【R18】Melting Room Stories ―密室で溶け合う、僕らの本能―

くすのき紬

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Case.5 直と小春 第1話:非合理な20分

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「そうそう。このthatは関係代名詞だから……」

椎名 小春(しいな こはる)。
彼女は、うちの塾に夏期講習から講師として採用されている大学1年生だ。 

英語と国語の文系科目を受け持ち、そのルックスと文系講師らしい親しみやすさで、生徒からの人気も高い。

対する俺、悠城直(ゆうき なお)は大学3年生。 
専門は数理科学、ゴリゴリの理系だ。

担当も数学と物理。 
感情やニュアンスで語る文系科目のことは正直よくわからないし、講師同士の馴れ合いも必要ないと考えていた。……はずだった。


「お疲れ様でした! 悠城さん、お先に失礼します」

22時ちょうど。 タイムカードを切る乾いた音と共に、彼女が背後から声をかけてきた。 
少し柔らかいトーンのその声に、俺は採点の手を止めずに「ああ、お疲れ」とだけ短く返す。

10月に入り、夜風はすっかり冷たくなった。
講師控室の鏡の前で、椎名さんが薄手のストールを巻き直しているのが視界の端に入る。

18歳の女の子が、こんなに夜遅くまで働いて、大丈夫だろうか。 
彼女は大学入学を機に上京し、一人暮らしをしているらしい。

そんな俺の心配をよそに、彼女は淡々と帰り支度を済ませていく。

採用から約2か月。
仕事には慣れてきたようだが、都会の夜の「本当の冷たさ」を彼女はまだ半分も知らない。

***


それから10分後。 

残りの採点を終えた俺は、塾を後にした。 

俺が帰るべき駅は、塾を出て右。 
彼女のアパートがある方向は、……たしか左だ。

正反対の方向へ一歩踏み出した、その時だった。 

街路樹の陰、左側の路地の方から、俺の脳内にある「不快指数」のメーターを振り切らせる声が聞こえた。

「……っ、あの、本当に困ります……!」

思わず足を止めて視線を走らせる。 

街路樹の陰、椎名さんが男2人組に腕を掴まれていた。

「えー、いいじゃん。1人なんでしょ? 飲みに行こうよー」

明らかに怯えている彼女の表情と、それを楽しむように距離を詰める男たち。
 
理屈じゃない。 
俺の体は、脳が「関与すべきだ」と判断を下すより先に、アスファルトを蹴っていた。

「――おい。何してんだよ」
自分の声が、自分でも驚くほど冷たく響く。

男を牽制しながら、俺は椎名さんの肩を抱き寄せ、自分の背後に隠した。 

近すぎる。俺のシャツ越しに、彼女の指先が小刻みに震えているのが伝わってきた。

「……警察呼ぶか、今すぐその手を離すか。0.5秒以内に選べ」

俺の視線に毒気を抜かれたのか、男たちは舌打ちをして逃げていった。 

***


静まり返った夜道。

「……あ、あの、悠城さん…ありがとうございます」


情けないほど声を震わせ、俺のシャツの袖をぎゅっと掴んだままの彼女を見下ろす。 

その潤んだ瞳と、背中に伝わる小刻みな震え。 

跳ねる心臓の鼓動を、俺は「怒りによるものだ」と無理やり結論づけた。

「……うちで働き始めてもうすぐ2か月だろ。この時間に一人で歩くリスク、計算できてなかったのかよ」

「……すみません。でも、家そこまで遠くないので……」

「遠いか近いかは問題じゃない。……送る。行くぞ」

俺は迷いなく、駅とは逆方向の左へと足を踏み出した。

「……で、家はどこだ」

「……えっと、この先の商店街を抜けた先にあるアパートです。歩くと……20分くらいかかっちゃうんですけど」

「20分……」

住所を聞いた瞬間、俺の脳内にある地図上に最短ルートが引かれ、演算結果が弾き出される。 
ここから彼女の家まで、俺の足でも15分から20分。
往復すれば、それだけで40分。

本来なら、塾を出て右へ曲がれば、5分で駅に着くはずだった。 

だが、この非合理な「送り」を選んだせいで、俺は本来不要な40分ものロスを背負うことになる。

終電までの残り時間を考えれば、致命的なタイムロスだ。

(……40分のロスだぞ。俺は何をやってる)

頭の中の合理主義が「引き返せ」という警告を鳴らす。

だが、街灯に照らされた椎名さんの、安心したような横顔――。 
それを見た瞬間、俺の脳内の合理主義は完全に機能を停止し、「これで正しい」という未知の変数が、俺の心臓を支配し始めていた。

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