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零章 冬の庭
冬の庭4
しおりを挟むうわっ!と声を上げて凩は目覚めた。凩が三人大の字になっても大丈夫なぐらい広い寝台の上で一人ぼっちだった。上で飛び跳ねても軟らかく受け止めてくれるためぴょんぴょんと跳ねてみたが、寂しくなって結局は膝を抱え込んだ。
外は暗く風と雪が変わらず渦巻いている。
束風が迎えに来てくれなかったことに焦りとも悲しみにも似た感情に襲われて凩は立ち上がり、ふんすと身支度をした。裸だったため、気で衣を作る。いつもながらの涅色の単衣に灰鼠色の帯をきゅっとしめ、珍しく藁靴を履いた。
迎えに来てくれないなら、やっぱり帰ろうとぴょんと跳ねた。
流石に窓から帰るのは失礼だろうし、誰かに一言言伝しないと、と廊下に出る。長い廊下に全くあやかしの気配がない。
凩はうろうろと歩き始めた。
広すぎる不融の屋敷の造りを理解しているはずもなく、右、左、右と適当に曲がった先で凩はばったりと氷柱と出くわしてしまった。
「なにしてるのさ。ここはお前なんかが勝手に出歩いて良い場所ではないよ。部屋に戻れ」
冷たく言い放たれ、凩は少しばかりまごついた。
「あの、おれ、もう帰ろうかと思って…誰かに一言言わなきゃって思って歩いたらお屋敷が広すぎて迷子になっちゃったんだよ…」
「屋敷の中で迷子とか、脳味噌が少し足りないんじゃない?まぁいいや帰るなら、言っておいてやるからさっさと帰れ」
そのまま背を向けて氷柱は歩き出す。
その後ろを凩が追いかける。
「ちょっと、なんでついてくるのさ。さっさと帰れって言ったよね」
「どっちに行っていいのかわかんないんだもん、ねぇ出口がどこか教えてよ」
氷柱の方が背が高いため腕組みで凩を冷たく見下ろす。
「ものを頼む言い方っていうものを習わなかったのかな、お前は」
「うわぁん!教えてください氷柱様!!」
凩は頭を下げた。髪がサラリと揺れて、首筋に赤いものが見えた。
それを見た瞬間に氷柱の心は大きく傾いた。
ふん、なんでも様をつければ良いってものじゃないんだけど、来いよ、と氷柱は厩舎に近い出口の方へ向けて歩き出した。
外は相変わらずひどく吹雪いていた。
「今日は天候が悪いから私の馬に乗って帰ればいい。この子は賢いからお前をおろしたら屋敷に帰って来るし」
鞍もあぶみもついていない裸馬に、凩を跨らせて、しっかりとたてがみを掴ませる。
「おれ、馬に乗るのはじめてなんだけど…大丈夫かなぁ…」
凩は不安気に白馬のたてがみをつかみ、その高さに少々怯えつつ吹雪く先を見た。
しかし不安よりも、帰りたい気持ちが大きく、馬から降りようとはしなかった。
「大丈夫、お前だって小さくても冬の風の子なのだから堂々と跨っていくべきだよ。さぁ行け!Бросить ребенка в море」
氷柱は上機嫌で、馬の尻を勢いよく叩いた。
吹雪の中へ凩を乗せた馬が駆け出す。ものの数秒でその姿は雪の中に飲まれて見えなくなった。氷柱ありがとう、と言った凩の声も風に掻き消された。
きゃははと氷柱は甲高い声で笑う。
氷柱の大切な主人にまとわりつくゴミをやっと片付けてやった。
身体はぎしぎしするが、踊り出したいような喜びに包まれ、足取りも軽く自室に戻る。
あの時、そう氷柱が扉の影から見てしまった二人の姿を思い出すと、煮湯を被ったような気分だったけれど、凩を追い出してようやく気持ちが落ち着いたように思えた。
氷柱が驢馬の背につけた張型と雪嵐の振るう榛の枝の鞭から解放されて、不融恋しさに部屋に向かうと、不融は凩を嬲っている最中だったのだ。
不融の手には鞭も手錠もなく、指と唇で凩に触れていた。
不融の素肌を凩に舐めさせていた。
そして瞳には苛立ちも気鬱の影もなく、優しく凩を見つめていた。
氷柱は扉の影で立ち竦んだ。
私がどれだけ心を尽くしてお使えしても、私に与えられるのは驢馬の男根で、不融に及びもつかぬ雪嵐に鞭で打たせるのに。ただぶらりと遊びに来て、菓子を食べ散らかすだけの子をあんなに可愛がるなんて。
氷柱は爪が割れるほど指を噛んだ。
許せない。
だからこそ、氷柱はこの千載一遇の機会に、復讐を果たした。
氷柱はただ、凩が帰りたいと言うので、早く帰れるように馬に乗せてやっただけだ。一秒でも早く帰れるように、鞍も鎧も、轡もつけずに馬に乗せてやった!
そして馬の尻を叩いてこう告げた。『その子を海に捨ててこい』
賢い馬は海へと直走りにはしるだろう。
そして静かに何もなかったように戻って来るだろう。
あははは、冬の荒海に落ちて、砕け散れ。きっと欠片も残さず消え失せるだろう。
あいつがいなければその分長く不融様の時間を大切に出来る。
どこからか吹き込んだ冷たい風が氷柱の青白磁の髪を乱した。
この夜一人ではなく、あんな奴を見もしなかったという証明をしなくちゃ。氷柱の足は、氷雨の部屋へと進む。
そして氷雨の部屋に辿り着く前に立ち止まった。
お願い、もう許して、と切ない喘ぎ声が部屋の外まで聞こえた。
雪嵐だめ、もうだめ、いかせて、もうだめぇ。甘い甘い砂糖菓子のような泣き声だった。
ふん、知っていたさ。
氷柱は嘯く。雪嵐は決して氷雨に手をあげることはない。鞭を使う事もない。不融が凩にするように指と唇と自分の体で氷雨を抱く。そして溶けそうに焦がれた目で氷雨を見つめる。
広い広い迷路のような屋敷の中を氷柱は一人で自分の部屋に戻る。
誰も私を大事にしてくれない。
自室の引き出しから、柄に血のように赤い宝石のついたナイフを取り出す。
服を脱いで裸になると、肌に浅くナイフを滑らせた。
赤い赤い血が流れれば良いのに。傷跡が一目で判るように、全ての傷口から赤い雫が滴れば良いのに。どれほど傷が深ければ、不融様は撫でてくれるかな…。どれほど傷を増やせば舐めてくれるかな。どれほど身体を損なえば、不融様の肌を舐めさせて、あやかしの気を分けてくださるかな…。
氷柱は泣きながら、夜中自分を傷つけ、肌に跡を残した。
その頃、幸か不幸か、凩は海に落ちる前に落馬していた。
凩の身体が軽すぎて、強風に飛ばされて落ちてしまったのだ。白馬は凩が背から落ちるなり、軽やかに駆け去って行ってしまった。
「へぶぅっっ」
凩の軽い身体はふわふわの新雪の中へ足先から突き刺さった。恐らくいつもは履かない藁靴の分、少しそこが重かったからだろう。粉雪を泳ぐようにかいて、なんとか抜け出る。周りを見回して凩は一気に不安になった。
暗いうえに雪深い。
山頂から吹き下ろす風に押され、転がされ、どこかに知った風なり雪の精がいないものかと探したが一行に見当たらず、気づけばどこかの里近くまで凩は押し流されていた。
暗がりのなかにも家の灯火らしきものが見えて、凩は背伸びをして覗き見る。
近寄ってからあやかしでなく、人の家だとわかり、そろそろと後ずさった。そして何かに躓いた。
鎖に繋がれた老犬だった。
身体は大きいが毛艶は悪くひどく痩せていた。
この酷い雪の中で蹲り、もう吠える力もないのか、凩の存在に気が付けないのかただ震えている。
凩は犬が恐ろしかった。吠えられると体が竦む。だがこの弱り切った犬が相手では流石に可哀そうに思い声をかけた。
「…お前、大丈夫か?小屋に入れよ」
まさか風で小屋が飛ぶようには思えなかったが、犬小屋がない。繋がれた鎖の先も雪に埋もれて見えない。
このままではよくない事が起きると、凩は人の家の戸を叩いた。
凩は人を呼ぶことができない。せいぜいが窓や扉を風の力でたたくだけだ。
最初はごめんくださいと叩いたが、風の音にかき消される。
灯りがついているのにどうして誰も出てきてくれないのか。
凩は全身全霊の力で戸を叩いた。
「犬を家にいれて!犬を家にいれてよ!」
叫んでも何も変わらなかった。人の家の扉は閉ざされたまま、寸とも動かず、窓の向こうには厚い布がかかったままだった。
振り返ればもう、命の灯が吹き消された塊が一つそこに転がっている。
知っている犬ではないが、あまりに悲しい。重く硬い鎖を切ることは凩にはできなかった。せめて首輪でもはずしてやれないかと、そろそろと首周りを探る。
濡れてぼさぼさの毛を押し潰すようにつけられた古びて色あせた皮の首輪に手をかける。
強いあやかしならば、皮ぐらい切ることができるのであろうが、凩にできるのは今日もらったばかりの不融の力でのろのろと物を動かすことだけだった。
首輪の皮から金具の部分がなかなか外せず、雪は積もるばかりだった。
凩は弱いが冬の風であるので、凍えることはない。
だが死んだ犬の、首輪の外れた毛の無い首回りを見た時に心から凍えた。息が止まると思うほど辛くなった。
首輪をつけてから一度も外されたことがなかったのか。
恐ろしい。恐ろしい。一人ぼっちで死ぬことも。雪の中に埋もれていくことも。つけられてから外されることのなかった首輪と鎖の重さが恐ろしい。毛のない首が恐ろしい。
凩は犬の傍らに座り、雪をそっと払いのけよしよしと頭を撫でた。
夜中雪を払い続けた。
翌朝、扉が開いて、子供が二人歓声をあげて外に転がり出てきた。立派な外套と帽子。ぴかぴかした長靴。温かそうな恰好で。
雪に足跡をつけたり丸めたりしていたが、大きい方が悲鳴をあげた。
小さい方が不思議そうに首をかしげて、こちらを見て同じように悲鳴をあげた。
小さい方が悲鳴をあげながら、泣きながら死んだ犬に走り寄って来た時、凩はほんの少しだけ良かったと思った。
この子が泣いていて良かったと。
それから大人が現れ、雪を掘り、黒い土を掘り、犬を埋めて、簡易な墓の上に肉や水、紙の花が供えられるのを凩はずっと見ていた。
僅かに晴れた空がかき曇り、空は重苦しい灰色に染まり雲が厚く渦巻く。濁った色の雲から信じられないほど白い雪が吹き出す。
最初は羽のように軽く、そしてすぐに叩きつけるような重い雪に変わった。
帰るぞ、と声がした。
灰色の空と雲と雪を割って、天上から馬を駈けさせる白い姿に凩は目を止めた。
待っているのに。
待っていたのに違う。
ここから駆け出したい気持ちになったが足は重く縫い付けたように動かなかった。
馬から降りた不融は、立ち尽くす凩の冷たい手を取った。
「さぁ、帰るぞ」
帰るってそこはおれのうちじゃない。
言葉にできない凩の想いを分かってか分からずか不融の大きな掌がよしよしと凩の頭をなでた。
「きのうの夜にそこで犬が死んでね、家の大人が埋めたんだけど。なんで死んでから餌や水をあげて、花を飾るの?なんで生きているうちにあげないの。鎖が重たくて、首輪を外したら毛がなくて。ずっと繋がれたままだったんだよ。なんで家に入れてあげなかっ…」
最後は言葉にならず凩はわぁわぁと泣いた。
不融は凩の身体を抱き上げると、外套のうちにしっかりと収めた。
凩の問にそうだな、と遅れて頷いた。
凩が人の供養の有り方を尋ねている訳ではないことは分かっていた。ただ一人置いていかれ、一人で死ぬことに怯えている。
いつもはきらきらと輝いている目が恐怖で灰色の空より曇っている。
もしこの場に迎えに来たのが束風だったならば、凩はここまで取り乱したりはしなかっだろうと不融は思った。
哀れな犬に祈りを捧げてすぐにこの場を立ち離れただろう。悲しい思い出を小さく丸めて巧く昇華させただろうに。
帰りは馬を駈けさせる必要は全くなかった。初めて行く場所には飛べないが、帰り道は不融が願っただけで凩を連れて屋敷の一室に立ち戻る。
束風、お前はすっかり凩を駄目にしてしまったぞ。
私が氷柱を駄目にしてしまったように。
この子は黒髪ではなかったはずだ。
不融は凩の乱れた髪を撫でた。
一人で地の端まで巡り、海を渡れた風が。
優しく奔放で自由だった風が。砕かれて、もとの名さえ失い、故郷にも戻れず。全てを失くして別のものになってしまった。
時が経ちすぎて、不融には名前や身体を取り戻してやる事が出来ない。名前と共に多くの記憶が失われ、微かに大陸の同胞と思えるだけでしかない。
多くを失ってなお、しがみつかれているのか、しがみつこうとしているのか。
不融が持っているものを与えようとしても、僅かなものしか受け取らない。
菓子や小さな飾りや何の役にも立たないものを、嬉しそうに小さな子供のように受け取るだけだ。
この小さな手に剣や盾を取らせたい訳ではない。だが、断ち切れと思ってしまう。纏わり付く柵を全て取り払い自由になれと言いたい。
目に見える鎖は外すことが出来る。
だが目に見えない鎖は、誰が外せるのだ。
凩、その手を離せ、束風の手を離せ。そして束風、お前も、もう離せ。この子をこの地に縛り付けるな。
不融は一人で眠るには広すぎる寝台に凩の小さな身体を寝かせて、優しく髪を撫で続けた。
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