「君を愛していくつもりだ」と言った夫には、他に愛する人がいる。

夏八木アオ

文字の大きさ
19 / 30
連載

◆閑話:アンナと父の話 - ②

しおりを挟む
 アンナは自分の行ったことを思い出して、息ができなくなる気がして窓を開けた。

 あの日勢いで公爵家の別邸を訪れて、イリスに呼ばれているのだと伝えれば、公爵家に雇われている高齢の使用人はアンナを疑わずに通してくれた。アンナのことを孫のように思っているから、まさかアンナが嘘をつくとは疑っていないようだった。

 夜会の準備でイリスと話すノアを見て、アンナは思わず彼の名前を呼んでいた。ノアが全然知らない人に見えて怖くなった。

 知らない人ではないはずだ。ここにいるのはアンナの従兄のノアのはず、と確かめるように口から幼い言葉が飛び出して、最後に出たのはアンナの本音だ。

「……わたしは、わたしがあなたと結婚するものだと思っていたわ」

 アンナが妻の前で気持ちを告白して、泣きながら走って逃げたのに、後ろからノアが呼びかけた言葉は「走るのはよくない」だった。なんなんだと思って、アンナは心のままにノアを罵倒して走った。

 気持ちがぐちゃぐちゃの状態で、庭の中央でノアがアンナの手を引いて、振り解いたら抱きしめられた。背中を優しく撫でる手の温かさや、アンナを抱きしめる腕の強さを、こんな形で知りたくなかったと思ってさらに涙が出た。

 ノアが知らない人になったのではなくて、アンナがノアを知らなかっただけだ。彼が女性をどう扱うのか知らなくて、見る機会もなかった。

 涙が止まるとノアは安心したように微笑んだ。
 アンナが泣き止んだことに安心したのではなくて、体調に変わりないことが分かったから。「もう大丈夫だね」と言われたけれど、アンナの気持ちは全く大丈夫ではなかった。

 ここまで何も通じていないのだと思ったら、アンナは笑うしかなくて、口角をあげるとノアはそれに安心したように微笑みを返したのだった。

「アンナ」

 父がまたアンナの名前を呼んだ。

「はい」
「王都の、夜会の件だが、メイがもうお前の体調に支障はないと言うから許可を出した。本当に問題ないんだな?」

 ここにも一人、何も分かっていない人がいた。アンナは口角をあげて微笑んだ。

「“支障はない”の定義によりますわ。今も定期的に診療は受けておりますが、もう何年も発作は出ていないし、薬も栄養剤のようなものしか口にしていません。わたし、もう、何年も同じことを手紙に書いています」
「定期的な診療を受けているんだろう?」
「そうしないとお母様が不安がるからです。お医者様とは雑談しかしておりません」
「そうなのか?」
「ええ、そうです。ご不安ならドクターにお尋ねになってくださいませ。わたしがいつも何の話をしているのか教えてくださるはずですわ」
「そうか」

 ローガンは無表情で頷いた。

「でも行けなくても構いません。どうしても行きたいとは思っていませんし、ナタリア殿下のご招待をお断りして家として問題ないなら、行くのをやめます」

 ローガンは顔を上げた。

「お前はヴェルディアを出るのが好きだろう」
「好きですけれど、今はなにかを楽しむ気分ではありません。それにわたし、この場所が嫌いなわけではありませんわ」

 ノアが彼の父の仕事を手伝うようになって、アンナには聞いても分からない話をすることが増えた。今思えばアンナがヴェルディアの外に出たがるようになったきっかけは、人でもないものに対抗意識を燃やしたことだ。それでノアの気を引こうとしていたのは幼くて目も当てられないが、アンナは、自分がノアの仕事の話を聞くとどうしてもやもやした気持ちになるのか、昔は分かっていなかった。

 その理由を自分の中で見つけてからは、ノアに暗い顔をさせるヴェルディアの人々が好きではなくなった。ノアは寝る間も惜しんで必死になっているのに、彼らは感謝もせず文句ばかりで、そんなにノアが苦労してこの土地に尽くす価値があるのだろうかと思ってしまった。
 もっと愚痴を言えばいいのにと思うがノアは土地を悪く言わない。代わりにアンナが文句を言うと、困った顔をして笑う。
 ほかの場所にも目を向ければいいのに、ノアの心はずっとこの土地に縛られていて、アンナはそれがずっともどかしかった。

「そうなのか」

 父の表情は少し暗くなった。

「夜会でなにかあるのですか?お父様がおっしゃるならもちろん伺いますわ」
「いや、お前が決めていい。ただ、なんだ、今回は、会場の飾りつけの業者を私が紹介したんだ。昔お前がルミアンデール地方の花飾りに興味を持っていたのを思い出して、楽しんでもらえるかと思った」
「ルミアンデールの、花飾り……?」

 アンナの記憶にはその名前がない。

「『アンリエッタ』を三人で観劇した時に、お前は主役じゃなくて王子についてきた妹の衣装に夢中になっていただろう。あれはルミアンデール地方の伝統衣装だ」

 アンナは父の言葉を頼りに、過去の記憶を呼び起こそうとした。

「ああ……!あの、リボンのたくさん巻き付いた花冠や腕の飾りですか?」
「ああ」

 ローガンの表情が少し明るくなった。
 アンナが最後に両親と観劇をしたのは確か七歳にも満たないころだ。その時から父の中でアンナの姿が固定されているとしたら、体調を過剰に心配されているとしても仕方がない。あのころのアンナは頻繁に熱を出し、母と使用人が交代で夜通しそばにいてくれた。

 咳き込んで眠れなくなると、暗くて本も読めない部屋で、母が覚えている話を語ってくれた。

「それなら、ぜひ見に行きたいです。せっかくですから、腕に花の飾りをつけたいです。合わせて新しいドレスを仕立ててもいいですか?」
「ああ、もちろんだ!花冠はつけなくていいのか?」
「お父様、それはさすがに、主役のナタリア殿下以外がそんなことをしたら大変なことになります」
「そういうものか」
「そういうものです。でも腕に小さな飾りをつけるくらいなら、許していただけるはずです。とても楽しみだわ!」

 アンナは無邪気に笑った。少し声を高くしてはしゃいで目を輝かせると、周りの人が喜んでくれることを知っている。
 父が安心したように笑ったのを見て、仕方ない人だと思いながら、アンナもほっと肩の力を抜いた。

 ローガンがアンナを知らないのは、アンナが今自分は何が好きなのか、父に伝えていないからだ。

 父は、話したら分かってくれる人だ、と、ノアが言った。同じくらい会う機会がないはずなのに自分よりノアのほうが父を知っていそうなことに少し悔しい気持ちを抱きながら、でもこれから先は違うはずだと思って、次の話題について考えた。

 屋敷に到着するまでの短い時間、手紙ではなく、父と直接言葉を交わす時間を精一杯楽しもうと決めた。表情の変化が分かりにくい父の分も目一杯明るく微笑んだ。
しおりを挟む
感想 68

あなたにおすすめの小説

本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います

こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。 ※「小説家になろう」にも投稿しています

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

婚約破棄された翌日、兄が王太子を廃嫡させました

由香
ファンタジー
婚約破棄の場で「悪役令嬢」と断罪された伯爵令嬢エミリア。 彼女は何も言わずにその場を去った。 ――それが、王太子の終わりだった。 翌日、王国を揺るがす不正が次々と暴かれる。 裏で糸を引いていたのは、エミリアの兄。 王国最強の権力者であり、妹至上主義の男だった。 「妹を泣かせた代償は、すべて払ってもらう」 ざまぁは、静かに、そして確実に進んでいく。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』

夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」 教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。 ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。 王命による“形式結婚”。 夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。 だから、はい、離婚。勝手に。 白い結婚だったので、勝手に離婚しました。 何か問題あります?

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にノーチェの小説・漫画を1話以上レンタルしている と、ノーチェのすべての番外編を読むことができます。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。