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連載
◆閑話:アンナと父の話 - ②
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アンナは自分の行ったことを思い出して、息ができなくなる気がして窓を開けた。
あの日勢いで公爵家の別邸を訪れて、イリスに呼ばれているのだと伝えれば、公爵家に雇われている高齢の使用人はアンナを疑わずに通してくれた。アンナのことを孫のように思っているから、まさかアンナが嘘をつくとは疑っていないようだった。
夜会の準備でイリスと話すノアを見て、アンナは思わず彼の名前を呼んでいた。ノアが全然知らない人に見えて怖くなった。
知らない人ではないはずだ。ここにいるのはアンナの従兄のノアのはず、と確かめるように口から幼い言葉が飛び出して、最後に出たのはアンナの本音だ。
「……わたしは、わたしがあなたと結婚するものだと思っていたわ」
アンナが妻の前で気持ちを告白して、泣きながら走って逃げたのに、後ろからノアが呼びかけた言葉は「走るのはよくない」だった。なんなんだと思って、アンナは心のままにノアを罵倒して走った。
気持ちがぐちゃぐちゃの状態で、庭の中央でノアがアンナの手を引いて、振り解いたら抱きしめられた。背中を優しく撫でる手の温かさや、アンナを抱きしめる腕の強さを、こんな形で知りたくなかったと思ってさらに涙が出た。
ノアが知らない人になったのではなくて、アンナがノアを知らなかっただけだ。彼が女性をどう扱うのか知らなくて、見る機会もなかった。
涙が止まるとノアは安心したように微笑んだ。
アンナが泣き止んだことに安心したのではなくて、体調に変わりないことが分かったから。「もう大丈夫だね」と言われたけれど、アンナの気持ちは全く大丈夫ではなかった。
ここまで何も通じていないのだと思ったら、アンナは笑うしかなくて、口角をあげるとノアはそれに安心したように微笑みを返したのだった。
「アンナ」
父がまたアンナの名前を呼んだ。
「はい」
「王都の、夜会の件だが、メイがもうお前の体調に支障はないと言うから許可を出した。本当に問題ないんだな?」
ここにも一人、何も分かっていない人がいた。アンナは口角をあげて微笑んだ。
「“支障はない”の定義によりますわ。今も定期的に診療は受けておりますが、もう何年も発作は出ていないし、薬も栄養剤のようなものしか口にしていません。わたし、もう、何年も同じことを手紙に書いています」
「定期的な診療を受けているんだろう?」
「そうしないとお母様が不安がるからです。お医者様とは雑談しかしておりません」
「そうなのか?」
「ええ、そうです。ご不安ならドクターにお尋ねになってくださいませ。わたしがいつも何の話をしているのか教えてくださるはずですわ」
「そうか」
ローガンは無表情で頷いた。
「でも行けなくても構いません。どうしても行きたいとは思っていませんし、ナタリア殿下のご招待をお断りして家として問題ないなら、行くのをやめます」
ローガンは顔を上げた。
「お前はヴェルディアを出るのが好きだろう」
「好きですけれど、今はなにかを楽しむ気分ではありません。それにわたし、この場所が嫌いなわけではありませんわ」
ノアが彼の父の仕事を手伝うようになって、アンナには聞いても分からない話をすることが増えた。今思えばアンナがヴェルディアの外に出たがるようになったきっかけは、人でもないものに対抗意識を燃やしたことだ。それでノアの気を引こうとしていたのは幼くて目も当てられないが、アンナは、自分がノアの仕事の話を聞くとどうしてもやもやした気持ちになるのか、昔は分かっていなかった。
その理由を自分の中で見つけてからは、ノアに暗い顔をさせるヴェルディアの人々が好きではなくなった。ノアは寝る間も惜しんで必死になっているのに、彼らは感謝もせず文句ばかりで、そんなにノアが苦労してこの土地に尽くす価値があるのだろうかと思ってしまった。
もっと愚痴を言えばいいのにと思うがノアは土地を悪く言わない。代わりにアンナが文句を言うと、困った顔をして笑う。
ほかの場所にも目を向ければいいのに、ノアの心はずっとこの土地に縛られていて、アンナはそれがずっともどかしかった。
「そうなのか」
父の表情は少し暗くなった。
「夜会でなにかあるのですか?お父様がおっしゃるならもちろん伺いますわ」
「いや、お前が決めていい。ただ、なんだ、今回は、会場の飾りつけの業者を私が紹介したんだ。昔お前がルミアンデール地方の花飾りに興味を持っていたのを思い出して、楽しんでもらえるかと思った」
「ルミアンデールの、花飾り……?」
アンナの記憶にはその名前がない。
「『アンリエッタ』を三人で観劇した時に、お前は主役じゃなくて王子についてきた妹の衣装に夢中になっていただろう。あれはルミアンデール地方の伝統衣装だ」
アンナは父の言葉を頼りに、過去の記憶を呼び起こそうとした。
「ああ……!あの、リボンのたくさん巻き付いた花冠や腕の飾りですか?」
「ああ」
ローガンの表情が少し明るくなった。
アンナが最後に両親と観劇をしたのは確か七歳にも満たないころだ。その時から父の中でアンナの姿が固定されているとしたら、体調を過剰に心配されているとしても仕方がない。あのころのアンナは頻繁に熱を出し、母と使用人が交代で夜通しそばにいてくれた。
咳き込んで眠れなくなると、暗くて本も読めない部屋で、母が覚えている話を語ってくれた。
「それなら、ぜひ見に行きたいです。せっかくですから、腕に花の飾りをつけたいです。合わせて新しいドレスを仕立ててもいいですか?」
「ああ、もちろんだ!花冠はつけなくていいのか?」
「お父様、それはさすがに、主役のナタリア殿下以外がそんなことをしたら大変なことになります」
「そういうものか」
「そういうものです。でも腕に小さな飾りをつけるくらいなら、許していただけるはずです。とても楽しみだわ!」
アンナは無邪気に笑った。少し声を高くしてはしゃいで目を輝かせると、周りの人が喜んでくれることを知っている。
父が安心したように笑ったのを見て、仕方ない人だと思いながら、アンナもほっと肩の力を抜いた。
ローガンがアンナを知らないのは、アンナが今自分は何が好きなのか、父に伝えていないからだ。
父は、話したら分かってくれる人だ、と、ノアが言った。同じくらい会う機会がないはずなのに自分よりノアのほうが父を知っていそうなことに少し悔しい気持ちを抱きながら、でもこれから先は違うはずだと思って、次の話題について考えた。
屋敷に到着するまでの短い時間、手紙ではなく、父と直接言葉を交わす時間を精一杯楽しもうと決めた。表情の変化が分かりにくい父の分も目一杯明るく微笑んだ。
あの日勢いで公爵家の別邸を訪れて、イリスに呼ばれているのだと伝えれば、公爵家に雇われている高齢の使用人はアンナを疑わずに通してくれた。アンナのことを孫のように思っているから、まさかアンナが嘘をつくとは疑っていないようだった。
夜会の準備でイリスと話すノアを見て、アンナは思わず彼の名前を呼んでいた。ノアが全然知らない人に見えて怖くなった。
知らない人ではないはずだ。ここにいるのはアンナの従兄のノアのはず、と確かめるように口から幼い言葉が飛び出して、最後に出たのはアンナの本音だ。
「……わたしは、わたしがあなたと結婚するものだと思っていたわ」
アンナが妻の前で気持ちを告白して、泣きながら走って逃げたのに、後ろからノアが呼びかけた言葉は「走るのはよくない」だった。なんなんだと思って、アンナは心のままにノアを罵倒して走った。
気持ちがぐちゃぐちゃの状態で、庭の中央でノアがアンナの手を引いて、振り解いたら抱きしめられた。背中を優しく撫でる手の温かさや、アンナを抱きしめる腕の強さを、こんな形で知りたくなかったと思ってさらに涙が出た。
ノアが知らない人になったのではなくて、アンナがノアを知らなかっただけだ。彼が女性をどう扱うのか知らなくて、見る機会もなかった。
涙が止まるとノアは安心したように微笑んだ。
アンナが泣き止んだことに安心したのではなくて、体調に変わりないことが分かったから。「もう大丈夫だね」と言われたけれど、アンナの気持ちは全く大丈夫ではなかった。
ここまで何も通じていないのだと思ったら、アンナは笑うしかなくて、口角をあげるとノアはそれに安心したように微笑みを返したのだった。
「アンナ」
父がまたアンナの名前を呼んだ。
「はい」
「王都の、夜会の件だが、メイがもうお前の体調に支障はないと言うから許可を出した。本当に問題ないんだな?」
ここにも一人、何も分かっていない人がいた。アンナは口角をあげて微笑んだ。
「“支障はない”の定義によりますわ。今も定期的に診療は受けておりますが、もう何年も発作は出ていないし、薬も栄養剤のようなものしか口にしていません。わたし、もう、何年も同じことを手紙に書いています」
「定期的な診療を受けているんだろう?」
「そうしないとお母様が不安がるからです。お医者様とは雑談しかしておりません」
「そうなのか?」
「ええ、そうです。ご不安ならドクターにお尋ねになってくださいませ。わたしがいつも何の話をしているのか教えてくださるはずですわ」
「そうか」
ローガンは無表情で頷いた。
「でも行けなくても構いません。どうしても行きたいとは思っていませんし、ナタリア殿下のご招待をお断りして家として問題ないなら、行くのをやめます」
ローガンは顔を上げた。
「お前はヴェルディアを出るのが好きだろう」
「好きですけれど、今はなにかを楽しむ気分ではありません。それにわたし、この場所が嫌いなわけではありませんわ」
ノアが彼の父の仕事を手伝うようになって、アンナには聞いても分からない話をすることが増えた。今思えばアンナがヴェルディアの外に出たがるようになったきっかけは、人でもないものに対抗意識を燃やしたことだ。それでノアの気を引こうとしていたのは幼くて目も当てられないが、アンナは、自分がノアの仕事の話を聞くとどうしてもやもやした気持ちになるのか、昔は分かっていなかった。
その理由を自分の中で見つけてからは、ノアに暗い顔をさせるヴェルディアの人々が好きではなくなった。ノアは寝る間も惜しんで必死になっているのに、彼らは感謝もせず文句ばかりで、そんなにノアが苦労してこの土地に尽くす価値があるのだろうかと思ってしまった。
もっと愚痴を言えばいいのにと思うがノアは土地を悪く言わない。代わりにアンナが文句を言うと、困った顔をして笑う。
ほかの場所にも目を向ければいいのに、ノアの心はずっとこの土地に縛られていて、アンナはそれがずっともどかしかった。
「そうなのか」
父の表情は少し暗くなった。
「夜会でなにかあるのですか?お父様がおっしゃるならもちろん伺いますわ」
「いや、お前が決めていい。ただ、なんだ、今回は、会場の飾りつけの業者を私が紹介したんだ。昔お前がルミアンデール地方の花飾りに興味を持っていたのを思い出して、楽しんでもらえるかと思った」
「ルミアンデールの、花飾り……?」
アンナの記憶にはその名前がない。
「『アンリエッタ』を三人で観劇した時に、お前は主役じゃなくて王子についてきた妹の衣装に夢中になっていただろう。あれはルミアンデール地方の伝統衣装だ」
アンナは父の言葉を頼りに、過去の記憶を呼び起こそうとした。
「ああ……!あの、リボンのたくさん巻き付いた花冠や腕の飾りですか?」
「ああ」
ローガンの表情が少し明るくなった。
アンナが最後に両親と観劇をしたのは確か七歳にも満たないころだ。その時から父の中でアンナの姿が固定されているとしたら、体調を過剰に心配されているとしても仕方がない。あのころのアンナは頻繁に熱を出し、母と使用人が交代で夜通しそばにいてくれた。
咳き込んで眠れなくなると、暗くて本も読めない部屋で、母が覚えている話を語ってくれた。
「それなら、ぜひ見に行きたいです。せっかくですから、腕に花の飾りをつけたいです。合わせて新しいドレスを仕立ててもいいですか?」
「ああ、もちろんだ!花冠はつけなくていいのか?」
「お父様、それはさすがに、主役のナタリア殿下以外がそんなことをしたら大変なことになります」
「そういうものか」
「そういうものです。でも腕に小さな飾りをつけるくらいなら、許していただけるはずです。とても楽しみだわ!」
アンナは無邪気に笑った。少し声を高くしてはしゃいで目を輝かせると、周りの人が喜んでくれることを知っている。
父が安心したように笑ったのを見て、仕方ない人だと思いながら、アンナもほっと肩の力を抜いた。
ローガンがアンナを知らないのは、アンナが今自分は何が好きなのか、父に伝えていないからだ。
父は、話したら分かってくれる人だ、と、ノアが言った。同じくらい会う機会がないはずなのに自分よりノアのほうが父を知っていそうなことに少し悔しい気持ちを抱きながら、でもこれから先は違うはずだと思って、次の話題について考えた。
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