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序章
序章3ー1:エミール
しおりを挟む帝国歴一九七八年三月二十一日。
三ヶ月前の十二月に七歳の誕生日を迎えたばかりの少年は、午後の家庭教師の授業を終えると、練武場で剣を振るっていた。
母譲りのふわふわとした栗毛に、何代か前に皇女が降嫁した際の血が現れたのだといわれる、きらきらと輝く大きな桃色の宝石眼。
同年代の少年と比べればいくらか背が高く、整った顔立ちは人目を惹く。
しかし、彼には少年らしい無邪気さも愛らしさも欠けていた。
「エミール様」
家門に仕える騎士の一人が、一心不乱に剣を振るう少年を呼んだ。
少年の名はエミール・オルレアン。帝国建国の功臣として名高いオルレアン侯爵家の長男である。
エミールは剣を下ろし、顎を伝う汗を拭いながら振り返った。
時を忘れて剣を振るっていたため疲れているはずなのに、その端正な顔には感情の色がまるで浮かんでいない。
「当主様がお戻りです」
「あぁ」
なんの感情も読み取れない返答に、騎士は僅かに眉を寄せた。
侯爵家に仕える者のうち、エミールを赤子の頃から知る者たちは皆、この騎士と同じように、彼の冷たささえ感じさせる態度に胸を痛めている。
本人は気にしていないようだが、かつて天真爛漫だった頃の面影が消え失せた姿を見るたび、憐れまずにはいられなかった。
「応接室にいるのか」
「いえ、エントランスで使用人らに紹介されておられるようです」
「そうか」
エミールは短く答え、騎士に無言で剣を預けると、練武場を後にした。
練武場から本邸へと続く屋根付きの回廊を進みながら、エミールはふと空を見上げた。
来る前は晴れていたはずなのに、今は分厚い雲が空を覆い、冷たい春先の雨が降っている。
ふぅ、と息を吐くと、その白さが静かに空気へ溶けていった。
視線を右手に向ければ、遠くに侯爵家の正門が見える。
開国の記念碑的建築様式を受け継ぎつつ、先代の改修で加えられた鉄細工の装飾が荘厳に輝いていた。
黒鉄の扉には細かな雨粒が静かに降り注ぎ、家紋が浮き彫りにされた両脇の石柱には、繁栄を象徴する獅子像が睨みを利かせている。
小雨に濡れた鬣は重みを帯び、湿り気を含んだ空気は石柱の苔を深い緑に映えさせ、長い歳月を刻んだ家門の重みをいっそう際立たせていた。
固く閉じられた門扉から玄関へと続く石畳の道。
両脇の花壇では薔薇の花弁がしっとりと雨に沈み、その葉には水滴が玉のように並んでいる。
夕暮れ前の薄明かりと小雨が織りなす景色は、華やかさよりも静謐さを強く漂わせていた。
『我が家に、家族が一人増えることになる』
そう言い残し、十月の豊穣狩猟祭が終わったあとに旅立った父は、少々無茶な旅程を組んで二ヶ月を掛けて辺境の大公領ノルディアスへ赴き、今日、三ヶ月を掛けて帝都へと帰ってきた。
見知らぬ子どもを連れて。
父オスロ・オルレアンは穏やかな性格だが、当主としての厳格さも併せ持つ人だ。
ストレートの銀髪にグレーの瞳、柔らかな輪郭。巧みな言葉遣いと心地よい声音も相まって、初対面の相手でさえ警戒心を解いてしまう。
その天性の才と、アカデミー法学専攻科での優秀な成績により、彼は侯爵家当主でありながら王宮法務部の立法課上席も務めていた。
そんな彼が半年近くも帝都を不在にしたのだ。
舌の毒を隠さない者たちは、憶測だけで事実ではない噂を囁いた。
その状況を良しとせず、家門を守り通したのがエミールの母、元レガルド伯爵令嬢のラルア・オルレアンだ。
栗色の柔らかなロングヘアにエメラルドの瞳。オスロが見初めた彼女は普段は穏やかだが、筋を通さない無礼な者には容赦がない。
名門オルレアン侯爵家の女主人として社交界でも一目置かれ、シャペロンを頼まれることも多いという。
悩みがあるとすれば、エミールの二つ下の妹レティーシアのお転婆ぶりだろうか。
妹のレティーシアは、祖母譲りの癖のない金糸のロングヘアに、母譲りのエメラルドの瞳が愛らしい少女だ。
その容姿や仕草、口調に魅了された使用人や乳母に甘やかされ、やや自由奔放に育った。
今回、オスロが「子どもを一人引き取る」と告げた時も、「おとうさまのうらぎりものっ!」と一方的に怒っていた。
レティーシア曰く「うわきして、しせいじをつくったのよ!」とのことらしい。
付け加えておくが、彼女はまだ五歳の子どもである。
「どこでそんな言葉を覚えたの!」と母ラルアはレティーシア付きのメイドと乳母を叱りつけていた。
母のその様子から、エミールは引き取られてくる子は父オスロの実子ではなさそうだと予想している。
エミールは、雨に濡れる侯爵邸の庭を眺めながら、家族としてレティーシアに感謝すべきだろうと“考え”た。
このように、“思う”ではなく“考える”が、今のエミールの日常なのだ。
エミールは、寡黙と言えば聞こえはいいが、実際には無口で無表情であることが多い子どもだ。
それこそ、挨拶以外の言葉を発しない日も珍しくない。
そんな兄に、レティーシアは毎日のように―――他人から見れば鬱陶しいほど―――話しかけてくる。
その賑やかさが、オルレアン侯爵家を救っている。
だからこそ、皆がレティーシアに甘いのだ。
以前は、こうではなかった。
エミールも、どちらかと言えばレティーシアのように騒がしい少年だった。
それこそ、“変わり者”と呼ばれる第二皇子アンソニー・スヴァロストルに気に入られるほどに。
エミールがアンソニーと出会ったのは、五歳の春のこと。
国王と父オスロが旧知の仲であったこと、そしてエミールが皇子と同い年であったことから、遊び相手の候補として皇城へ呼ばれたのだ。
そこには、リヴェスタント侯爵家の三男でアンソニーの乳兄弟であるライアン、黄金の家門と呼ばれるシーリング男爵家のオーリーがいた。
彼らとはすぐに意気投合し、いろいろな遊び―――どちらかと言えば、侍従や侍女を困らせるようなものばかり―――に興じた。
それが楽しくて、一緒に叱られるたびに仲間意識が芽生えていった。
この頃のエミールは、好奇心旺盛で天真爛漫な、愛くるしい少年だった。
感情が顔に出やすく、悪戯好きで、よくオスロやラルアにも叱られていたが、怪我をした小鳥の世話をしたり、レティーシアが泣けばなだめたりする心の優しい子でもあった。
ときおり悪戯心に火がついて家の中を引っかき回すこともあったが、使用人たちは手を焼きながらも、そんな彼を可愛がっていた。
ひと言で言うなら、彼はオルレアン侯爵家の太陽だった。
それが大きく変わったのは、今から一年と少し前のことだ。
その日、エミールの右手の甲には薔薇の紋様が刻まれた。
以来、彼は感情を喪失した。
親や妹への情愛も、アンソニーたち友人への友愛も、尊敬していた人々への敬愛も、民を思う慈しみの心も、エミールの中から消え去ってしまった。
エミールの中に残ったのは、“そういうことがあった”という記憶だけ。
だからこそ、エミールは自分なりに努力した。
感情を失う前に与えられていた愛情の記憶、楽しかった思い出、悔しかった出来事、失敗への後悔、立場が違えども自分のために動いてくれる使用人らへ日々感謝する大切さ―――それらを思い出せる限りノートに書き出し、週に一度は開いて読み返し、誰かと話すときにどう振る舞うのが“人として正しいのか”を考えるようになった。
「呪い……」
意味もなく、エミールは呟いた。
別段、感情は動かない。
だから、苦しみもない。
けれど、この状況を憐れんでくれる愛情深い人たちがいることは、知っている。
あの日、父が、母が、妹が、友が、自分の代わりに嘆いてくれた。
降り続く雨を見つめながら、エミールはあの日のことを思い返していた。
**********
帝国歴一九七六年十一月十一日。
その日、オルレアン侯爵家は家族揃って中央教会を訪れていた。
エミールが六歳を迎える前に、洗礼を受け、真名を授かるためだ。
スヴァロストル帝国では、五歳になった王侯貴族や、平民の中でも魔力を持つ者は、教会で洗礼を受け、太陽神カリネアーゼより真名を授かる。
真名は自分だけのものであり、親でさえ知らされることはない。
死後、墓碑に刻まれて初めて公表される。
唯一、生前に真名を共有することが許されるのは、伴侶となる者と婚約や婚姻を交わす時だ。
死別の際の取り決めはないが、離婚や婚約解消などの離別の場合は、互いの真名を他言しないよう魔法契約書を交わすことが法で定められている。
この日、洗礼を受ける予定の五歳の子どもは四人いた。
そう、いつもの仲良し四人組―――アンソニー、ライアン、オーリー、そしてエミールである。
皇子だろうと貴族だろうと、この年頃の子どもが集まれば大人を困らせる遊びに興じるもの。
特に、この四人は大人泣かせの常習犯だった。
「おとなしく待っていなさい」と言われていたにもかかわらず、教会の庭園で駆けっこをしたり、かくれんぼをしたりして大騒ぎ。
案の定、親たちに諌められ、今回も仲良く四人まとめて叱られた。
そして、洗礼の準備のために神官らについて教会の回廊を移動していた時のこと。
最後尾にいたエミールは、ふと聞こえた猫の鳴き声に気を取られ、気づけば列からはぐれていた。
―――にゃあ。
白い猫が、エミールを呼ぶように鳴いた。
野良とは思えないほど美しい毛並みで、右が青、左が桃色のオッドアイをしている。
猫はエミールがついてきているのを確認すると、くるりと身を翻した。
「あ、まて!」
エミールは猫を追って、聖堂へと足を踏み入れた。
昼下がりの聖堂は、外界のざわめきから切り離されたように静まり返っていた。
扉をくぐると、ひんやりとした静謐な空気が肌を包み、ステンドグラスの光が床に淡い虹色を落としている。
高い天井には金箔の装飾がきらめき、天使や聖獣の姿が薄く浮かび上がっていた。
奥へ続く回廊には香が焚かれ、甘やかな花の香りが漂う。
高窓から差し込む光が古い石床に柔らかな模様を描き、揺れる燭火が影を震わせていた。
中央の祭壇は白銀に輝き、その上の聖紋は静かに、しかし確かに光を宿していた。
帝国の国教は太陽神カリネアーゼを崇めており、この聖紋こそが祈りの象徴だ。
金と銀を組み合わせた円盤に刻まれた薔薇のような円環は永遠を、両側に広がる幾何学的な翼は「神の加護」を表していると言われている。
エミールは吸い寄せられるように祭壇へ歩み寄り、聖紋を見上げた。
「なんて言ってるんだ?」
聖紋が何かを語り掛けているような気がして、エミールは思わず問いかけた。
返事などあるはずもない―――そう思った矢先、聖紋が再び輝き、揺らめいた。
その煌めきに誘われ、エミールの意識はゆらゆらと揺蕩っていく。
―――呼んでる。
そう感じて足を踏み出した、その時だった。
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