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第五話:『硝子の棺』
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土産だと言って渡されたのは、空港で売っている安っぽい塩ちんすこうの箱だった。 南国の青い海と空がプリントされたパッケージ。 それを受け取った俺の手は、自分でも驚くほど冷え切っていた。
「悪いな、バタバタしてて選ぶ時間なくてさ」
翔はいつものようにソファに座り、ネクタイを緩めている。 その顔は日焼けし、健康的な小麦色に輝いている。 俺の知らない時間の痕跡。 彼が太陽の下で、彼女と笑い合っていた時間の証。
「……楽しかった?」
俺の声は、枯れ木のようだった。 翔はスマホをいじりながら、気のない返事をする。
「まあな。海入っただけだけど」
嘘だ。 俺は知っている。お前たちが高級リゾートホテルに泊まり、キャンドルの灯るディナーを楽しみ、そして同じベッドで愛を囁き合ったことを。 彼女のSNSには、そのすべてが克明に記録されていた。
『最高の記念日。彼がプロポーズしてくれました。答えはもちろんYES!』
左手の薬指に輝くプラチナのリング。 その写真を見た瞬間、俺の中で張り詰めていた最後の糸が、プツンと音を立てて切れたのだ。
俺はテーブルの上にスマホを置いた。 画面には、その投稿が表示されている。 ことりと音がして、翔が視線を上げた。 画面を見た瞬間、彼の日焼けした顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。 時が止まる。 エアコンの送風音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……お前、これ」
翔の声が震えている。焦りか、怒りか。
「美咲さん、だろ? 綺麗な人じゃないか」
俺は平静を装い、しかし口角が引きつるのを止められなかった。
「プロポーズ、成功してよかったな。おめでとう」
言葉とは裏腹に、俺の目からは殺意に近い感情が溢れ出していたはずだ。 翔は舌打ちをし、乱暴にスマホを裏返した。
「……見たのかよ。趣味悪いな」
謝罪ではない。開き直りだ。 その態度が、俺の胸にどす黒い炎を注ぎ込んだ。
「趣味が悪い? どっちがだよ。婚約者がいるのに、同級生をセフレにして、平気な顔して嘘ついて。お前、自分が何してるか分かってんの?」
「セフレって言うなよ。人聞き悪い」
翔は面倒くさそうに頭をかき、ため息をついた。
「別にお前のこと嫌いじゃないし、相性もいいし。結婚したって、たまに会って遊ぶくらいできるだろ? 美咲にはバレないようにうまくやるし」
耳を疑った。 こいつは、何を言っているんだ? 結婚しても続ける? 俺を、一生日陰の存在として飼い殺すつもりなのか?
「ふざけるな!」
俺は叫び、テーブルの上のちんすこうの箱を床に叩きつけた。 箱が潰れ、中身が散乱する。
「俺は遊び道具じゃない! 心があるんだよ! 七年前もそうだった。お前はいつも、自分の都合だけで俺を振り回して……!」
「うるせえな!」
翔が立ち上がり、俺の胸ぐらを掴んだ。 強い力。 かつて愛おしいと感じたその腕力は、今は暴力の象徴でしかなかった。
「お前が勝手に惚れて、勝手に期待しただけだろ! 俺は最初から言ったよな? 『男同士で本気になれるわけない』って。忘れたのかよ!」
蘇る記憶。 高校の部室。西日。冷たい拒絶の言葉。 ああ、そうだ。彼は変わっていない。 変わったと信じたかったのは俺だけで、彼は最初から、残酷な子供のままだったのだ。
涙が溢れた。 悲しみではない。悔しさと、自分自身への絶望だ。 こんな男に、人生の半分を捧げてしまった。 こんな男の体に溺れ、愛されていると錯覚していた。
「……言うよ」
俺は翔の目を睨み返した。
「美咲さんに、全部言う。俺たちのこと。写真も、LINEの履歴も、全部残ってる。彼女に送ってやる」
それは、自爆テロにも等しい脅しだった。 そんなことをすれば、翔だけでなく、俺の尊厳も地に落ちる。 だが、今の俺にはそれしか武器がなかった。彼を傷つけられるなら、自分の命など惜しくなかった。
翔の顔色が変わった。 今度は、明確な恐怖と、それを上回る激怒の色だった。
「やめろ。殺すぞ」
低い声。本気だった。
「やめない。今すぐ送る」
俺がポケットから自分のスマホを取り出そうとした瞬間、翔の拳が飛んできた。 鈍い音と共に、視界が明滅する。 頬に走る激痛。口の中に広がる鉄の味。 俺は床に倒れ込み、それでも指を動かして画面をタップしようとした。 すでにメッセージは作成済みだったのだ。
『翔くんの高校時代の同級生です。彼とは体の関係があります』
送信ボタンを押すだけの状態。
翔が俺の上に馬乗りになり、スマホを奪い取ろうとする。 もみ合い。 爪が肌を裂き、服が破れる。 愛し合ったはずの体同士が、今は互いを破壊しようとぶつかり合う。
「離せっ!」
「寄越せよクズが!」
その拍子に、俺の指が画面に触れた。
『送信完了』の文字。
時を同じくして、テーブルの上にあった翔のスマホが、ブブブ、と不吉な音を立てて震え始めた。
画面には『美咲』の文字。
終わった。 すべてが。
翔は動きを止め、震える自分のスマホと、俺の顔を交互に見た。 そして、ゆっくりと立ち上がり、俺を見下ろした。 その目は、もう人間を見る目ではなかった。 ゴミ。汚物。この世から消し去るべき害悪を見る目。
「……お前、マジで死ねよ」
翔は俺の腹を一度だけ強く蹴り上げると、自分の荷物をひったくり、逃げるように部屋を出て行った。 バタン、というドアの音が、俺の人生の幕引きの音のように響いた。
その後の日々は、地獄という表現すら生ぬるいものだった。 翔と美咲さんの婚約は破談になったらしい。 当然の結果だ。 だが、翔はただでは転ばなかった。 彼は自分の保身のために、すべての罪を俺になすりつけたのだ。
ある日、会社に出勤すると、同僚たちの視線が痛いほど突き刺さった。 ひそひそ話。嘲笑。白い目。 SNSには、匿名のアカウントから俺の実名入りで誹謗中傷が書き込まれていた。
『高校の時からストーカーだったらしい』
『無理やり関係を迫って、断られたら逆恨みで婚約者に嘘を吹き込んだ』
『ホモでストーカーとか、最悪』
翔が流した噂だった。 彼は周囲に、
「昔から俺に執着している異常な同級生に脅されていた」
と吹聴していたのだ。 美咲さんに対しても、そう言い訳をしたのだろう。
「無理やり襲われて、写真も撮られて脅されていた」
と。 真実はねじ曲げられ、俺は「被害者」から、狂気じみた「加害者」へと仕立て上げられた。
弁解など誰が聞いてくれるだろう。 世間は、面白おかしいスキャンダルと、分かりやすい悪役を求めている。 俺は会社にいられなくなり、退職を余儀なくされた。 住んでいたマンションも、特定された住所に嫌がらせの手紙が届くようになり、逃げるように引っ越した。
季節は冬になっていた。 安アパートの一室。暖房をつける金も惜しく、俺は薄暗い部屋で布団にくるまっていた。 スマホは解約した。外の世界との繋がりは、すべて断ち切った。
目を閉じると、今でも鮮明に思い出す。 高校の修学旅行、湯気の中で見た翔の輝くような肉体。 卒業式の日の、冷たい西日。 同窓会の夜の、甘い香水の匂い。 そして、俺の首を絞めたときの手の熱さ。
不思議なことに、これほど酷い目に遭わされても、俺は彼を憎みきれずにいた。 彼に蹴られた腹部の痛みが、殴られた頬の痛みが、彼が俺に残してくれた唯一の「愛」の痕跡のように思えてしまうのだ。 俺がつけたかった傷跡は、彼には届かなかった。 彼は「ストーカー被害に遭った可哀想な男」として同情を集め、いずれまた別の女性を見つけて幸せになるだろう。 傷を負ったのは、俺だけだ。
窓の外では、冷たい雨が降り続いている。 俺は一人、硝子の棺のようなこの部屋で、色褪せない記憶という名の死体を抱いて生きていく。 もしもあの時、大浴場で彼に見惚れたりしなければ。 もしも卒業式で告白なんてしなければ。 もしも同窓会に行かなければ。
無数の「もしも」が、走馬灯のように浮かんでは消える。 けれど、何度人生をやり直しても、俺はきっとまた彼に恋をして、また同じように地獄へ堕ちるのだろう。 だって、あの夜、俺の名前を呼んでくれた彼の声だけは、嘘偽りのない真実のように、今も俺の鼓膜を震わせ続けているのだから。
「……翔」
誰もいない虚空に向かって、その名前を呼ぶ。 返事はない。 あるのは、雨音と、自分の心臓が刻む、虚しいリズムだけ。
これが、俺の恋の結末。 甘く、苦く、そして腐敗した、硝子の果実の味だった。
(完)
「悪いな、バタバタしてて選ぶ時間なくてさ」
翔はいつものようにソファに座り、ネクタイを緩めている。 その顔は日焼けし、健康的な小麦色に輝いている。 俺の知らない時間の痕跡。 彼が太陽の下で、彼女と笑い合っていた時間の証。
「……楽しかった?」
俺の声は、枯れ木のようだった。 翔はスマホをいじりながら、気のない返事をする。
「まあな。海入っただけだけど」
嘘だ。 俺は知っている。お前たちが高級リゾートホテルに泊まり、キャンドルの灯るディナーを楽しみ、そして同じベッドで愛を囁き合ったことを。 彼女のSNSには、そのすべてが克明に記録されていた。
『最高の記念日。彼がプロポーズしてくれました。答えはもちろんYES!』
左手の薬指に輝くプラチナのリング。 その写真を見た瞬間、俺の中で張り詰めていた最後の糸が、プツンと音を立てて切れたのだ。
俺はテーブルの上にスマホを置いた。 画面には、その投稿が表示されている。 ことりと音がして、翔が視線を上げた。 画面を見た瞬間、彼の日焼けした顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。 時が止まる。 エアコンの送風音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……お前、これ」
翔の声が震えている。焦りか、怒りか。
「美咲さん、だろ? 綺麗な人じゃないか」
俺は平静を装い、しかし口角が引きつるのを止められなかった。
「プロポーズ、成功してよかったな。おめでとう」
言葉とは裏腹に、俺の目からは殺意に近い感情が溢れ出していたはずだ。 翔は舌打ちをし、乱暴にスマホを裏返した。
「……見たのかよ。趣味悪いな」
謝罪ではない。開き直りだ。 その態度が、俺の胸にどす黒い炎を注ぎ込んだ。
「趣味が悪い? どっちがだよ。婚約者がいるのに、同級生をセフレにして、平気な顔して嘘ついて。お前、自分が何してるか分かってんの?」
「セフレって言うなよ。人聞き悪い」
翔は面倒くさそうに頭をかき、ため息をついた。
「別にお前のこと嫌いじゃないし、相性もいいし。結婚したって、たまに会って遊ぶくらいできるだろ? 美咲にはバレないようにうまくやるし」
耳を疑った。 こいつは、何を言っているんだ? 結婚しても続ける? 俺を、一生日陰の存在として飼い殺すつもりなのか?
「ふざけるな!」
俺は叫び、テーブルの上のちんすこうの箱を床に叩きつけた。 箱が潰れ、中身が散乱する。
「俺は遊び道具じゃない! 心があるんだよ! 七年前もそうだった。お前はいつも、自分の都合だけで俺を振り回して……!」
「うるせえな!」
翔が立ち上がり、俺の胸ぐらを掴んだ。 強い力。 かつて愛おしいと感じたその腕力は、今は暴力の象徴でしかなかった。
「お前が勝手に惚れて、勝手に期待しただけだろ! 俺は最初から言ったよな? 『男同士で本気になれるわけない』って。忘れたのかよ!」
蘇る記憶。 高校の部室。西日。冷たい拒絶の言葉。 ああ、そうだ。彼は変わっていない。 変わったと信じたかったのは俺だけで、彼は最初から、残酷な子供のままだったのだ。
涙が溢れた。 悲しみではない。悔しさと、自分自身への絶望だ。 こんな男に、人生の半分を捧げてしまった。 こんな男の体に溺れ、愛されていると錯覚していた。
「……言うよ」
俺は翔の目を睨み返した。
「美咲さんに、全部言う。俺たちのこと。写真も、LINEの履歴も、全部残ってる。彼女に送ってやる」
それは、自爆テロにも等しい脅しだった。 そんなことをすれば、翔だけでなく、俺の尊厳も地に落ちる。 だが、今の俺にはそれしか武器がなかった。彼を傷つけられるなら、自分の命など惜しくなかった。
翔の顔色が変わった。 今度は、明確な恐怖と、それを上回る激怒の色だった。
「やめろ。殺すぞ」
低い声。本気だった。
「やめない。今すぐ送る」
俺がポケットから自分のスマホを取り出そうとした瞬間、翔の拳が飛んできた。 鈍い音と共に、視界が明滅する。 頬に走る激痛。口の中に広がる鉄の味。 俺は床に倒れ込み、それでも指を動かして画面をタップしようとした。 すでにメッセージは作成済みだったのだ。
『翔くんの高校時代の同級生です。彼とは体の関係があります』
送信ボタンを押すだけの状態。
翔が俺の上に馬乗りになり、スマホを奪い取ろうとする。 もみ合い。 爪が肌を裂き、服が破れる。 愛し合ったはずの体同士が、今は互いを破壊しようとぶつかり合う。
「離せっ!」
「寄越せよクズが!」
その拍子に、俺の指が画面に触れた。
『送信完了』の文字。
時を同じくして、テーブルの上にあった翔のスマホが、ブブブ、と不吉な音を立てて震え始めた。
画面には『美咲』の文字。
終わった。 すべてが。
翔は動きを止め、震える自分のスマホと、俺の顔を交互に見た。 そして、ゆっくりと立ち上がり、俺を見下ろした。 その目は、もう人間を見る目ではなかった。 ゴミ。汚物。この世から消し去るべき害悪を見る目。
「……お前、マジで死ねよ」
翔は俺の腹を一度だけ強く蹴り上げると、自分の荷物をひったくり、逃げるように部屋を出て行った。 バタン、というドアの音が、俺の人生の幕引きの音のように響いた。
その後の日々は、地獄という表現すら生ぬるいものだった。 翔と美咲さんの婚約は破談になったらしい。 当然の結果だ。 だが、翔はただでは転ばなかった。 彼は自分の保身のために、すべての罪を俺になすりつけたのだ。
ある日、会社に出勤すると、同僚たちの視線が痛いほど突き刺さった。 ひそひそ話。嘲笑。白い目。 SNSには、匿名のアカウントから俺の実名入りで誹謗中傷が書き込まれていた。
『高校の時からストーカーだったらしい』
『無理やり関係を迫って、断られたら逆恨みで婚約者に嘘を吹き込んだ』
『ホモでストーカーとか、最悪』
翔が流した噂だった。 彼は周囲に、
「昔から俺に執着している異常な同級生に脅されていた」
と吹聴していたのだ。 美咲さんに対しても、そう言い訳をしたのだろう。
「無理やり襲われて、写真も撮られて脅されていた」
と。 真実はねじ曲げられ、俺は「被害者」から、狂気じみた「加害者」へと仕立て上げられた。
弁解など誰が聞いてくれるだろう。 世間は、面白おかしいスキャンダルと、分かりやすい悪役を求めている。 俺は会社にいられなくなり、退職を余儀なくされた。 住んでいたマンションも、特定された住所に嫌がらせの手紙が届くようになり、逃げるように引っ越した。
季節は冬になっていた。 安アパートの一室。暖房をつける金も惜しく、俺は薄暗い部屋で布団にくるまっていた。 スマホは解約した。外の世界との繋がりは、すべて断ち切った。
目を閉じると、今でも鮮明に思い出す。 高校の修学旅行、湯気の中で見た翔の輝くような肉体。 卒業式の日の、冷たい西日。 同窓会の夜の、甘い香水の匂い。 そして、俺の首を絞めたときの手の熱さ。
不思議なことに、これほど酷い目に遭わされても、俺は彼を憎みきれずにいた。 彼に蹴られた腹部の痛みが、殴られた頬の痛みが、彼が俺に残してくれた唯一の「愛」の痕跡のように思えてしまうのだ。 俺がつけたかった傷跡は、彼には届かなかった。 彼は「ストーカー被害に遭った可哀想な男」として同情を集め、いずれまた別の女性を見つけて幸せになるだろう。 傷を負ったのは、俺だけだ。
窓の外では、冷たい雨が降り続いている。 俺は一人、硝子の棺のようなこの部屋で、色褪せない記憶という名の死体を抱いて生きていく。 もしもあの時、大浴場で彼に見惚れたりしなければ。 もしも卒業式で告白なんてしなければ。 もしも同窓会に行かなければ。
無数の「もしも」が、走馬灯のように浮かんでは消える。 けれど、何度人生をやり直しても、俺はきっとまた彼に恋をして、また同じように地獄へ堕ちるのだろう。 だって、あの夜、俺の名前を呼んでくれた彼の声だけは、嘘偽りのない真実のように、今も俺の鼓膜を震わせ続けているのだから。
「……翔」
誰もいない虚空に向かって、その名前を呼ぶ。 返事はない。 あるのは、雨音と、自分の心臓が刻む、虚しいリズムだけ。
これが、俺の恋の結末。 甘く、苦く、そして腐敗した、硝子の果実の味だった。
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