17 / 66
第2章 燃える想い
17.残り香
伯爵家の正面扉は相変わらず重く、蝶番がかすかに軋んだ。
ようやく老執事と女中が慌てた様子で飛び出してきた。
「お嬢様! い、い、今……今のお方は……!」
老執事の声が上ずっている。
「……閣下」
ぽつりとルネが答えると、女中が息を呑んだ。
「か、閣下って……王家の馬車でしたよね?」
「うん、偶然助けていただいて」
「偶然って……!」
女中が目を丸くする。
老執事が咳払いをして、声を潜めた。
「お嬢様、婚約者でない殿方の馬車にお乗りになるのは、あまり評判が……」
その言葉に、ルネの思考が止まった。
(……そうだった。殿方の馬車に、私、一人で乗っちゃったんだわ)
マダムと呼ばれたことも、手に残る感触も、まだどこか遠い夢のよう。
(でも、これは……現実なの、よね?)
「何をおっしゃってるんですか」
間髪入れず、女中が食ってかかる。
「辻馬車にお嫁入り前のお嬢様をお乗せする方が、よっぽど評判悪いでしょう。奥様もひどいです。お嬢様はお仕事にだったのに!」
自分より年上の老執事に文句を言っていた若い女中は、改めてルネに向き直った。
「ああ、でも、お嬢様! 本当によろしゅうございました。ようやく、ようやくお嬢様にも、あんなご立派な方が……」
「へ?」
(話が、どこに飛んだの……?)
「図書館勤めの未亡人だとか、嫁ぎ遅れの伯爵令嬢なんて、ひどい噂ばかりでしたけど、うちのお嬢様にもようやく春が!」
(未亡人って……図書館の中だけじゃなかったの?)
「待って、待って、春はまだ遠いの。薪代もバカにならないし……」
「伯爵家のご令嬢が、薪代などと」
老執事が言いかけたが、女中の声のほうが大きかった。
「でも、お嬢様、それにそのマント……貂の毛皮じゃないですか! 奥様だって、こんなのお持ちじゃないですよ」
「……か、借りただけだから」
声が少し裏返ったのは、寒さのせい、ということにして、さっさと部屋に戻ることにした。
これ以上、追求されても困る。
「借りただけって、お嬢様! ちょっと、そんな……!」
女中の声が、玄関ホールの高い天井に跳ね返る。
老執事は止めるべきか叱るべきか分からず、ただ視線を彷徨わせていた。
伯爵も伯爵夫人も不在でよかった。
今夜は、まともな説明を用意できる気がしない。
使用人は、この二人と料理人。
それに伯爵夫人のお供で出払っている御者だけ。
嫡子である異母兄は、たぶん、まだ親戚の家に居候しているはず……。
(つまり、この家で『ちゃんと働いている伯爵家の人間』は、今のところ私だけ)
ルネは二人の騒ぎを背に、大階段へ向かった。
手すりは黒檀。曲線は相変わらず優雅で、掌に触れると不釣り合いなほど滑らかだ。それでいて階段を踏めば、ミシミシと音がする。
見栄と現実は、昔から相性が悪い。
「あ、もう、寝るから、夕食いらない」
振り返って、それだけ告げた。
壁に掛けられた祖先たちの肖像画が、無言で見下ろしてくる。
豪奢な衣装、堂々たる姿。
その中には、確かに貂の毛皮もあった。
(……見てますよね。ご先祖様がた)
庶子とはいえ、貴族が働くなど本来は許されない。
(まして女が司書をしているなんてね……もしこの肖像画たちが口をきいたら)
今夜の彼女に与えるのは、祝福ではなく、非難の大合唱だろう。
(でも、まあ、肖像画は口きかないから)
ルネは、少しだけ肩をすくめた。
彼のマントは、ひどく暖かかった。
貂の毛皮。
そんな高価なものとは、ルネは縁がない人生を送ってきた。
女中が一目で分かったのなら、没落する前の伯爵家では、誰かが纏っていたのかもしれない。
(ただし、それは私じゃない)
手入れをする側のほうが詳しい、というのも、なんとも言えない話だ。
(伯爵夫人に、見つからないうちに返さないと)
ふと、手の甲を見る。
先ほど口づけされた場所。
冷たい唇の気配だけが、妙に記憶に蘇ってくる。
(社交辞令なら、あんなふうに……)
唇が直接、触れたりなんか、しないはず――完璧な礼儀の中で、ひとつだけ外れた所作。
確かに感じた、生身の唇の、吸い付くような感触。
確かめるように、ルネは自分の唇を、手の甲にゆっくりと近づけた。
自分の吐息が肌をなぞる。
すると、体温で温められたのか、そこからふわりと、あの冷たく澄んだ竜月草の香りが立ち上がった。
「……っ!」
火をつけられたように、ルネは顔を跳ね上げた。
暗い廊下。
誰も見ていない。
(なのに、まるで彼がすぐ耳元にいるみたい……)
心臓が爆音を立てる。
(落ち着きなさい、ルネ。相手はあの宰相閣下よ。……ただの、気まぐれに決まってる)
ルネはマントを抱え直し、少しだけ早足で廊下を進んだ。
貴族の娘としては、あまりにも落ち着きがない。
それでも今は、じっとしていられなかった。
マントに残る竜月草の香りが、彼の存在を強く思い出させる。
(……また、会えるのかしら)
ようやく老執事と女中が慌てた様子で飛び出してきた。
「お嬢様! い、い、今……今のお方は……!」
老執事の声が上ずっている。
「……閣下」
ぽつりとルネが答えると、女中が息を呑んだ。
「か、閣下って……王家の馬車でしたよね?」
「うん、偶然助けていただいて」
「偶然って……!」
女中が目を丸くする。
老執事が咳払いをして、声を潜めた。
「お嬢様、婚約者でない殿方の馬車にお乗りになるのは、あまり評判が……」
その言葉に、ルネの思考が止まった。
(……そうだった。殿方の馬車に、私、一人で乗っちゃったんだわ)
マダムと呼ばれたことも、手に残る感触も、まだどこか遠い夢のよう。
(でも、これは……現実なの、よね?)
「何をおっしゃってるんですか」
間髪入れず、女中が食ってかかる。
「辻馬車にお嫁入り前のお嬢様をお乗せする方が、よっぽど評判悪いでしょう。奥様もひどいです。お嬢様はお仕事にだったのに!」
自分より年上の老執事に文句を言っていた若い女中は、改めてルネに向き直った。
「ああ、でも、お嬢様! 本当によろしゅうございました。ようやく、ようやくお嬢様にも、あんなご立派な方が……」
「へ?」
(話が、どこに飛んだの……?)
「図書館勤めの未亡人だとか、嫁ぎ遅れの伯爵令嬢なんて、ひどい噂ばかりでしたけど、うちのお嬢様にもようやく春が!」
(未亡人って……図書館の中だけじゃなかったの?)
「待って、待って、春はまだ遠いの。薪代もバカにならないし……」
「伯爵家のご令嬢が、薪代などと」
老執事が言いかけたが、女中の声のほうが大きかった。
「でも、お嬢様、それにそのマント……貂の毛皮じゃないですか! 奥様だって、こんなのお持ちじゃないですよ」
「……か、借りただけだから」
声が少し裏返ったのは、寒さのせい、ということにして、さっさと部屋に戻ることにした。
これ以上、追求されても困る。
「借りただけって、お嬢様! ちょっと、そんな……!」
女中の声が、玄関ホールの高い天井に跳ね返る。
老執事は止めるべきか叱るべきか分からず、ただ視線を彷徨わせていた。
伯爵も伯爵夫人も不在でよかった。
今夜は、まともな説明を用意できる気がしない。
使用人は、この二人と料理人。
それに伯爵夫人のお供で出払っている御者だけ。
嫡子である異母兄は、たぶん、まだ親戚の家に居候しているはず……。
(つまり、この家で『ちゃんと働いている伯爵家の人間』は、今のところ私だけ)
ルネは二人の騒ぎを背に、大階段へ向かった。
手すりは黒檀。曲線は相変わらず優雅で、掌に触れると不釣り合いなほど滑らかだ。それでいて階段を踏めば、ミシミシと音がする。
見栄と現実は、昔から相性が悪い。
「あ、もう、寝るから、夕食いらない」
振り返って、それだけ告げた。
壁に掛けられた祖先たちの肖像画が、無言で見下ろしてくる。
豪奢な衣装、堂々たる姿。
その中には、確かに貂の毛皮もあった。
(……見てますよね。ご先祖様がた)
庶子とはいえ、貴族が働くなど本来は許されない。
(まして女が司書をしているなんてね……もしこの肖像画たちが口をきいたら)
今夜の彼女に与えるのは、祝福ではなく、非難の大合唱だろう。
(でも、まあ、肖像画は口きかないから)
ルネは、少しだけ肩をすくめた。
彼のマントは、ひどく暖かかった。
貂の毛皮。
そんな高価なものとは、ルネは縁がない人生を送ってきた。
女中が一目で分かったのなら、没落する前の伯爵家では、誰かが纏っていたのかもしれない。
(ただし、それは私じゃない)
手入れをする側のほうが詳しい、というのも、なんとも言えない話だ。
(伯爵夫人に、見つからないうちに返さないと)
ふと、手の甲を見る。
先ほど口づけされた場所。
冷たい唇の気配だけが、妙に記憶に蘇ってくる。
(社交辞令なら、あんなふうに……)
唇が直接、触れたりなんか、しないはず――完璧な礼儀の中で、ひとつだけ外れた所作。
確かに感じた、生身の唇の、吸い付くような感触。
確かめるように、ルネは自分の唇を、手の甲にゆっくりと近づけた。
自分の吐息が肌をなぞる。
すると、体温で温められたのか、そこからふわりと、あの冷たく澄んだ竜月草の香りが立ち上がった。
「……っ!」
火をつけられたように、ルネは顔を跳ね上げた。
暗い廊下。
誰も見ていない。
(なのに、まるで彼がすぐ耳元にいるみたい……)
心臓が爆音を立てる。
(落ち着きなさい、ルネ。相手はあの宰相閣下よ。……ただの、気まぐれに決まってる)
ルネはマントを抱え直し、少しだけ早足で廊下を進んだ。
貴族の娘としては、あまりにも落ち着きがない。
それでも今は、じっとしていられなかった。
マントに残る竜月草の香りが、彼の存在を強く思い出させる。
(……また、会えるのかしら)
あなたにおすすめの小説
天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした
星乃和花
恋愛
ギルドで働くおっとり回復役リィナは、
自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。
……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!?
「転ばないで」
「可愛いって言うのは僕の役目」
「固定回復役だから。僕の」
優しいのに過保護。
仲間のはずなのに距離が近い。
しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。
鈍感で頑張り屋なリィナと、
策を捨てるほど恋に負けていくカイの、
コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕!
「遅いままでいい――置いていかないから。」
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎
【完結】呪いを解いて欲しいとお願いしただけなのに、なぜか超絶美形の魔術師に溺愛されました!
藤原ライラ
恋愛
ルイーゼ=アーベントロートはとある国の末の王女。複雑な呪いにかかっており、訳あって離宮で暮らしている。
ある日、彼女は不思議な夢を見る。それは、とても美しい男が女を抱いている夢だった。その夜、夢で見た通りの男はルイーゼの目の前に現れ、自分は魔術師のハーディだと名乗る。咄嗟に呪いを解いてと頼むルイーゼだったが、魔術師はタダでは願いを叶えてはくれない。当然のようにハーディは対価を要求してくるのだった。
解呪の過程でハーディに恋心を抱くルイーゼだったが、呪いが解けてしまえばもう彼に会うことはできないかもしれないと思い悩み……。
「君は、おれに、一体何をくれる?」
呪いを解く代わりにハーディが求める対価とは?
強情な王女とちょっと性悪な魔術師のお話。
※ほぼ同じ内容で別タイトルのものをムーンライトノベルズにも掲載しています※
こんにちは、最強騎士にお持ち帰りされたダメエルフです~もう逃げられません~
西野和歌
恋愛
おちこぼれエルフのシャーリーは、居場所を求めて人の国にて冒険者として活躍する事を夢見ていた。
だが、魔法も使えず戦闘ランクも最低のお荷物エルフは、すぐにパーティーを解雇される日々。
そして、また新たに解雇され一人になったシャーリーが、宿の食堂でやけ酒をしていると、近づく美貌の男がいた。
誰もが見惚れるその男の名はウェダー。
軽い調子でシャーリーを慰めるついでに酒を追加し、そのまま自分のベッドにお持ち帰りした。
初めてを奪われたエルフは、ひたすらハイスペックエリートの騎士に執着されるうちに、事件に巻き込まれてしまう。
これは、天然ドジな自尊心の低いシャーリーと、自らに流れる獣の血を憎みつつ、番のシャーリーを溺愛するウェダーの物語です。
(長文です20万文字近くありますが、完結しています)
※成人シーンには☆を入れています。投稿は毎日予定です。※他サイトにも掲載しています。
獅子の最愛〜獣人団長の執着〜
水無月瑠璃
恋愛
獅子の獣人ライアンは領地の森で魔物に襲われそうになっている女を助ける。助けた女は気を失ってしまい、邸へと連れて帰ることに。
目を覚ました彼女…リリは人化した獣人の男を前にすると様子がおかしくなるも顔が獅子のライアンは平気なようで抱きついて来る。
女嫌いなライアンだが何故かリリには抱きつかれても平気。
素性を明かさないリリを保護することにしたライアン。
謎の多いリリと初めての感情に戸惑うライアン、2人の行く末は…
ヒーローはずっとライオンの姿で人化はしません。
完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす
小木楓
恋愛
完結しました✨
タグ&あらすじ変更しました。
略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。
「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」
「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」
大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。
しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。
強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。
夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
男嫌いな王女と、帰ってきた筆頭魔術師様の『執着的指導』 ~魔道具は大人の玩具じゃありません~
花虎
恋愛
魔術大国カリューノスの現国王の末っ子である第一王女エレノアは、その見た目から妖精姫と呼ばれ、可愛がられていた。
だが、10歳の頃男の家庭教師に誘拐されかけたことをきっかけに大人の男嫌いとなってしまう。そんなエレノアの遊び相手として送り込まれた美少女がいた。……けれどその正体は、兄王子の親友だった。
エレノアは彼を気に入り、嫌がるのもかまわずいたずらまがいにちょっかいをかけていた。けれど、いつの間にか彼はエレノアの前から去り、エレノアも誘拐の恐ろしい記憶を封印すると共に少年を忘れていく。
そんなエレノアの前に、可愛がっていた男の子が八年越しに大人になって再び現れた。
「やっと、あなたに復讐できる」
歪んだ復讐心と執着で魔道具を使ってエレノアに快楽責めを仕掛けてくる美形の宮廷魔術師リアン。
彼の真意は一体どこにあるのか……わからないままエレノアは彼に惹かれていく。
過去の出来事で男嫌いとなり引きこもりになってしまった王女(18)×王女に執着するヤンデレ天才宮廷魔術師(21)のラブコメです。
※ムーンライトノベルにも掲載しております。
秘密を隠した護衛騎士は、お嬢様への溺愛を抑えきれない
はるみさ
恋愛
伯爵家の令嬢であるアメリアは、少し男性が苦手。ゆくゆくはローゼンタール伯爵を継ぐ立場なだけに結婚を考えなければならないが、気持ちは重くなるばかり。このままでは私の代でローゼンタール家が途絶えてしまうかもしれない……。そう落ち込んでいる時、友人に「あなたの護衛のセドリックで試してみればいいじゃない?」と提案される。
男性に慣れるため、セドリックの力を借りることにしたアメリア。やがて二人の距離は徐々に縮まり、セドリックに惹かれていくアメリア。でも、セドリックには秘密があって……
男性が苦手な令嬢と、秘密を隠し持った護衛の秘密の恋物語。
※こちらの作品は来春までの期間限定公開となります。
※毎日4話ずつ更新予定です。
行き遅れにされた女騎士団長はやんごとなきお方に愛される
めもぐあい
恋愛
「ババアは、早く辞めたらいいのにな。辞めれる要素がないから無理か? ギャハハ」
ーーおーい。しっかり本人に聞こえてますからねー。今度の遠征の時、覚えてろよ!!
テレーズ・リヴィエ、31歳。騎士団の第4師団長で、テイム担当の魔物の騎士。
『テレーズを陰日向になって守る会』なる組織を、他の師団長達が作っていたらしく、お陰で恋愛経験0。
新人訓練に潜入していた、王弟のマクシムに外堀を埋められ、いつの間にか女性騎士団の団長に祭り上げられ、マクシムとは公認の仲に。
アラサー女騎士が、いつの間にかやんごとなきお方に愛されている話。