鬼神の都~退屈上皇と大神の花宮(はなみや)~

志麻友紀

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第九章 言祝ぎの御幸【一】




 今帝がめずらしくも「早く」「早く」と周りを急かして、行幸みゆきの日取りは半月あまりの速さで決まった。

 色々な決まり事も簡略化されたために、供揃えも少人数に厳選されたが、それから漏れた殿上人達が文句を言ったかというと、例の三条院ということで誰も不満を口にすることはなかった。恐ろし……いや、畏れ多すぎる。

 むしろ「自分が供に加わらずに済んで胸を撫でおろした」などと、陰でほっと息をつく者さえいたほどである。

 そして当日、左右大臣以下、衣冠束帯姿の人々が、正殿のすのこに座し並ぶ姿は、壮観であった。それぞれの衣から伸び、欄干にかけられた下襲したがさねきょの布の彩りと文様も、この特別な日に色を添える。左右の対屋たいのやの御簾の下からは、女房装束の打出うちいでの重ねの袖がのぞき、さらに花のごとく御殿を飾る。

 三条院にいらした今帝は、かしづく女房達や庭に立つ惟光などを眺めて、みなに聞こえぬように扇で口許を隠されて、貴仁にささやく。
「なるほど、院の御座所らしく、楽しきところですね」
 続けて「皆、愉快そうで少しも怖くない」と。

 見鬼の今帝には人の姿をよそおっていても、物の怪達の姿が見ている。それでいてなお、ここは楽しきところだと言われた。

 確かに人の皮を被っていても、常に他者を蹴落とし、我が身と我が一族の出世を……と望む、中身は真の妖怪より怖い殿上人どもより、こちらのほうがよほど居心地は良いだろう。
 “怖い”のは姿形ではなく、欲望と執着に凝り固まった心そのもの──今帝の言葉には、そんな静かな洞察が滲んでいた。

 貴仁の先導で正殿の御簾の奥へと入られた、今帝は幾重にも重ねられた几帳の間をすすまれて、さらに奥へと。

 そこには三つ指をついて頭を下げる姿が。今日ばかりは帝の御前ということで、十二単の唐衣からごろもをまとっている。蘇芳すおうにほいの重ねも落ち着いて艶やかだ。

 蘇芳の淡いのから濃色こきいろへと、移り変わる袖口に散るのは、星屑をちらしたように見事な黒髪が、ゆるゆると波打っている。
 そのひと呼吸ごとに揺れる黒髪は、ほの暗い室内にまるで淡い光を撒くようで、今帝が思わず息を呑む。

「……面を上げてください」

 今帝の声が、わずかに震えた。怯えではない。胸の奥から湧き上がるものを、どう名づけてよいか分からぬ震えだ。

 薫が顔を上げる。大神の耳がぴくりと動き、黒目がちの瞳がまっすぐ帝を映した。

「――ああ……」

 今帝は思わず息を呑み、扇で口許を隠したまま、しばし言葉を失った。はらはらと涙を流したのは、やはり悲しみや恐怖ではなく、むしろ逆の歓喜だ。

 “見える”ゆえに、幼い頃から人ならざるものの穢れと嘆きを拾い続けてきた少年には、この清らかな光はあまりにも眩しすぎた。
 幼い頃から穢れしか目に映らなかった彼にとって、ようやく出会えた「救い」の光だったからこそ。

「まさか、まさか、この私のかりそめの代にこのような、尊き祖神の血を引くお方に出会えるとは」

 涙を流す今帝に薫は懐紙かいしを取り出し差し出す。それを今帝は「ありがとう」と受け取り、目尻に当てて、そして、再び薫を見る。

「あなたにお会い出来てよかった、月宮つきのみや

「私も本来ならば屋敷の奥の奥へと隠れていなければならぬ身。それが望外にも、こうして今帝たる主上おかみのご尊顔を拝見できたこと、我が身の一生の誉れにござります」

 にっこりと望月のごとく微笑む薫に、頬を紅に染めた今帝はしばし見とれ、やがて「やはり院に無理を申し上げて、お会いしてよかった」とつぶやき、貴仁を振り返る。

「まこと院のきさきにふさわしきお方。心から言祝ことほぎ申し上げます」

 今帝のお言葉に貴仁も微笑み「そのお言葉こそ、今日の喜びにございます」と返したのだった。

   ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇

 正殿の御簾の奥より流れ出た笛と琴の音は、竜がゆうゆうと空を行き、そこに鳳凰が寄り添うような天上の楽の音だったと、語りぐさとなる。

 行幸の供をした大臣以下の誰もが、あの楽の音だけでも漏れ聞くことが出来たのは、まこと僥倖ぎょうこうであったと、ため息をつくほど。

 今帝は「月宮は、まこと院に相応しきお后であった」と語った。
 とりわけ、あの琴の音――夜明けの空へまっすぐ昇る雲雀の歌のようであった、と。

 これより月宮は、雲雀の君とも呼ばれるようになる。
 その呼び名は、やがて宮中の隅々にまで広まり、月宮を讃える美称として定着していくことになる。

 行幸ぎょうこうののち、今帝が初めて己の意思で下した宣下せんげは――月宮に二品にほんを賜る、というものであった。
 これは帝の正妃たる中宮にも匹敵する位であり、上皇の后となった月宮には、なんら不釣り合いでもない位ではあったが。

 それは「三条院からお出になることはなくとも、いつでも内裏こちらへ」と贈られた、少年の真心だった。

 使われぬと知りつつ、帝は貴仁……三条院の御座所ござしょである桐壺きりつぼに、月宮のためのつぼねもしつらえた。

 “空の局”は、主を待ちながらも香を絶やさず焚かれ、敬愛の深さだけを静かに物語りつづけた。

 大変な栄誉ではあったが、そこは嫉妬渦巻く内裏である、それを喜ばない者も当然いる。

 内裏は清涼殿せいりょうでん南廂みなみひさし殿上間てんじょうのま。三位以上の殿上人の詰め所に一つの固まりが。

「……主上の御心は、三条院へ傾きすぎておる」
「院は退いた身と言いながら、政に口を出す」
「そのうえ月宮に二品。――中宮に等しいではないか」

 低い笑いが漏れ、やがて声がさらに落ちる。

むぐら御殿の姫宮も、たいしたご出世だ。
月宮つきのみやとも雲雀ひばりの君とも呼ばれ、さらには二品にほんの宮様とは」

「梨壺の宮とも文を交わしているとか」
「しっ。名を出すな。三条の影がつく」







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