聖銀竜に喰われる夜――冷酷な宰相閣下は、禁書庫の司書を執愛の檻に囚える

守屋 真守

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第3章 疑念と誘惑

34.黒い騎士

 人混みに紛れ、ルネはドミノの下でそっと両手を握った。
(やったわ。私……すごい。歴史的勝利じゃない!)
 胸の奥で、小さく勝利のファンファーレが鳴り響く。
(禁書庫で典礼大司教を追い返した時以来の快挙かも! ……ふふん、ルネ・ド・サン=テレーヌ、貴族の遊び人も恐るるに足らずだわ)

 頬がじんわり熱い。
 ルネはきょろきょろとリゼットを探した。
 一刻も早く、この武勇伝を披露したかった。
(「ルネ、あなた成長したわね」って言われちゃうかも……えへへ)

 金の光が揺れ、仮面の海が波のようにうねる中を、そろそろと進む。
「ワインはいかがですか、マドモアゼル」
 給仕が運んできたワインを受けとろうとしたとき、ふいに、背後から手袋越しの指がルネの手首を掴んだ。
 ――強い力。
 それは礼儀の範囲を踏み越えた独占的な圧力。

(……は?)
 さっきの男が追いかけてきたのかと思った。
 ルネは、苛立ちを隠さず、今度こそ男の脛を蹴飛ばしてやろうと身構えながら振り返った。
 不敬罪などという言葉は、怒りとともに頭の外へ弾き飛ばされていた。

「……随分と、楽しそうだな」
 低く、冷たく、けれど耳の奥を直接焼くような、あの声。
 振り返るまでもなく、誰か分かった。
 古風な黒騎士の衣装。黒絹の仮面越しでも隠しようのない、研ぎ澄まされた精悍な美貌。鮮烈な蒼銀の双眸。
(……あ)
 脳内のファンファーレが、無残に音を外して止まった。
 勝利の余韻が、音を立てて崩れ落ちる。

(ゼファー様!)
 思わず声をあげそうになって、慌てて口を扇で押さえた。
 仮面をつけている間は、お互いを知らない者同士として振る舞う。
 それが、この場の暗黙の決まりだ。
 ルネは、少し気取って、扇を口許に寄せた。
「そう仰るあなたは、つまらなそう。仮面があっても分かりますわ。ムッシュ」
 今のゼファーにふさわしい貴婦人像を想像しながら、それらしく振る舞ってみせる。
「……とか、言ったりなんかして?」
 震える声でぎこちなく笑うと、彼の手袋の指先が、さっきの男が触れた場所を上書きするように、より一層強く締まった。
(え、ちょ……ちょっと待って……本当に痛い)

「……隠せるなら苦労はしない」
ゼファーの瞳に宿る、氷のような怒りと、煮え立つような渇望。
(あれ……怒ってる?)
 ルネは、背伸びをしてゼファーの耳もとに囁いた。
「ひ、人が見ています。淑女の手首をそんなに強く掴むなんて、騎士道にもとりますよ?」
「ならば誰にでも微笑むことをやめろ……私のいない場所で、あんな男に触れさせていた報いだ」
 (……見てたの?)

 ゼファーは周囲の視線を一瞥で黙らせ、ルネの返事を待つことなく、彼女を自分の方へ強く引き寄せた。
 舞踏会の喧騒の中、絡み合う二人の影は、他人から見れば情熱的な恋人の戯れにしか見えないだろう。
 仮面の匿名性という名のヴェールが、彼の乱暴なまでの執着を甘く危険な誘惑へと変えていた。


   ◇◇◇


「ど、どこへ行くんですか? 私、友達と一緒なんです」
「人目のないところだ……君が誰に微笑むのか、確かめたい」
 その声は、嫉妬に濡れているようにも聞こえた。
 ルネの手首を掴む指は、骨が軋むほどに熱く強い。
 仮面の下の表情は見えないが、歩みの速さが、彼の感情の激しさを物語っている。
 廊下へ出ると、音楽が遠のき、蝋燭の炎が二人の影を長く伸ばした。
「……ゼファー様? あの、本当に手首が……痛いんですけど」
 彼は唐突に足を止めた。だが、手首を離す代わりに、今度は逃げ道を塞ぐようにルネの腰を引き寄せる。
 長上着ジュストコール越しに、彼の強靭な体温がダイレクトに伝わり、ルネの思考が飛んだ。

「あ、あの……もしかして、嫉妬してたりとか?」
 なるべく軽く、冗談めかして言ってみる。
 そうでもしないと、心臓が爆発して死んでしまいそうだったから。
 だが、返ってきたのは、予想を遥かに超える重々しい告白だった。
「嫉妬だと? そんな可愛らしい言葉で片付けられると思うのか……ルネ、君を失う可能性が、一瞬たりとも耐えられない。他の男の視線に晒されるだけで、その目を潰したくなるほどにな」
 仮面の奥の、蒼銀の瞳。燭台の光を吸い込んで底から冷たく光るそれは、もはや隠す気のない捕食者の眼差しだった。

(……ちょっと待って)
 胸が、物理的に締め付けられて苦しい。
 コルセットのせいじゃない。この人の言葉が、心臓を直接握り潰しにかかってる。
(そんな言い方ずるい。反則だわ。即、退場!)
 舞い上がりそうになる気持ちを、冷静な自分が慌てて引き止めた。
(喜んじゃダメ、落ち着いて……これは、ゼファー様の極端な独占欲!)
 舞踏会場の喧騒を背に、彼はルネの手首を離さぬまま、赤い絨毯の敷かれた長い廊下を歩いていく。
 壁には金箔の装飾が施され、燭台の炎が揺れる。
 その光が彼の黒い騎士の衣装を淡く照らしていた。
 羽根を付けた鍔の広い帽子。黒いシュミーズの袖飾りアンガジャント、ショースもすべて黒。
 マントの隙間から覗く精悍な体躯。乗馬靴が絨毯を踏み締める音さえ、ルネを支配するリズムのように響く。
 すべてが闇に溶け込む中、マントに散る長く美しい銀髪だけが、夜の闇の中で月光のように輝いていた。

(……反則、二つ目。その見た目)
 最初の反則が『重すぎる愛の囁き』
 今の反則は、この完璧すぎる騎士衣装。
 いつもの官服も素敵だけど、こんな中世の物語から抜け出してきたような、狂気を孕んだ騎士然とした姿が似合うなんて、暴力的なまでの格好良さだ。
(落ち着いて、ルネ。見た目と声に騙されるほど、私は単純じゃない――はずなんだけど……)

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