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ある日のことだった。梅雨に入るか入らないかの頃だった。ここ数日降り続いていた雨のせいで、橋本のグループのメンバーの登校が少しずつ遅くなり始めていた。まぁ、この天気なら仕方ない。気分が沈んでしまうから、なかなか学校へと足は向かないだろう。橋本は自分ひとりの時間が出来て、むしろ好都合に思っていた。雨のせいで、あの透き通った朝の空気は感じられないけれど、ひとりで教室にいる時間は気持ちをすっとさせた。その日も橋本が1番最初に登校しているはずだった。時間はいつもと変わらない。雨の日の学校の朝はひっそり閑としている。電気もついていなくて、薄暗く、雨に濡れたコンクリートの臭いが鼻について良い気持ちではない。窓には際限なく雨が打ち付けられ、その中を橋本はひとりで歩き、教室の電気をつける。その瞬間にぱっと広がる眩しい世界も、また橋本は嫌いではなかった。自分が世界の闇を晴らしたような気分になるからだ。しかし、廊下の先の方に見える橋本の教室は何故だろう。その日は既に電気がついていた。橋本よりも誰かが先に登校することは考えられなかった。いや、その考えこそが橋本の傲慢であったが、橋本にはそんな思考は無く、ただその不思議な明かりに向かって走っていった。
「おはよう」
教室の中にいたのは、平河さんだった。暗い廊下からいきなり眩しい教室に入っていったから、一瞬姿が見えなかったけれど、声で分かった。間違いなく平河さんだ。そうだと分かったら、いろんなことが頭を駆け巡った。まずきちんと挨拶すべきだ。けれど緊張して声が裏返りそうになってしまうから落ち着かないといけない。そんな冷静な自分の横で、どうして平河さんがこんなに早く登校しているのか、という疑問や、これから何を話せばいいのか、という戸惑いが一気に襲ってきた。結果、橋本はちょっと口ごもった様子で、おはよう、と言って席に向かった。冷静を装いながらカバンの中身を引き出しに入れていると、
「今日は私の方が早かったね」
と平河さんがこっちを向いて笑いかけた。橋本はもっと戸惑ってしまって、あ、うんと目を反らした。一瞬の沈黙が教室を巡った。明らかに橋本の態度は無愛想だった。
「あの・・・ね」
言葉を選ぶように、また、搾り出すように、平河さんは言った。
「実は、訊きたいことがあって・・・」
橋本は自分の心臓の音がこれまでにないくらいに速くなっていることを感じた。これまで挨拶しかしなかった仲の平河さんが、目の前で自分のためだけに言葉を発している。それも自分に質問しようとしている。橋本はその日の朝、自分の足にムシ刺されが出来ていたことを思い出した。もうそんな季節になったのか、O型の自分には苦しい季節になるな、と気分が沈んだものだ。それからずっと足のかゆみを意識のどこかで持っていたけれど、もうこの時は忘れていた。
「もしそうなら、それでもいいんだけど・・・橋本くんって、私のこと嫌い?」
平河さんが言った言葉は、意外そのものだった。平河さんが学校に来て以来、橋本の毎日は変わった。嫌うはずなんてあるはずがない。慌てて橋本は否定をした。その言葉は橋本の思う以上にスムーズに出てきた。
「本当に?正直に言っていいんだよ」
平河さんの顔は怪訝そうだった。どうやら平河さんは本当に橋本が自分を嫌ってるんじゃないかと思っているようだった。また否定をすると、どうしてそう思うのかを尋ねた。
「ほら、いつも教室で一緒になっても滅多に挨拶してないし、それに・・・」
思い出したように平河さんは続けた。
「私が初めてここに来た時も、何かうわの空だったし」
橋本はこれ以上意外なことなんてないと思っていたけれど、それ以上のことがあった。あの日、確かに橋本は平河さんを見て、その瞬間、春の世界に引き込まれて行った。自分が何処に居るのかも分からずに、ただ彼女の姿だけが道標になって、ふわふわと漂っているみたいだった。ただ、それはあくまでも橋本の一方通行のもので、彼女は彼女の世界を歩いているに違いない。自分のことなんか目には入っていないだろうと思っていた。けれども、あの日、確かに平河さんの目にも自分が映っていた。どう映っているのかはもはや問題ではなかった。例えベクトルが違っても、一瞬でも一緒の世界に居ることができたのだ。橋本は世界中が一望できるタワーの上に乗ってピースしたい気分だった。今、自分はそれくらいの快挙を成し遂げたのだと思った。
橋本はもう一度嫌っていることは否定した。うわの空だったのは、考え事をしていただけだとごまかした。怪訝そうな顔をしていた平河さんの顔は一気にほころび、あぁ、スッキリした、と背を伸ばした。どうやらずっとこのことが気にかかっていたらしかった。
「でも、ということは私の自己紹介、ほとんど訊いてなかったんだね」
とちょっとしかめた顔で平河さんは笑った。ごめん、と謝ると、その顔はまた一気にほころんだ。嫌ってないんだったら、大丈夫だよ。と笑ってくれた。
嫌ってる訳がないじゃないか、むしろ・・・と言いかけたところで、胸が苦しくなった。その後の言葉は分かっているはずなのに、出てこなかった。言ってしまったら、全てが始まり、全てが終わる気がした。その後の言葉を自覚した時、橋本は自分の気持ちに気づいた。そしてそれが、絶対に彼女に言ってはいけない言葉だと、分かってしまった。
「おはよう」
教室の中にいたのは、平河さんだった。暗い廊下からいきなり眩しい教室に入っていったから、一瞬姿が見えなかったけれど、声で分かった。間違いなく平河さんだ。そうだと分かったら、いろんなことが頭を駆け巡った。まずきちんと挨拶すべきだ。けれど緊張して声が裏返りそうになってしまうから落ち着かないといけない。そんな冷静な自分の横で、どうして平河さんがこんなに早く登校しているのか、という疑問や、これから何を話せばいいのか、という戸惑いが一気に襲ってきた。結果、橋本はちょっと口ごもった様子で、おはよう、と言って席に向かった。冷静を装いながらカバンの中身を引き出しに入れていると、
「今日は私の方が早かったね」
と平河さんがこっちを向いて笑いかけた。橋本はもっと戸惑ってしまって、あ、うんと目を反らした。一瞬の沈黙が教室を巡った。明らかに橋本の態度は無愛想だった。
「あの・・・ね」
言葉を選ぶように、また、搾り出すように、平河さんは言った。
「実は、訊きたいことがあって・・・」
橋本は自分の心臓の音がこれまでにないくらいに速くなっていることを感じた。これまで挨拶しかしなかった仲の平河さんが、目の前で自分のためだけに言葉を発している。それも自分に質問しようとしている。橋本はその日の朝、自分の足にムシ刺されが出来ていたことを思い出した。もうそんな季節になったのか、O型の自分には苦しい季節になるな、と気分が沈んだものだ。それからずっと足のかゆみを意識のどこかで持っていたけれど、もうこの時は忘れていた。
「もしそうなら、それでもいいんだけど・・・橋本くんって、私のこと嫌い?」
平河さんが言った言葉は、意外そのものだった。平河さんが学校に来て以来、橋本の毎日は変わった。嫌うはずなんてあるはずがない。慌てて橋本は否定をした。その言葉は橋本の思う以上にスムーズに出てきた。
「本当に?正直に言っていいんだよ」
平河さんの顔は怪訝そうだった。どうやら平河さんは本当に橋本が自分を嫌ってるんじゃないかと思っているようだった。また否定をすると、どうしてそう思うのかを尋ねた。
「ほら、いつも教室で一緒になっても滅多に挨拶してないし、それに・・・」
思い出したように平河さんは続けた。
「私が初めてここに来た時も、何かうわの空だったし」
橋本はこれ以上意外なことなんてないと思っていたけれど、それ以上のことがあった。あの日、確かに橋本は平河さんを見て、その瞬間、春の世界に引き込まれて行った。自分が何処に居るのかも分からずに、ただ彼女の姿だけが道標になって、ふわふわと漂っているみたいだった。ただ、それはあくまでも橋本の一方通行のもので、彼女は彼女の世界を歩いているに違いない。自分のことなんか目には入っていないだろうと思っていた。けれども、あの日、確かに平河さんの目にも自分が映っていた。どう映っているのかはもはや問題ではなかった。例えベクトルが違っても、一瞬でも一緒の世界に居ることができたのだ。橋本は世界中が一望できるタワーの上に乗ってピースしたい気分だった。今、自分はそれくらいの快挙を成し遂げたのだと思った。
橋本はもう一度嫌っていることは否定した。うわの空だったのは、考え事をしていただけだとごまかした。怪訝そうな顔をしていた平河さんの顔は一気にほころび、あぁ、スッキリした、と背を伸ばした。どうやらずっとこのことが気にかかっていたらしかった。
「でも、ということは私の自己紹介、ほとんど訊いてなかったんだね」
とちょっとしかめた顔で平河さんは笑った。ごめん、と謝ると、その顔はまた一気にほころんだ。嫌ってないんだったら、大丈夫だよ。と笑ってくれた。
嫌ってる訳がないじゃないか、むしろ・・・と言いかけたところで、胸が苦しくなった。その後の言葉は分かっているはずなのに、出てこなかった。言ってしまったら、全てが始まり、全てが終わる気がした。その後の言葉を自覚した時、橋本は自分の気持ちに気づいた。そしてそれが、絶対に彼女に言ってはいけない言葉だと、分かってしまった。
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