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8話 夢へ向かう黒翼

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 誠先生が現れたのは、アンズさんが去ってから10分後でした。
「こんばんはいちごさん。この間はすまなかったね」
「いえ、私の方こそごめんなさい」
 誠先生が頭を下げると、私も真似をします。
「では行きましょうか。先生、私についてきて下さい」
 先生は頷き、私と共に街頭が輝く夜道を歩き出します。

「先生が会いたい女性はどんな方なのですか?」
 ふと、気になってたずねてみると誠先生は遠くを眺めます。まるで話に聞く夕梨花さんがそこにいるかの様な、ここじゃない、どこか。
「そうだね、静かだけど微笑みを絶やさない人だったよ。彼女は学校を休みがちだった。僕は勉強が出来る事だけが取り柄だったから、彼女に勉強を教えていたんだ。そしたら夕梨花は誠は先生になるといいよって……。だから、だから僕は教師になったんだ……」
 話しているうちに、先生の瞳から一筋の涙が流れました。男の人が泣くのを私は初めて見た気がします。私には、その雫は女達私達には無い美しさだと思いました。
「彼女はまるで頬笑んで嵐をやり過ごすかの様な、心の強い人だった。……そういえばどこか、君に似ている気もする」

「私がですか? 私はあまり笑う方でも、強くも無いのですが......」
「そんな事無いよ。君はあの子と同じ、力強い強い瞳を持っている」
 私は強くなんてありません。夜をやり過ごすことすら出来ませんから。それに笑顔だって相手を悦ばせる笑い方しか出来ません。
 ――それでも、もし私が誠先生の初恋の人に似ているなら、どこか嬉しい様な気がしました。

「先生。夢の中で、夕梨花さんとの時間を思いっきり楽しんで下さい。そして、出来なかった愛の告白をしてください。これから見る夢は先生が、先生の為に見る夢なのですから。私も先生の恋のお役に立てるなら嬉しいです」
「君は……天使かい?」
 私は呆然とした表情で尋ねる先生に、ルシルさんの真似をして笑いました。彼ならきっとこう言うはずです。
「いいえ、私は悪魔なんですよ」
 そう言うと先生はますます不思議そうな顔をしたのです。

 マンションに着くと、ルシルさんは相変わらず優雅にソファーに座り、コーヒーを飲んでいました。実に王様らしいです。
「おかえりいちごちゃん。迷わなかったんだね。えらいえらい」
「わたし、記憶力は良いですから」
「そうだったね。特技がある事は実にいい事だ。人はみんな不器用だからこそ、特技を見つけるんだ」彼は目を閉じてティーカップに唇を付けました。

 部屋に視線を移すとリビングにはいつの間にか、ベッドが設置されていました。光を反射する様な黒に、銀色で花や葉、茎などの植物が装飾された、まるで月光に照らされた草原のような寝具でした。それと香水でしょうか? どこからか瑞々みずみずしい花の香りがします。
「そのベッドは?」
 私が聞くと、ルシルさんはよくぞ聞いてくれたと言うように嬉しそうに笑います。
「仕事道具だよ。これが無くても夢は見れるけれど、それじゃ味気がないからね。今回のテーマは原っぱで真夏の夜空を見上げるイメージなのさ」私が前に見た彼の夢の見せ方は、指を鳴らす仕草だけでした。
「ルシルさんはいつも必要のない事を楽しそうにしますね」
 ――本当に不思議な人。私の知っている男性というものは、とにかく無駄を嫌っていたのに、この人はいつもわざと回り道をするのです。

 さて葛城さん、そこに横になって、目を閉じてください」
「――はい」
「息を大きく吸って、リラックスをして。貴方が見たい夢を想像してください。貴方が会いたい人を想像して下さい。次に目が覚めた時、貴方の目の前には、ノスタルジーな情景が広がっているでしょう」
 誠先生はルシルさんの言う通りにします。
「......夕梨花。今、君に会いに行くよ」彼が静かに呟くのが聞こえました。
「それでは葛城誠さん。――今宵は良きGood夜を――naight
 ルシルさんの優しい口調と共にパチンと指を鳴らし、それと同時に、誠先生はカクンと、穏やかな表情で眠りに堕ちていったのです。先程までの疲れたお顔は、幻の様に消えていました。

「さて、では行こうか、いちごちゃん」
「行くってどこに……?」
 ルシルさんはいたずらっぽく口に指を当て頬笑みます。
「俺達は夢魔だ。仕事は大体終わったが、彼の見る夢を最後まで見届けようじゃないか。――さぁ、共に
夢を見よう」
 その瞬間、彼の背中から黒い翼が広がり、沢山の羽が舞い散り、私の視界いっぱいに広がり――、そして、そして。
 私達は夢の中へ――飛び立つのです。


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