36.5℃のデバッグ ――論理的な大学院生は、恋を知らない彼女の氷を溶かしたい――

くすのき紬

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第1章 スノードロップの解凍

第1話 運命の出会い

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研究室に篭りきりで、複雑なアルゴリズムの海を泳ぎ続ける毎日。

博士課程ともなれば、世界は数字と論理で完結している方が楽だ。

だが、その日の夕暮れ。
駅前で見かけたその光景だけは、俺の「論理」では片付けられなかった。

「……っ、……や、めて……」

か細い、今にも消え入りそうな声。

人混みの中で、一人の女の子が男に腕を掴まれていた。

清楚なブラウスに身を包んだ彼女は、震える肩を自らの両手で抱き、顔を真っ白にさせている。

ナンパなんてよくある光景だが、彼女のその態度は、「嫌悪」を示すものではない。……「恐怖」に支配されているのだ。

男が彼女の肩に手を回そうとした瞬間、彼女は崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。

ヒュー、ヒューと、浅く、速い呼吸。

彼女は過呼吸を起こしている。

焦った男が、周囲の視線を気にして逃げ去るのを横目に、俺は無意識に彼女の元へ駆け寄っていた。

(……触れちゃダメだ)
直感的にそう思った。

今の彼女にとって、他人の手は凶器でしかない。

俺は一歩手前で足を止め、彼女と同じ高さにまで視線を落とした。

「……大丈夫。俺は、何もしないよ。ゆっくりでいい。……俺と一緒に、息を吐いてみて」
あえて距離を保ち、落ち着いたトーンで声をかけ続ける。
少しずつ、本当に少しずつ、彼女の肩の震えが収まっていく。
やがて、潤んだ瞳がゆっくりと俺を捉えた。


***

「……あの、ありがとうございました。……佐久間、さん」

落ち着きを取り戻した彼女は、姫内花菜(ひめうち はな)さんと言うらしい。

彼女は、律儀にもお礼がしたいと俺をカフェに誘った。

近くの女子大に通っているという彼女は、春に咲く花のように可憐で、けれどどこか、触れれば砕けてしまいそうな危うさを持っていた。

もっと彼女のことを知りたい。……いや、放っておけないというのが本音か。

会話を重ね、コーヒーの残量が三分の一ほどになったとき。

俺は、さりげなく連絡先を尋ねてみた。

しかし、彼女の反応は、予想していた「照れ」でも「拒絶」でもなかった。

「……佐久間さん。……わたし、恋愛……できないんです」

カップを持つ指先を震わせ、彼女は自分自身を断罪するように言った。

「もし、佐久間さんがそういう……特別な関係を望んでいるのなら、ごめんなさい。期待に応えることは、一生できないと思います」

その言葉の裏側に、どれほどの痛みが隠されているのか。

情報学の世界なら、バグの原因を突き止めれば修正できる。だが、人の心はそうはいかない。

絶望に染まったその瞳を見た瞬間、俺の中の理屈は消し飛んだ。

俺はふっと笑みをこぼし、彼女に安心させるような声を向けた。

「恋愛できないって? ……いいよ、別に。そんなの」

「え……?」

「それなら、俺のことは『頼れるお兄さん』だと思ってよ。困ったことがあったら、いつでも飛んでくる。大学も近いし、研究の合間に話し相手になってくれるだけで十分助かるんだ。……だめかな?」

俺の提案に、彼女は驚いたように目を丸くし、それから少しだけ、本当に少しだけ、氷が解けるような表情を見せた。

(……今は、これだけでいい)

彼女が誰の手も拒まず、心の底から笑える日が来るまで。

俺は、絶対に彼女の境界線(ライン)を無理に踏み越えたりはしない。

彼女はそれなら、と連絡先を教えてくれた。
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