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一之瀬湊の暴走 5
しおりを挟む手が震えている。痛みを感じているのか、握力が無くなってしまったのか。
どちらにしろ、右手を怪我したということだろう。
「一之瀬くん!?」
「折れては……ないわね。でもこれじゃバットは握れないわ」
バットを握ろうとして落としてしまったのだ、もう振ることはできないだろう。
左手一本ならば振ることはできるが、それでホームランを打つなんて無理に決まっている。
「おーい、早く打席に来い。ん、どうかしたか?」
ベンチであわあわしていると、審判をしていた先輩がこちらの様子を見に来た。
「あ、先輩。一之瀬の手が……」
「あー、こりゃダメだな。硬球を素手で取るからだぞ」
「いや、一打席くらいなら打てますって。ほら……あっ」
再び金属バットを持つ一之瀬だったが、またしても落としてしまった。言わんこっちゃない。
これは本格的に無理そうだな。
なんて思っていると岸田先輩がこちらにやってくる。
「怪我しちまったんならこっちの勝ちってことでいいよな?」
「まだ……決まってない!」
「んだテメェ……じゃあどうするってんだ? また後で仕切り直しか? そこまで付き合ってやるつもりはねぇぞ」
「それは……」
一之瀬の怪我が治るのがいつになるのか分からないため、仕切り直しにするわけにもいかない。
ならどうすればいい。無かったことにする、なんて向こうは飲んでくれないだろう。
「杉坂……打てるか?」
「は……? いや、俺素人だぞ」
「思いっきり振るだけでいいよ。お前、運動できるだろ?」
運動って……まあ運動神経はいい方だけどそれでどうにかできる問題なのだろうか。
しかしこの状況からしてやるしかない。
「どうすんだ?」
「……やる。俺が打ちます。いいですよね」
「ああ、構わない。岸田、付き合ってやろうぜ」
「あー、めんどくせぇな……そうだ、こっちが勝ったらそこの秋野を紹介してくれよ」
「は?」
声が漏れてしまう。
秋野を紹介してくれ? あんなことを言っておいて今そんなことを口走っているのかこの先輩は。
静かに怒りが湧いてくる。確かに何でもだから、秋野を紹介するくらいは命令されても仕方ない。
だが、こいつにそんな資格があるだろうか。絶対に嫌だ。紹介なんてしたくない。
「何でも言うこと聞くんだろ? テメェらがチームならいいだろうが。ゴールデンウィークにデートにでも行こうぜ? なあ?」
「ひっ……」
秋野が怯えたのを見て、咄嗟に間に割って入る。
再びあの時のようなことになったら困る。
「そっちが負けたらどうするんですか」
「最初の約束の通り何でも言うこと聞いてやるよ」
「じゃ、秋野に土下座してください。『本当にごめんなさい、もう二度と関わりません』って言いながら」
「はァ??? 何のつもりだおい? 喧嘩売ってんのか? あ?」
「知ってるんですよ、秋野になんて言ったか。だから、そっちが負けたら謝ってください」
少しは悪いことを言っていた自覚があるのか、岸田先輩は驚きつつこちらを睨んできた。
心の中で結論に辿り着いたのだろう。ああ、こいつらは俺に謝らせるために勝負を仕掛けてきたんだ、と。
「チッ……どうせこっちが勝つから関係ねぇ、行くぞ」
「なんか悪いね」
審判の先輩は基本いい人なようだ。
バットを持ち、素振りをする。応援中も何回か素振りをしたが、まだ球を打っていないため感覚は掴めない。
軽く放ってもらった球を何度か打ち、少しだけ練習する。不安は残るがまあ仕方ないだろう。
「プレイボール!」
打席に立つと、独特の緊張感に飲まれる。
これで俺が三球空振りしたらその時点で負けだ。
バットを短く持ち、岸田先輩が投げるのを待つ。
「オッラァ!!!」
大きく振りかぶって、投げた。とにかくバットを振るぞ!
「……っ」
スパァン! と球がミットに納まる。
俺はバットを構えた体勢のままだ。振れてすらいない。
速い、気が付いたらミットに入っていた。
「ストライク!」
だが、今のは驚いただけだ。大丈夫、落ち着けば打てるはずだ。
実際、球自体は見えていた。目で追えないわけではない。
次は振る。絶対に当てて見せる。
「ダッラァ!!!」
二投目。同じように振りかぶって、投げる。
来た、ストレートど真ん中! 当たれ!
カンッと金属音が鳴る。
球は前ではなく後ろに飛んで行った。
「当たった……!」
ヒットですらないが、当てることはできた。
少しずつ感覚を掴んでいく。少しタイミングを変えればしっかりと当たっていただろう。
なら、その感覚に合わせてタイミングを変えるだけだ。
ツーストライク、これで空振りしたら俺の負け。緊張が走る。
三投目、来る!
「ッラァ!!!」
「次こそ……っ!?」
今まで真っ直ぐ飛んでいた球が曲がった。
カーブだ。一之瀬相手にも使っていなかったのに、くそっ!
とにかく振るしかない! いっけぇ!!!
コンッ、と軽い音が鳴る。
あ、危ない。ギリギリでファールにできた。
「きったねーーーー!!! 何で素人相手に変化球使ってんすかー!!!」
ベンチの一之瀬から野次が飛んでくる。
確かに大人げない行為ではあるが、ルールの範囲に収まっている。文句は言えない。
「タイム!」
さ、四投目は飛ばそうと思っていたらキャッチャーの先輩がタイムを取った。
先輩もタイム使うのかよ。
「あん? なんだよ」
「……おい岸田、ちょっとどうかと思うぞ。後輩相手に、野球経験もないのに」
「知らねーよ、そんなルールねぇだろ」
「だとしてもだ。真っ直ぐで勝負してやれ」
岸田先輩は心の底から面倒くさそうに溜息を吐き、顔を上げる。
「チッ……はいはい、真っ直ぐな。おいテメェ、覚悟しとけよ」
「? ……はあ」
岸田先輩が言うことを聞くとは。この先輩はキャプテンとかだろうか。
とにかく、真っ直ぐで勝負してくれるのだ。集中すればしっかり当てることもできるはず。
再び打席に立ち、バットを構える。
四投目、思いっきり振る。
今度は前に飛んだ。
五投目、同じく力強く振る。
強く当たった。が、ホームランには届かない。
しかし確実に打てるようになってきた。
一時期、バッティングセンターでめっちゃ速い球を打っていたことがあった。
そのおかげだろうか、その時の感覚を思い出している。
「いける……!」
ここで違和感を感じた。岸田先輩の口元が歪んでいるように見えたのだ。
なんだ? 楽しんでいる? いや、岸田先輩は楽しんでいるようには見えなかった。
それなら何故? 何を考えている?
もしかしたら……いや、そんなはずはない。でもまさか……いや、あるのか?
一応、可能性はあるので同時に考えておく。
六投目。ギリギリまで引き付けて打ってやる。
振りかぶって投げられたその球は……曲がった。
やっぱり、曲がるなら……!
「ここだ!」
カーブと分かった時点で飛んでくる位置を予測し、全力でバットを振る。
カッキーン!
「なッ!?」
今までにないほど重い衝撃が腕を伝い、紅白の球が弾かれる。
西日に照らされ焼けた空に、白球は吸い込まれていった。
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〈注〉
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