向かいの席の彼女

荒深小五郎

文字の大きさ
6 / 6

6

しおりを挟む
彼女がいなくなった朝、机の上には何もなかった。
いつものように座ろうとして、ふと顔を上げたとき、目の前に誰もいない光景に、ようやく現実が追いついてきた。

昨日までは当たり前にいたはずの人が、
今日はもういない。
ただそれだけのことが、思っていた以上に堪えた。

空いた席を誰が埋めるのかは、まだ決まっていない。
けれど、どんな誰が座っても、あの時の空気はもう戻らないんだろうなとわかっている。

机をふくふりをして、なんとなく彼女のいた机の角にも手を伸ばす。

もう、そこに彼女はいないのに。
でも、そんなふうにしていると、まだどこかで「おつかれさまです」と声をかけられるような気がした。

思い返せば、何を話していたかなんて、
細かいことはあまり覚えていない。
けれど、その時間の温度だけは、不思議と残っている。

もっと話しておけばよかった、とは思わない。
だけど、あとほんの少しだけ──
たとえば1週間でも、近くにいられたらよかったなと、そう思ってしまう。

「じゃあね」も「またね」も、きっと彼女はあえて言わなかったんだろう。
それが彼女らしさだったし、そのほうがきっと、優しい。

今も、新しい部署で彼女は誰かと笑っているのかもしれない。
誰かとまた、冗談を交わしているのかもしれない。
その姿を思い浮かべて、「それでいい」と思える自分も、ここにいる。

関係に名前をつけなくても、なにかは確かにあった。
そんな気がする春の朝だった。

あの日々はもう戻っては来ない。
けれど、美しい思い出として残しておくのが幸せなのかもしれない。

しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

不倫の味

麻実
恋愛
夫に裏切られた妻。彼女は家族を大事にしていて見失っていたものに気付く・・・。

【完結】さよなら私の初恋

山葵
恋愛
私の婚約者が妹に見せる笑顔は私に向けられる事はない。 初恋の貴方が妹を望むなら、私は貴方の幸せを願って身を引きましょう。 さようなら私の初恋。

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

さよなら 大好きな人

小夏 礼
恋愛
女神の娘かもしれない紫の瞳を持つアーリアは、第2王子の婚約者だった。 政略結婚だが、それでもアーリアは第2王子のことが好きだった。 彼にふさわしい女性になるために努力するほど。 しかし、アーリアのそんな気持ちは、 ある日、第2王子によって踏み躙られることになる…… ※本編は悲恋です。 ※裏話や番外編を読むと本編のイメージが変わりますので、悲恋のままが良い方はご注意ください。 ※本編2(+0.5)、裏話1、番外編2の計5(+0.5)話です。

なくなって気付く愛

戒月冷音
恋愛
生まれて死ぬまで…意味があるのかしら?

離婚した妻の旅先

tartan321
恋愛
タイトル通りです。

処理中です...