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26. 切れない縁

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ユリウスに会う日は、彼が留学先に戻る2日前になった。念のためテオドールが一日非番の日だ。

私は久しぶりに元々のエリーナが着用していた正装用の重厚なドレスを着せてもらった。最近は動きやすさを重視して自分でも着脱できるくらい簡単な服で済ませることも増えているから、久しぶりに重たいドレスを身につけ、歩くだけでも疲れてしまいそうだ。

淡い紫色に、星のような刺繍が施された透けるほど薄い布が幾重にもなった美しいドレスで、エリーナによく似合う。

(本当に、お砂糖菓子みたいに可愛い顔)

私は化粧をしてもらった顔を鏡で見つめた。大きな瞳と長いまつ毛。頬は白く滑らかで、ほんのりバラ色だ。杏色の髪は柔らかいウェーブを描いてて胸元まで降りていて、後ろ側は腰に近いほど伸びている。それをセアラが緩く編み込んで後ろにまとめてくれるようだ。

瞳の色はグリーンがかった菫色で、万が一国王陛下と鉢合わせても咎められない状態だ。昨日の夜を思い出してサッと顔が熱くなった。

エリーナは、顔は幼い感じなのに、身体は完成している。豊かな胸とふわっと柔らかそうな肌を見ると、たまに自分だと言うことを忘れてどきりとしてしまう。

ふと、エリーナはよく外から見えるところにキスマークをつけていたことを思い出した。鏡を見て虫刺されみたいな赤い跡が残っていても、本人は恥ずかしいともなんとも思わない。周りがぎょっとした反応するからついているのは嫌じゃないという感じだ。

私は自分の身体に鬱血痕を見たことは一度もない。テオドールが私の身体に口付けすることはあるけれど、軽く触れるだけだ。

キスの鬱血痕は所有欲や執着の証だと言われる。前はそんなこと気にならなかったのに、テオドールが私に触れるのは他に選択肢がないからに過ぎないと思い知らされたようで、少し気が沈んでしまった。

(お母さん、私が男の人にキスマークを残して欲しいと思ってるなんて知ったら、どんな反応するんだろ……)

私の髪を優しく漉くセアラの手の感触を感じながら、もう会うことがないお母さんのことを思った。お母さんとセアラは全く似ていない。ただ二人とも娘を持つ母親ではある。

幼稚園の時、お母さんが私の髪をきつくきゅっと結ぶのが痛くて嫌だった。一度痛いと伝えたことがある。

ーーー朝の忙しい時間にわざわざ時間を作ってあげてるのに、お礼も言えないの?育て方を間違えたお母さんが悪いのね、悲しいな。

私は泣きながら謝って、二度とそんなことを言わないからまた結んで欲しいと頼んだ。お母さんは頷いてくれたけど、その週末にはじめて美容室に連れて行かれて、結ばなくて良い長さに髪を切り揃えられた。

「……奥様?」
「え?」
「いかがされましたか?痛かったでしょうか」
「ううん、大丈夫。綺麗にしてくれてありがとう」
「……とてもお似合いです。エレノア前王妃殿下を思い出します」
「セアラはお母様を知ってるの?」

セアラは控えめに笑った。

「ええ、少しだけお側でお勤めさせていただいておりました。とても美しくて、笑うと可愛らしくて、素敵な方でした。奥様は、前王妃殿下によく似ていらっしゃいますよ」

エリーナがエレノア前王妃に似ているというのは、たびたび言われることだ。エリーナを産んですぐ亡くなったから肖像画でしか顔を見ていないけれど、私もそう思う。

(会ったことがなくても、残してもらったものがあるよね)

髪の色や、顔の作り、それから魔力の強さと、名前も、エリーナが親からもらったものだ。

(私がお母さんからもらったものは……残ってない)

愛されてない、と感じていたのに、繋がりが残っていないことを寂しく感じる。

(エリーナの家族のことは大事にしたいな)

私がエリーナとして転生してから怯えてばかりで、呼び出しがなければお城には全く顔を出していない。ちゃんと話そうと思ったこともないし、知ろうともしなかった。今日ユリウスと話ができることは大きな変化だから、良い時間にできるといいなと思う。



マリアとは王城で合流した。彼女は淡いグリーンのドレスを着ていて、セアラに事前に話をして、私と並んだ時に違和感がなく且つ私を引き立てるように準備してくれたらしい。
初めて見るドレス姿はとても美しく、私はマリアをベタ褒めした。

「恐縮です。殿下が喜んでくださるだろうと思って、楽しく準備しましたよ」

全く照れずに賛辞を受け入れてくれたことがマリアらしくて、緊張していたことも忘れて笑うことができた。

城内に到着すると、屋外の庭園にある四阿に通されて、美しい花を見ながらユリウスを待つことになった。
テーブルと椅子は野外にあるのがもったいないほど装飾されている。

「ユリウス殿下は会談中らしい。エリーナ、足大丈夫か?座ってていいよ」
「うん、ごめんなさい。ありがとう」

テオドールが椅子を引いてくれたので、そこに腰をかせた。高くて不安定なヒールを履くのが久しぶりで、先ほど少しふらついてしまったのだ。情けない。

「マリアはユリウス殿下にお会いしたことあるの?」
「はい。アナスタシア様の護衛の際、何度かお話ししました」

マリアは役割上立ったまま待つべきというので、一人だけ腰掛けずにいる。よく外でするように椅子に軽く腰を預けることもなく、ピンと背筋を伸ばして、指を身体の前で重ねてしずしずとした立ち姿だ。遠くから見ると別人に見えるかもしれない。
マリアはくすっと笑った。笑うと急にいつものマリアに戻る。

「あの時間は本当に無駄でしたね。アナスタシア様は年下の顔が可愛い男にしか興味がなくて、ユリウス殿下は従順で控えめな女性が好きなので……お互い好みに合ってない上、好みじゃない相手と大人しく政略結婚する性格でもない。互いの国に義理を果たせて良かった、という感じでした」
「そうなんだ。なんだか大変だね」
「そうだよ。そして君ももちろん対象外だ、マリア。私は口答えしてくる女が大嫌いだからね」
「?!!」

突然人がマリアの後ろに現れて、私はびくっと跳ね上がってテオドールの腕を掴んでしまった。テオドールが、私に『大丈夫だ、ユリウス殿下だよ』と囁いて立ち上がる。私も立った方が良いと思ったのだけど、テオドールが私の肩に触れて抑えるのでタイミングを逃した。
マリアは呆れた顔をしている。

「殿下、まだその趣味の悪い現れ方をしてるんですか?」
「人が驚く顔が好きなんだ。ははは、君は本当に全く可愛げがないな」
「恐縮です」

ユリウスは、エリーナの記憶にあるより少しだけ日焼けして大人びた雰囲気になっていた。ダブルブレストの黒いコートがよく似合っている。

「マリアはなんでこんなところにいるんだ?私は今日テオドールと約束をしていたんだが」

ユリウスはちらっとテオドールに目線を向けた。私とは目が合わない。マリアは私の後ろに移動した。

「エリーナ殿下の侍女として参りました」
「君がエリーナの侍女だと?偏屈な夫が亡くなって子爵に追い出されたのか。困っているなら私が人間らしい仕事を紹介してやろう」
「逆です。莫大な資産があるので好きなことをしているんですよ。それで?お呼びしておいて挨拶もしないのがアジリア首長国風のおもてなしなんですか。非常に勉強になります」
「マ、マリア……」

アジリア首長国というのはユリウスが留学している国の名前で、彼は一時帰国中らしい。そんなに喧嘩腰にならなくても、と思ってマリアの腕に手を伸ばした。ユリウスがちらっと私に目を向けた。私は慌てて立ち上がり挨拶した。

「ユリウス王太子殿下にご挨拶申し上げます。本日はお招きくださり恐悦至極にございます」

アーノルドの"自分の目的に集中するため"にマナーを身につけるという考えはその通りだと思って、私はこの2日間マリアに再教育してもらった。当のマリアはマナーなど聞いたことがないという態度を取っているけれど。
とにかく、以前よりも王女らしくお辞儀の角度から爪先まできちんと気を遣えているはずだ。

血のつながった兄妹であっても、年長で王太子であるユリウスに対しては最大限敬意を払うのが正式であると聞いた。これで礼節を欠いているという理由で会話を拒否されることはないはずだ。

ユリウスは私にお辞儀を返してくれなかった。頭を上げていいか分からず、しばらく待っていると、上から声がした。

「テオドール、顔が似ているだけの別人を連れてくるなら、もう少し本人の性格を教えてあげたらどうだ。かわいそうに……顔をおあげ」

ユリウスは私の頬に触れると、するっと手を顎まで滑らせ、そのまま私の顔をあげさせた。菫色の瞳と目が合う。笑っているように見えるのに、なぜか温かみがない。

テオドールがユリウスと私の間に身体を滑り込ませた。

「本人です」
「本人……?」

ユリウスは私の顔をじっと見つめた。そして眉を顰める。

「瞳の色が違う。母上譲りの菫色のはずだ」
「それは……その、私の魔力の影響です」
「……」

テオドールが少し気まずそうに回答すると、ユリウスは私の瞳の中に何かを探すように目を細めた。

それから、何事もなかったかのように、にこ、と笑って椅子に腰掛け、足を組んだ。

「そうか、久しぶりだなエリーナ。座るといいよ」
「お久しぶりです。お兄様。失礼いたします」

笑ってくれたことに安心し、私も笑顔を返した。私が椅子に腰掛けると、ユリウスがテーブルの上で肘をつき両手の指を組んだ。少し前のめりになって、私に微笑みかける。

「小賢しいから自分を偽るのは得意だろうと思っていたが、中々の精度だ。私の女の好みも把握しているようで感心したよ。寝台の上以外でも男を喜ばせる特技が増えたのは結構だが、兄の私に披露する必要はないんじゃないか?気色悪い女だ」
「え……?」

愛想よく綺麗な微笑みを浮かべて、穏やかな声で話している。言葉の意味が棘だらけだと気付くのに時間がかかってしまった。

「殿下」

テオドールが非難の色を込めてユリウスを呼んだ。ユリウスはずっとにこにこ笑っている。

「お前は本当に何の役にも立たないが、私の神経を逆撫でする才能だけは一級品だ。やっぱりミケが辞任した時に殺しておけばよかったな。不愉快で仕方ない」

パチン、と音がして、耳に音が何も入らなくなってしまった。実の兄からの悪意のこもった言葉にショックを受けて何も聞こえなくなってしまったのかと思ったけれど、これは魔法で聴覚が遮断されたのだと気付いた。
テオドールがユリウスに何か言っているけれど、何も聞こえない。

「テオ、大丈夫だよ。魔法を解いて」

テオドールの腕に触れて呼びかけると、テオドールは私を見て安心させるように笑い、またユリウスに向き合ってしまった。
テオドールが怒っているのは表情で分かる。

ミケ、という名前には聞き覚えがあった。ユリウスの幼馴染で、近衛として務めていた、赤茶の髪にそばかすのある騎士だ。

ユリウスに近しい人だと思ったからエリーナから声をかけて関係を持ったことがある。そのあと彼を見かけることがなくなったが、辞任していたらしい。

ミケはユリウスのことを、人間と羽ペンを同じように見ている人だと評していた。自分はインクが切れない羽ペンのように便利だから気に入られているように見えるが、実は代わりはいくらでもいると。
ペンよりも便利な道具が出てきたら見向きもされなくなると思うと言っていた。

エリーナはあまりその話に共感できず、頼んでもいない自分語りをしてくるつまらない男性、という印象で終わっている。

もう一人、ユリウスに近しい人で覚えているのは、体格の良い、端正な顔つきの近衛兵だ。名前は忘れてしまった。ユリウスのことを"欲しいものが手に入ると疑ったことがない人"だと言っていた。他の人には見えない、物事をうまくいかせるための道筋が彼には見えていて、全て手に入れることができる人だと。
何をしても手のひらの上で転がされているようで、自分は必要ないと感じるし、時々恐ろしいと言っていた。

エリーナは、王室の人間は欲しいものが手に入るのは当然だと思っていて、彼にも共感できなかった。

ユリウスの近くにいる人間と関係を持っても、ユリウスはエリーナに見向きもしてくれなくて、苛立って仕方なかった、という記憶が残っている。

ユリウスに目を向けると、ユリウスは、紫色の瞳を私に向けてにこりと笑った。

(ユリウス王太子は冷静だ)

エリーナが接触したことのある二人の話と、過去のユリウスの態度を踏まえると、ユリウスはエリーナにたいした感情は持っていないのではないかと思う。私を罵ったのは多分私を傷つけたいのではなくて、そうすれば怒る人が隣にいるからだ。
そうでなければ、ユリウスはこれまでと同じように、エリーナを完全に無視するほうが自然な気がする。

ここはオープンなスペースで、少し離れたところにたくさんの人がいる。テオドールが今何を言ってるか聞こえないけど、このままだと言っちゃいけないことを言う可能性がある。

(継承権を剥奪されてしまえ、とか……)

プライベートでは前科ありだ。そうなった時にユリウスが王太子という自分の立場を使って何をするか、それを考えるとぞっとした。王室の人間は、自分への不敬を罪にできる。

(テオ、多分、テオのこともユリウス王太子の目的だよ……!)

ユリウスは、自分が欲しいものがあるときに、諦めて別のものを据えることで満足するほどつつましい人じゃない。
止めなきゃ、と思うけど、手段がない。テオドールには私の声が聞こえず、腕を引っ張っても無視されている。マリアが私を二人から引き離すように肩に触れた。

何か使えるものはないかと辺りを見回して何もなくて焦り、灯台下暗しですぐ近くにバラの花壇があることに気付いた。まだ育ちきっていないように見える。

私はバラの花に助けを求め、いつもよりずっと強く魔力を込めた。

(お願い!)
 
ぶわりと風が吹くのではないかと錯覚するほど魔力が溢れ、勢いをつけて茎が伸び、ユリウスとテオドールを引き裂くように二人の間を埋める。
私はテオドールがバラの棘で傷つかないように、体当たりして遠ざけた。

テオドールの驚いた顔が目の前にある。私はジェスチャーで音を戻して欲しいと伝えた。

「テオ、早く声と音を戻して」

テオドールは戸惑いながら頷いて、それからまた指を鳴らす動作をした。防音性能が高いイヤフォンを外した時みたいに一気に音が戻ってくる。

「テオ、言っちゃいけないこと言ってない?」

テオドールは、怒るといつもよりさらに達弁になり、すらすらと相手を言い負かすための屁理屈と悪態が出てくる。それはこの開けた場所で王太子に披露するには適さない特技でもある。

テオドールははっとした顔をして、首を横に振った。

「言ってない」

テオドールの答えに、ほっと息を吐いた。はぁ、と肩の力を抜くと、後ろでガサッと音がした。

「あ……」

バラの枝と蔓に囲まれたユリウスは、呆気に取られた顔で私とテオドールを見ていた。その手がバラの茎に触れると、棘が刺さったようでユリウスは顔を顰めた。

「お兄様」

私が近寄ると、ユリウスは得体の知れないものを見るような顔をした。

「指を止血してもいいですか?」

ユリウスが固まったまま返事をしないので、私は勝手に指に触れ、丸く赤い血が滲んでいるところに魔力を流した。小さな傷を防ぐだけの作業は一瞬で終わった。

「良かった。痕にはならなそうです」
「……お前、こんな特技があったのか」
「特技というほどでは……まだ練習中です」

ユリウスは片眉をぴくりと動かした。

「私の身体を練習台にしたのか?……本当に、私を苛立たせることしかしないな」

ユリウスは治療した箇所の状態を確認するように、自分自身の指を撫でた。



私のせいでテーブルと椅子は使えない状態になってしまった。テオドールとマリアはユリウスを非常に警戒した顔をしていて、今日はこれで解散という話になったが、ユリウスが私を引き留めた。

「少しエリーナと二人で話がしたい」

テオドールがすかさず返事をした。

「誹謗中傷した上に殺しておけばよかったなんて言われて、大人しく二人きりにさせるわけないでしょう。謝罪の一言もありませんが、殿下は友人の妻に対していつもその態度なんですか?」
「テオ、私は気にしてないから大丈夫だよ。話してくるよ」

あれだけ嫌いというオーラを出しておきながら、テオドールがユリウスを友人と呼ぶことに驚いた。彼が王太子に対して、国王の前で話す時のように丁寧で従順な態度を示さないのは、二人が友人として対等な立場だからだろうか。もしかして先程私が介入したことも邪魔だったかもしれない。
テオドールは私に厳しい顔を向けた。

「エリーナ、傷つけられた時に簡単に人を許すな。この話はまた後でするからな」

流れ弾のように私まで睨まれた。心臓がうっとしてしまう。

「で、でも、テオ……お兄様は家族だから、ちゃんとお話ししてみたい。だめ?」
「……」

今まで前世でもエリーナとしても、一度も家族との縁をまともに築いて来なかった。
前世で私の家族と呼べるのはお母さんのみで、父は戸籍上存在しているのに顔を見たことがなかった。大学入試のために住民票を取り寄せたときに、はじめて名前を見て、本当にいるんだなと驚いたくらいだ。兄弟はおらず、祖父母に会ったこともない。

エリーナの母はエリーナを出産後にすぐ亡くなっているし、国王はエリーナに関心がなかった。後妻の現王妃ともほとんど話したことがない。小さい頃からユリウスとも姉ともうまく関係を作ってこれなくて、唯一エリーナに興味を持ったアルフォンスは家族としてではなく、女性として好奇心を寄せられただけだ。もう一人の王子はほとんど話したこともない。

私の前世のお母さんとの関係は、もう絶対に改善することはできない。でもエリーナの家族のことは大切にできるかもしれないのだ。だからユリウスとはちゃんと話をしてみたかった。

テオドールがため息をついた。

「だめじゃないし、俺に許可を取る必要もないよ。……声は聞こえなくても姿は見えるところにいてくれ。何かあったらすぐ行く」
「うん、ありがとう」

私はテオドールに感謝を伝えて、ユリウスと共に庭を少しだけ歩き、木陰にあるベンチに座った。日差しが強すぎず穏やかな風が吹いていて、気持ち良い。
ひどいことを言われたのに、ユリウスのことは隣にいてもあまり恐ろしいと思わなかった。

血が繋がった兄妹であることに意味を見出しているのかもしれないし、私を罵ったのはテオドールを自分の傘下に加えるための手段でしかなかったと思っているからかもしれない。
テオドールが私の代わりに十分怒ってくれて、今も何かあったら助けてくれるだろうということも、私を安心させてくれた。

「母上も治癒魔法の使い手だった」

ユリウスが呟いた。いつも浮かべていた笑みがなく、表情が読めない。

「そうなんですか?」
「私は怪我などしないから直接治してもらったことはないが、シャルロッテはよく手をかけてもらっていた。わざと怪我して母上に泣きつくんだ」

ユリウスはふん、と笑った。馬鹿にするよりは、懐かしむような感情が込められている。

シャルロッテは国王と前王妃の間に生まれた第二子で、現在は隣国に嫁いでいる。エレノア前王妃との思い出話を聞くのははじめてだ。エレーナは幼い頃から、城で前王妃のことは聞いてはいけないと気付いていた。

「でも、お前とは少し方法が違うよ。母上のはもう少し古い魔法だった」

ユリウスは囁くように呟くと、膝の上で手を組んだ。

「エリーナ」
「はい」
「なぜお前はいつも私の邪魔をするんだ?私の大切なものを奪うのはなぜだ。私がお前に何をしたのか教えてくれ」
「えっ……」

エリーナにも、私にも、ユリウスの邪魔をしているとか何かを奪っているという自覚がなかった。
私は質問に答えられず、手が震えてしまう。先程中傷された時より、ずっと強くユリウスからの拒絶を感じる。

「わ、私、は……」

家族だからちゃんと話をしてみたい、と考えた甘さを痛感していた。ユリウスと私の関係性をより厳密に表すなら、ただ血が繋がっているだけの、これまでの信頼関係が全くない人間だ。

「お前を産んだ日に母上が亡くなった」
「……!」
「母上は身籠もってすぐ病床に伏せていたな。父上は母上が衰弱していく姿を見ていられず、見舞うこともなくなって逃げた。自分の父親の情けないところを見ると、自分にもその血が流れていることに絶望して吐き気がしたよ。……私は父とは違うと証明しようとしていた。私は有能で、父のように臆病ではなくて、欠点がない人間であろうとした」

ユリウスは自分の前髪をあげた。薄く、小さな傷がついている。

「そんな時にお前がこの傷をつけた。この傷のせいで、私は鏡を見る度に自分が妹も宥められない情けない王子だと思い知らされる。私は自分が無力だと感じる瞬間が1番許せないのに、毎日それを思い出すんだ」

傷はよく見なければ分からないほど薄い。エリーナの記憶にはいつどうやってその傷を負わせたかも残っていない。

「それから私の近衛を二人辞めさせたな。ミケとロナウド。二人とも替えがきかない存在だったのに、よくも一番得難い順で追い出したな。本当に感心したよ」
「わ、私が……辞めさせた……?」
「とぼける気か?二人に声をかけて…他にもいたかもしれないな……二人ともお前と寝てから様子が変になった。人間関係が拗れるように仕向けてただろう」

エリーナにはそんなつもりはなかった。ただ兄の近くにいた人に話を聞いてみたいとか、これでユリウスの気が引けるなら良いと思っていた。エリーナは二人が勝手に語ることを聞いていただけで、エリーナから何か働きかけたことはない。
それに、ミケと、もう一人ロナウドというらしい彼が辞めたのはユリウスとの関係に悩みがあったのも大きな理由ではないだろうか。

「それに……今日、私が何をしたかったか気付いていたな?」
「……」

ユリウスがテオドールの怒りを引き出して、自分に都合の良いように話を進める材料にしようとしていたことだろうか。私は否定せず、ただ頷きもしなかった。

「本当に腹立たしいな。エリーナ、お前は本当は優秀なのか?優秀なら使ってやってもいい」

ユリウスに対して同情や申し訳ない気持ちが少しはあったけれど、私は彼の言葉に違和感を覚えるようになっていた。

出産で母親が亡くなるのは子どものせいじゃないし、父親に理想像を押し付けて、妻を失うことに怯える国王に寄り添おうともしていない。
額に怪我をさせたのはエリーナが悪いけど、それを自分の評価と結びつけていつまでも恨んでいるのは被害妄想がすぎると思うし、近衛が二人辞めたことに自分が関係あると微塵も感じていないあたり非常に盲目的だ。テオドールの件は、本人の希望も聞かずに勝手に話を進めようとしている。

(この人、自分のことしか考えてないし、全部人のせいにしてばっかり……!)

自分が1番大変で、かわいそうだと思っている。周りの人は、ユリウスに使われるためにしか存在していないという考えに腹が立った。私の大切な人のことも、傷つけて振り回してもなんとも思っていない。

「わ、私、お兄様には従いたくない。お兄様のこと全然尊敬できない」

私は立ち上がって、ユリウスから少し距離を取った。ユリウスは目を丸くして、そして私を嘲笑した。

「はっ……本性を現したな」
「本性って何?私、今の……本当に私のせいなのって、怪我させたことだけじゃない?そんなに思い出したくないなら傷痕を消してあげる。見せて」

もう皮膚が繋がったところは治すというイメージはないだろう。隣接した組織との差を埋めるようにしてあげれば、もっと目立たなくできるような気がする。
私はユリウスの髪に触れた。ユリウスは私の手を払い除けた。

「は?!やめろ……っ、私に触るな!」
「だって、ほとんど見えない傷のせいで一生私のこと恨まれても困るよ。テオのことも都合よく扱おうとするのやめて!ミケもロナウドもお兄様のこと愚痴ってたよ。私はそれを聞いてただけ!全部が全部私のせいじゃない!」

額に手をあて、魔力を流す。ユリウスはすごく抵抗して、私の腕を押さえた。私の方が立っていて、ユリウスは座っている。高低差のおかげて腕力に差があっても私の方がちょっとだけ有利だ。ぐぐぐ、と力が拮抗する。
私は今すごく怒っていると思う。自分でもどうしてこんなに怒っているか分からない。

エリーナは家族に大切にされてなくてずっと寂しかった。寂しさからたくさん人を傷つけてしまったのはエリーナの弱さで罪だけど、前王妃が亡くなったことが家族の関係に大きく影響していたのだとしたら、本当は兄妹三人で一緒にその穴を埋めるべきだったんじゃないだろうか。
全部何も知らないエリーナのせいにして、エリーナのことだけを責めていたとしたら、すごくひどいことじゃないか。

じわ、と目に涙が浮かんできた。悲しくて寂しい。エリーナは、母親が亡くなったことも、家族から冷たくされていたことも、悲しんだり寂しく思ったことがなかった。それが悲しみや寂しさだと教えてくれる人もいなくて、ただいろんなことが気に入らなかった。

「誰も私にお母様の話をしてくれないから、私、お母様が亡くなったことを悲しんだこともないんだよ」
「……!」

ずっと拮抗していた力が、ユリウスがすっと力を抜いたことで行き場を失い、私は前につんのめってしまった。そのままぐるりと視界が周り、ベンチに押し倒される形になる。
影になった悲しげな菫色の瞳が私を見つめていた。

「母上の名前を出すと父上が悲しむんだ。お前の顔を見るのも辛そうなくらい……だからできないよ」

ユリウスはすっと表情を戻した。

「ミケとロナウドが辞めたのは私のせいだというのは本当か?」
「……本当の理由は知らないよ」
「愚痴を言ってたんだろう。何と?」
「えっ」

今更ながら、本人のいないところで告げ口するようなことをしていいのか迷った。真面目に仕えていただろうに、最後にこんな印象を残してしまっては申し訳ない。
ユリウスが目を細めた。

「嘘を吐いたのか?」
「違う、吐いてないよ!……えっと、ミケは、自分の代わりはいくらでもいるから、もっと便利な人がいたら見向きもされなくなるって言ってて、ロナウドは、何をしても手のひらの上で転がされているようで自分がいらない気がするし、怖いって」
「は?なんだ、それは……そんな、くだらない理由……?」

ユリウスは呆然としていた。

「くだらなくないよ……お兄様の役に立ちたいって思ってるのに、自信がなくて、寂しい気持ちになってたんでしょ。お兄様、二人のこと得難いって言ってたけど、ちゃんと伝えたことはあるの?」
「当たり前だ。言葉ではなく仕事を与えていた。私は優秀な人間しかそばに置かないと常々言っているし、信頼されてるのは分かるだろう」

私は自信満々なユリウスの態度に呆れてしまった。

「それで伝わってないから、二人ともいなくなっちゃったんじゃないの。いつか仕事がもらえなくなって、無視されるようになるのかなって不安だったのかもしれないよ」
「……」

ユリウスは納得できない顔をしている。私にそんなことは言われたくないのだろう。

「お兄様、言葉で言わないと分からないよ。私はお兄様に恨まれてるって知らなかった。私には笑ってくれないし、無視されてて、嫌われてるのは知ってたけど、その理由も、そんなに恨まれてるのも、知らなくて……ずっと話をしたいと思ってたよ。二人に声をかけたのも、お兄様の気を引きたかったからだよ。私がそう思ってたって、言葉がなくても分かってた?」
「……!」

ユリウスは私のことをじっと見つめ、ゆっくり息を吐くと、身体を起こした。ベンチに押し付けられた手が少し痛む。無我夢中になっていたため、痛むことに気付いていなかった。

「手をかせ」
「……?」

差し出すとぐいっと引っ張られて、ベンチに座らされた。それからユリウスは私の手首に触れ、赤くなったところに魔力を流す。

「お兄様も治癒魔法が使えるの?」
「当たり前だ。が、母上のやり方じゃないよ。教えて欲しいと言えなかった」

手首がじわりと温かくなって、赤い痕が消えた。

「ありがとう。額の傷は……?」

ユリウスは首を振った。

「私は王太子だ。練習中の治癒師に顔を任せられるわけないだろう。傷を増やす気か?」
「そんなことしないよ」
「信用ならない。私はお前のことを全く信用してない。今後も信用しないが……ミケとロナウドが戻ってきたら、少しは信用してもいい」
「……そんなの、お兄様次第じゃない」

ユリウスはふっと笑った。

「そうか。私次第ならば上手くいくさ。今まで本気で願ったことで、思い通りにならなかったことはない」

それから遠くの方にいるテオドールを見ながら尋ねた。

「エリーナ、お前を変えたのはテオドールか?」
「……」

エリーナの性格が別人のように変わったのは私のせいであってテオドールの影響ではないけれど、私が今ここでエリーナとしてユリウスと話をできているのはテオドールのおかげだ。
以前の私なら、縮こまって一言も会話できなかった気がする。エリーナに共感して怒りを感じたとしても、その気持ちを外に出すことはできなかっただろう。

「……うん」
「なら、人の妹を生意気で口答えする人間に仕立て上げた罪でアジリア首長国に連行してやろうかな。さっきは失敗したが、方法はいくらでも思いつく」
「なっ……!」

そんなの成立するはずがないけれど、ユリウスはなんとかしてしまうかもしれない。少し焦ると、ユリウスはその様子を見て感情のこもっていない笑みを浮かべた。

「嘘だよ。女は賢すぎず、そうやって素直に驚いたり喜んだりしている方がいいぞ。夫に愛されたかったら二度とさっきのような生意気な口を利くなよ」
「それは、お兄様の好みでしょ……」

テオドールがユリウスのことを苦手だと言う理由が少し分かる気がする。考えを押し付けてきて、寄り添う気がなくて、他人が大切にしている価値観を尊重してくれない。話しているとどんどん体力が削られる感じがする。

「テオドールは違うのか?趣味が悪いやつだ。まあ、お前と結婚してそのまま過ごしてるくらいだから趣味がいい訳ないな」
「……私、お兄様のことあんまり好きじゃない」
「はは、優しいなぁ。私はお前のことが大嫌いだよ」

ユリウスは声を出して笑った。言葉と表情が全く一致していないところも少し怖いと思う。

「……嫌いというだけで、縁が切れたらいいのにな。血の繋がりというのは本当に煩わしいよ」

ユリウスは聞こえないくらい小さな声で呟いた。今日話してくれたことの中で、それだけは嘘偽りのない言葉のように聞こえた。

これで話は今度こそ終わりになって、ユリウスは私をテオドールとマリアのいる方向へ戻るように促した。自分は彼らに手を上げるだけの挨拶をして、遠くの方に控えていた真っ黒い隊服の第一騎士団の人たちの集団の中に戻ってしまった。
最後は目も合わないことを、私は少しだけ寂しく感じた。

「エリーナ」

テオドールが走ってきて、私の手に触れた。

「大丈夫か?」
「うん」

テオドールが手を握ってくれると、心から安心する。介入するタイミングは何度もあったはずだけど、最後まで見守ってくれたことが嬉しかった。

私はテオドールとマリアの顔を見て、先程の出来事を報告することにした。

「はじめて人と取っ組み合いの喧嘩したよ。まだちょっとドキドキしてる」
「……」

マリアがテオドールの後ろでふはっと吹き出した。

「それで、どちらが勝ったんですか?」
「えっ?えっと……どっちだろう……多分私、かな」

マリアは声を出して笑った。

「はは…っ!ふ、ふふ……ユリウス王太子殿下と取っ組み合いの喧嘩をして、その上勝った人間なんて、きっとはじめてですよ。さすが実の妹は違うな」

マリアは笑いが止まらなくなってしまったようで、お腹に手を当てて笑っている。そんなに笑うことだろうか。

(喧嘩しても、嫌いでも、兄妹は兄妹なんだよね……)

私は前世一人っ子だったから、その感覚はよく分からない。
エレノア前王妃から譲られた同じ菫色の瞳を思い出した。生まれてからまともに会話したことがなくても、何年も会わなくても、憎み合っていても、基本的には完全に縁が切れることはない。この先一生だ。

それだけ長い時間があれば、いつかエリーナのことが大嫌いな実の兄が、私の前で心から笑うところを見れるのだろうか。
想像しようとしても、その瞬間を思い浮かべることはできなかった。
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