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第二章 斜陽の日々

8. 薔薇と少女

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 ラルフがアンドレア家に来て、幾許かの時が流れた。
 その間に「ルディ」の咲かせ方もフランス語もある程度わかるようになり、声色も少年のものではなくなった。

「ラルフ、ちょっといいかな」
「あ、はい!何ですか兄さん」

 そして、義理とはいえジョゼフとの兄弟仲も良好と言えた。



「お兄様、なんだかんだ男兄弟と遊べて嬉しいのよ。……立場上、ジャンとお兄様はなかなか遊べないもの」

 ラルフと入れ替わるように部屋を訪れたソフィは独り言のように、それでも確かに傍らの薔薇に語りかけていた。
 言葉を身につけていたのは、何もラルフだけではない。

『……え?』
「あら、いつまでだんまりを決め込むのかと思っていたわ。可愛らしい守護者さん」

 いたずらっぽく微笑みながら、少女はベッドに腰掛ける。

『……まさか、気づいていたとは』
「ふふ、こう見えてもそういうのには敏感なの。それに……むしろ、ラルフお兄様よりよくはずよ?」

 くすくすと笑いながら、ソフィはペンと手帳を取り出した。サラサラとペンを走らせると、小さな絵が出来上がっていく。

「ジャンの劇団にも女優さんはいるけど……幽霊のとは始めて話すわ」

 手帳の中では、長髪の少女が薔薇の傍らに立っている。

『……!これは……予想外でした』
「あなたの名前は?」
『ルディ……です。ラルフ様からいただきました』
「あら、本当の名前を聞いてるのに」
『今は、これが本来の名です。私が生きた時代はとうに過ぎましたので』

 その言葉に、ソフィの目がさらに輝いた。

「まあ、いつの時代の人なの!?」
「……魔女狩りの時代……と、呼べるかと』
「それって、確か200年くらいは前よね!?そんな時代の子と話せるなんて!」

 声を弾ませるソフィに、ルディは戸惑った。
 ラルフも、自分が「薔薇の精霊」でなく、「薔薇を依代としてこの世に存在している亡霊」だとは察しているだろう。だが、ルディと名付けた「彼女」自身のことには踏み込んでこなかった。
 ……そもそも、性別を誤って認識している可能性も高いが……。

『女の子……と言われましても……実感が持てませんね……』
「あら、そうなの?綺麗な銀髪の女の子に見えるわよ?」
『まあ……聖女と呼ばれたことはありましたが、そもそも生きた時代ですら、通俗と交わっては来なかったのです』
「聖女様!そんな人がラルフお兄様を守っていたのね!」

 キラキラと瞳を輝かせるソフィに、ルディはどう対応していいのかわからない。
 確かに、過去に仲の良い友人はいた。されど……200年は昔の話だ。

「どうして、薔薇になっているの?」
『……友人を、待っていました』
「お友達を……。でも、遠くに来てしまってるわ」
『再会はできたのです。……彼は……彼女だったかもしれませんが、何度も私の元に訪れてくれました。ツバメや、カラスとして……私の元に』

 傷を負って瀕死になっても、かつての友はルディのそばにいてくれた。動けないルディの元に、何度も何度も鳥として飛んできてくれた。
 それがルディにはたまらなく嬉しくて、同時に、悲しかった。

『……ラルフ様は、私のかけがえのない友のために、祈ってくださった。はるか昔の話です。友の声も、顔も、名前も……男か女だったかすら、もう覚えていません。再会の約束をしたことだけしか……』

「必ず会いに行く」と、告げられた記憶がある。
「絶対に忘れない」と、告げた記憶もある。

「そう……その子はきっと、再会して、またおしゃべりしたかったのね」

 鳥が何を言っているのか、ルディには分からなかった。
 けれど、何度も自分の前に現れては、あらゆる鳴き声で何かを伝えようとしてくるのだ。
 ……異なる解釈をする方が、難しかった。

『…………言葉を交わすことは、時を経てもついぞできませんでした。それでも……ラルフ様は、何も知らずとも介錯してくださった。そして、祈ってくださった。それが、どれほど……有難かったか』

 いつもより、口数がずいぶんと多くなる。ラルフには決して語らない、昔話。語ってしまえば、ラルフはカラスの介錯を再び申し訳なく思うだろう。
 ソフィはルディの話を真剣に頷きながら、わずかに瞳を潤ませていた。

『……ラルフ様には、ご内密に』
「そうね、私とあなただけの秘密ってことかしら」
『ええ……そうですね。ソフィ様』

 穏やかな空気が、薔薇と少女を包み込む。
 窓から差し込む日差しが、金の髪をきらきらと飾る。隣に移動した銀の髪を、ソフィは確かに見つめていた。

「ソフィでいいわ。……そうそう。あなたも時々劇団に来ていたわよね?ラルフお兄様が心配だったの?」
『それもありますが……演劇、というものが気になりまして。発声練習に使っているのが過去の劇作家のものだとは分かったのですが、他の内容は見たことがなく……』

 発声練習に使うには、長ゼリフが多く丁度いい題材だ……と、いつしかジャンが語っていた。

「そうね。最近は私が書いた脚本もよく演じてもらってるわ」
『……!なんと!では、英雄イーグロウの叙事詩や、賢者ストゥリビアの物語は……』
「私の作品よ。最近の舞台はね、俳優をメインにして脚本を書くの。だから……そこにいる俳優さんや女優さんが映えるように……そう、ね、例えるならジャンに似合う役割を、私が考えてるの」

 名を呼ぶ声に滲んだ「何か」をルディは経験したことがない。だが、ジャンという存在が彼女の中で特別だということはよく分かった。  

「……あなたには、気に入った俳優はいて?」
『強いて言うのなら……アルマン、という方ですね』
「ジャンの大親友ね。まあ彼、大根だから……基本は道具係よ?私と同じで貴族の道楽ってとこかしら」

 膨らませた頬からは、まだ幼さの残るヤキモチがよく伝わってくる。

『そうですね。確かに普段の役はあまり……。ですが、カーク、という役割を演じた姿が、良いものでした』

 童話をモチーフにした作品で、主人公である王子の従者として登場した青年の名だ。

「あの役、確かにぴったりだったわね。補佐役……というか……脇役、かしら」
『ええ、ですが、慣れないながらも懸命に演じているな、と……』
「アルマンに伝えておくわ。知り合いの女の子からの声援だって。何はともあれ、聖女様が劇団アーネのファンになってくれるなんて、とても光栄なことね」
『……いいえ、私は聖女ではありません。信心深い私を、他の村人がそう呼んだだけです』

 名もない村の、名もない村娘。
 されど、村人達にとって、確かに彼女は聖女だった。
 神聖さを脅かす存在を、悪と断ずるほどに。

「そう。なら、聖女様じゃなくて、ルディって呼ぶわ」
『ありがとう、ソフィ』

 窓の外で、ジョゼフとラルフがソフィに向かって手を振ったのが見えた。軽く振り返してから、ソフィは、ふっと目を伏せる。

「……私、女優になりたいんだとお父様には誤解されているけど……物語を書くほうが好きなのよ。アルマンにお願いして、いつか、きちんと何かを発表する時は名前を使わせてもらうことにしてる」

 女性の本なんて売れるわけないもの、と、呟いたのが聞こえた。

『……それがどんな本であれ……ソフィの本であることに違いはない。私は楽しみにしている』

 心を許したのか、ルディは、久方ぶりに「友」に語りかけるかのように話した。

「まあ、思ったより凛々しい口調なのね、ルディ」
『村の教会で、傷ついた騎士を保護したことがあったはずだ。……実は、砕けた話し方をするには昔から相手があまりいなくてな……』
「いいと思うわ。もしかして、騎士さんに憧れていたの?」
『騎士になりたかった……というとまた違うが……確か、彼らの想いには共感したはずだ。それに、神への信仰は同じだった』

 ルディの声色は、どこか弾んでいた。

「冷たい雰囲気の子だと思っていたけど……案外面白いのね」
『何事も警戒するに越したことはない。私の目的は、ラルフ様を守ることなのだからな』

 その声は冷たい……というよりは、落ち着いている、と言った方が正しかった。内側には、確かに情熱を秘めている。

「ふふ、素敵な忠義心ね。確かに騎士様のようだわ」
『……この世界に溢れる非道を憂いたこともある。だからこそ……ラルフ様のようにお優しい方の笑顔が、尊ぶべきものに思えてならない』

 過去に思いを馳せながら、ルディは庭でジョゼフと語らうラルフを見つめる。

『直接は関係の無い存在を思いやり、そのために祈り、泣くことができる……それは、善き心だ』
「……ラルフお兄様は、そうね。優しい方よ。でも……優しすぎるわ」
『それの何が悪い。……確かにこの時代も荒んでいるし、過ちに満ちているが……』

 少し弁舌に熱が入りだしたルディを、ソフィは静かに制した。

「ルディ。……もし、この先、お兄様たちに何かあったら……。……私は、それが怖いの。ラルフお兄様は、優しいからこそ……脆いのだから」

 悲しそうに目を伏せ、ソフィも、2人の背を見つめる。

「いつか、変わってしまうものなのかしら。あらゆることが……」
『……ソフィ、貴女の思いも充分に美しい。……その涙が紡ぐ物語を、私はいつでも楽しみにしている』

 大真面目に紡がれた詩人のような口上に、ソフィは思わず吹き出した。 
 狼狽えるルディの前で、腹を抱えて笑う。

「変なの!もしかしたらルディも、案外文才があるかもしれないわ!でも、今のままだと説教臭くて面白みのない話になりそうね……!」
『…………お、面白みがなかった、か……。それは、済まないな……』
「いいえ。ルディ自体は存在が既に面白いわ」
『そんなことは……。……いや……亡霊という時点で、確かに珍しい……だろうか……?』

 クスクスと笑うソフィへの返答に迷いながら、ふと、ルディは庭に視線をやる。にやりと意地の悪い笑みを浮かべたジョゼフと、真っ赤になっているラルフがそこにいた。
 ソフィが窓を開く。
 カーテンを揺らした風が、ソフィの金髪をも撫でる。

「お兄様ー!2人で何を話しているのー?」
「好きな人の話だよ!この前ほのめかしたくせに、ちっとも教えてくれないからね!」
「ほ、本当にいないんだって!!」

 返ってくる楽しそうな声と、照れたような、慌てた声。
 差し込む午後の光が、「ルディ」の姿を照らし出す。
 
「……いつか、アルマンの名前で本が出たら……それは、私が書いたものよ」
『……覚えておこう。そこに、貴女の想いが込められていることも』
「ええ……ありがとう。ルディ」



 1836年の初夏。
 激動の時代の最中にあった、穏やかな時間。

『咲いた花、そして空の鳥へ捧ぐ物語』のドイツ語版の翻訳者であり執筆者「アルマン・ベルナールド」は、当時、多くの悩みを抱え、それでも夢を追いかける少女だった。
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