初恋は叶わないと聞きました【試読用序章のみ公開中】

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序章

序章2―1:ナディールとハイダル

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 アレクシスがノルディアスを旅立って二日後。海の向こうの王国では、十二月二十五日の夜が訪れていた。

 大理石の床には深紅と金糸の手織り絨毯が広がり、砂漠の夕暮れを閉じ込めたように輝いている。
 低い卓には、香ばしく焼かれた羊肉、蜂蜜とナッツの菓子、サフラン香る米料理、柘榴の果汁をまとった魚料理が山のように盛られ、香辛料と果実酒の甘い香りが空気を満たしていた。
 壁際の絹の帳から現れた踊り子たちが、金の鈴を足首に鳴らしながら舞う。
 腰布の宝石が灯火を受けてきらめき、香油の香りが揺れる。
 背後ではウードとダルブッカが軽快に響き、笛の音が砂漠の風のように宴を包んでいた。

 ここはスヴァロストル帝国から海を越えた南に位置する熱と砂漠と香りの国―――カミルサール王国。
 古い言葉で「カミル」は“完全”、「サール」は“玉座”を意味し、来年で建国二〇〇八年を迎える古い歴史を持つ王国である。
 王宮ジャナハ・アル―――「香る翼」と呼ばれる宮殿は、白い石灰岩と金色のモザイクで築かれ、夕暮れには蜃気楼のように輝く。

 今夜、この宮殿では王子の八歳の祝いの宴が開かれ、音楽と笑い声と灯火が星々のようにきらめいていた。

 正面には「完全なる統治者」ライス・アル=カミルと称えられる国王が座している。
 黒髭を整え、黄金の縁取りの衣を纏う姿は砂漠の覇者そのものだが、その眼差しには子を見守る父の温かさが宿っていた。

 壁際で酒と馳走を楽しむ臣下たちは、刺繍入りの長衣トーブに白布のカフィーヤを金の輪で留め、腰の短剣には孔雀の羽根を飾っている。彼らが笑うたび、羽根がゆらりと揺れた。

 ふぅ、とため息をついた黒髪の少年は、柘榴水で口の中を潤した。
 改めて、ただ喧しいばかりの宴を漆黒の瞳で見回す。砂漠特有の褐色の肌は、六歳の彼を少し大人びて見せていた。
 少年の名は、ナディール・カミルサール。この国の第二王子である。

 王であり父である男を囲むのは、ハーレムに迎え入れられた八人の妃たちだ。
 薄絹のヴェールを纏い、宝石を散りばめた髪飾りを揺らしながら談笑している。衣の色は深い藍、翡翠、薔薇色と多彩で、まるで花園が絨毯の上に咲き誇ったかのようだった。

 国王にはかつて、十三人の子どもがいた。しかし先に生まれた四人は熱病に罹り、すでに亡くなっている。現在生きている王の子は、九人。
 そのうちの一人、今日の宴の主役であるマリクは、第五子でありながら第一王子という立場にあった。

 母妃の容姿を受け継いだ黄金の髪と瞳は獅子に例えられ、まだ幼さを残す顔には誇らしげな笑みが浮かんでいる。
 彼は、生まれた瞬間から特別だった。
 建国二千年という節目の年に生まれたばかりか、王に相応しい容姿と能力、そして強力な後ろ盾を持っていたのだから。

 ―――つまらないな。

 感情を隠そうともしないナディールは、不機嫌な面持ちで羊肉にナイフを入れた。
 一口大に切り分けた肉をひょいと口に放り込む。
 子どもが食べるには少々香辛料が強すぎたが、空腹を満たすには十分だった。

「マリク、最近は剣舞に勤しんでいると聞いたぞ」

 国王が隣にいるマリクへ声を掛ける。
 マリクは「はい、父上」と無邪気さを前面に出して答えた。
 右座の先頭に座るマリクの母サティは、聖母のような微笑みを浮かべながら父子の会話を見守っている。

 その向かい、左座にいるナディールは、横目でその様子をうかがいながら、「たいした役者だ」と、子どもながらに一つ上の異母兄の母を心の中で蔑んだ。

 マリクが第一王子になれたのは、ひとえにサティの力あってこそだろう。
 表向きは熱病で亡くなったとされる四人の幼子たち―――マリクとナディールの兄や姉だった彼らは、本当に病で天に召されたのだろうか。
 はっきりした証拠はどこにもないが、宮殿内では「サティの仕業では」と実しやかに囁かれている。
 そしてナディールは、それが事実であることを知っていた。

 楽しそうに父子の会話を続ける国王と異母兄から視線を逸らし、ナディールは再び柘榴水を口に含んだ。
 ちょうどその時、国王の最側近の男が父の傍に控え、二言三言耳元で何かを報告してすぐに下がる。
 その直後のことだった。

「ナディール、アミーラの体調はどうだ」

 思いがけず国王がナディールに話しかけてきた。
 彼はよそ行きの笑顔を貼り付けて答える。

「微熱がある程度です。母上が診ておりますのでご安心ください」
「そうか。あとで見舞いに行こう」
「ありがとうございます」

 礼を述べながら、心の中では「面倒だ! 来るなっ」と毒づく。

「心配だわ。わたくしからも滋養にいい果物を贈りましょう」
「お心遣い、感謝します、サティ様」

 ―――やめろ。お前が寄越した菓子で、我が妹アミーラは寝込む羽目になったのだぞ。

 もちろん、そんなことを口に出せるはずもない。
 元踊り子という地位の低い母と、血の繋がった幼い妹を守るのは自分の役目。
 ナディールはそう思っているからこそ、気弱な母の立場が悪くならないように、今日の宴に一人で出席したのだ。

「そういえば、ナディールは調香を学んでいるそうだな」
 王が思い出したように言った。

「将来は調香師か香術師かしらね」
 サティが理想の母親のような表情で微笑む。

 ナディールは、できる限り無邪気な子どもに見えるよう笑顔を取り繕って答えた。
「はい、そうなればいいなと思っています」
「そう、マリクの治世を支える香の使い手になってくれると心強いわ」
「ありがとうございます。がんばりますね、サティ様」

 ナディールの返答に、サティは満足しているようだった。

 カミルサール王国は香りを重んじる国だ。
 友好国スヴァロストル帝国が魔力を用いて魔術を行使するように、この国では香に魔力を乗せて術を扱う「香術」と呼ばれる技術が発達している。

 香術には調香された香が不可欠であり、その香を作る者を調香師、香を用いて術を操る者を香術師と呼ぶ。
 そして重要なのは、優秀な調香師や香術師―――つまり香の使い手となった場合、国の要職に就くために王位継承権を放棄しなければならないという決まりがあることだ。

 ナディールが将来、香の使い手となれば、王位継承権は自動的に剥奪される。
 しかし、それこそがナディールの狙いでもあった。
 マリクを次期国王にしたいサティからすれば、ナディールは我が子を脅かさないうえに、国にとって重要な役割を担う存在。排除の対象ではなく、むしろ保護しておきたい対象となるのだ。

「まぁ、それは素晴らしいわ」

 会話に割り込んできたのは、サティの隣に座っていた妃マリアンヌだった。
 彼女は約八年前、建国二千年の祝祭が終わった後にカミルサール王国へ嫁いできたスヴァロストル帝国の元令嬢で、生家は帝国の名門ジェローム侯爵家だ。
 白い肌に赤い髪、薄緑の瞳を持ち、帝国では指折りの美女と謳われた女性。この結婚は二度目で、最初の夫とは子をもうけぬまま死別していた。
 カミルサールに嫁いで一年ほどの後、第三王子となる男児を産んでいる。その王子の名前は確か―――

「ハイダルは王子たちと年も近いですし、今後はより仲良くしていただければ嬉しいわ」

 マリアンヌがどこか含みを帯びた微笑みを浮かべて言う。
 ナディールは異母弟の名を改めて認識し、ふと視線をマリアンヌの隣に座るハイダルへ向けた。
 その瞬間、息をすることさえ忘れた。

 艶やかな濡れ羽色の髪に、美しく深い緑の瞳。
 王国では珍しい薄い褐色の肌。
 彼は、飾り物の人形のようにマリアンヌの隣に座っていた。
 虚ろな目に、何もかもを諦めたかのような表情。しかしその陰鬱さでさえ、幼子の完成された美貌を際立たせている。
 これは、その手の趣味を持つ者にとっては垂涎の的だろう。

 気にかかるのは、一つ下の弟にしては小柄なことだ。
 不健康そうではないが、成長は王国の子どもたちより遅れているように見える。帝国の血を引いているせいだろうか。

「この子は美しいから、成長したら宮殿内で色々と使えますわ」

 マリアンヌがそう言った瞬間、ナディールの背に粟が走った。
 腹を痛めて産んだ息子を愛していないという噂は耳にしていたが、まさか造形美としての価値を確信し、このような邪悪で卑猥な企みをほのめかすとは……。

 カミルサール王国は性に奔放な国として知られている。閨教育を施される時期も他国に比べて早く、七歳から十歳の間とされていた。
 講義だけで済ませる国もあるだろうが、カミルサールは違う。成長した後、実際に相手を伴って行う風習がある。
 マリアンヌの発言は、ハイダルにその“練習台”の役目を担わせればよいと暗に示しているようなものだった。

 ―――反吐が出る。子どもを守るどころか、邪な策略の駒にしようとするだなんて。

「では、わたしにください。できれば、わたしだけのものに」

 気づけば、そう口にしていた。
 子どもらしからぬ申し出に、その場の視線がナディールへと集中する。
 しかし、ハイダルの深緑の瞳がナディールを捉えることはなかった。

 空虚で、何も映さない美しい翡翠のような瞳。
 権力争いから妹アミーラを守ることが日常だったナディールが、冷静さを置き去りにし、たいした考えもなく救いの手を差し伸べてしまった異母弟。
 だが、何の反応も見せないハイダルを目の当たりにし、ナディールの中に“保護”以外の種が植え付けられた。
 ―――あの目に自分を認識させるには、どうすればよいのだろう。

 ナディールの衝動的な行動に、興味を抱いた者がいた。
 彼の父である国王だ。
 今まで兄の陰に隠れるように、目立たぬよう発言を控えてきた幼子が、大人の会話に唐突に割って入った。
 我が子を次期王に据えたいサティに目を付けられるのは恐ろしいはずなのに、その恐怖を跳ね除け、今日初めて会った異母弟に強い関心を示すとは……。
 目を細めた国王は、口元を三日月のように緩めて微笑んだ。

 ―――まだ“彼ら”に謝罪する時ではない。だが、サティやマリアンヌの勝手を許すのも、ここまでだ。

「ナディール王子、さすがに息子を独り占めされるのは―――」
「いいだろう」

 マリアンヌの抗議を制したのは国王だった。
 一方的な決定に、マリアンヌが美しい顔(かんばせ)を歪める。
 サティも、なんとか品位を保つ程度に目を見開いていた。

「今日はマリクの生誕の宴の席。して、ナディール。ハイダルをお前にやる代わりに、お前は何を差し出すのだ?」

 ぴりっとした苛立ちがナディールの胸を刺す。
 自分でもハイダルを物のように言っておきながら勝手な話だが、他の者に彼を軽んじられるのは腹立たしい。
 しかし、今は怒りを言葉にする時ではない。
 ハイダルを手に入れるため、そしてサティやマリアンヌの悪意を避け、国王に邪魔されないための“正しい条件”を提示しなければならない。
 
 
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