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Clear Color.5(Side B)
しおりを挟む引越してから、僕の最寄り駅は少し離れたターミナル駅になった。昼前のターミナル駅はなんかちょっと好きになれない。何をするでもない人が溢れ、とりあえず電車に乗ろうとしている。あとは何処かに買い物に行くのであろう若い主婦の人や、僕らがせっせと働いて支払った年金を使って遊びに行くであろう老人たちばかりが目につく。そんな人たちの中を僕は電車に乗って仕事へ行く。電車に乗って一番腹が経つのが、先に挙げた人の年金でのうのうと暮らしている老人たちの言動だ。こっちはこれから何時間と立ちっぱなし、話しっぱなしの仕事が待っている。前日だってほぼ終電に近い電車で家に帰っている。疲れが蓄積している感じが身に染みて分かる。駅までは自転車で向かうのだけれど、その足が休日と仕事では明らかに違う。荷物の多さ?いや、それは違う。今、疲れているのに、これから更に疲れに行くので気が重くなっているのだ。その重さがきっとペダルの重さなのだろう。なので、僕は電車では極力座るようにしている。これから待っている仕事に対して、せめて誠意を持ってヤル気を出して臨めるように。要はパワーの充電だと思う。ただ座るとは言っても、相手を押しのけてまで座ろうとか、優先席に座ろうとか全く思わない。比較的空いている時に僕は座っているだけなのだ。けれども、途中のもう一つのターミナル駅でたくさんの人が乗り込んでくると、当然電車は混んでしまう。そんな時に僕の目の前に立つのは、運が悪いのか皮肉を言う老人ばかりだ。本当に脚や腰が悪い人に対しては、さすがの僕も席を譲る。しかし、リュックを背負う数人の老人たちはさすがにどこかが悪いようには見えない。確実にどこかにハイキングに行くか帰るかの面々だ。そんな人たちに限って僕の前で皮肉を言う。
「最近の若者は席を譲るということも知らないのかね」
これで済むならまだしも、時には、足が痛い痛いと業とらしく足を揉む仕草までしてくる。こうなると僕ももう席を譲る気にはならない。後は周りの目との戦いだ。冷たい視線がこの皮肉を言う老人に向くこともあれば、僕に向けられることも少なくない。中にはそんな時には寝たふりをする人もいるようだが僕は違う。絶対に頑として席を譲らない。これからお前らの年金を稼ぎに行くんだから、逆にもっと敬え、とまではいかないが、それに近い論理で僕は座り続ける。
席くらい,ものの10分もその電車に乗らないのだから、簡単に譲ればいいのかもしれない。冷静に考えても、数年前に比べて、僕は確実に優しさを失っているように思う。電車にゴミが落ちていると、自分の場所でなくても拾って捨てて帰っていた。今僕はゴミが落ちていても、それを避けるようにして座る。自分のところに落ちていなくて良かった、と。
思えば、そうやって面倒なことから逃げるようになったのは、確実に社会に出てからだと思う。子供の頃は面倒なことでも逃げずに立ち向かっていた。僕は泳げなかったけれども、プールの時間は見学したことは無かったし、別レーンで特訓すらもしていた。放課後の補講にも参加した。それでいいと思ってた。大学でも同じようにプールがあって、もう二十歳も過ぎいたし、泳げないことを公言することは嫌だったけれども、やっぱり僕は別レーンで練習をした。さすがにこの頃には、周りから外れて特訓する僕に対する目線の冷たさの存在に気付くことになる。けれども、僕にはそんなことは気にならなかった。絶対にこの努力は力になると思っていたのだ。
けれども、社会は全然思っていたのとは違った。努力をしても、結果にならなければ評価されない。逆に結果が出なかった努力は、努力の存在自体を掻き消されてしまう。どれだけ一生懸命に授業の準備をしたところで、授業が上手くいけば努力をしたことになるし、失敗すれば努力していないことになる。そういう世界だった。入社して、初めて他の講師の前で模擬授業をした時、僕は1ヶ月近く準備をしていた。1つの授業にこれだけ時間をかけることは珍しい。今ではものの10分で準備をすることを考えれば、異例中の異例だ。それだけ準備をして臨んだ模擬授業は、緊張して散々なものだった。努力だけは認めてもらえるかと甘い気持ちで評価を聞くと、それは耳を疑うものだった。時間を返せ、ふざけんなバカ、努力しろクズ。そんな怒号が飛び交った。その時の気持ちは、悔しいとか残念とかじゃなくて、何か失望にも似ていた。これまで努力すれば何とかなると思っていたことが崩れ去ってしまった。シャワーのように浴びせられる怒号の中で、僕は水泳の時間の努力を思い出していた。今も泳げない僕にとって、あの努力は完全に無駄だったのだ。あれだけ努力をしても結果が出ない僕の姿を見て、きっと人は、アイツはあれだけやっても出来ないなんて、なんてダメ人間なんだ。と思っていたのだ、ということにやっと気付いた。
それから僕は、人が望む結果を求めて、それに対する最小限の努力しかしなくなった。人が見ていないところでは一切努力をしなくなった。見られていない努力はしていないのと一緒。結果さえ出せば、人は努力したと思ってくれる。人が望む結果ばかりを出してきた僕は、人から『努力の人』と言われるようになった。若くして地位もそこそこ上がっていった。努力をしなくなって『努力』という肩書が付いてしまった。皮肉なものである。そうして僕は、『努力の人』として生徒に努力を語る。努力は人を裏切らない、と。努力をしていればきっと誰かが見てくれている。きっと結果が付いてくる、と。今まで自分が信じてきて間違っていたものを平気で伝えている。
そんな本音と建前の中で、僕は少しずつ優しさや、人にとって大切なものを忘れていったのだ。
昨日手に取った小説は結局読まなかった。もう小説の主人公のような世界は存在しないと知ってしまったから。純粋な道徳観が人を救ってくれないことに気付いてしまったから。
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