【完結】ある神父の恋

真守 輪

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恋心

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 以前なら、俺の両肩でうるさいほど、喋りまくっていた小さな天使たちが、今は何も言わない。
 言わないどころか、その存在すら、消えてしまった。
 あの日、俺たちの前を小さな翼で飛んで行ってしまってから、その姿を見ていない。
 彼らのことを忘れるのは、子供が大人へと成長する上での通過儀礼だ。
 世間では、中年と呼ばれる年齢になって、ようやく大人になったというわけか。

 趣味で描いていた人物画は、一向に完成しないままだ。
 モナ・リザにも似た不思議な微笑をたたえた女性の肖像。
 俺は、もう何度も絵筆をキャンバスに押し付けていた。
 実在のモデルなどいない。
 絵を描くというのは、自分を描くということなのだ。
 例え、モデルに似せて描いたとしても似せているだけで、それは、もう別人なのだ。

 顔や肌、コスチュームの形や質感。
 一筆色を置くたびに、表情ががらりと変わる。
 まるで、この絵は、俺の鏡のようだ。
 鏡を覗くようにして俺は、この女性を描いているのかもしれない。


   ◆◇◆◇


「お話したいことがあるの」
 ミサの後、俺を呼び止めて、アニエスが言った。
 彼女が何を言いたいのか、俺は、すでに分かっている。
「では、カフェに」
「……二人きりで、お話したいわ」
 でも、気がついていないふうを装う。
 礼拝堂を出ると俺は、彼女を伴って二人で話せる場所を探す。

 歩きながら俺は、後悔していた。
 思い詰めた彼女の表情。緊張して肩が震えている。
 なぜ、俺はあんなことを言ってしまったのか。

 ――俺が『神父でなければ』という仮定はない。なぜなら『神父ではない』とは、『俺が俺自身でない』……というのと同じ意味のことだから。


 町はずれにあるひっそりとした湖に俺は、彼女を誘った。
 原生林に囲まれた湖は、藍色の水をたたえている。
「わたし……今、恋をしているの……わたしの初めての恋だわ」
 太陽の光が木々の隙間からこぼれ、アニエスの上に降り注ぐ。
 
「その人は、わたしの想いに答えられる立場じゃない。でも誰に許されなくても、この想いを止められないの」
 アニエスは、夢中で俺に訴えてきた。
「それでも、わたしの中にあるこの想いは、わたしを幸せにしてくれるの」
 まるで、溜まりに溜まっていた水脈が堅い大地を破り、ほとばしらせるようだ。恋に恋する少女とは、こういうものだろうか。

「だから、この想いを大切にしたい。わたしは、そうしてもいいと思いますか……」
 そう言って彼女は、せつなげに眉根を寄せる。
 今にも涙がこぼれそうな眼差しは、いつものようにまっすぐに俺を見つめることなく揺らいでいた。

「間違っていたら、ごめん。その想いとは、俺に向けられたものかな」
 はぐらかしても、逃げることはできそうもない。
 俺の問いかけに、アニエスは打たれたように、びくんと肩を震わせた。
 彼女は、思い切ったように勢いよく顔を上げる。
 それまで、避けていた視線を俺に向けた。

「ええ、そうよ。あなたのことだわ。凉太朗」
 はっきりとアニエスは答えた。
 実のところ、そんな告白をされたのは、彼女が初めてではない。
 だが、アニエスに対しては小さな女の子をあやすような言葉でごまかせそうなかった。

「きみの気持ちは……嬉しい。素直に嬉しいと思う。人のこういう感情は、素晴らしいものだからね」
 成長期の少女は、身近にいるだけの平凡でつまらない男を意識してしまうものだ。
 それは、生まれたばかりのカモやニワトリのヒナが、初めて見た動く存在を追いかけるのと、似たような原理なのかもしれない。

「アニエス。きみは興味深くて、とても魅力的な女性だ」
 俺は、しどろもどろになって言った。
 誰か教えて欲しい。どう言えば、彼女を傷つけずに済むのだろう。
 ふいに耳もとで、誰かが囁く気配があった。
 俺の友人たちだ。――その声は小さすぎる。

「それに、きみは若い。もし俺がアニエスを受け入れてしまっても将来はないんだよ。傷つくのは、きみの方なんだ」
 俺がそう言うと、彼女は、首をふった。
 柔らかな髪が、頬にまつわる。

「それは、あなたが神父さまだから? でも、わたしは……そんなこと!」
「違うんだ。俺の『職業』のためじゃない。そうではなくて」
 ほんの一歩の距離をあけたまま俺と彼女は、お互いに見つめ合っていた。
 ハシバミ色の双眸。光を集めたような金色の絹糸にも似た髪。まるで、人形のように整った面差し。
 彼女の若さ、脆さがそこかしこにあった。
 傷つけてはいけない。アニエスは、まだ、こんなに幼いのだから……。

「俺には、将来性とか計画性がないんだよ」
 彼女の眼差しは、まっすぐで純粋だった。さながら、世間の風にも当てられたことのない温室の花だ。
 上手い言葉が見つからない。
 彼女はにっこりと微笑んだ。
「でも、凉太朗。わたしは、もう、あなたに幸せをもらっているわ」
 アニエスが泣いてしまうのではないか。
 そう思っていたのは、俺だけだった。
 そっとアニエスは、近づいてくる。俺らの間にあった距離を、彼女はなんなく超えてきた。

「なぜ?」
 彼女は、俺より頭ひとつ分ほど低い。
 俺を見上げながら、小首をかしげるようにして答えた。
 まるで当たり前だと言わんばかりに。

「だって、本当にわたしは、今、この瞬間も幸せだもの」
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