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帰る場所
しおりを挟む「帰らないと」
誰に言うでもなくチャイロは呟いた。
「そうだな、帰ろう」
応える声は低く重かった。
境内に灯された灯籠や提灯の灯りは見えず、月もない。
取り残されたような気になった。
歩き出そうとしたチャイロに見えたのは自分の手首を掴んでいる黒く渦巻く霧のような腕だった。背後から覆い被さるようにチャイロを捉えている。
チャイロは帰らないと…と言ったものの、自分のつま先が何処を向いているのかも分からず足を踏み出せずにいた。
「チャイロ、山へ帰ろう。お前が綺麗だと言ってくれた時に、お前を抱いた時に、お前が切ない目で俺を見ていた時にどうして俺はあんな酷いことをしたのか。俺は愚かだった。俺は自分が特別だと思い込んで俺の側に置くものも特別であるべきだと考えていた。馬鹿だった。そんな必要はないのに。お前の亡骸を喰らって、お前の想いを飲み込むまで俺は何も分かっていなかった。チャイロ、一緒に山に帰ろう。もう決して寂しい思いはさせない。ずっと側にいるし、どんな願いも叶えてやる」
優しく包まれて囁く声は知らぬ人のようだった。
風がさやさやと梢を揺らす音にも、清水が岩の間から滔々と耐え間なく流れる様にも似ていた。
それは空っぽのチャイロの中を静かに通り過ぎて行った。
もし空っぽになる前に、その言葉を聞けていたなら喜んだのかもしれないとチャイロはよそごとのように思った。
「…なんでもしてくれるの?」
ああ、と背後から返事が聞こえた。
「…本当に、なんでもしてくれるの?」
「お前が望むならどんなことでも。言って見ろ、どんなことでも叶えよう」
甘いお菓子を背丈を越すほど山積みにして、と他愛もないことをチャイロは思った。その菓子を収める葛籠は黒い木にきらきらとした貝の飾りをはめこんで、葛籠を置いておく部屋も、ゆったりと寝そべることができるように広々として、蒲の穂綿よりふわふわの敷物を敷き詰めて雨風に濡れることも凍えることもなくのんびりと過ごせたらどんなに良いだろうと、そう思うチャイロはもう以前のチャイロではなかった。
チャイロ自身が一番理解していた。
この体になる前ならば、そんなに多くの事をねだったり願ったりしなかったはずだと思えるのだ。
ぴったりと寄り添って、隣にその温もりがあればそれで満ち足りたはずなのに。
「じゃぁね、手を離して」
チャイロはそっと手を振り払った。
掴もうと縋る山神との間に線香花火のような小さな火花が散っる。
それは儚いくせに空の星より眩く、お互いの瞳を照らした。
「……チャイロ?」
「そんな悲しい声で呼ばないでよ。これもお願いになるの?」
「違う、こんなものは願いではない、もっと何かあるはずだ、チャイロ」
チャイロは高い位置にある山神の形の良い顎と唇を見上げた。
不思議なことに見上げているのに、見おろしているような気がした。
一緒にいても良い?とおずおずと自信なげに問いかけたのは何時だったのか、一緒に連れて行ってと言えずに、駆け去る姿に追いつけずにいつも取り残されたは誰だったのか。
涙で霞む視界に小さくなっていく黒と白の背中を胸が痛くなる想いで見つめていたのは……。
「もう帰るから、ついて来ないで」
もう一度小さく二人の間で火花が散った。
絡む手を振り切りチャイロは社の階段を駆け下りた。
主人とらせつが待つはずの家に飛び込むまで振り返りもしなかった。
もう既に横になっていた主人の服の合わせ目に顔を押し当ててふぅふぅと息をする。
目を閉じても山神の表情が浮かぶのだ。チャイロに何かおかしな呪いでもかけたに違いなかった。
いままで見たこともないような悲しげな顔をして、ずるいと思った。きっと暗がりの中でそう見えただけなのだ。
「さぁ、おやすみ」
優しい声に促されて髪を撫でられる。大好きな主人の側にいてこれ以上の幸せはないはずなのに落ち着かず、チャイロはすんすんと鼻を鳴らした。
願いを叶えてもらう義理もない。山神とはなんの関係もないのだ。自由になってここから出ていくのだ。
自由になりたいと願いながら、チャイロの腕は溺れる人のように主人の身体にしがみついた。
そして雷を恐れる子供のように朝までずっと離れなかった。
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