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第1章 スノードロップの解凍
第3話 不完全な融解
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それから俺たちは、週末のたびに「お兄さん」と「妹」のような、どこまでも健全なデートを重ねた。
動物園のレッサーパンダに目を細める横顔や、水族館の青い光に透ける白い肌。
季節が移ろうたび、花菜さんは新しい表情を見せてくれる。
正直に言えば、男として、どうしようもない衝動に駆られる瞬間もある。
LINEの通知が来るだけで鼓動が早まり、隣を歩く彼女から微かに香るシャンプーの匂いに、喉の奥が熱くなる。
博士課程で培った論理的思考なんて、彼女の可憐な微笑みの前では、エラーを繰り返すだけの役立たずなプログラムだった。
(……触れたい。抱きしめたい)
そんな本能を、俺は「お兄さん」という仮面の下に必死に押し殺し続けた。
彼女の心を、二度と凍らせないために。
***
気づけば、出会いから半年が過ぎていた。
夕暮れの水族館。
何度も足を運んだこの場所は、俺たちにとって一番「安全な」場所だった。
暗がりに紛れ、言葉を交わさずとも同じ魚を見つめていられる。
そんな適度な距離感が、彼女には必要だと思っていた。
けれど、今日はいつもと勝手が違った。
街はクリスマス一色に染まり、この水族館も期間限定のイルミネーションに彩られている。
巨大な水槽の前に立つ花菜さんは、今日はずっとどこか思い詰めたような顔をしていた。
視界に入るのは、当たり前のように肩を寄せ合い、親密に触れ合うカップルばかりだ。
普段は自分たちの「30センチの空白」を平穏だと信じ込んでいる俺たちも、今日この場所を流れる『恋人たちの空気』の中では、いびつな異分子のように浮いている気がした。
「佐久間さん……。やっぱり、私と一緒にいても、つまらないですよね」
ポツリと、彼女がつぶやいた。
「……半年も経つのに、私、こんなので。……普通なら、もっと、その……」
「つまらないなんて、一度も思ったことないよ」
俺は即座に、けれど努めて穏やかに否定した。
「花菜さんといる時間は、俺にとってどんな研究成果より価値がある。……本当だよ」
花菜さんは少しだけ俯いて、それから意を決したように、震える指先で自分の右手を見つめた。
「……あの、佐久間さん。……手を、繋いでみてもいいですか?」
心臓が、耳元で鳴っているかと思うほど激しく打った。
「お兄さん」という役割を自ら破壊してしまいそうなほどの独占欲を、奥歯を噛み締めて抑え込む。
「いいよ。……ゆっくり、花菜さんのペースで」
俺は静かに、自分の右手を差し出した。
彼女の指先が、迷うように、恐る恐る俺の掌に重なる。
その瞬間、彼女の細い肩がビクッと大きく跳ねた。
(……俺の態度が、彼女を焦らせてしまったのか?離しても、いいんだよ。花菜さん)
そう願う自分と、離したくないと願う自分がせめぎ合う。
だが、花菜さんは逃げなかった。
俺の大きな掌が、彼女の華奢な手を優しく、壊れ物を扱うように包み込む。
「……あ……」
花菜さんは目を見開き、繋いだ手を見つめたまま固まっている。
「……温かい。……佐久間さんの手……すごく、温かいです。冷たく、ない……」
彼女の瞳から、一気に涙が溢れ出した。
トラウマが消えたわけじゃないのだろう。
彼女の指先はまだ、小刻みに震えている。
けれど、俺の体温は確かに彼女に届き、半年間張り詰めていた彼女の心の氷を、数ミリだけ溶かしたのだ。
「ごめんなさい、私……自分から言ったのに、泣くなんて……っ」
「いいんだよ。……頑張ったね、花菜さん」
俺は繋いだ手を離さないよう、けれど彼女を縛り付けないような絶妙な力加減で、その小さな手を守り続けた。
彼女が俺を「男」として受け入れ、心の底から俺の「熱」を求められるようになるまで。
この30センチの空白を、一生かけて埋めていく。
涙を拭う彼女の横顔を見つめながら、俺は改めて、静かに、けれど激しく誓った。
動物園のレッサーパンダに目を細める横顔や、水族館の青い光に透ける白い肌。
季節が移ろうたび、花菜さんは新しい表情を見せてくれる。
正直に言えば、男として、どうしようもない衝動に駆られる瞬間もある。
LINEの通知が来るだけで鼓動が早まり、隣を歩く彼女から微かに香るシャンプーの匂いに、喉の奥が熱くなる。
博士課程で培った論理的思考なんて、彼女の可憐な微笑みの前では、エラーを繰り返すだけの役立たずなプログラムだった。
(……触れたい。抱きしめたい)
そんな本能を、俺は「お兄さん」という仮面の下に必死に押し殺し続けた。
彼女の心を、二度と凍らせないために。
***
気づけば、出会いから半年が過ぎていた。
夕暮れの水族館。
何度も足を運んだこの場所は、俺たちにとって一番「安全な」場所だった。
暗がりに紛れ、言葉を交わさずとも同じ魚を見つめていられる。
そんな適度な距離感が、彼女には必要だと思っていた。
けれど、今日はいつもと勝手が違った。
街はクリスマス一色に染まり、この水族館も期間限定のイルミネーションに彩られている。
巨大な水槽の前に立つ花菜さんは、今日はずっとどこか思い詰めたような顔をしていた。
視界に入るのは、当たり前のように肩を寄せ合い、親密に触れ合うカップルばかりだ。
普段は自分たちの「30センチの空白」を平穏だと信じ込んでいる俺たちも、今日この場所を流れる『恋人たちの空気』の中では、いびつな異分子のように浮いている気がした。
「佐久間さん……。やっぱり、私と一緒にいても、つまらないですよね」
ポツリと、彼女がつぶやいた。
「……半年も経つのに、私、こんなので。……普通なら、もっと、その……」
「つまらないなんて、一度も思ったことないよ」
俺は即座に、けれど努めて穏やかに否定した。
「花菜さんといる時間は、俺にとってどんな研究成果より価値がある。……本当だよ」
花菜さんは少しだけ俯いて、それから意を決したように、震える指先で自分の右手を見つめた。
「……あの、佐久間さん。……手を、繋いでみてもいいですか?」
心臓が、耳元で鳴っているかと思うほど激しく打った。
「お兄さん」という役割を自ら破壊してしまいそうなほどの独占欲を、奥歯を噛み締めて抑え込む。
「いいよ。……ゆっくり、花菜さんのペースで」
俺は静かに、自分の右手を差し出した。
彼女の指先が、迷うように、恐る恐る俺の掌に重なる。
その瞬間、彼女の細い肩がビクッと大きく跳ねた。
(……俺の態度が、彼女を焦らせてしまったのか?離しても、いいんだよ。花菜さん)
そう願う自分と、離したくないと願う自分がせめぎ合う。
だが、花菜さんは逃げなかった。
俺の大きな掌が、彼女の華奢な手を優しく、壊れ物を扱うように包み込む。
「……あ……」
花菜さんは目を見開き、繋いだ手を見つめたまま固まっている。
「……温かい。……佐久間さんの手……すごく、温かいです。冷たく、ない……」
彼女の瞳から、一気に涙が溢れ出した。
トラウマが消えたわけじゃないのだろう。
彼女の指先はまだ、小刻みに震えている。
けれど、俺の体温は確かに彼女に届き、半年間張り詰めていた彼女の心の氷を、数ミリだけ溶かしたのだ。
「ごめんなさい、私……自分から言ったのに、泣くなんて……っ」
「いいんだよ。……頑張ったね、花菜さん」
俺は繋いだ手を離さないよう、けれど彼女を縛り付けないような絶妙な力加減で、その小さな手を守り続けた。
彼女が俺を「男」として受け入れ、心の底から俺の「熱」を求められるようになるまで。
この30センチの空白を、一生かけて埋めていく。
涙を拭う彼女の横顔を見つめながら、俺は改めて、静かに、けれど激しく誓った。
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