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スイート・ツリー

初めての冬(その1)

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 うつらうつらと舟を漕ぐ。
 風に揺られて舟を漕ぐ。

「……冷えるな」

 心地よい眠りの中の、束の間の覚醒。
 広がるのは白い世界。
 雲の上かと見紛うごとき無垢な世界。

「まるで天国のようだ」

 靄に包まれた思考では、深い知識は役に立たず、ただ感情のみが心を満たす。
 積もる雪は陽の光を反射し、自らの身体をも輝かせる。

「この世界にふさわしい花を咲かせたいものだ……」

 微かに聞こえる音は人間の営みを伝え、音さえ吸い込む雪は夢に導く。
 隣からは静かな寝息。
 もうしばし、夢を漂う余裕はありそうだ。

「……おやすみ……」

☆★☆★☆★☆★☆★

 寝起きに感じるのは空腹だ。
 陽の光から養分を作るはずの手は、今はその役目を果たさない。
 だが、伸ばす足には豊かな養分を感じる。
 すぐに空腹は満たされる。

「……そろそろ起きるか」

 空気は刺すように冷たい。
 しかし、陽の光がそれを和らげてくれる。

「うーんっ!」

 伸びをするように腕を揺らす。

「よく寝たな」

 寝る子は育つ。
 というのもおこがましい良い大人だが、身体が成長するのは確かだ。

「ふむ。蕾も大きくなってきたな」

 自分の腕を眺めて、育ち具合を確認する。

「これなら、例年通りに花を咲かせられるだろう」

 この歳になると、年を追うごとに大幅に成長する、というわけにはいかない。
 しかし、年々衰えるといったこともない。
 毎年、安定して花を咲かせるのが、今の吾輩の生きがいだ。

「モモとスモモは……」

 二人とも、まだ寝ているようだ。

「まあ、ゆっくり寝かせてやるか」

 小娘は出会ってから初めての冬なので分からないが、ピンク色が起きるのは、毎年、吾輩よりも遅い。

「二人が寝ている間に満開にして、驚かせてやるか」

 今から楽しみだ。
 それを想像すると、一人で待つ時間も退屈ではない。

☆★☆★☆★☆★☆★

「蕾の成長も順調だな」

 もう少しで、最初の花が咲きそうだ。

「……二人はまだ起きないな」

 なんとなく、そわそわする。
 ピンク色の寝起きが悪いのは毎年のことだ。
 たいてい、吾輩の花が咲いてから目覚める。
 だから、別に焦ることではない。
 しかし、そわそわする。

「やはり、スモモがいるからか?」

 せっかくなので、咲くところを見せたい。
 見せて感想を聞きたい。
 目立ちたがり屋のつもりはないのだが、こんな子供っぽいところがあるとは、自分の事ながら驚きだ。

「これが子を持つ親の気持ちというやつか」

 もしくは、妹にいいところを見せたい兄の心情か。
 どちらにせよ、嫌な気分ではない。
 家族がいるというのは、いいものだ。

「う、うーん……」

 そんなことを考えていたからか。
 ひさしく聞いていなかった声が聞こえた。

「……」

 眠そうにしながら、手を揺らしている。
 しばし、その様子を見守る。

「ふあぁぁぁ……」

 大きな欠伸だ。

「まだ、寒いですぅ……」

 陽気はいいのだが、吾輩に比べて身体が小さいからか、芯まで温まっていないようだ。

「もう少し寝ますぅ……」
「!」

 呟きながら、再び夢の世界へ旅出そうとする小娘に、思わず反応してしまう。

「あー、そのー、スモモ。そろそろ起きてはどうだ?」

 無理に起こすことはないと思いつつも、声をかける。
 せっかくの話し相手だ。
 一度膨らんだ期待は、自然と声を漏れさせた。

「んぅ? ……おはようございます、ウメ兄さん」
「ああ、おはよう」

 まだ、少し寝ぼけているようだ。

「よく眠れたか?」
「はいっ! なんだか、身体に活力が満ちていますっ!」

 小娘は寝起きがいいようだ。
 すぐに元気な挨拶を返してくる。

「あっ! ウメ兄さん、蕾がっ!」

 言われて腕を見ると、蕾の1つから花びらが見え始めていた。

「スモモよ、お前は運がいいぞ。吾輩が咲き始めるのに間に合った」
「はいっ! うわぁ、綺麗だなぁ」

 吾輩の蕾を見ながら、感嘆の声を上げる小娘。
 嬉しくは思うが、気が早い。

「まだ、微かに見える程度だろう。本格的に咲くのは、これからだ」
「楽しみですっ!」

 こうも素直に称えてくれると嬉しいものだな。
 こちらも、お返しをしなければなるまい。

「楽しみなのは、吾輩も同じだ。スモモの花を見るのは初めてだからな」
「わたしの?」

 自分の身体を見回す小娘。

「あっ! 蕾ができてるっ!」

 数は少ない。
 だが、小娘の身体には確かに膨らみかけの蕾がある。

「わたし、花を咲かせるのは初めてですっ!」
「成長期とは言え、この地に来た次の年に咲かせるとは優秀だな」
「優秀だなんて、そんな。でも、嬉しいですっ!」

 照れながらも、こちらの言葉に喜ぶ小娘。
 小娘は、吾輩よりも少し遅く、ピンク色よりは少し早く、花咲くようだな。

「女の子の膨らみかけの蕾を愛でるなんて、セクハラよー、ウメさん」

 そこへ聞こえてきたのは、眠そうな声。

「おはようございます、モモ姉さん!」
「いきなり、ずいぶんな挨拶だな、モモ」
「おはようー」

 まだ、眠そうだ。
 それも無理はない。
 いつもの年なら、まだ寝ている時期だ。

「今年は早起きだな」
「二人の楽しそうな声が聞こえてきてねー」
「あっ! ごめんなさいっ!うるさかったですか?」
「いいの、そろそろ暖かくなってきたしねー」

 確かに暖かくなってきている。
 しかし、例年と比べて、特に暖かいというわけではない。
 気をつかって、そう言ったのだろう。
 だが、機嫌が悪そうな様子はない。
 ピンク色も小娘と話したかったのだろう。

「そうそう、それでねー、スモモちゃん。ウメさんって意外と狼だから、油断しちゃダメよー」
「その話を続けるのか!?」
「ウメさんったら、子供の裸を見て、喜んだりするんだからー」
「人聞きの悪い言い方をするな! 昔、若木の肌が滑らかで美しいと言っただけだろう!?」

 吾輩とピンク色が言い争っていると、くすくすと笑う声が聞こえてくる。

「あはっ! 大丈夫ですっ! ウメさんのことは信じてますからっ!」

 眩しい笑顔で、そう言ってくる。

「そ、そうか」

 全面的な信頼を向けられるというのは、くすぐったいものだな。

「いいのー? そんなこと言って? 知らない間に妊娠しちゃうかも知れないわよー?」

 しつこく、吾輩のことを変態にしたがるピンク色。
 寝起きのせいか、今日は妙に絡んでくるな。

「それは、そのぅ……」
「あれー? 意外と満更でもなさそう?」
「えっと、そのぅ……合意の上ならっ!」

 なにを言い出すのだ。
 さすがの吾輩も、何十歳も年下の子供に手を出すつもりはないぞ。
 小娘は照れたように、ばっさばっさと腕を揺らす。
 こちらは、寝起きのせいか、テンションが高いな。

「だってー、ウメさん」

 ピンク色がからかうように言ってくる。

「よろしくお願いしますっ!」

 よろしくと言われても、なにをよろしくすれば良いのだ。
 子作りを?

「まあ、ぼちぼちな」

 とりあえず、そう言っておいた。
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