36.5℃のデバッグ ――論理的な大学院生は、恋を知らない彼女の氷を溶かしたい――

くすのき紬

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第1章 スノードロップの解凍

第2話 臨界点の手前

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最初は、ただの好奇心だったのかもしれない。

あるいは、親戚の年下の子に向けるような、淡い保護欲だったのか。


けれど、俺の中の『論理』は少しずつ狂い始めていた。

女子大という、俺とは無縁の世界でひっそりと咲いているような彼女の存在が、気づけば俺の日常の余白をすべて埋め尽くそうとしている。

スマホ画面に「姫内花菜」という名前が通知されるたびに、俺の心拍数は計算式では導き出せない数値を叩き出していた。

LINEの画面越しに交わされる、他愛のない会話。

ーー「今日は大学でこんなことがあった」
ーー「研究室で同期が淹れたコーヒーが不味い」

そんな些細な報告に、花菜さんが「ふふ、お疲れ様です」と返してくれるだけで、俺の無機質な日常に鮮やかな色が混じっていく。

気づけば、彼女のことばかり考えていた。

もっと近くで、その柔らかな笑顔を見ていたい。

『来週の土曜、もしよければランチに行かない? どうしても行ってみたいイタリアンがあるんだけど、1人だとどうも気が引けて。……付き合ってくれたら嬉しい』

送信ボタンを押す指が、学会の発表の時より震えた。

「お兄さん」という仮面を被って、彼女のパーソナルスペースに少しだけ踏み込む。

数分後、『私でよければ、ぜひ』という返信が来たとき、俺は研究室で小さくガッツポーズをした。

***

当日、現れた花菜さんは、淡いベージュのワンピースを纏い、まるで陽だまりのような温かさを纏っていた。

店に入れば、彼女は美味しそうにパスタを頬張り、女子大での英文学の講義について楽しそうに話してくれる。

「佐久間さんと話していると、なんだか……落ち着きます。不思議ですね」

その言葉に、胸が熱くなる。

俺たちの間には、まだ見えない薄氷が張っているけれど、少しずつ、確実に距離は縮まっているはずだ。

「それは光栄だな。俺も、花菜さんといると研究のバグが消えそうな気がするよ」

そんな冗談を言って、俺たちは笑い合った。

帰り道、駅へ続く並木道は少しずつ夕闇に包まれ始めていた。

「今日は本当にありがとうございました。楽しかったです」

「こちらこそ。また、……」

言いかけた、その時だった。

背後から、無灯火の自転車が猛スピードで俺たちの間をすり抜けようとした。

「危ない……っ!」

咄嗟に、身体が動いた。

彼女を車道側から守ろうと、反射的にその細い肩を抱き寄せ――。

「――っ!!」

一瞬。ほんの一瞬、指先が彼女の肌に触れただけだった。

だが、花菜さんの身体は、まるで極寒の海に突き落とされたかのように、激しく硬直した。

「……っ、あ、…………」

彼女の顔から、一気に血の気が引いていく。

目を見開き、何もない空間を凝視するその瞳は、もう俺を見ていない。

震える唇からは声にならぬ悲鳴が漏れ、彼女はその場に膝をついた。


伸ばしかけた手を、俺は空中で止めた。

「お兄さん」なんて、傲慢だった。

俺が彼女に触れることは、彼女を守ることではなく、彼女の傷口を抉ることだったのだ。

俺はあえて三歩下がり、彼女と同じ高さにしゃがみ込んだ。

「……ごめん、花菜さん。驚かせたね。……もう、触らないから。大丈夫、俺だよ」

必死に落ち着いた声を紡ぐ。夕闇の中、彼女の呼吸だけが激しく乱れている。

やがて、花菜さんはガタガタと震える指先で自分の肩を抱き、掠れた声で呟いた。

「……ごめんなさい。佐久間さんは、悪くないのに……」

「……謝らないで。俺が……不注意だった」

「……違うんです。……冷たいんです。男の人に触れられると、そこが……氷を押し当てられたみたいに、冷たくなるんです」

花菜さんは力なく首を振った。

呼吸は少しずつ落ち着いてきたものの、彼女の体はまだ小刻みに震えている。

ここでの一歩は、物理的な距離を縮めることではなく、心の安全圏を確保することだ。

「……少し、歩けるかな。あそこのベンチで、一度休もう」

俺は決して彼女に触れないよう、けれどいつでも支えられる位置を保ちながら、近くの公園へと誘導した。

街灯がまばらに灯り始めた公園の隅、二人掛けのベンチ。

「ここに座ってて。何か、温かい飲み物でも買ってくるね」

 
返事を待たずに、俺は近くの自動販売機へ向かった。

選んだのは、二つの温かいレモンティー。
戻ると、彼女は小さく肩を丸めて座っていた。俺は彼女の隣に、拳二つ分以上の間を開けて腰を下ろす。

「はい。……火傷しないように気をつけて」

「あ……ありがとうございます」

花菜さんは、凍えた指先でペットボトルを包み込んだ。温かい蒸気が二人の間に揺れる。

その熱が少しだけ彼女の強張りを解いたのか、彼女はボトルを見つめたまま、静かに口を開いた。

「あの、佐久間さん。……私の、私の話……聞いてくれますか?」

まっすぐな瞳が、俺を射抜く。

嘘も誤魔化しも許されない、剥き出しの告白がそこにあることを予感させた。


***

彼女は、ゆっくりと口を開いた。

「……あの、わたし...高校1年の時、信じていた家庭教師の人に、その、……無理やり……。……怖くて、寒くて。それ以来、誰に触れられても、身体が……その時の恐怖を思い出して、凍りついちゃうんです」


心臓が、嫌な音を立てた。

彼女が女子大を選んだ理由も、俺に「恋愛できない」と告げた理由も、すべてが最悪の形で繋がった。
 
「親にも話して、警察にも行って……相手は今、刑務所にいます。でも、わたし、だめで。……どれだけカウンセリングを受けても、どれだけ時が経っても、私の体は、あの時の『冷たさ』を、誰に触れられても思い出してしまうんです……」

  
親にも話し、法的な裁きも下された。
 
けれど、彼女の心の中に居座る「加害者」は、今も彼女を凍らせ続けている。

「親は、もう大丈夫だって思いたいみたいで……。心配かけたくなくて。現場だった部屋にも、もういたくなくて、こっちの大学に来ました。でも、本当は……誰かに...男性に...触れられるのが、怖くてたまらないんです」


涙さえ凍りついたような、枯れた声。
俺は、激しい怒りと、それ以上の愛おしさで胸が張り裂けそうだった。

 
今すぐ抱きしめて、その氷を溶かしてやりたい。……だが、俺の手が彼女をさらに凍らせてしまうことを、今の俺は嫌というほど理解している。


「……話してくれて、ありがとう。花菜さん」

俺は、彼女に届かない距離のまま、静かに言葉を置いた。

花菜さんは俯いたまま、膝の上で握りしめた拳を震わせている。

「……わたし、今日、本当に楽しかったんです」

掠れた声が、夜の静寂に溶けていく。

「あの日、カフェでお話しして、毎日、他愛もないLINEをして。今日のレストランも……。私、やっと、普通の女の子になれたんだって、勝手に錯覚してました。でも、やっぱりダメでした。……こんな、触れられることもできない女に構ってたって、佐久間さんのような素敵な人には……何のメリットもありません」

彼女は俺から視線を逸らし、今にも消えてしまいそうなほど、小さく肩を震わせた。

「……これ以上、佐久間さんの時間を奪うのは……私、申し訳ないです。だから...今日で、終わりにしてください……」

その言葉は、俺を嫌いになったからではない。

俺に対して、自分が「欠陥品」であるという罪悪感に押しつぶされそうになっている、そんな叫びだった。

俺の胸の奥が、焼けるように熱くなる。

「引くわけがない。メリットなんて、俺は、そんな理由で君といたいわけじゃないんだよ?」

俺は、彼女に指一本触れないまま、視線だけでその震えを包み込むように言った。

「俺は、どこにも行かないよ。……その氷が溶けるまで、何年かかってもいい。君が『温かい』って思えるまで、俺は、ただの『お兄さん』で隣にいるから」

花菜さんは驚いたように顔を上げ、濡れた瞳で俺を見た。

「……一生、溶けないかもしれませんよ?」
「いいよ。そしたら、一生『お兄さん』として、君を守る。……それじゃ、ダメかな?」

俺の不器用な答えに、花菜さんの目が見開かれる。

今度は、しっかりと焦点が合い、俺を、俺だけをみつめている。

それは、絶望の淵で見せた、微かな「希望」の光だった。
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