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連載
◆閑話:アンナと父の話 - ①
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揺れる馬車の中で、ローガンは娘のアンナが涙を流すのを見つめた。
ローガンと同じ色のグリーンの瞳から、ハンカチでおさえきれない涙が雫になって次々と溢れて、頬を降りていく。
「アンナ」
アンナがはっと顔を上げた。
「ごめんなさい」
「もういい。そのまま泣いていなさい」
アンナの瞳が見開かれ、顔が歪む。ローガンは失言をしたことに気づいたが、取り繕う言葉を思いつかず、代わりにハンカチを取り出した。
「責めているわけじゃない。止まるまで泣いたままでいい」
アンナは父親の差し出したハンカチを受け取らずに、暗い顔で頷いた。ローガンは行き場のなくなったハンカチをポケットに戻した。
「メイが、同じことを言っていた」
「お母様が?」
「泣きたいわけではないが、感情が昂ると涙を止められないと。昔はよく泣いていた」
今も泣いているのかもしれないが、ローガンはしばらく妻の泣き顔を見た覚えがない。
「そうなのですか」
「ああ、それに……泣けば許されると思っていると思われるのが、悲しくて、悔しいと言っていた。悪かった」
アンナは首を左右に振った。涙が一粒落ちて、それを最後に止まった。
「わたしは、お母様が泣いているところを見たことがありません。どうしたら直るんですか?」
「分からない。いつから泣かなくなったのかも……。多分、お前が生まれたあとだと思うが」
「そうですか」
アンナはカーテンのかかった窓に目を向けて独り言を言った。
「きっとわたしに手がかかりすぎて、泣いている場合ではなくなってしまったんだわ」
今朝送り出してくれたときの、心配そうな母の顔を思い出して、屋敷に戻ることに心苦しくなる。アンナが一人で決めて、一人でノアの屋敷を訪問したのに、母が自分のせいだと言うから母の話を聞きたくない。
母のメイといると、アンナはいつまでも一人でなにもできない小さな子供のように扱われ、自分が本当に無力な存在だと思い知らされるようで息苦しい。アンナがなにかを一人で決めようとすると、母は怯えて、心配そうな顔をする。それを押し切ってまでやりたいこともなくて、つい母の想定どおりに動いてしまう。
そうすると、自分のことを嫌いになる。
だから父のローガンが、今回謝罪のためにヴァンデンブルク公爵を訪問する際に、アンナを連れていくと言ってくれたときは嬉しかった。ヴァンデンブルク公爵は何一つアンナに厳しい言葉はかけなかったが、それでもアンナ自身の口から、謝罪の言葉を言うことを許してくれた。
「アンナ」
「はい」
「ノアは……私は、自分の甥としてはノアが好きだが、彼は……夫としては、多分、私と同じくらいひどいぞ。お前を大切にしてくれない」
アンナは父がそんなことを言うことに驚いて、目を見開いた。唐突な発言は父なりにアンナを励まそうとしているのだろうと感じ取って、アンナはローガンの下手な言葉に頬を緩めた。
「わたしはお父様のことをひどい夫だなんて思っていません。お母様も思っていませんわ」
ローガンが顔を上げた。
「それに、ノアから大切にされたくて好きになったわけじゃありません」
ローガンはアンナの言葉が理解できないようで、眉を顰めている。
「好きというのは、幸せになってほしいと願う気持ちです。そこに自分が一緒にいられたらという願望が強くなって、身勝手なことをしてしまったのは、わたしが幼いからです」
ノアの結婚が決まって、アンナは本当にショックを受けた。ノアがアンナのことを女性として扱っていないことは知っていたけれど、それでもどこかで、一緒にいればいつか結婚できると自分が本気で思っていたことに気づいてそれを恥じた。
ノアの優しさは、アンナが幼い妹のような従妹でいる間しか与えられないものなのに、自分自身に向けられるものだと勘違いしていた。
アンナは、公爵家同士の取り決めを覆すことはできない。ただ一言、ノアに今までのお礼だけは伝えたいと思っていたのに、それは許されなかった。
手紙は何度送っても返事が来ない。母に取り次ぎを頼んでも、「そうね」と言われて一向に会う機会をもらえなかった。
気持ちを整理することさえ許されない関係なのだと気づいて、それからは毎日泣いていた。しばらく泣き続けると気持ちも落ち着いてきて、アンナはノアに届かない手紙を書くことにした。届かないから何を書いても許される。正直に会いたいと書いた。
その手紙を書いていたら、メイが部屋の扉をノックした。母は王都の夜会の話をした。ナタリア王女の誕生日で、盛大な会が開かれることはアンナの耳にも入っていたが、ここから十日もかかる場所に出向くなど父に許されるはずもない。自分には関係のないことだと思っていた。
しかしアンナの予想に反して、メイは一緒に行きましょうと言う。メイの母方の従兄の知り合いで、当日同伴してくれる人がいるという。少し年下だが、形だけだから、と。お父様にもお手紙で許可は取りました、と言われて、アンナはそれが許せなくて、自分の屋敷を飛び出した。
今までアンナがどれだけ体調はもう大丈夫なのだと主張しても全く聞いてくれなくて、遠出は許されなかったのに、今さら。アンナになんの相談もなく、勝手に出席の許可を父にもらって、頼んでもいないエスコートを探して、アンナの機嫌をとるような顔をしていた母に無性に腹が立った。
飛び出しても行き先がなくて、アンナは屋敷の外に自分が行きたい場所も、行ける場所もないのだと気づいた。
涙が出て止まらなくなって、そうすると使用人が心配して母を呼ぼうとする。アンナが泣くと、周りの人はいつも今すぐ止めなくてはと焦ってなんでもしようとする。
泣き止むまで隣にいて、待ってくれる人を思い出して、アンナは使用人に馬車を出すように伝えた。
ローガンと同じ色のグリーンの瞳から、ハンカチでおさえきれない涙が雫になって次々と溢れて、頬を降りていく。
「アンナ」
アンナがはっと顔を上げた。
「ごめんなさい」
「もういい。そのまま泣いていなさい」
アンナの瞳が見開かれ、顔が歪む。ローガンは失言をしたことに気づいたが、取り繕う言葉を思いつかず、代わりにハンカチを取り出した。
「責めているわけじゃない。止まるまで泣いたままでいい」
アンナは父親の差し出したハンカチを受け取らずに、暗い顔で頷いた。ローガンは行き場のなくなったハンカチをポケットに戻した。
「メイが、同じことを言っていた」
「お母様が?」
「泣きたいわけではないが、感情が昂ると涙を止められないと。昔はよく泣いていた」
今も泣いているのかもしれないが、ローガンはしばらく妻の泣き顔を見た覚えがない。
「そうなのですか」
「ああ、それに……泣けば許されると思っていると思われるのが、悲しくて、悔しいと言っていた。悪かった」
アンナは首を左右に振った。涙が一粒落ちて、それを最後に止まった。
「わたしは、お母様が泣いているところを見たことがありません。どうしたら直るんですか?」
「分からない。いつから泣かなくなったのかも……。多分、お前が生まれたあとだと思うが」
「そうですか」
アンナはカーテンのかかった窓に目を向けて独り言を言った。
「きっとわたしに手がかかりすぎて、泣いている場合ではなくなってしまったんだわ」
今朝送り出してくれたときの、心配そうな母の顔を思い出して、屋敷に戻ることに心苦しくなる。アンナが一人で決めて、一人でノアの屋敷を訪問したのに、母が自分のせいだと言うから母の話を聞きたくない。
母のメイといると、アンナはいつまでも一人でなにもできない小さな子供のように扱われ、自分が本当に無力な存在だと思い知らされるようで息苦しい。アンナがなにかを一人で決めようとすると、母は怯えて、心配そうな顔をする。それを押し切ってまでやりたいこともなくて、つい母の想定どおりに動いてしまう。
そうすると、自分のことを嫌いになる。
だから父のローガンが、今回謝罪のためにヴァンデンブルク公爵を訪問する際に、アンナを連れていくと言ってくれたときは嬉しかった。ヴァンデンブルク公爵は何一つアンナに厳しい言葉はかけなかったが、それでもアンナ自身の口から、謝罪の言葉を言うことを許してくれた。
「アンナ」
「はい」
「ノアは……私は、自分の甥としてはノアが好きだが、彼は……夫としては、多分、私と同じくらいひどいぞ。お前を大切にしてくれない」
アンナは父がそんなことを言うことに驚いて、目を見開いた。唐突な発言は父なりにアンナを励まそうとしているのだろうと感じ取って、アンナはローガンの下手な言葉に頬を緩めた。
「わたしはお父様のことをひどい夫だなんて思っていません。お母様も思っていませんわ」
ローガンが顔を上げた。
「それに、ノアから大切にされたくて好きになったわけじゃありません」
ローガンはアンナの言葉が理解できないようで、眉を顰めている。
「好きというのは、幸せになってほしいと願う気持ちです。そこに自分が一緒にいられたらという願望が強くなって、身勝手なことをしてしまったのは、わたしが幼いからです」
ノアの結婚が決まって、アンナは本当にショックを受けた。ノアがアンナのことを女性として扱っていないことは知っていたけれど、それでもどこかで、一緒にいればいつか結婚できると自分が本気で思っていたことに気づいてそれを恥じた。
ノアの優しさは、アンナが幼い妹のような従妹でいる間しか与えられないものなのに、自分自身に向けられるものだと勘違いしていた。
アンナは、公爵家同士の取り決めを覆すことはできない。ただ一言、ノアに今までのお礼だけは伝えたいと思っていたのに、それは許されなかった。
手紙は何度送っても返事が来ない。母に取り次ぎを頼んでも、「そうね」と言われて一向に会う機会をもらえなかった。
気持ちを整理することさえ許されない関係なのだと気づいて、それからは毎日泣いていた。しばらく泣き続けると気持ちも落ち着いてきて、アンナはノアに届かない手紙を書くことにした。届かないから何を書いても許される。正直に会いたいと書いた。
その手紙を書いていたら、メイが部屋の扉をノックした。母は王都の夜会の話をした。ナタリア王女の誕生日で、盛大な会が開かれることはアンナの耳にも入っていたが、ここから十日もかかる場所に出向くなど父に許されるはずもない。自分には関係のないことだと思っていた。
しかしアンナの予想に反して、メイは一緒に行きましょうと言う。メイの母方の従兄の知り合いで、当日同伴してくれる人がいるという。少し年下だが、形だけだから、と。お父様にもお手紙で許可は取りました、と言われて、アンナはそれが許せなくて、自分の屋敷を飛び出した。
今までアンナがどれだけ体調はもう大丈夫なのだと主張しても全く聞いてくれなくて、遠出は許されなかったのに、今さら。アンナになんの相談もなく、勝手に出席の許可を父にもらって、頼んでもいないエスコートを探して、アンナの機嫌をとるような顔をしていた母に無性に腹が立った。
飛び出しても行き先がなくて、アンナは屋敷の外に自分が行きたい場所も、行ける場所もないのだと気づいた。
涙が出て止まらなくなって、そうすると使用人が心配して母を呼ぼうとする。アンナが泣くと、周りの人はいつも今すぐ止めなくてはと焦ってなんでもしようとする。
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