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松山秋ノブ

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 まだ朝も早い駅のホームに橋本は立っていた。立っているというのは少し表現が違うかもしれなかった。自分の意志で立っている訳ではなかった。本当はこのまま何処にでも倒れかかる準備はいつでもできていた。ただ、こんな都会の真ん中の駅で、いきなり死んだように倒れかかる勇気がなかった。

今のところは目立ちたくなかったのだ。

出来るだけ気配を消して、そして時が来るのを待っていた。朝の光も、初春のさわやかな風も、本当はもっと良いものなのだろうけど、橋本にとっては全くそういう気分になれなかった。世界のすべてが灰色に見えた。すべてが止まって見えた。いや、違う。周りは色鮮やかな季節の中を、いかにも楽しそうに過ごしている、動いている。止まってしまったのは自分の世界だ。自分が止まっているから、周りの動きに気づかないのだ、気づこうともしていないのだ。橋本はそのことが分かっていた。だから、これから起こす自分の世界を動かす最後の行為を前に目立つわけにはいかなかったのだ。出かける前は、こんなことをするつもりはなかった。ただ、普通に会って、話をして、笑って、それで終わるつもりだった。でもそれが出来なかった、いや、実は向かっている途中から、もう会う勇気なんて微塵も無くて、今ここでこうして時を待つために出かけたのかもしれない。

 

 少しエコーのかかった音楽が鳴り響く。電車が近付いてきた。橋本にとっては乗るつもりの無い電車が近付いてくる。橋本は深く深呼吸をすると、一言二言独り言をつぶやいた。その言葉が前向きなものなのか、後ろ向きなものなのかはもう分からない。ただ、橋本の顔は世界中の不幸を背負ったような顔ではなかった。でも何故だろう。晴れやかな表情の中には、誰にも癒せないほどの悲しみが見える。橋本はこの時、思い出していたのだ。橋本の好きな映画の主人公は言った。『私が死ねば世界が終わる』と。その時は全く分からなかった。いや、誰が死んでも世界は終わることはないって、そう思っていた。ただ、それを言った主人公の後ろの夕日がとても美しくて。それはよく覚えていた。けれど今なら分かる。確かに自分が死ねば、世界は終わる。橋本の世界を生きていた橋本が死ねば、きっと世界は終わってしまうのだ。短い世界だった。自分の世界はどんなものだったろう、と思い返してみる。そうだ、こんな季節だった。転校してきた彼女と初めて会った、あの日。橋本は自分の胸のスピードが速くなったことに気づいていた。あまりに音を立てて鳴るものだから、もう何も聞こえなかった。彼女の名前も紹介も、何も聞こえなくて、後で勇気を出して訊いてみた。彼女は驚きながらも笑って答えてくれた。その笑顔が春だった。それから毎年、春が来る度に彼女の笑顔を思い出した。そんなあの日からもう五年が経とうとしていた。一番思い出すのはあの春の笑顔。でもそれだけじゃない。この五年間のことが鮮明に思い出された。電車が来るまでの少しの間、橋本はその鮮明な記憶を一つひとつ紡ぎ合わせていこうと思った。橋本の世界を彩ったすべてだった。

橋本は目を閉じた。

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