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序章
序章1ー2:アレクシス
しおりを挟むカチャカチャ、と食器が軽くぶつかる音がする。
窓ガラスには、雨粒がぶつかる音も混じる。
夜の雨は嫌いだ。
けれど、誰かが傍にいてくれる気配が、アレクシスの孤独をそっと癒やしていく。
アレクシスは、ローランドがプレゼントしてくれた『聖剣と勇者の物語』の表紙をじっくりと見つめた。
深い瑠璃色の革で装丁され、手に取るとひんやりとした重みが伝わってくる。
表紙の中央には銀箔で象られた一本の聖剣が刻まれ、その刃先からは光のように繊細な蔦模様が広がっていた。
その蔦はやがて二輪の薔薇を結び、互いに寄り添うように咲いている。まるで、勇者と愛する者の絆を象徴するかのように。
背表紙には古代文字で題が刻まれ、開けば淡い金の縁取りが施された羊皮紙のページが現れる。
ページをめくるたび、かすかに香木のような甘い香りが漂い、アレクシスを静かに物語の世界へと誘った。
どれくらい没頭していただろうか。
物語が中盤に差し掛かり、勇者が神殿で聖剣の秘密を知る場面で、意識が現実へと戻った。
「え……聖剣って、持ち主を呪うの……?」
独り言のように呟くと、向かいで書類仕事をしていたローランドが「ん?」と顔を上げる。
目が合ってしまったアレクシスは、「えっと……」と話し出した。
「聖剣の持ち主になった勇者が、聖剣に呪われるっていう展開でびっくりしちゃって」
アレクシスの言葉に、ローランドは「あぁ」と何かを思い出すように顎に右手を添え、視線を右上へ向けた。
「そういう展開あったな。確か、一人しか好きになれない呪いに掛かる、だったか」
「そう、そういう呪いなんだって。でも、一人だけを好きでいたらそれでいいような気がするけど……」
「ははっ、アレクシスはまだ子供だからな。その呪いの恐ろしさが分からないんだよ」
「おそろしいの? 恋をすることが?」
「う~ん……恋をすることが、というより、その聖剣の呪いが、かな」
「どうして?」
「たとえば、今のアレクシスが誰かに一目惚れしたとするだろ?」
「うん……?」
「お前は今日やっと七歳になった。成人は十八歳、帝国の結婚の平均年齢は二十二歳と言われている。十五年間もずっと同じ人を好きでいられて、その人もずっと自分を好きでいてくれる確率はどれくらいだと思う?」
「え……わからないけど……十五人に一人くらい?」
「百人に一人以下」
「えっ?」
「その物語の勇者に掛けられたのは、恋が叶わないと眠り姫のように眠り続ける呪いだ。物語だからハッピーエンドだけど、現実では難しいぞ? たった一人を好きになって、そのたった一人に永遠に好かれないといけない、なんて。そう思わないか?」
「なんか、そう聞くとこわい呪いだね……」
「要は、初恋は叶わないものだっていう教訓みたいな話だ。アレクシスも恋は慎重にするんだぞ」
「恋が何か分からないのに、慎重にしようがないよ」
「いま学んでるだろ、その本で」
「あ、そうか」
確かに……。そう納得しかけたものの、「ん? なんか違うくない?」と首を傾げた、その時だった。
玄関のドアノッカーを叩く音が響いた。
こんな雨の夜に訪問客とは珍しい。
ローランドは目線でアレクシスに隠れるよう指示を出すと、壁に掛けてあった剣を手に玄関へ向かった。
アレクシスは本を両手に抱え、テーブルの下にもぐり込む。
迷ったふりや困ったふりをして家に招き入れられ、盗みを働く―――そんな盗賊まがいの行為は、辺境では珍しくない。
玄関の向こうでローランドが誰かと話しているようだが、雨音が邪魔をして内容までは聞き取れない。
盗賊や強盗だったらどうしよう。
嫌な想像が頭をよぎり、アレクシスはぎゅっと目を閉じて本を握りしめた。
しばらくすると、コツ、コツ、と靴音が近づいてくる。
ローランドの足音に混じって、濡れた靴の音も聞こえた。
元騎士であるローランドが害はないと判断したのだろう―――アレクシスはそう考え、そろりとテーブルの下から顔を出した。
「ひとまず、私のもので申し訳ありませんが、濡れた服を着替えてからこちらへ来てください。……えぇ、そちらです。ご心配なく、後で必ずご紹介します」
ローランドの声が聞こえる。
どうやら廊下に客人を招き入れたらしく、今夜の雨で体が冷えてしまったようだ。
後でお風呂に入ってもらったほうがいいだろうか。湯を温める魔石はまだあったはずだ。
リビングに戻ってきたローランドが「アレクシス、もういいぞ」と声を掛けた。
思っていた以上に緊張していたのか、アレクシスは足に力が入らず立ち上がれない。
「ローランドさん……」
涙声で訴えると、ローランドは「大丈夫だ」と微笑み、そばに来て軽々と抱き上げてくれた。
アレクシスはローランドの首の後ろに腕を回し、そっと抱きつく。
震える体を落ち着かせるように、ローランドはアレクシスの背をゆったりと撫でながら「心配ない。大丈夫だ」と優しく宥めてくれた。
アレクシスが落ち着きを取り戻しかけたころ、見知らぬ男の声がした。
男は廊下で「ここで待っていてくれ、怖がらせたくない」と言っている。
どうやら訪問者は二人いるようで、そのうちの一人がアレクシスを気遣い、供の者を廊下に残して一人で部屋に入るつもりらしい。
「ローランド殿、入ってもよろしいか」
どこか父を思わせるような声音に、アレクシスは無意識に顔を上げた。
ローランドに「どうぞ」と許可を得た男は、遠慮がちにリビングへ入ってくる。
「夜分遅くにすまない。驚かせてしまったね」
優しい声音は、やはり父フェルナンに似ていた。―――いや、似ているのは声だけではない。
「と……父さま……?」
銀の髪にグレーの瞳、柔らかな輪郭。一瞬、父の面影が重なった。
男はにこりと優しい笑みを浮かべ、怖がらせないよう慎重に数歩進み出る。
ローランドは呆然とするアレクシスを床へ下ろし、背をさすりながら「ご挨拶しよう」と促した。
「こ……こんばんは、ア……アレクシス、です」
精一杯の挨拶だった。
男は再び慎重に歩み寄り、アレクシスの一メートルほど手前で膝をついた。
「こんばんは、アレクシス。私はオスロ・オルレアン。オルレアン侯爵家の当主で、君のお父さん――フェルナンの弟だよ。君の叔父だ」
「お、おじ、さん……?」
「そうだよ。迎えに来るのが遅くなって悪かった。ノルディアスと帝都は片道三ヶ月も掛かるんだ。弟―――君のお父さんの手紙が私の元に届いたのが、今年の三月でね」
「てがみ……」
フェルナンからの手紙。アレクシスには思い当たる節があった。
亡くなる前の十一月の終わりごろ、体調が持ち直した時に一緒に街へ出かけたことがあった。その時フェルナンは雑貨店に立ち寄った。そこはこの街で唯一、手紙や荷物のやり取りを行う店だった。きっと、そこで出したのだろう。
「大公に頼めば移動ポータルも使えたんだが……」
「いどうぽーたる?」
「領主である大公の邸と、ノルディアスの大公邸を一瞬で繋ぐ魔術陣だよ」
「そんなものがあるの?」
アレクシスは目をきらきらさせた。どうやら魔術に興味があるらしい。オスロは笑顔でうなずいた。
「機会があれば見せてあげたいところだが、大公とはちょっと喧嘩中でね」
「喧嘩というより」ローランドが会話に割り込む。「オルレアン侯爵様が大公閣下を一方的に無視しているだけではありませんか」
「そうなの?」
なんで知ってるの? アレクシスがローランドを振り返る。
「誤解を招くような言い方はやめてくれ、ローランド」オスロが不機嫌そうに眉を寄せる。「私は閣下を無視しているのではなく、彼の後ろにいる人を無視しているんだ」
「意地を張って“使わせてくれ”って言えなかっただけでしょう」
「やかましい! 黙っててくれ、ローランドっ」
オスロの大きな声に、アレクシスの肩がびくりと震える。
途端、オスロは狼狽えて「大きな声を出してすまない」と苦笑いした。
「とにかく、大公閣下とはいろいろ事情があってね。すぐに来たかったんだが、長期で不在にするためにあれこれ手を回したんだ。それでも十月の豊穣狩猟祭には出席しなくてはいけなくてね。そのあと急いで来たんだが……ここまで二ヶ月かかってしまったよ」
「え……三ヶ月かかるのに、二ヶ月できたの……? だいじょうぶ……?」
「ははっ、アレクシスは優しいな。会ったばかりの私を心配してくれるのかい?」
「あの……えっと……父さまに、ちょっと似てるから……」
アレクシスの言葉に、オスロはゆったりと優しい笑みを浮かべた。
「そうか、兄さんに似てるか」
どこか嬉しそうな声音だった。
「アレクシス、君に提案があるんだ」
「ていあん……?」
「うん―――いや、お願い、かな」
「どんな……?」
「どうか私を、君の育てのお父さんにしてくれないか? フェルナン兄さんが君にしてあげたくても出来なかったことを、私にさせてほしい」
目の前のオスロという男は、疑いようもなく父との血のつながりを感じさせる容姿をしていた。
大きく違うところがあるとすれば、ふわふわと柔らかい銀髪の父とは違い、オスロの髪は真っ直ぐな質感をしていることだろう。
双子のようにそっくりではないが、確かに父によく似ている。
「君を抱き締める権利をくれないかい、アレクシス?」
両手を広げて微笑むオスロに、アレクシスは一歩、また一歩とゆっくり近づいた。
「会いたかったよ、アレクシス。もう、一人にしないからね」
その言葉が、父の最期の言葉と重なった。
それだけで、アレクシスの胸にある父恋しさが、躊躇いをそっと上塗りしていく。
アレクシスは泣きながらオスロに近寄り、彼の袖をきゅっ、と握りしめた。
オスロは壊れ物を扱うかのようにそっとアレクシスを抱き締めてくれた。
「寂しい思いをさせたね、アレクシス」
ぽん、ぽん、と優しく背中を撫でられ、アレクシスは声を上げて泣いた。泣いて、泣いて、オスロに縋るように抱きついた。
はじめてだった。こんなに力いっぱい抱きつくのは。
病弱な父には、頭を撫でてもらうことはあっても、抱きつくことはできなかった。
力いっぱい抱きついたら、壊れてしまいそうだったから。
ローランドは時々抱き上げてくれるが、その愛情は親としてのものではなかった。
だから、甘えてはだめだと、感情が溢れ出ないようにしてきた。
誰からも愛されなかったとは思っていない。むしろ、愛されていた。
父にも、ローランドにも。学校の友達とは仲が良く、街の人も優しい人が多かった。
でも、いつもどこか足りなかった。
その欠けた部分が今、オスロの温かい声と大きな両腕によって、ゆっくりと満たされていく。
フェルナンが亡くなって一年あまり。
「必ず迎えに来る」―――そう約束の言葉を残して去っていった二人がアレクシスの前に現れることはなかったが、代わりに血の繋がったオスロがやって来た。
帝国歴一九七七年十二月二十三日。
アレクシスは七歳の誕生日に、再び家族を得ることができたのだ。
翌日、晴れ渡る空の下、アレクシスは叔父であるオスロと共にノルディアスを立つことを報告するため、父フェルナンの墓前を訪ねた。
フェルナンの墓は、教会を見下ろす丘の上にある。
墓石には彼の真名「FESHTOMAR」が刻まれていた。“月光の守護者”という意味を持つその真名は、美しい容姿の父フェルナンにふさわしい。
隣には、領主である大公家に所縁のある者の墓がある。
墓石に刻まれた真名は「ARIVESTOM」。“星導の冠を持つ者”という神聖な意味を抱く真名だ。きっと、地位の高い人物なのだろう。
アレクシスは何度も訪れていたはずの父の墓を前に、今さらながらその地位を実感した。
フェルナンの墓が位の高い者の隣にあるのは、彼がそうされるに相応しい血脈の貴族だったからだ。
そしてこれから自分は、その貴族の世界に足を踏み入れる。
胸の奥に燻る不安を押しやり、アレクシスはフェルナンの墓前に挨拶と報告をした。
ノルディアスを離れ、帝都へ向かうこと。
成長したら、また会いに来ること。
そして今日から、自分はアレクシス・オルレアンになること。
「兄さん、お久しぶりです。こんな遠いところにおられたのですね」
そう墓石に声を掛け、花を手向けたオスロの目には涙が浮かんでいた。
仲の良い兄弟だったのだろう。
どうしてフェルナンが侯爵家を離れることになったのか。
どうして一人でアレクシスを産むことになったのか。
そして、どうしてアレクシスを家門に迎え入れることを決めたのか。
帝都へ帰る三ヶ月の道のりで、育ての父となるオスロが教えてくれるのだろうか。
「兄さん、アレクシスのことは私が責任を持って育てます。帝都へ着いたら中央教会で洗礼を受けさせ、真名を授かれるようにします。また、ご報告に参りますね―――さぁ、アレクシス、父上に行ってきますの挨拶をしようか」
オスロがアレクシスの肩を抱く。
アレクシスは「はい」と答え、父の真名が刻まれた墓石を見つめた。
「父さま、行ってきます。また会いに来ますね」
アレクシスの青い宝石眼は潤んで揺れていた。
けれど、その表情は寂しさだけではない―――今日まで彼の成長を見守ってきたローランドには、それが分かっていた。
運命は、予定されていたレールから外れて回り始めた。
ローランドが主から受けた命は、今日で終了報告をすることになるだろう。
しかし、再びアレクシスがこの地に戻るまで、フェルナンと、その隣に眠る高貴な魂に祈りを捧げ続ける者が必要だ。
その役目は、自分が担うべきだろう。
ローランドは、アレクシスに受け継がれた“あの方”の瞳のように青く晴れ渡る空を見上げ、静かに忠誠を誓ったのだった。
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