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軽い気持ちで……
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静まり返った教室に、雨音が響く。
梅雨も後半に差し掛かっただろうか。最近は激しい雨が続いている。
隣から聞こえる声は甲高くうるさいのに、どうしてこの教室だけ静かなのかと言えば、この教室が私のための専用教室だからだ。広い教室に、ただ一人。机の上に置かれたプリントを眺めながら、私は深い後悔の渦へ飲み込まれていった。
私が所属する、ここ成華学園は、20学年が一堂に会する全寮制の完全教育施設である。
時に生徒は「教育」に関わる法律の試験対象となり、またある時には教育や発達の論文に協力する実験、観察対象となることもある。
その代わりに学費、寮費は全額免除、何もなければストレートで大学卒業までの道が確約されている。
そのため、毎年全国からの入園希望者は後を絶たない。
そんな超スーパー教育施設が完成したのが一昨年の春。当時の私は中学2年生に上がる年だった。
1学年の定員150人に対して倍率は25倍と、相当な高倍率だったのだが、「様々な人員が居た方が研究に信用性が増すから」という理由で、元いた学校で平均レベルの成績しか取れなかった私でも合格できた。
最初こそ合格に浮かれていた私だったが、いざ学園生活が始まるとそこには絶望が待っていた。
「上手く学園に馴染めなかった」のだ。地元に居たころは全く苦を感じたことは無かったが、私は最初の1週間で極度の人見知りを発揮してしまい、出来上がった同級生達の輪に入れず、孤立を余儀なくされた。
特段いじめを受けることは無かったものの、地元では割と普通の友人関係を作っていたという自負がある私にとって、学校でも寮でも最低限しか他人と会話を交わさない生活はあまりにも厳しいもので、辞めずに1年を過ごし、進級が決まった日は自分を褒めたくなったものだ。
そんな私に転機が訪れたのが1年前、中3の春だった。図書委員という当たり役を争うことなく勝ち取った私は、仕事場である図書室で思わぬ光景と出くわしたのだ。
静寂こそ正義であるはずの図書室で、しきりに私語を楽しんでいる集団が居て、それも司書教諭や図書委員の仕事場であるカウンターの目前で堂々と立って喋っている。そんな生徒たちを見ても司書教諭は怒ることがないどころか、時折会話に入って楽しんでいる様子だった。
私にとってその光景はまさに異様だったが、いつしか私もその異様な光景を作り出す一員となってしまっていた。最初に会話に入ったきっかけは忘れてしまったが、「図書委員として」彼女らと会話をしているうちに、委員会の仕事が無い日も図書室に通うようになり、3年の委員として仕事が無くなってからも、毎日通い詰めたのだった。
「彼女ら」と言っても、そこまで多い人数でもなく、毎日話す生徒は2~3人なもので、私と同じ3年生は1人も居なかった。
というのも、この学校では幼等部から大学部まで各校舎にそれぞれ図書室があるのだが、各図書室への出入りは自由なので、特に難しい本もなければ楽しめる漫画や絵本も少ないここ中等部の図書室を訪れる生徒はあまりにも少なかったのだ。
そんな数少ない私の話相手の一人が、1年後輩の柳井恵美やないえみちゃんだった。恵美ちゃんは、クラスに友人の居なかった私がこの学園に来て初めてまともに世間話をした相手であり、私の愚痴をいつも笑いながら聞いてくれていたし、寮に帰ってもいつもすぐどこかに遊びに行ってしまう同室の同級生に代わって、「佳菜先輩!」と私を訪ねてきてくれる、とても可愛い後輩だった。
そんな楽しい時間は、早く過ぎ去ってしまう。あっという間に1年が経ち、私は中等部を卒業してしまった。相変わらずクラスに居場所がない私は高等部の図書室へ向かったのだが、ほのぼのとしていた中等部の図書室とは違い、そこには読書や学習に精を出す学生の集まる、殺伐として静かな部屋だった。
何度も中等部の校舎に足を傾けかけたのだが、一人で下級生しかいない校舎に赴くのは想像しただけでも顔が火照るほど恥ずかしく、高等部入学から3ヵ月という長い期間、一度も足を踏み入れることはできなかった。
更に寮も、私は一人暮らしの高等部寮に移ったし、恵美ちゃんは妹が幼等部に入園したということで、私の部屋を訪ねてくることはなかった。
楽しかった中3の生活から一転、私はまた最低限のコミュニケーションしか取らないという、つまらない生活に逆戻りした。
中2の際は耐えられた生活も、甘い蜜の味を知ってしまった私にとっては過酷すぎる生活で、耐えられなくなった私は、あまりにもお馬鹿な選択肢を実行してしまった。
1学期の期末テストを全て白紙で提出したのである。もちろん、「学年を決定する」テストであるため、小1レベルの問題もあったし、中3の授業で、改正された教育基本法には1学年"以上"落第という概念が存在すること、この学園では各学期末に学年を決定するテストがあることは知っていたのだが、"留年"はまだしも"落第"、しかも一気に何学年も落ちることがあるなんて、教師たちの脅し文句だと捉えてしまっていたのだ。
「せめて恵美ちゃんと同じ学年でずっと一緒に進級できれば毎日が楽しいのにな」などという考えを持ってしまった私は、「一番簡単に恵美ちゃんと同じ学年になれるであろう方法」として、「白紙提出」に踏み切ってしまった。
そんな馬鹿げた選択をした私のもとに「降級」の通知が届いたのが4日前の土曜日。自分で決めた道とはいえ、いざ現実になると封筒を開ける手は怖くて震えていた。
覚悟を決めて中にある書類を確認した私の目に入ってきた文字は、「10学年降級」。何度目をこすっても1の隣に書かれた0の文字は消えず、終いには担任から掛かってきた「今から面接に来れるか」という電話で、明らかにそれが異常事態であり私に突き付けられた現実でもあるということが否が応でも実感できた。
すぐに面接に応じた私に対して担任は開口一番「どうしたんだ」と問うてきたので、今の生活に耐えられなくなったこと、そして落第は教師たちの脅し文句だと思って本気に捉えていなかったことを正直に告げた。
それでも、この社会と学園のシステムを中3で履修していた私にそんな勝手な解釈は許される訳もなく、全てを聞いた担任は「受け入れるしかない」と私の肩を叩いた。
その瞬間から溢れだした私の涙が止まるまで、側で背中をさすってくれていた担任は、どこかに電話を入れると私を連れて長い廊下を歩き始めた。
着いた部屋は相談室。中で待っていた精神科医の先生にも事情を全て話し、一枚の診断書を貰った私は、その診断書を学生課に提出した。その結果が今の状態というわけだ。
10学年降級した私の新しい学年は、幼等部年長組。「全て白紙提出=印刷された問題文が全く読めない=ひらがなを読むための就学前学習が足りない」と判断されたのが原因だ。本来ならば年長組相当の幼児になりきるための「皮」なるものを装着されて「おともだち」と一緒に年長組の教室で活動する……という手順を踏むらしいのだが、まだ1学期の途中だということ、そして何よりも私が精神的に病んでいる状態であることが加味され、向かいに幼等部の教室が見える小等部一階の空き教室をあてがわれ、たった1人の「特別落第児」としての生活が今週から始まったのだった。
ここ3日、新しい担任となった美咲先生は「ひらがな の れんしゅう」と書かれたプリントを1時間に1枚持ってくるくらいで、ほとんどの時間は向かいにある「みどりぐみ」で担任として幼児の世話をしているという。
隣の教室に居るのは、小等部に入ったばかりの一年生。まだあどけなさが濃く残り、授業中もうるさい彼らでも、特注されたピンク色のスモックを着せられた今の私にとってはお兄さん、お姉さんと呼ばなくてはならない存在で、休み時間には暇を持て余している私の教室に近づき、廊下から無邪気に羞恥の言葉を浴びせてくる。
そんな羞恥に塗れた環境に置かれた私は、3日目にして別の方向で精神を壊されかけ、若干自暴自棄になってきていた。
そんな私を毎日救ってくれる存在こそ、寮に帰る私を癒してくれる養育者の存在だった。
まだ集団生活に慣れず、手のかかる幼等部の幼児に寮は用意されておらず、全ての幼児は一部を除いて認可を得た高等部や大学部の学生に養育されることとなる。
高等部生として自立した生活を送れていた私もその例に漏れず養育者がつけられることとなったのだが、問題となるのが養育者の選定だ。
いくら学年としては幼等部生となるとはいえ、「皮」を装着されていない私の肉体は15歳の少女であり、流石に男子学生に任せるわけにはいかないし、全く接点の無い女子学生に任せても同年代の女子を「幼等部の女の子」だと割り切って接するのは厳しいだろうと、学園側が絞り出した案こそ、「中等部特別寮に住む柳井恵美を養育者とする」ことだった。
特別寮の名の通り、恵美ちゃんは普通の中等部寮に居るわけではない。今年の春から幼等部の年少組に通い始めた妹の亜美ちゃんの養育者として認められているため、幼等部や小等部に弟妹が居る中等部の生徒専用の特別寮が与えられているのだ……という説明を聞かされ、日曜日のうちに私の荷物は全て恵美ちゃんの部屋へと移された。
数人の子どもが無理なく生活できるように設計されたその部屋は私が今まで住んでいた一人部屋とは比べ物にならない大きさで、私は居間で到着を待っていた恵美ちゃん姉妹への挨拶が遅れるほどに圧倒された。
恵美ちゃんとまた会いたいと思っていた私だったが、予想外の形での再会となった。高等部で少し失敗した1歳年上の同級生として姿を見せるつもりが、1回り近く歳の離れた妹、亜美ちゃんとあまり変わらない"幼児"として姿を見せることになってしまった。
事前に連絡は行っていたようだったが、何しろ昨日の今日の出来事だったため、恵美ちゃんの顔にも不安の色が見えていたが、職員から恵美ちゃんへ改めて状況の説明がなされ、重い後悔に苛まれた私が泣いていると、「事情は理解できました。佳奈先輩、いや、佳奈ちゃんの養育はお任せください。」と、決意のこもった言葉を口にした。その言葉を聞いた私は、職員の去った居間でまた涙を流すことになったのだけれど。
いきなりの事態にもかかわらず、恵美ちゃんは「お久しぶりですね」と好意的に私を迎えてくれた。最初こそ「あたらしいおねえちゃん」の登場に怯えて恵美ちゃんの後ろに隠れていた亜美ちゃんも、恵美ちゃんから「悪い人じゃないよ」と紹介されると、可愛い顔を綻ばせてくれるようになったし、わたしが「みどりぐみさん」にいることを告げると、「ようちえんのひみつ」をたくさん教えてくれた。
亜美ちゃんから幼等部のことを聞いていると、恵美ちゃんが夕食だと言って私たちを呼んだ。
私と亜美ちゃんの目の前に置かれていたのは1枚の布。そう。涎掛けであった。サイズこそ違えどお揃いの涎掛けにはしっかりとウサギやネコといった動物がプリントされていて、私の羞恥心はこれでもかと煽られた。「私は食べ物をこぼさない」と主張したが、養育者である恵美"おねえちゃん"に「寮でも幼児扱いします」と宣言されてしまっては、反論の余地は無かった。
本格的に幼児の生活が始まってから初めての食事はカレーだった。私に出されたものは、甘口という領域を超えたキャラクターがデザインされたレトルトカレー。もちろん亜美ちゃんと同じものである。少し前まで好んで口にしていたものが中辛だったことを考えると涙が出てきそうだったが、何とか耐えて完食した。
その後3人でお風呂に入り、恵美おねえちゃんに寝かしつけられたのは21時。私にとってはこれから活発になる時間であり、とても最初の夜は眠れたものではなかった。
昼と夜で違う羞恥に塗れた生活が始まったものの、養育者としての恵美おねえちゃんは優しく、3日も経てば執拗な幼児扱いに慣れてしまったというか、恥ずかしいながらも甘えるまでに堕ちてしまった。「末っ子」として愛情を受ける亜美ちゃんに早くも嫉妬を覚えてしまったのかもしれない。
それほどまでに「幼児」という生活は楽で、裏を返せば「退屈」だった。
私が「幼稚園年長」に落第してからたった2週間。2回目の転機は訪れた。
違和感を覚える目覚め。約10年経験していなかった「気持ち悪さ」と「刺激臭」の正体が自分から発せられたものだと認識するのにかなりの時間を要した。つい先日まで「高校1年生」だった私にとって、あり得ない失態。白い敷布団に黒い世界地図がくっきりと描かれていたのだ。
もの珍しさが抜けたのか、一年生のお兄さん、お姉さんは私の教室に興味を示さなくなったという事実は私にとって良いことであるはずなのに、なぜか「寂しい」という感情が心の奥底にあったのも災いしたのかもしれない。知らず知らずのうちに膨らんでいた「思う存分甘えたい」という気持ちは、たった2週間で「おねしょ」という形を伴って具現化してしまった。
心では「甘えたい」と思っていても、いざそれが「あり得ない失敗」という形で具現化すると、僅かに残った理性は「やってしまった」という強い後悔を押し付けてくる。怒られることが怖くて、身構えてしまう。
でも、そんなかなのしんぱいはいらないほど、おねえちゃんはとってもとってもやさしくって。
「佳菜ちゃんはまだ年長さんだから、おねしょしちゃっても良いんだよ。お布団はお洗濯するから、お風呂でシャワー浴びてきてね。」
っていって、あたまをポンポンしてくれた。
もっとポンポンされてたかったけど、おねえちゃんがこまるから、シャワーをあびた。
おふろからでると、おねえちゃんとあみちゃんがまってて、じゅうたんのうえにバスタオルがしいてあった。「佳菜ちゃん、ここにゴロンしてね」っておねえちゃんにいわれたから、バスタオルにゴロンした。
「佳菜ちゃん、今日はこれを着ようね」といったおねえちゃんがもってたのは、あみちゃんがはいてるおむつと、かながいつもようちえんできてるおようふく。あみちゃんは「かなおねえちゃん、あみとおんなじだぁ!」ってよろこんでた。
おねえちゃんにおむつとスカートをはかせてもらって、ばんざいでおふくもきせてもらった。
おねえちゃんはかなをおきがえさせたあと、「今日は亜美ちゃんも佳菜ちゃんも幼稚園をお休みにしたから、お姉ちゃんと遊ぼっか!」っていってくれた。かなたちは「やったぁ!」ってジャンプした。さいごに、おねえちゃんが「佳菜ちゃんは今、『赤ちゃんになりたいな』って思ってるの。だから、今日だけは亜美ちゃんが佳菜ちゃんのおねえちゃんで、佳菜ちゃんは一番下の赤ちゃん。でも二人とも、おむつにちっちしたら、おねえちゃんに『ちっち』って教えてね。」っていったら、あみちゃんも「わかった!あみ、かなちゃんのおねえちゃんになるね!」っていってくれた。
そうして、かなはいちにちじゅう、えみおねえちゃんとあみおねえちゃんにいっぱいかわいがってもらったのでした。
翌朝。「もっと甘えたい」という私と、「もっとおねえちゃんやりたい」という亜美ちゃんに囲まれて、恵美おねえちゃんは「じゃあ、この日にまたやろっか!」って言ってくれた。それからというもの、2週間に1回という高頻度で私と亜美ちゃんの姉妹逆転が起きることになるのだが、それはまた別のお話。
幼稚園児には学力検査が課されないため、一度幼稚園まで落第してしまえば年度末までは確定で復帰できない。それどころか「落第生」というレッテルが付くと、幼稚園修了時の学力検査でたとえどんな成績を取ろうとも小学一年生からのスタートは変わらないので、実質2年以上拘束されることになる。重度の精神疾患でない限りはこのルールが適応されるため、私も例に漏れずあと1年半以上は学年を拘束されるということなのだが、何もその期間の全てを一人の特別教室で過ごさせるわけにはいかない。
そのため、9月からは私も正式に「みどりぐみ」の一員となるわけだが、そこで問題となるのが「年齢差」である。私と幼児たちにはとても越えられない10歳前後の壁が存在するわけで、普通に考えれば知力でも体力でも私の圧勝である。その差を埋めるため、落第児に課せられる大きなハンデこそ「皮」と呼ばれるものであり、自由に伸縮するその力で体格を、頭部に搭載された微細な装置で脳機能をそれぞれ制限することができるという代物だ。しかし、従来の皮は全て脳にも作用するタイプだったため、使用後の脳機能に被害が出ることを危惧されていた。
そこで、体格のみを制限するタイプの開発が進められていたのだが、何しろ「生活能力の欠如」で送られてくる落第生たちの知識は十分で、従来のものを使用するしか無かったのが現状だ。
ここまで聞けば察せるだろうが、私が着用することになった皮こそ、この体格のみを制限する新タイプの皮というわけである。「2週間に1度」という高頻度で幼児退行し、他より明らかに「幼児」に近い私は、臨床実験に適していると診断された。
そして、夏休みも後半に差し掛かってお盆という期間が過ぎた8月18日、私の体は「皮」に入れられた。全体的に丸みを帯びた体型と、亜美ちゃんと10cmも変わらない身長。それが私に与えられた新しい体。義理の体であるから、これ以上の成長はあり得ない。もう一つの処置と合わせて、立っていられないような違和感と悲しさが襲ってきたが、恵美おねえちゃんが介抱してくれたおかげで事なきを得た。夜にはもうしっかりと馴染み、一気に身長差の縮まった亜美ちゃんと一緒に走り回れるくらいになっていた。
私を悲しませた「もう一つの処置」とは、顔の矯正である。幼児の肢体に15歳の頭がついていたら、流石に恐ろしいだろう。ニキビ痕がきれいさっぱり取り除かれたことは喜ぶべきことだが、特殊技術によって顔には脂肪が注射され、幼児特有のぷにぷにとした顔質に。他にも各所にメスが入れられ、処置後に渡された手鏡には写真で見たことのあった「小学校入学前の私」がくっきりと映っていた。
私にとって、この皮の被検体に選ばれたことはメリットでもあった。
傍から見れば幼児退行を起こす周期が「2週間に1回」というのは高頻度かもしれないが、裏を返せばその日以外は普通に過ごせるわけで、15歳としての知識も経験も理性も備えている私は、勉強で忙しい恵美おねえちゃんの手を煩わせることなく亜美ちゃんを制することができるし、皮を着せられたことで大幅に低くなった目線は、格段に亜美ちゃんの目を捉えやすくなっており、一段と仲を深めることもできた。
不本意ながらも久しぶりに訪れた「宿題に縛られない、楽しいだけの夏休み」はあっという間に去った。今日は9月1日。私が「みどりぐみ」の一員として正式に迎えられる日である。朝から緊張で震えが止まらず、ろくに朝食も喉を通らなかった。
縮んだ身長に合わせて送られてきた新しいスモックも上手く着れず、最終的には亜美ちゃんと同じようにバンザイをして着せてもらった。通園の時間が迫るにつれて高まった緊張感に耐え切れず、ついには泣き出してしまった私を、おねえちゃんは優しく介抱してくれた。
担任である美咲先生に抱きかかえられて「みどりぐみ」の教室に連れてこられた私は、「みんなにお話するから、ちょっと待っててね」と一人廊下に立たされた。「今から挨拶するんだ」と思うと、脈が速くなる。この学園に入園した2年前より症状は明らかに酷い。それも当然の話で、2年前、周りは全員が全員に対して赤の他人であり、一応同級生でもあった。
それに比べ今回はというと、私は約2年培った輪に外から入る、いわば部外者であり、体格こそ似ているものの、中身は何と10歳も違うというのだ。意識を保てている分、褒めてほしいとさえ思った。
そんなことを考えていると、目の前の扉が開かれた。美咲先生に連れられ、パステルカラーの装飾が施された教室へと入る。キレイに並べられた小さな椅子に座った23人の「おともだち」からの視線が一気に私へと注がれる。「おんなのこだ!」とか「かわいい!」だとか言って教室が一瞬色めき立ったが、美咲先生は手を2回叩いて一気に静めた。
私にとっては限りなくアウェーに近い明るさに俯いていると、先生から声を掛けられた。
「お名前言えるかな?」その言葉が少し救いになった。ここは幼等部、「自己紹介」ではない。名前を言うだけでも許されるのだ。救われたとはいえまだ緊張の抜けない私は、か細い声で「たかなし……かなです」と発するのが精一杯だったのだが。
拍手が起きた後、私はロッカーに黄色いカバンを入れ、窓際の席に案内された。隣に座っていた女の子は、奥嶋瑠菜ちゃんというらしい(漢字は後から恵美おねえちゃんに渡された資料で知った)。瑠菜ちゃんはとても明るく、面倒見も良いようで、隣に座った新参者の私にすぐさま握手を求めてきたり、クラスのことを事細かに教えてくれたりした。
私の入場前には既に点呼を済ませていたらしく、間髪入れずに「あさのたいそう」が始まった。とはいえラジオ音源のような格式ばったものではなく、先生たちが独自で作ったものらしい。
美咲先生がピアノを弾き始めると、周りの幼児たちは皆慣れた様子で体操を始めた。
私も美咲先生の声と周りの動きから何をすべきかを判断し、見よう見まねで体操を始めた。そんな矢先の出来事だった。
名前だけでも自己紹介を済ませ、「おともだち」に受け入れられ、活動が始まったことで、緊張が解けてきたのだと思う。ジャンプをしたことで不意に緩んだ膀胱は、その勢いのままに決壊を許してしまった。
当然の結果である。朝は緊張しきっていてトイレに行っても十分に尿が出なかったし、口の渇きを紛らわすため、今までより明らかに早いペースで水筒の麦茶を消費していた。緊張状態にあったから自然と我慢が成立していたものの、その緊張が緩んでしまっては尿意を訴える隙もなく、僅かな刺激でそのまま決壊したというわけだ。
股に広がる生暖かい感覚と、教室に響く放尿音。2週間に1度は同じような感覚を経験しているのだが、今回はあまりにも状況が違いすぎた。「かなちゃんおもらししてる~!」一瞬静まり返った教室に、瑠菜ちゃんの無邪気な声が響くと、私は涙腺も決壊させてしまった。
そこから先は、記憶が無い。気づいた時には、夕方になっていて、「ほけんしつ」に私を迎えに来た恵美おねえちゃんにだっこされ、私の幼等部生活初日は幕を下ろした。
寮に戻ったあと、おねえちゃんは「美咲先生は『初日で緊張していたというのもあるだろうし、たまに失敗する子も居ます』って言ってくれたけど、新しい環境でいきなり『おもらしさん』は嫌じゃない?」と訊いてきた。考えた末、首を縦に振る。そんな私の答えを見たおねえちゃんは「じゃあ、幼稚園に慣れるためにも、一回、おもらししても何も言われないようなクラスに行ってみない?」と提案してきた。
言っていることが理解できなかったので首を傾げていると、「亜美とおなじ年少さんになって、幼稚園に慣れたら、年長さんに戻してもらおう」と説明してくれた。
確かに、亜美ちゃんも通う年少クラスは、クリアしなければならない生活課題的に亜美ちゃんのようにおむつをしているのが当たり前であり、おもらしをしてもからかわれることはあり得ない。
「でも、そんなに甘えていいの?」と問うと、「『おもらしさん』ってからかわれるよりいいでしょ?」と返され、『教育』としての最低学年への落第が決まった。
たった1日にして、幼等部の最高学年から『教育』の最低学年への落第が決まった私に、亜美ちゃんは少なからず驚きの色を示したが、おなじ「あかぐみ」に通うことを知ると、一転喜んでいた。更に、「誕生日の早い亜美ちゃんがおねえちゃんね」と言われた亜美"おねえちゃん"は、飛び上がって喜んだ。これにより、私は幼児退行していなくても「末っ子」となったのだ。そう考えると心が軽くなって、次の日もまた環境の変化が待っているというのに、不思議と緊張せず、よく眠れた。
翌日。「念のため」で穿いていた夜用のおむつはしっかりと私の尿を吸い取り、亜美おねえちゃんと比べても遜色ないほどに膨らんでいた。恵美おねえちゃんは慣れた手つきで私たちのおむつを取り、お風呂場に連れて行き、シャワーを浴びせた。私たちの着替えの下着はもちろんおむつ。朝食を取ってスモックに着替えると、私の胸には昨日と違う赤ベースの名札がついていたし、頭には赤色の帽子が被せられた。亜美おねえちゃんとならんだその姿は明らかに双子の姉妹であり、私はここまで堕ちてしまったんだなというのがひしひしと感じられた。
あかぐみの教室は、昨日行ったみどりぐみよりも明らかに騒がしく、同じ幼児でも年齢の差が感じられた。誰かが常に動いていて、全員がじっとしている時間などなかった。私の紹介も簡素なもので、名前すら自分で言う必要は無く、新しい担任の葵先生が全部説明してくれた。説明が終わったらもう一人のさくら先生にだっこされて亜美おねえちゃんのとなりの椅子へと座らされ、この日最初の活動である絵本の読み聞かせが始まった。葵先生の読み聞かせはとっても上手で、幼児用につくられたはずのストーリーにすっかり心を持っていかれてしまった。
十分な間と、非常にゆったりとしたペース。2冊目を読み終えたころ、微かに聞こえた小等部からのチャイムで、あかぐみに来てもう1時間近くが経過したことを悟った。
読み聞かせを終えた葵先生と、ずっと立っているだけだったさくら先生がおむつチェックを始める。この学園においては年少組かその下の「ひよこさんクラス」でしかあり得ない光景だ。
15歳の意識を持った私にとっては異様な光景でも、私以外の幼児はそれを当たり前に受け止めていて、「皆の前でおむつを替えられる」ということに対して何も抵抗しない。
「成長」について感慨に耽っていると、私のもとにもさくら先生がやってきて、チェックをした。さすがに1時間ではまだそれほど尿意も無かったので、おむつ交換はされなかった。さくら先生は「ちっち出たら、しっかり先生に教えてね。」と言って、教室の後ろ側へ去っていった。
その後は自由遊びで亜美おねえちゃんやその友達とおままごとをしたり、また椅子に座らされてお絵描きをしたり、葵先生のピアノに合わせて歌を歌ったりしてあっという間に昼食までの時間が過ぎた。私はというと、お絵描きの途中でおもらしをしてしまい、丁度回ってきた葵先生におむつを取り換えられたのだった。
昼食の時間は、中等部、高等部時代よりも1時間以上早い11時。小さくなった胃腸ではあまり動いていなくてもすぐにお腹が空くらしく、全く問題なかった。一応年長組に合わせて作られた私の皮は、別に不器用というわけでもなく、誰よりも早く給食を食べきることになり、私は暇を持て余すこととなった。
全員食べ終わると、先生たちは教室のクローゼットから薄い敷布団を出した。24枚とはいえ、軽いので出すのは一瞬である。黄色い通園バックに入れられた動物柄のパジャマに着替えながら、先生たちが忙しく布団を敷いたり、パジャマのボタンをつけるのを手伝っている姿を見ていた。
さすがに何もしなければ全員おねしょ確定コースなのは目に見えているので、おむつチェックをして出そうな子はおまるに、出ていた子はタオルケットの上にそれぞれ連れて行かれた。ちなみに私は、先生が回ってくるまでに我慢できず、おむつのお世話になった。
こんな予防を施しても、現実は非情である。寝ているときというのは当たり前だが全ての力が抜けているため、起きた時にはクラスの半数以上、15人がおねしょをしていた。残念ながら私もその一人であった。
さすがにこの時ばかりは、体は年長組なのに10人弱の幼児に負けてしまったことに対してかなりの羞恥を覚えた。
昼寝の後のおやつも済ませ、また亜美おねえちゃんたちと遊んでいると、お迎えがきた。私たちのもとにも当然恵美おねえちゃんが来て、「帰るよ」と言った。今日1日分の「お土産」は、2人で7枚。昼寝の後にも2人揃っておむつを替えられたのだが、おねしょをしなかった亜美おねえちゃんの方が1枚少ない3枚、私が4枚。私が幼児退行をした時はもっと差があるので、恵美おねえちゃんは別に驚いた様子は無く、両手に私たちを連れて、寮に戻った。
初めての「あかぐみ」は、私にとって天国のような時間だった。本当は「何もできない」ことを嘆くべきなのだろうが、15年以上生きて学校生活の辛さを知っている私には「ストレスフリーの空間」でしかなく、「どんな失敗をしても怒られない」というのはあまりにも快適な空間だった。
この後、この甘い蜜に溺れそうになった私にまた様々なイベントが起こるのだが、私はそのことをまだ知らない。
梅雨も後半に差し掛かっただろうか。最近は激しい雨が続いている。
隣から聞こえる声は甲高くうるさいのに、どうしてこの教室だけ静かなのかと言えば、この教室が私のための専用教室だからだ。広い教室に、ただ一人。机の上に置かれたプリントを眺めながら、私は深い後悔の渦へ飲み込まれていった。
私が所属する、ここ成華学園は、20学年が一堂に会する全寮制の完全教育施設である。
時に生徒は「教育」に関わる法律の試験対象となり、またある時には教育や発達の論文に協力する実験、観察対象となることもある。
その代わりに学費、寮費は全額免除、何もなければストレートで大学卒業までの道が確約されている。
そのため、毎年全国からの入園希望者は後を絶たない。
そんな超スーパー教育施設が完成したのが一昨年の春。当時の私は中学2年生に上がる年だった。
1学年の定員150人に対して倍率は25倍と、相当な高倍率だったのだが、「様々な人員が居た方が研究に信用性が増すから」という理由で、元いた学校で平均レベルの成績しか取れなかった私でも合格できた。
最初こそ合格に浮かれていた私だったが、いざ学園生活が始まるとそこには絶望が待っていた。
「上手く学園に馴染めなかった」のだ。地元に居たころは全く苦を感じたことは無かったが、私は最初の1週間で極度の人見知りを発揮してしまい、出来上がった同級生達の輪に入れず、孤立を余儀なくされた。
特段いじめを受けることは無かったものの、地元では割と普通の友人関係を作っていたという自負がある私にとって、学校でも寮でも最低限しか他人と会話を交わさない生活はあまりにも厳しいもので、辞めずに1年を過ごし、進級が決まった日は自分を褒めたくなったものだ。
そんな私に転機が訪れたのが1年前、中3の春だった。図書委員という当たり役を争うことなく勝ち取った私は、仕事場である図書室で思わぬ光景と出くわしたのだ。
静寂こそ正義であるはずの図書室で、しきりに私語を楽しんでいる集団が居て、それも司書教諭や図書委員の仕事場であるカウンターの目前で堂々と立って喋っている。そんな生徒たちを見ても司書教諭は怒ることがないどころか、時折会話に入って楽しんでいる様子だった。
私にとってその光景はまさに異様だったが、いつしか私もその異様な光景を作り出す一員となってしまっていた。最初に会話に入ったきっかけは忘れてしまったが、「図書委員として」彼女らと会話をしているうちに、委員会の仕事が無い日も図書室に通うようになり、3年の委員として仕事が無くなってからも、毎日通い詰めたのだった。
「彼女ら」と言っても、そこまで多い人数でもなく、毎日話す生徒は2~3人なもので、私と同じ3年生は1人も居なかった。
というのも、この学校では幼等部から大学部まで各校舎にそれぞれ図書室があるのだが、各図書室への出入りは自由なので、特に難しい本もなければ楽しめる漫画や絵本も少ないここ中等部の図書室を訪れる生徒はあまりにも少なかったのだ。
そんな数少ない私の話相手の一人が、1年後輩の柳井恵美やないえみちゃんだった。恵美ちゃんは、クラスに友人の居なかった私がこの学園に来て初めてまともに世間話をした相手であり、私の愚痴をいつも笑いながら聞いてくれていたし、寮に帰ってもいつもすぐどこかに遊びに行ってしまう同室の同級生に代わって、「佳菜先輩!」と私を訪ねてきてくれる、とても可愛い後輩だった。
そんな楽しい時間は、早く過ぎ去ってしまう。あっという間に1年が経ち、私は中等部を卒業してしまった。相変わらずクラスに居場所がない私は高等部の図書室へ向かったのだが、ほのぼのとしていた中等部の図書室とは違い、そこには読書や学習に精を出す学生の集まる、殺伐として静かな部屋だった。
何度も中等部の校舎に足を傾けかけたのだが、一人で下級生しかいない校舎に赴くのは想像しただけでも顔が火照るほど恥ずかしく、高等部入学から3ヵ月という長い期間、一度も足を踏み入れることはできなかった。
更に寮も、私は一人暮らしの高等部寮に移ったし、恵美ちゃんは妹が幼等部に入園したということで、私の部屋を訪ねてくることはなかった。
楽しかった中3の生活から一転、私はまた最低限のコミュニケーションしか取らないという、つまらない生活に逆戻りした。
中2の際は耐えられた生活も、甘い蜜の味を知ってしまった私にとっては過酷すぎる生活で、耐えられなくなった私は、あまりにもお馬鹿な選択肢を実行してしまった。
1学期の期末テストを全て白紙で提出したのである。もちろん、「学年を決定する」テストであるため、小1レベルの問題もあったし、中3の授業で、改正された教育基本法には1学年"以上"落第という概念が存在すること、この学園では各学期末に学年を決定するテストがあることは知っていたのだが、"留年"はまだしも"落第"、しかも一気に何学年も落ちることがあるなんて、教師たちの脅し文句だと捉えてしまっていたのだ。
「せめて恵美ちゃんと同じ学年でずっと一緒に進級できれば毎日が楽しいのにな」などという考えを持ってしまった私は、「一番簡単に恵美ちゃんと同じ学年になれるであろう方法」として、「白紙提出」に踏み切ってしまった。
そんな馬鹿げた選択をした私のもとに「降級」の通知が届いたのが4日前の土曜日。自分で決めた道とはいえ、いざ現実になると封筒を開ける手は怖くて震えていた。
覚悟を決めて中にある書類を確認した私の目に入ってきた文字は、「10学年降級」。何度目をこすっても1の隣に書かれた0の文字は消えず、終いには担任から掛かってきた「今から面接に来れるか」という電話で、明らかにそれが異常事態であり私に突き付けられた現実でもあるということが否が応でも実感できた。
すぐに面接に応じた私に対して担任は開口一番「どうしたんだ」と問うてきたので、今の生活に耐えられなくなったこと、そして落第は教師たちの脅し文句だと思って本気に捉えていなかったことを正直に告げた。
それでも、この社会と学園のシステムを中3で履修していた私にそんな勝手な解釈は許される訳もなく、全てを聞いた担任は「受け入れるしかない」と私の肩を叩いた。
その瞬間から溢れだした私の涙が止まるまで、側で背中をさすってくれていた担任は、どこかに電話を入れると私を連れて長い廊下を歩き始めた。
着いた部屋は相談室。中で待っていた精神科医の先生にも事情を全て話し、一枚の診断書を貰った私は、その診断書を学生課に提出した。その結果が今の状態というわけだ。
10学年降級した私の新しい学年は、幼等部年長組。「全て白紙提出=印刷された問題文が全く読めない=ひらがなを読むための就学前学習が足りない」と判断されたのが原因だ。本来ならば年長組相当の幼児になりきるための「皮」なるものを装着されて「おともだち」と一緒に年長組の教室で活動する……という手順を踏むらしいのだが、まだ1学期の途中だということ、そして何よりも私が精神的に病んでいる状態であることが加味され、向かいに幼等部の教室が見える小等部一階の空き教室をあてがわれ、たった1人の「特別落第児」としての生活が今週から始まったのだった。
ここ3日、新しい担任となった美咲先生は「ひらがな の れんしゅう」と書かれたプリントを1時間に1枚持ってくるくらいで、ほとんどの時間は向かいにある「みどりぐみ」で担任として幼児の世話をしているという。
隣の教室に居るのは、小等部に入ったばかりの一年生。まだあどけなさが濃く残り、授業中もうるさい彼らでも、特注されたピンク色のスモックを着せられた今の私にとってはお兄さん、お姉さんと呼ばなくてはならない存在で、休み時間には暇を持て余している私の教室に近づき、廊下から無邪気に羞恥の言葉を浴びせてくる。
そんな羞恥に塗れた環境に置かれた私は、3日目にして別の方向で精神を壊されかけ、若干自暴自棄になってきていた。
そんな私を毎日救ってくれる存在こそ、寮に帰る私を癒してくれる養育者の存在だった。
まだ集団生活に慣れず、手のかかる幼等部の幼児に寮は用意されておらず、全ての幼児は一部を除いて認可を得た高等部や大学部の学生に養育されることとなる。
高等部生として自立した生活を送れていた私もその例に漏れず養育者がつけられることとなったのだが、問題となるのが養育者の選定だ。
いくら学年としては幼等部生となるとはいえ、「皮」を装着されていない私の肉体は15歳の少女であり、流石に男子学生に任せるわけにはいかないし、全く接点の無い女子学生に任せても同年代の女子を「幼等部の女の子」だと割り切って接するのは厳しいだろうと、学園側が絞り出した案こそ、「中等部特別寮に住む柳井恵美を養育者とする」ことだった。
特別寮の名の通り、恵美ちゃんは普通の中等部寮に居るわけではない。今年の春から幼等部の年少組に通い始めた妹の亜美ちゃんの養育者として認められているため、幼等部や小等部に弟妹が居る中等部の生徒専用の特別寮が与えられているのだ……という説明を聞かされ、日曜日のうちに私の荷物は全て恵美ちゃんの部屋へと移された。
数人の子どもが無理なく生活できるように設計されたその部屋は私が今まで住んでいた一人部屋とは比べ物にならない大きさで、私は居間で到着を待っていた恵美ちゃん姉妹への挨拶が遅れるほどに圧倒された。
恵美ちゃんとまた会いたいと思っていた私だったが、予想外の形での再会となった。高等部で少し失敗した1歳年上の同級生として姿を見せるつもりが、1回り近く歳の離れた妹、亜美ちゃんとあまり変わらない"幼児"として姿を見せることになってしまった。
事前に連絡は行っていたようだったが、何しろ昨日の今日の出来事だったため、恵美ちゃんの顔にも不安の色が見えていたが、職員から恵美ちゃんへ改めて状況の説明がなされ、重い後悔に苛まれた私が泣いていると、「事情は理解できました。佳奈先輩、いや、佳奈ちゃんの養育はお任せください。」と、決意のこもった言葉を口にした。その言葉を聞いた私は、職員の去った居間でまた涙を流すことになったのだけれど。
いきなりの事態にもかかわらず、恵美ちゃんは「お久しぶりですね」と好意的に私を迎えてくれた。最初こそ「あたらしいおねえちゃん」の登場に怯えて恵美ちゃんの後ろに隠れていた亜美ちゃんも、恵美ちゃんから「悪い人じゃないよ」と紹介されると、可愛い顔を綻ばせてくれるようになったし、わたしが「みどりぐみさん」にいることを告げると、「ようちえんのひみつ」をたくさん教えてくれた。
亜美ちゃんから幼等部のことを聞いていると、恵美ちゃんが夕食だと言って私たちを呼んだ。
私と亜美ちゃんの目の前に置かれていたのは1枚の布。そう。涎掛けであった。サイズこそ違えどお揃いの涎掛けにはしっかりとウサギやネコといった動物がプリントされていて、私の羞恥心はこれでもかと煽られた。「私は食べ物をこぼさない」と主張したが、養育者である恵美"おねえちゃん"に「寮でも幼児扱いします」と宣言されてしまっては、反論の余地は無かった。
本格的に幼児の生活が始まってから初めての食事はカレーだった。私に出されたものは、甘口という領域を超えたキャラクターがデザインされたレトルトカレー。もちろん亜美ちゃんと同じものである。少し前まで好んで口にしていたものが中辛だったことを考えると涙が出てきそうだったが、何とか耐えて完食した。
その後3人でお風呂に入り、恵美おねえちゃんに寝かしつけられたのは21時。私にとってはこれから活発になる時間であり、とても最初の夜は眠れたものではなかった。
昼と夜で違う羞恥に塗れた生活が始まったものの、養育者としての恵美おねえちゃんは優しく、3日も経てば執拗な幼児扱いに慣れてしまったというか、恥ずかしいながらも甘えるまでに堕ちてしまった。「末っ子」として愛情を受ける亜美ちゃんに早くも嫉妬を覚えてしまったのかもしれない。
それほどまでに「幼児」という生活は楽で、裏を返せば「退屈」だった。
私が「幼稚園年長」に落第してからたった2週間。2回目の転機は訪れた。
違和感を覚える目覚め。約10年経験していなかった「気持ち悪さ」と「刺激臭」の正体が自分から発せられたものだと認識するのにかなりの時間を要した。つい先日まで「高校1年生」だった私にとって、あり得ない失態。白い敷布団に黒い世界地図がくっきりと描かれていたのだ。
もの珍しさが抜けたのか、一年生のお兄さん、お姉さんは私の教室に興味を示さなくなったという事実は私にとって良いことであるはずなのに、なぜか「寂しい」という感情が心の奥底にあったのも災いしたのかもしれない。知らず知らずのうちに膨らんでいた「思う存分甘えたい」という気持ちは、たった2週間で「おねしょ」という形を伴って具現化してしまった。
心では「甘えたい」と思っていても、いざそれが「あり得ない失敗」という形で具現化すると、僅かに残った理性は「やってしまった」という強い後悔を押し付けてくる。怒られることが怖くて、身構えてしまう。
でも、そんなかなのしんぱいはいらないほど、おねえちゃんはとってもとってもやさしくって。
「佳菜ちゃんはまだ年長さんだから、おねしょしちゃっても良いんだよ。お布団はお洗濯するから、お風呂でシャワー浴びてきてね。」
っていって、あたまをポンポンしてくれた。
もっとポンポンされてたかったけど、おねえちゃんがこまるから、シャワーをあびた。
おふろからでると、おねえちゃんとあみちゃんがまってて、じゅうたんのうえにバスタオルがしいてあった。「佳菜ちゃん、ここにゴロンしてね」っておねえちゃんにいわれたから、バスタオルにゴロンした。
「佳菜ちゃん、今日はこれを着ようね」といったおねえちゃんがもってたのは、あみちゃんがはいてるおむつと、かながいつもようちえんできてるおようふく。あみちゃんは「かなおねえちゃん、あみとおんなじだぁ!」ってよろこんでた。
おねえちゃんにおむつとスカートをはかせてもらって、ばんざいでおふくもきせてもらった。
おねえちゃんはかなをおきがえさせたあと、「今日は亜美ちゃんも佳菜ちゃんも幼稚園をお休みにしたから、お姉ちゃんと遊ぼっか!」っていってくれた。かなたちは「やったぁ!」ってジャンプした。さいごに、おねえちゃんが「佳菜ちゃんは今、『赤ちゃんになりたいな』って思ってるの。だから、今日だけは亜美ちゃんが佳菜ちゃんのおねえちゃんで、佳菜ちゃんは一番下の赤ちゃん。でも二人とも、おむつにちっちしたら、おねえちゃんに『ちっち』って教えてね。」っていったら、あみちゃんも「わかった!あみ、かなちゃんのおねえちゃんになるね!」っていってくれた。
そうして、かなはいちにちじゅう、えみおねえちゃんとあみおねえちゃんにいっぱいかわいがってもらったのでした。
翌朝。「もっと甘えたい」という私と、「もっとおねえちゃんやりたい」という亜美ちゃんに囲まれて、恵美おねえちゃんは「じゃあ、この日にまたやろっか!」って言ってくれた。それからというもの、2週間に1回という高頻度で私と亜美ちゃんの姉妹逆転が起きることになるのだが、それはまた別のお話。
幼稚園児には学力検査が課されないため、一度幼稚園まで落第してしまえば年度末までは確定で復帰できない。それどころか「落第生」というレッテルが付くと、幼稚園修了時の学力検査でたとえどんな成績を取ろうとも小学一年生からのスタートは変わらないので、実質2年以上拘束されることになる。重度の精神疾患でない限りはこのルールが適応されるため、私も例に漏れずあと1年半以上は学年を拘束されるということなのだが、何もその期間の全てを一人の特別教室で過ごさせるわけにはいかない。
そのため、9月からは私も正式に「みどりぐみ」の一員となるわけだが、そこで問題となるのが「年齢差」である。私と幼児たちにはとても越えられない10歳前後の壁が存在するわけで、普通に考えれば知力でも体力でも私の圧勝である。その差を埋めるため、落第児に課せられる大きなハンデこそ「皮」と呼ばれるものであり、自由に伸縮するその力で体格を、頭部に搭載された微細な装置で脳機能をそれぞれ制限することができるという代物だ。しかし、従来の皮は全て脳にも作用するタイプだったため、使用後の脳機能に被害が出ることを危惧されていた。
そこで、体格のみを制限するタイプの開発が進められていたのだが、何しろ「生活能力の欠如」で送られてくる落第生たちの知識は十分で、従来のものを使用するしか無かったのが現状だ。
ここまで聞けば察せるだろうが、私が着用することになった皮こそ、この体格のみを制限する新タイプの皮というわけである。「2週間に1度」という高頻度で幼児退行し、他より明らかに「幼児」に近い私は、臨床実験に適していると診断された。
そして、夏休みも後半に差し掛かってお盆という期間が過ぎた8月18日、私の体は「皮」に入れられた。全体的に丸みを帯びた体型と、亜美ちゃんと10cmも変わらない身長。それが私に与えられた新しい体。義理の体であるから、これ以上の成長はあり得ない。もう一つの処置と合わせて、立っていられないような違和感と悲しさが襲ってきたが、恵美おねえちゃんが介抱してくれたおかげで事なきを得た。夜にはもうしっかりと馴染み、一気に身長差の縮まった亜美ちゃんと一緒に走り回れるくらいになっていた。
私を悲しませた「もう一つの処置」とは、顔の矯正である。幼児の肢体に15歳の頭がついていたら、流石に恐ろしいだろう。ニキビ痕がきれいさっぱり取り除かれたことは喜ぶべきことだが、特殊技術によって顔には脂肪が注射され、幼児特有のぷにぷにとした顔質に。他にも各所にメスが入れられ、処置後に渡された手鏡には写真で見たことのあった「小学校入学前の私」がくっきりと映っていた。
私にとって、この皮の被検体に選ばれたことはメリットでもあった。
傍から見れば幼児退行を起こす周期が「2週間に1回」というのは高頻度かもしれないが、裏を返せばその日以外は普通に過ごせるわけで、15歳としての知識も経験も理性も備えている私は、勉強で忙しい恵美おねえちゃんの手を煩わせることなく亜美ちゃんを制することができるし、皮を着せられたことで大幅に低くなった目線は、格段に亜美ちゃんの目を捉えやすくなっており、一段と仲を深めることもできた。
不本意ながらも久しぶりに訪れた「宿題に縛られない、楽しいだけの夏休み」はあっという間に去った。今日は9月1日。私が「みどりぐみ」の一員として正式に迎えられる日である。朝から緊張で震えが止まらず、ろくに朝食も喉を通らなかった。
縮んだ身長に合わせて送られてきた新しいスモックも上手く着れず、最終的には亜美ちゃんと同じようにバンザイをして着せてもらった。通園の時間が迫るにつれて高まった緊張感に耐え切れず、ついには泣き出してしまった私を、おねえちゃんは優しく介抱してくれた。
担任である美咲先生に抱きかかえられて「みどりぐみ」の教室に連れてこられた私は、「みんなにお話するから、ちょっと待っててね」と一人廊下に立たされた。「今から挨拶するんだ」と思うと、脈が速くなる。この学園に入園した2年前より症状は明らかに酷い。それも当然の話で、2年前、周りは全員が全員に対して赤の他人であり、一応同級生でもあった。
それに比べ今回はというと、私は約2年培った輪に外から入る、いわば部外者であり、体格こそ似ているものの、中身は何と10歳も違うというのだ。意識を保てている分、褒めてほしいとさえ思った。
そんなことを考えていると、目の前の扉が開かれた。美咲先生に連れられ、パステルカラーの装飾が施された教室へと入る。キレイに並べられた小さな椅子に座った23人の「おともだち」からの視線が一気に私へと注がれる。「おんなのこだ!」とか「かわいい!」だとか言って教室が一瞬色めき立ったが、美咲先生は手を2回叩いて一気に静めた。
私にとっては限りなくアウェーに近い明るさに俯いていると、先生から声を掛けられた。
「お名前言えるかな?」その言葉が少し救いになった。ここは幼等部、「自己紹介」ではない。名前を言うだけでも許されるのだ。救われたとはいえまだ緊張の抜けない私は、か細い声で「たかなし……かなです」と発するのが精一杯だったのだが。
拍手が起きた後、私はロッカーに黄色いカバンを入れ、窓際の席に案内された。隣に座っていた女の子は、奥嶋瑠菜ちゃんというらしい(漢字は後から恵美おねえちゃんに渡された資料で知った)。瑠菜ちゃんはとても明るく、面倒見も良いようで、隣に座った新参者の私にすぐさま握手を求めてきたり、クラスのことを事細かに教えてくれたりした。
私の入場前には既に点呼を済ませていたらしく、間髪入れずに「あさのたいそう」が始まった。とはいえラジオ音源のような格式ばったものではなく、先生たちが独自で作ったものらしい。
美咲先生がピアノを弾き始めると、周りの幼児たちは皆慣れた様子で体操を始めた。
私も美咲先生の声と周りの動きから何をすべきかを判断し、見よう見まねで体操を始めた。そんな矢先の出来事だった。
名前だけでも自己紹介を済ませ、「おともだち」に受け入れられ、活動が始まったことで、緊張が解けてきたのだと思う。ジャンプをしたことで不意に緩んだ膀胱は、その勢いのままに決壊を許してしまった。
当然の結果である。朝は緊張しきっていてトイレに行っても十分に尿が出なかったし、口の渇きを紛らわすため、今までより明らかに早いペースで水筒の麦茶を消費していた。緊張状態にあったから自然と我慢が成立していたものの、その緊張が緩んでしまっては尿意を訴える隙もなく、僅かな刺激でそのまま決壊したというわけだ。
股に広がる生暖かい感覚と、教室に響く放尿音。2週間に1度は同じような感覚を経験しているのだが、今回はあまりにも状況が違いすぎた。「かなちゃんおもらししてる~!」一瞬静まり返った教室に、瑠菜ちゃんの無邪気な声が響くと、私は涙腺も決壊させてしまった。
そこから先は、記憶が無い。気づいた時には、夕方になっていて、「ほけんしつ」に私を迎えに来た恵美おねえちゃんにだっこされ、私の幼等部生活初日は幕を下ろした。
寮に戻ったあと、おねえちゃんは「美咲先生は『初日で緊張していたというのもあるだろうし、たまに失敗する子も居ます』って言ってくれたけど、新しい環境でいきなり『おもらしさん』は嫌じゃない?」と訊いてきた。考えた末、首を縦に振る。そんな私の答えを見たおねえちゃんは「じゃあ、幼稚園に慣れるためにも、一回、おもらししても何も言われないようなクラスに行ってみない?」と提案してきた。
言っていることが理解できなかったので首を傾げていると、「亜美とおなじ年少さんになって、幼稚園に慣れたら、年長さんに戻してもらおう」と説明してくれた。
確かに、亜美ちゃんも通う年少クラスは、クリアしなければならない生活課題的に亜美ちゃんのようにおむつをしているのが当たり前であり、おもらしをしてもからかわれることはあり得ない。
「でも、そんなに甘えていいの?」と問うと、「『おもらしさん』ってからかわれるよりいいでしょ?」と返され、『教育』としての最低学年への落第が決まった。
たった1日にして、幼等部の最高学年から『教育』の最低学年への落第が決まった私に、亜美ちゃんは少なからず驚きの色を示したが、おなじ「あかぐみ」に通うことを知ると、一転喜んでいた。更に、「誕生日の早い亜美ちゃんがおねえちゃんね」と言われた亜美"おねえちゃん"は、飛び上がって喜んだ。これにより、私は幼児退行していなくても「末っ子」となったのだ。そう考えると心が軽くなって、次の日もまた環境の変化が待っているというのに、不思議と緊張せず、よく眠れた。
翌日。「念のため」で穿いていた夜用のおむつはしっかりと私の尿を吸い取り、亜美おねえちゃんと比べても遜色ないほどに膨らんでいた。恵美おねえちゃんは慣れた手つきで私たちのおむつを取り、お風呂場に連れて行き、シャワーを浴びせた。私たちの着替えの下着はもちろんおむつ。朝食を取ってスモックに着替えると、私の胸には昨日と違う赤ベースの名札がついていたし、頭には赤色の帽子が被せられた。亜美おねえちゃんとならんだその姿は明らかに双子の姉妹であり、私はここまで堕ちてしまったんだなというのがひしひしと感じられた。
あかぐみの教室は、昨日行ったみどりぐみよりも明らかに騒がしく、同じ幼児でも年齢の差が感じられた。誰かが常に動いていて、全員がじっとしている時間などなかった。私の紹介も簡素なもので、名前すら自分で言う必要は無く、新しい担任の葵先生が全部説明してくれた。説明が終わったらもう一人のさくら先生にだっこされて亜美おねえちゃんのとなりの椅子へと座らされ、この日最初の活動である絵本の読み聞かせが始まった。葵先生の読み聞かせはとっても上手で、幼児用につくられたはずのストーリーにすっかり心を持っていかれてしまった。
十分な間と、非常にゆったりとしたペース。2冊目を読み終えたころ、微かに聞こえた小等部からのチャイムで、あかぐみに来てもう1時間近くが経過したことを悟った。
読み聞かせを終えた葵先生と、ずっと立っているだけだったさくら先生がおむつチェックを始める。この学園においては年少組かその下の「ひよこさんクラス」でしかあり得ない光景だ。
15歳の意識を持った私にとっては異様な光景でも、私以外の幼児はそれを当たり前に受け止めていて、「皆の前でおむつを替えられる」ということに対して何も抵抗しない。
「成長」について感慨に耽っていると、私のもとにもさくら先生がやってきて、チェックをした。さすがに1時間ではまだそれほど尿意も無かったので、おむつ交換はされなかった。さくら先生は「ちっち出たら、しっかり先生に教えてね。」と言って、教室の後ろ側へ去っていった。
その後は自由遊びで亜美おねえちゃんやその友達とおままごとをしたり、また椅子に座らされてお絵描きをしたり、葵先生のピアノに合わせて歌を歌ったりしてあっという間に昼食までの時間が過ぎた。私はというと、お絵描きの途中でおもらしをしてしまい、丁度回ってきた葵先生におむつを取り換えられたのだった。
昼食の時間は、中等部、高等部時代よりも1時間以上早い11時。小さくなった胃腸ではあまり動いていなくてもすぐにお腹が空くらしく、全く問題なかった。一応年長組に合わせて作られた私の皮は、別に不器用というわけでもなく、誰よりも早く給食を食べきることになり、私は暇を持て余すこととなった。
全員食べ終わると、先生たちは教室のクローゼットから薄い敷布団を出した。24枚とはいえ、軽いので出すのは一瞬である。黄色い通園バックに入れられた動物柄のパジャマに着替えながら、先生たちが忙しく布団を敷いたり、パジャマのボタンをつけるのを手伝っている姿を見ていた。
さすがに何もしなければ全員おねしょ確定コースなのは目に見えているので、おむつチェックをして出そうな子はおまるに、出ていた子はタオルケットの上にそれぞれ連れて行かれた。ちなみに私は、先生が回ってくるまでに我慢できず、おむつのお世話になった。
こんな予防を施しても、現実は非情である。寝ているときというのは当たり前だが全ての力が抜けているため、起きた時にはクラスの半数以上、15人がおねしょをしていた。残念ながら私もその一人であった。
さすがにこの時ばかりは、体は年長組なのに10人弱の幼児に負けてしまったことに対してかなりの羞恥を覚えた。
昼寝の後のおやつも済ませ、また亜美おねえちゃんたちと遊んでいると、お迎えがきた。私たちのもとにも当然恵美おねえちゃんが来て、「帰るよ」と言った。今日1日分の「お土産」は、2人で7枚。昼寝の後にも2人揃っておむつを替えられたのだが、おねしょをしなかった亜美おねえちゃんの方が1枚少ない3枚、私が4枚。私が幼児退行をした時はもっと差があるので、恵美おねえちゃんは別に驚いた様子は無く、両手に私たちを連れて、寮に戻った。
初めての「あかぐみ」は、私にとって天国のような時間だった。本当は「何もできない」ことを嘆くべきなのだろうが、15年以上生きて学校生活の辛さを知っている私には「ストレスフリーの空間」でしかなく、「どんな失敗をしても怒られない」というのはあまりにも快適な空間だった。
この後、この甘い蜜に溺れそうになった私にまた様々なイベントが起こるのだが、私はそのことをまだ知らない。
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