ…」
「ここにいるよ、悠真」
完全に繋がりきったところで、陽翔は一度動きを止めた。ただ深く結合したまま、俺の髪を優しく撫でる。その静かな時間が、かえって体の奥を疼かせた。
やがて、ゆっくりと腰が動き出す。浅く引いては、深く届く。長い息の波が二人を同じリズムに揃え、名前がこぼれるたび、夜が濃くなる。
「悠真、見て」
言われるままに視線を合わせる。汗で濡れた陽翔の瞳の奥に、あの夜の不安はもういない。代わりにいるのは、俺だけを選び続ける、燃えるような強さだけ。
「……好きだ」
単純すぎるその言葉に、心が一瞬、無防備になる。体の奥が、きゅんと締め付けられた。
「俺もだ」
応えると、陽翔の腰が一際深く沈み、世界が一度反転した。そこからはもう、理性の箍が外れる。互いを求めるままに、腰を突き上げ、受け入れる。幾度も、幾度も。シーツを握りしめる指が、いつしか陽翔の背中を掻いていた。
限界の縁で、陽翔が俺の手を取り、指を強く絡めた。
「離れない」
「……あぁ」
その言葉が合図だった。零れ落ちる熱に、視界が白く滲む。体の奥深くで熱い奔流が放たれ、全身の力が抜けていく。指の間に、未来の断片みたいな明滅が見えた。
快楽に沈む瞬間、未来の不安も焦燥も、すべて同じ熱に溶かされていく。
――世界がどう変わっても、この瞬間だけは確かだ。
体の奥に刻まれる熱が、「共に歩く」という約束の証のように思えた。
◆
しばらくして、重なる呼吸だけが部屋に残った。
汗のにじむ額に、陽翔が口づけを落とす。指を絡めたまま、彼が目を細める。
「誕生日、おめでとう」
「……最高の祝福だ」
「明日、早い?」
「午後から」
眠りに落ちる前、ふと不安が首をもたげた。
この寝顔も、いつか遠いどこかへ行ってしまうのではないか。取材、海外、もっと大きな仕事。
「……陽翔」
「ん」
「不安になる。勝手に」
陽翔は目を開け、俺の不安をじっと見た。
「不安は、消さないでいい。持ったままで並べばいい。俺が右に立つから、悠真は左」
「左右、決まってるのか」
「写真の構図、バランスね。慣れてるほうが、ブレない」
くだらない理屈に笑いながら、胸の芯がじんわりと温かくなる。
「それ、続けられるか?」
「続ける。続けたい、じゃなくてね。続ける」
言い切る声は、静かで強い。
朝。
出汁の匂いに起こされた俺は、キッチンに立つ陽翔の背中を眺めた。鍋の前に置かれたスマホがぶるぶると震える。
撮影、掲載、イベントの通知。
スマホの画面には、国内雑誌の撮影スケジュールに混ざって、英語の通知が一瞬だけ映った。
《海外ブランドの広告撮影オファー》
指がそれを隠すように画面を伏せるのを、俺は見逃さなかった。
――彼の世界は、本当にもう俺の知らないところまで広がり始めている。
陽翔は一度だけ画面を伏せ、火加減に目を戻した。
「大丈夫か」
「大丈夫。今は味噌汁に集中」
湯気の向こうで笑うその横顔に、世界の喧騒が一瞬だけ遠のいた。
食後、玄関のフックに新しいキーホルダーをかける。俺の鍵。真鍮のリングが陽光を受けて小さく光る。その隣には、色違いの革紐に通された陽翔の鍵。二本の鍵が、ぶつかり合って音を立てた。
「音、覚えた」
「俺も」
靴紐を結ぶ陽翔に言う。
「今日は寄れそうか」
「夜、遅くなる。でも、寄る。少しでも」
「少しでいい」
「少しじゃ嫌だ、って言うかと思った」
「少しでも、が積み重なるほうが、本物になる」
「うん、分かる」
ドアを開けると、朝の光が廊下を満たしていた。
行ってきます、の代わりに短いキスをする。
陽翔はエレベーターのほうへ歩き出し、数歩のところで振り返った。
「ねぇ、悠真」
「何だ」
「約束の行方、どこにあると思う?」
少し考えて、答える。
「たぶん、次の“ただいま”の中」
陽翔は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今夜、持って帰る」
「頼む」
閉まりかけのドアの隙間から、彼の背中が朝の光に溶ける。
未来は相変わらず曖昧で、世界は俺たちの都合を待ってはくれない。
それでも――
テーブルの上には昨夜のメニューカードが残り、キッチンには出汁の匂いがあり、玄関には二本の鍵が並んでいる。
そして、胸の内側には、何度も口にして形になった言葉がある。
離れない。
“今は”じゃなくて、“これからも”。
約束の行方は、誰かの掌の中にあるものじゃない。
俺たちが今日の扉を開ける音の、そのすぐ先にある。
鍵が小さく鳴った。
次の「ただいま」までの短い距離を、俺はゆっくりと歩き始めた。
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陽翔 × 悠真 編は今回で最終回です!
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
楽曲「約束の行方 — Where Promises Lead」も配信中ですので、良かったら音楽の方も聴いてみてくださいね♫
「約束の行方 — Where Promises Lead」はこちら⇒ https://youtu.be/I5tRBRYsf10
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