11 / 123
第二章 神無月
1 サイレンの鳴る町
しおりを挟む
海岸沿いの県道を下った先が平坂町だった。
高い崖の上を車は進む。鉛色の海が窓に広がっていた。硝子を隔てて波を感じる。その景色に見飽きてきたとき、運転席から叔母が声を上げた。
「ほら、あれが平坂町だが。」
県道が大きく曲がる。同時に、サイドウィンドウに港が映った。湾曲した陸地から突堤が伸び、海を囲っている。港に連なる漁船と、陸地で波打つ無数の屋根瓦――あれが、
――お父さんと、お母さんの生まれ育った町。
そして、自分の故郷なのだ。
吸い込まれるように町へ入る。
町は、複雑な地形をしているようだ。道の左右で景色は違う。左は海と遠く、紅い布の垂れる軒が連なる。右は海に近く、民家の二階や屋根が竝んでいる。その合間から紅い点が見え隠れした――小さな灯台だ。
ゆるやかに曲がる道を、ゆるやかに上り下りしながら車は進む。
写真で目にした通りの雰囲気だ。うっすらと鳥肌が立つ。覚えている物は何もない。それなのに、懐かしさは覚えるのだ。
やがて車は減速し、駐車場に停まる。
バッグを取り、車から降りた。
海から風が渡り、紅い布を一斉になびかせる。
同時に思い出した――この潮の香りは覚えている。町にいたとき、常に嗅いでいたはずだ。
周囲を見回す。
まったく知らない場所だ。しかし、自分の胸の奥へと何かが響いてくる。
棒立ちした美邦へと、詠歌が語りかけた。
「どお? 懐かしいでしょ。何か覚えとるものなとあるでない?」
少し迷ったが、相槌を打つ。
「何となく覚えてる気がします――あの紅い布のこととか。」
「それか。」
こっちだで――と言い、詠歌は歩きだした。
そのあとを美邦は追う。
表通りを逸れ、階段状の路地を上っていった。
迷路のように折れ曲がった坂道の先――さらに石垣を登った上が渡辺家だ。半世紀近く建つこの家は、随所でリフォームしたほかは変わっていないという。
玄関には、境界を隔てるような紅い布が吊るされていた。
父の生家に初めて上がる。同時に、他人の家の匂いを嗅いだ。
靴を脱いでいると、隣接する階段から跫音が聞こえてきた。
暗がりから千秋が現れる。
顔を合わせた刹那、鏡を覗いたような感覚がした。しかし、褐色のその瞳は左右でそろっている。体格も、自分より一回り小さい。
「お姉さん、おかえりんさい。」
声は幼く、訛りも違う。
「ただいま。」
そう応えたものの、すこし可笑しくなる。
「でも――初めて来たのに。」
「ええがあ――。今日から住むだけえ。」
「うん。」うれしくも気恥ずかしい。「今日からよろしくね――千秋ちゃん。」
「こちらこそ、よろしく。」
そのやり取りを眺めていた詠歌が笑む。
「こうして竝びょおると、ほんに姉妹みたいだでなあ。」
千秋と目を交わす。
一瞬ののち、気まずさを感じた。
千秋の両眼は褐色だ――自分の右眼と同じように。しかし、片目だけ別方面を向くことはない。その劣等感がないためか、自分にあるような暗さが千秋にはない。
促すように詠歌が声をかけた。
「とりあえず、お父さんに先に挨拶しやか。」
「――ええ。」
仏間へと案内される。後ろに千秋もついてきた。
庭に面した仏間は、かすかに線香の匂いがした。鴨居に竝ぶ数枚のモノクロの遺影も、仏壇に飾られた父の遺影も新鮮だ。同時に奇妙でもある。特に、一枚だけ新しい天袋のふすまが気にかかった。
霊前に坐った。線香に火をつけ、鉦を鳴らし、手を合わせる。
父へと、帰ってきたことを念じてみる。それでも、伝わっている気はしない。事実、目の前にあるのは遺影と仏像だ――どちらも父ではない。
立ち上がろうとしたとき、バッグに千秋が手をかけた。
「京都から五時間も車に乗っとっただらあ? 持ったげる。」
思わず笑みが漏れる。
「うん――ありがとう。」
仏間を出て、元来た廊下を戻った。
詠歌に導かれ、千秋の気這いを背後に感じつつ階段を上る。
二階の廊下を進み、角を曲がった。
突き当りにあるふすまを詠歌が開く。
殺風景な六畳が現れた。しかし、締め切られているため薄暗い。そんな中に、いくつかの段ボールが置かれていた――京都から送った荷物だ。ここが美邦の新しい部屋らしい。
千秋が前へ進み出た。バッグを置き、窓へ近寄り、障子戸を開く。
光が差し、新しい景色が現れた。
遠くに山が見える――しかも綺麗な円錐形の。
その稜線に目が釘付けとなった。
引き寄せられるように近寄り、サッシに手をかける。
瓦ぶきの屋根や、張り巡らされた電線――その彼方に山はあった。整った二等辺三角形だ。灰色掛かった空の下で、青黒い巨躯を横たえている。
「お姉さん、気になるん?」
隣から聞こえた声で我に返る――千秋がいることさえ忘れていた。
「うん。」視線を山へ戻す。「綺麗な形の山だなって思って――。まるで富士山みたい。」
「ああ――。あれは伊吹山だぁが。あの麓に中学校もあるにい。」
「そう――なんだ。」
端正な稜線に見入る。
かすかに海鳴りも聞こえた。
恐らく、この窓から父も山を眺めたのだろう。見慣れた光景だったに違いない。
だが、唐突に違和感を覚える。
――なにか変。
山そのものというよりかは、窓から見える景色が。なぜか、一枚だけ新しい天袋のふすまを思い出す。おかえり――と言われたのに、嘘をつかれているような感じがした。
背後から詠歌が声をかける。
「とりあえず、大きな荷物は明日来るけん。小さな荷物を片付けちゃっといて。」
はい――と、美邦は応えた。
「千秋も、美邦ちゃんを手伝ったげてぇな。」
隣から、うん、と千秋が答えた。
あと――と、詠歌は言い、声のトーンを落とす。
「言っとくけど、暗くなったら外に出んでぇな。」
え――と訊き返した声がかすれる。
「この町は複雑な地形だけえ、夜になると交通事故なんかが多いだけぇ。そうでなくても、京都と違って、暗くなったら人通りが全くなあなるし、色々と危ないかもしらん。」
「そう――なんですか。」
千秋が補足する。
「あたしらもあんま出歩かんにぃ。なんてか――えらい寂しぃなるけん。」
刹那的に詠歌の顔が陰った。しかし、取り繕うように笑む。
「別に、治安が悪いとか、そがなことでないだけどな。町の外で働といる人でも、遅くまで帰って来んってことは、あまりないでないかいなあ。」
言葉を選ぶような――慎重に注意するような言い方だった。
*
詠歌が出て行ったあと、千秋と一緒に荷物を片付け始めた。
収納ボックスを押し入れに置き、衣類などを移してゆく。
作業を手伝いながら千秋が問うた。
「お姉さんの推しって何ぃ?」
衣類を手にしたまま固まる。
「――おし?」
「好きな人だぁが。アニメのキャラなと、芸能人なと、歌い手なと――なんなと。」
「――ああ。」
推しという漢字に思い当たる。そうして少し考えた。しかし何も出てこない。何かにはまったことが少ないせいでもある。だが――ここ数年、娯楽を遠ざけていたことが大きかった。
「私――うまく話せないかも。お父さんが病気になってから、家事とか看病とかで忙しくて、テレビもネットもあんま見られなかったから――。」
「――そうなん?」
寂しそうな顔を目にして美邦は言葉を継ぐ。
「でも――これからは余裕ができると思うし、いろいろ愉しみたい。千秋ちゃん――なにかお勧めあったら教えてほしいんだけど。」
「わかった!」千秋の顔が明るくなった。「あたし、推しは沢山あるにぃ。だけぇ、お姉さんに色々教えたげられる。」
「――よかった。」
「なにから話したらええか分からんだけど――。あたしの好きなのでアニメ化したのあって、原作は小説だけえ、学校でも読めるだけど――」
自分が好きな作品について千秋は語り始めた。
次々と繰り出てくる言葉に注意深く耳を傾ける。
――普通の子として溶け込まなきゃ。
それができる自信はない。しかし、新しい学校生活がもうすぐ始まる。クラスメイトと話を合わせるため、流行について知る必要があるだろう。ただ――。
心配なのは、千秋が少しオタク気質らしいところだ。
渡辺家に着いたときには十六時を既に回っていた。片付けが進むにつれ外は暗くなる。時計が十七時を指し、夕闇の彼方からサイレンが聞こえた。
ウゥウゥゥゥ――――ゥゥゥ―――――――――。
細かった音が急激に大きくなる。何かを警告するように、十数秒に亘って響き続けた。
ゥゥゥゥ――――ゥゥ―――ゥ。――――。――。
長い余韻が夕闇へ引いてゆく。
――暗くなったら外に出てはならない。
海が近い以上、京都にはなかった危険もあるはずだ。何かの事故や災害を警告する音なのかもしれない。
「――なんの音?」
千秋はきょとんとした。
「サイレン? 五時の時報だが?」
何でもないことに安心する。たしかに、夕方に音楽が鳴る自治体があるとは聞いたことがあった。
「平坂町じゃサイレンなの?」
「うん。正午と五時に。――京都じゃなかったん?」
「――なかったけど。」
片づけを終える。
そのあと、千秋の部屋に案内された。思った通り漫画や小説が多い。パソコンを起動し、お勧めのアニメを観る。友人の家へ泊る感覚を連想した――それでさえ美邦は未経験だ。
十九時ごろ、啓が帰ってきた。
夕食時間になり、居間へ下りる。テーブルには、平坂町産の刺身や蟹が竝んでいた。町の人の言葉からも、食卓からも、海の香りが漂ってくる。
蟹の食べかたを千秋から教わった。爪先を取り、断面から押し出せば簡単に身が取れるという。町の人にとって、蟹はありふれた食べ物だそうだ。
ふと、神社の話題を詠歌が出した。
不思議そうに千秋は訊き返す。
「――神社?」
そうそう――と、詠歌はうなづいた。
「美邦ちゃんな、この町におったとき神社にお参りしたって言うに。山の中にある大きな神社らしいだけど。けど、私には心当たりなぁて。」
「うーん。」千秋は首をかしげる。「あたしも、この町に神社があるなんて知らんけどいな。荒神様ならあるけど、あれは『祠』だでなあ。」
どうしても気にかかって美邦は尋ねる。
「でも、七五三とか初詣とかはどうしてるの?」
「初詣ってアニメに出てくるやつ?」
「――え?」
答えたのは詠歌だ。
「初詣は――市内の神社にお参りする人もおるけど、人によりけりでないかいな? 七五三も同じ。お寺さんが近かったら、そっちでする人もおるみたいだけど。」
「そう――ですか。」
千秋が何かに気づいた。
「ひょっとして、お姉さん、七五三とか初詣とか京都にはあったん?」
「え――あったけど?」
「屋台で水風船買ったりとかもした?」
「したけど――?」
「ええなあ――ほんにアニメみたい。」
詠歌が苦笑する。
「まあ、京都は神社やお寺がたくさんあるだけえ。平坂町とは違うわいな。」
「そう――ですか。」
落ち込む美邦を啓は気にかけたらしい。
「まあ――平坂町ってったって広いだけえ。探してみたら、山ん中にでもあるかもしらんが?」
「そうね」と詠歌はうなづく。「気になるんなら、荒神様にでも行ってみりゃええだが。美邦ちゃん小さかったけん、祠が大きく見えただけかも知らんでぇ?」
母親の言い方を気にしてか、すぐさま千秋が口を開く。
「あたし、案内したげやあか?」
美邦は首をかしげる。
「――荒神さまに?」
「うん。ほかに町のこととかも。」
詠歌とは違う言葉に安心する。
「ありがとう。」
見知らぬ土地で、新しい生活を始めることには不安しかなかった。しかし、千秋とは打ち解けられそうだ。
「それがええな。」詠歌も微笑む。「美邦ちゃん、この町について、なぁんも知らんもんな。」
*
風呂から上がり、寝間着に着替えて部屋へ戻る。
ふすまを開けたとき、窓の外に人影が見えた。しかし闇に目が慣るにつれて消えてゆく。
照明をつける。部屋の闇が追い払われた。だが、窓の外までは明るくならない。
美邦はそっと窓へ近寄る。
伊吹山は暗闇の中に姿を消していた。
海から渡り来る風の唸り声が聞こえる。あるいは、遠くから轟く海鳴りの残滓かもしれない。家々から漏れる光は少なかった。街燈の光が闇を薄くしている部分があり、それが不気味に感じられる。
今になって、詠歌が発した言葉の意味を理解した。
言われなくとも、外へ出るのが躊躇われる夜だ。闇の中から、何かがやって来そうな気がする。特に――夜闇に隠れているあの伊吹山の中から。
美邦はそっと障子を閉じた。
*
その晩、夢を見た。
目の前に、大きなドールハウスがある。向かい側には、小学生低学年ほどの女の子が坐っていた。
彼女は美邦の姉なのだ。自分に姉などいないはずなのに、夢の中の美邦は「妹」だった。
――だけんね、ちーちゃん。
諭すように「姉」は言う。
――わたしとちーちゃんにしか見えんもんは、他の人にしゃべっちゃいけんで。でないと、またお母さんも怒っちゃうけん。ひょっとしたら、この子らも捨てられちゃうかもしらん。
美邦は、手元の着せ替え人形を握りしめる。
わかった――と答える。
――それじゃあ、指切りしやぁか。
それから姉妹は、小指を絡ませ約束を交わした。
ただそれだけのことなのに、酷く懐かしい感触がする。このときになり、自分の帰るべき場所に帰ってこれたような気さえした。
高い崖の上を車は進む。鉛色の海が窓に広がっていた。硝子を隔てて波を感じる。その景色に見飽きてきたとき、運転席から叔母が声を上げた。
「ほら、あれが平坂町だが。」
県道が大きく曲がる。同時に、サイドウィンドウに港が映った。湾曲した陸地から突堤が伸び、海を囲っている。港に連なる漁船と、陸地で波打つ無数の屋根瓦――あれが、
――お父さんと、お母さんの生まれ育った町。
そして、自分の故郷なのだ。
吸い込まれるように町へ入る。
町は、複雑な地形をしているようだ。道の左右で景色は違う。左は海と遠く、紅い布の垂れる軒が連なる。右は海に近く、民家の二階や屋根が竝んでいる。その合間から紅い点が見え隠れした――小さな灯台だ。
ゆるやかに曲がる道を、ゆるやかに上り下りしながら車は進む。
写真で目にした通りの雰囲気だ。うっすらと鳥肌が立つ。覚えている物は何もない。それなのに、懐かしさは覚えるのだ。
やがて車は減速し、駐車場に停まる。
バッグを取り、車から降りた。
海から風が渡り、紅い布を一斉になびかせる。
同時に思い出した――この潮の香りは覚えている。町にいたとき、常に嗅いでいたはずだ。
周囲を見回す。
まったく知らない場所だ。しかし、自分の胸の奥へと何かが響いてくる。
棒立ちした美邦へと、詠歌が語りかけた。
「どお? 懐かしいでしょ。何か覚えとるものなとあるでない?」
少し迷ったが、相槌を打つ。
「何となく覚えてる気がします――あの紅い布のこととか。」
「それか。」
こっちだで――と言い、詠歌は歩きだした。
そのあとを美邦は追う。
表通りを逸れ、階段状の路地を上っていった。
迷路のように折れ曲がった坂道の先――さらに石垣を登った上が渡辺家だ。半世紀近く建つこの家は、随所でリフォームしたほかは変わっていないという。
玄関には、境界を隔てるような紅い布が吊るされていた。
父の生家に初めて上がる。同時に、他人の家の匂いを嗅いだ。
靴を脱いでいると、隣接する階段から跫音が聞こえてきた。
暗がりから千秋が現れる。
顔を合わせた刹那、鏡を覗いたような感覚がした。しかし、褐色のその瞳は左右でそろっている。体格も、自分より一回り小さい。
「お姉さん、おかえりんさい。」
声は幼く、訛りも違う。
「ただいま。」
そう応えたものの、すこし可笑しくなる。
「でも――初めて来たのに。」
「ええがあ――。今日から住むだけえ。」
「うん。」うれしくも気恥ずかしい。「今日からよろしくね――千秋ちゃん。」
「こちらこそ、よろしく。」
そのやり取りを眺めていた詠歌が笑む。
「こうして竝びょおると、ほんに姉妹みたいだでなあ。」
千秋と目を交わす。
一瞬ののち、気まずさを感じた。
千秋の両眼は褐色だ――自分の右眼と同じように。しかし、片目だけ別方面を向くことはない。その劣等感がないためか、自分にあるような暗さが千秋にはない。
促すように詠歌が声をかけた。
「とりあえず、お父さんに先に挨拶しやか。」
「――ええ。」
仏間へと案内される。後ろに千秋もついてきた。
庭に面した仏間は、かすかに線香の匂いがした。鴨居に竝ぶ数枚のモノクロの遺影も、仏壇に飾られた父の遺影も新鮮だ。同時に奇妙でもある。特に、一枚だけ新しい天袋のふすまが気にかかった。
霊前に坐った。線香に火をつけ、鉦を鳴らし、手を合わせる。
父へと、帰ってきたことを念じてみる。それでも、伝わっている気はしない。事実、目の前にあるのは遺影と仏像だ――どちらも父ではない。
立ち上がろうとしたとき、バッグに千秋が手をかけた。
「京都から五時間も車に乗っとっただらあ? 持ったげる。」
思わず笑みが漏れる。
「うん――ありがとう。」
仏間を出て、元来た廊下を戻った。
詠歌に導かれ、千秋の気這いを背後に感じつつ階段を上る。
二階の廊下を進み、角を曲がった。
突き当りにあるふすまを詠歌が開く。
殺風景な六畳が現れた。しかし、締め切られているため薄暗い。そんな中に、いくつかの段ボールが置かれていた――京都から送った荷物だ。ここが美邦の新しい部屋らしい。
千秋が前へ進み出た。バッグを置き、窓へ近寄り、障子戸を開く。
光が差し、新しい景色が現れた。
遠くに山が見える――しかも綺麗な円錐形の。
その稜線に目が釘付けとなった。
引き寄せられるように近寄り、サッシに手をかける。
瓦ぶきの屋根や、張り巡らされた電線――その彼方に山はあった。整った二等辺三角形だ。灰色掛かった空の下で、青黒い巨躯を横たえている。
「お姉さん、気になるん?」
隣から聞こえた声で我に返る――千秋がいることさえ忘れていた。
「うん。」視線を山へ戻す。「綺麗な形の山だなって思って――。まるで富士山みたい。」
「ああ――。あれは伊吹山だぁが。あの麓に中学校もあるにい。」
「そう――なんだ。」
端正な稜線に見入る。
かすかに海鳴りも聞こえた。
恐らく、この窓から父も山を眺めたのだろう。見慣れた光景だったに違いない。
だが、唐突に違和感を覚える。
――なにか変。
山そのものというよりかは、窓から見える景色が。なぜか、一枚だけ新しい天袋のふすまを思い出す。おかえり――と言われたのに、嘘をつかれているような感じがした。
背後から詠歌が声をかける。
「とりあえず、大きな荷物は明日来るけん。小さな荷物を片付けちゃっといて。」
はい――と、美邦は応えた。
「千秋も、美邦ちゃんを手伝ったげてぇな。」
隣から、うん、と千秋が答えた。
あと――と、詠歌は言い、声のトーンを落とす。
「言っとくけど、暗くなったら外に出んでぇな。」
え――と訊き返した声がかすれる。
「この町は複雑な地形だけえ、夜になると交通事故なんかが多いだけぇ。そうでなくても、京都と違って、暗くなったら人通りが全くなあなるし、色々と危ないかもしらん。」
「そう――なんですか。」
千秋が補足する。
「あたしらもあんま出歩かんにぃ。なんてか――えらい寂しぃなるけん。」
刹那的に詠歌の顔が陰った。しかし、取り繕うように笑む。
「別に、治安が悪いとか、そがなことでないだけどな。町の外で働といる人でも、遅くまで帰って来んってことは、あまりないでないかいなあ。」
言葉を選ぶような――慎重に注意するような言い方だった。
*
詠歌が出て行ったあと、千秋と一緒に荷物を片付け始めた。
収納ボックスを押し入れに置き、衣類などを移してゆく。
作業を手伝いながら千秋が問うた。
「お姉さんの推しって何ぃ?」
衣類を手にしたまま固まる。
「――おし?」
「好きな人だぁが。アニメのキャラなと、芸能人なと、歌い手なと――なんなと。」
「――ああ。」
推しという漢字に思い当たる。そうして少し考えた。しかし何も出てこない。何かにはまったことが少ないせいでもある。だが――ここ数年、娯楽を遠ざけていたことが大きかった。
「私――うまく話せないかも。お父さんが病気になってから、家事とか看病とかで忙しくて、テレビもネットもあんま見られなかったから――。」
「――そうなん?」
寂しそうな顔を目にして美邦は言葉を継ぐ。
「でも――これからは余裕ができると思うし、いろいろ愉しみたい。千秋ちゃん――なにかお勧めあったら教えてほしいんだけど。」
「わかった!」千秋の顔が明るくなった。「あたし、推しは沢山あるにぃ。だけぇ、お姉さんに色々教えたげられる。」
「――よかった。」
「なにから話したらええか分からんだけど――。あたしの好きなのでアニメ化したのあって、原作は小説だけえ、学校でも読めるだけど――」
自分が好きな作品について千秋は語り始めた。
次々と繰り出てくる言葉に注意深く耳を傾ける。
――普通の子として溶け込まなきゃ。
それができる自信はない。しかし、新しい学校生活がもうすぐ始まる。クラスメイトと話を合わせるため、流行について知る必要があるだろう。ただ――。
心配なのは、千秋が少しオタク気質らしいところだ。
渡辺家に着いたときには十六時を既に回っていた。片付けが進むにつれ外は暗くなる。時計が十七時を指し、夕闇の彼方からサイレンが聞こえた。
ウゥウゥゥゥ――――ゥゥゥ―――――――――。
細かった音が急激に大きくなる。何かを警告するように、十数秒に亘って響き続けた。
ゥゥゥゥ――――ゥゥ―――ゥ。――――。――。
長い余韻が夕闇へ引いてゆく。
――暗くなったら外に出てはならない。
海が近い以上、京都にはなかった危険もあるはずだ。何かの事故や災害を警告する音なのかもしれない。
「――なんの音?」
千秋はきょとんとした。
「サイレン? 五時の時報だが?」
何でもないことに安心する。たしかに、夕方に音楽が鳴る自治体があるとは聞いたことがあった。
「平坂町じゃサイレンなの?」
「うん。正午と五時に。――京都じゃなかったん?」
「――なかったけど。」
片づけを終える。
そのあと、千秋の部屋に案内された。思った通り漫画や小説が多い。パソコンを起動し、お勧めのアニメを観る。友人の家へ泊る感覚を連想した――それでさえ美邦は未経験だ。
十九時ごろ、啓が帰ってきた。
夕食時間になり、居間へ下りる。テーブルには、平坂町産の刺身や蟹が竝んでいた。町の人の言葉からも、食卓からも、海の香りが漂ってくる。
蟹の食べかたを千秋から教わった。爪先を取り、断面から押し出せば簡単に身が取れるという。町の人にとって、蟹はありふれた食べ物だそうだ。
ふと、神社の話題を詠歌が出した。
不思議そうに千秋は訊き返す。
「――神社?」
そうそう――と、詠歌はうなづいた。
「美邦ちゃんな、この町におったとき神社にお参りしたって言うに。山の中にある大きな神社らしいだけど。けど、私には心当たりなぁて。」
「うーん。」千秋は首をかしげる。「あたしも、この町に神社があるなんて知らんけどいな。荒神様ならあるけど、あれは『祠』だでなあ。」
どうしても気にかかって美邦は尋ねる。
「でも、七五三とか初詣とかはどうしてるの?」
「初詣ってアニメに出てくるやつ?」
「――え?」
答えたのは詠歌だ。
「初詣は――市内の神社にお参りする人もおるけど、人によりけりでないかいな? 七五三も同じ。お寺さんが近かったら、そっちでする人もおるみたいだけど。」
「そう――ですか。」
千秋が何かに気づいた。
「ひょっとして、お姉さん、七五三とか初詣とか京都にはあったん?」
「え――あったけど?」
「屋台で水風船買ったりとかもした?」
「したけど――?」
「ええなあ――ほんにアニメみたい。」
詠歌が苦笑する。
「まあ、京都は神社やお寺がたくさんあるだけえ。平坂町とは違うわいな。」
「そう――ですか。」
落ち込む美邦を啓は気にかけたらしい。
「まあ――平坂町ってったって広いだけえ。探してみたら、山ん中にでもあるかもしらんが?」
「そうね」と詠歌はうなづく。「気になるんなら、荒神様にでも行ってみりゃええだが。美邦ちゃん小さかったけん、祠が大きく見えただけかも知らんでぇ?」
母親の言い方を気にしてか、すぐさま千秋が口を開く。
「あたし、案内したげやあか?」
美邦は首をかしげる。
「――荒神さまに?」
「うん。ほかに町のこととかも。」
詠歌とは違う言葉に安心する。
「ありがとう。」
見知らぬ土地で、新しい生活を始めることには不安しかなかった。しかし、千秋とは打ち解けられそうだ。
「それがええな。」詠歌も微笑む。「美邦ちゃん、この町について、なぁんも知らんもんな。」
*
風呂から上がり、寝間着に着替えて部屋へ戻る。
ふすまを開けたとき、窓の外に人影が見えた。しかし闇に目が慣るにつれて消えてゆく。
照明をつける。部屋の闇が追い払われた。だが、窓の外までは明るくならない。
美邦はそっと窓へ近寄る。
伊吹山は暗闇の中に姿を消していた。
海から渡り来る風の唸り声が聞こえる。あるいは、遠くから轟く海鳴りの残滓かもしれない。家々から漏れる光は少なかった。街燈の光が闇を薄くしている部分があり、それが不気味に感じられる。
今になって、詠歌が発した言葉の意味を理解した。
言われなくとも、外へ出るのが躊躇われる夜だ。闇の中から、何かがやって来そうな気がする。特に――夜闇に隠れているあの伊吹山の中から。
美邦はそっと障子を閉じた。
*
その晩、夢を見た。
目の前に、大きなドールハウスがある。向かい側には、小学生低学年ほどの女の子が坐っていた。
彼女は美邦の姉なのだ。自分に姉などいないはずなのに、夢の中の美邦は「妹」だった。
――だけんね、ちーちゃん。
諭すように「姉」は言う。
――わたしとちーちゃんにしか見えんもんは、他の人にしゃべっちゃいけんで。でないと、またお母さんも怒っちゃうけん。ひょっとしたら、この子らも捨てられちゃうかもしらん。
美邦は、手元の着せ替え人形を握りしめる。
わかった――と答える。
――それじゃあ、指切りしやぁか。
それから姉妹は、小指を絡ませ約束を交わした。
ただそれだけのことなのに、酷く懐かしい感触がする。このときになり、自分の帰るべき場所に帰ってこれたような気さえした。
2
あなたにおすすめの小説
それなりに怖い話。
只野誠
ホラー
これは創作です。
実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。
本当に、実際に起きた話ではございません。
なので、安心して読むことができます。
オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。
不定期に章を追加していきます。
2025/12/25:『がんじつのおおあめ』の章を追加。2026/1/1の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/24:『おおみそか』の章を追加。2025/12/31の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/23:『みこし』の章を追加。2025/12/30の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/22:『かれんだー』の章を追加。2025/12/29の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/21:『おつきさまがみている』の章を追加。2025/12/28の朝8時頃より公開開始予定。
2025/12/20:『にんぎょう』の章を追加。2025/12/27の朝8時頃より公開開始予定。
2025/12/19:『ひるさがり』の章を追加。2025/12/26の朝4時頃より公開開始予定。
※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
(ほぼ)1分で読める怖い話
涼宮さん
ホラー
ほぼ1分で読める怖い話!
【ホラー・ミステリーでTOP10入りありがとうございます!】
1分で読めないのもあるけどね
主人公はそれぞれ別という設定です
フィクションの話やノンフィクションの話も…。
サクサク読めて楽しい!(矛盾してる)
⚠︎この物語で出てくる場所は実在する場所とは全く関係御座いません
⚠︎他の人の作品と酷似している場合はお知らせください
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
百物語 厄災
嵐山ノキ
ホラー
怪談の百物語です。一話一話は長くありませんのでお好きなときにお読みください。渾身の仕掛けも盛り込んでおり、最後まで読むと驚くべき何かが提示されます。
小説家になろう、エブリスタにも投稿しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる