アンビバレンス

小谷杏子

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第6話 その瞳が翳るとき

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 ――嘘を言ってしまった。本当は、モヤモヤが拭えなくて困っている。
 花島さんは帰ってしまったから話の続きは聞けない。まだ連絡先を交換するほどの仲じゃないから、聞こうにも聞けないし。広報部で聖に会っても、長話できるほどの余裕はなかった。
「だいじょぶ?」って心配してくれたけど、そもそも私は心配されるほどに落ち込んではいない。混乱、というか。
 適当に話をして、ごまかして、企画部へ戻れば羽崎さんも退勤していたので、なんとなく顔を合わせなくてよかったなと安堵した。
「あ、おつかれー、山藤」
 相田主任が声をかけてくる。
 そうだ、相田主任。
 彼に聞けばすべて分かる。私は黙ったまま、主任のデスクに近づいた。
「え、なに、どうした、山藤」
 へらっと笑う主任。子犬みたいに愛嬌たっぷりな顔が少しだけ不安そうになる。
「主任、ちょっとお話があります」
「お、なんだろ。あぁ、チョコ食べる? さっきコンビニで買ってきたやつ」
 私の様子を見て、主任は明るげに言いながらデスクの引き出しを開ける。赤いケースのチョコレートを見せてきた。
 それはしっかりもらっておき、私は自分の椅子を引き寄せて、チョコの包みを剥がしながら言葉を考える。
「えぇっと、そのぅ……羽崎さんのことで相談がありまして」
「あー、うん。そろそろくるかなーって思ってた」
 さらっとした返し。
 あぁ、もう、なんでもお見通しなんだなぁ。
 そんな主任に怯みつつ、私はチョコをかじって顔を俯けた。
「その、仕事では困ることないんですけど、ええっと」
「絡みづらい?」
「や、そういうわけでもなく……なんだろう、いろんな人から聞いた羽崎さんと私が見る羽崎さんって、違ってて。そういう話を聞いてると、よくわかんなくなって。仕事に関係ないから気にしなくていいとは思うんですけど」
 そして、なんとなく「えへへ」と、ついでのような愛想笑いを添える。
 すると、主任は目を開かせたかと思えば深く息を吐いた。それはまるで安堵のような。目をつぶって眉間をつまんで、小さく笑う。
「なんだ……そんなことか」
「え?」
「あぁ、いや。そんなことって言うのも変か。まぁ、予想してたのと違って良かったからさ」
 主任は気が緩んだように椅子の背にもたれた。そして、ミントのタブレット菓子を出して口に放った。もぐもぐしながら笑う。
「んじゃ、そろそろネタばらししちゃおうか。山藤がモヤモヤして仕事に集中できなくなったら困るしね」
 言いつつ、彼は「羽崎には内緒で」と念を押す。そして、羽崎さんの机をチラリと見た。この場にいないのに、気にするような視線で。そして、その目は笑っていない。
 私はごくんとチョコを飲み込んで言葉を待った。
「別に大したことはないんだよ。俺が心配しすぎなだけで、部長も満川さんも自然にしてくれてるし、そこは問題なさそうだし。ただ、山藤や花島ちゃんには言わないでおこうと思ってたんだけど、無理だろうなってそろそろ気づいた」
 長い前置き。それほどに言いにくいことなんだろう。
 でも、そこまでもったいぶられると私は早く先を聞きたくなる。
 主任は唸って、もう一度タブレット菓子を食べて、噛む。それが一通り済んだ後、天井を仰いだ。
「要するに、あれだ。羽崎って、女性が苦手なんだよ。それも、まぁ、昔ほどは良くなったのかな。前は外出られないくらいにひどかったから」
 飲み込んだチョコの甘さが、こんなにも煩わしく思うなんて。
 私はどんな顔をしたらいいか分からず、顔を落として「あー」と繕いの声を投げる。主任も気まずそうに渇いた笑いを飛ばす。
「うーん……まぁ、心配しすぎなんだと思うんだけどさ。っていうか、こういうのはやっぱ本人の問題だ。俺がどうこうできるわけじゃないし、ほら、精神的なあれだから。それに、あんまり変な噂立てられたくないしね」
「じゃあ、なおさら、そういうのって聞いちゃいけなかったんじゃ……いいんですか?」
 言葉に重さを感じることはない。でも、簡単に済ましてはいけないと思う。
 同時に、あの不透明な壁を思い出して「あぁ、なるほど」と納得した。花島さんがどう見て判断したのかは分からないけど、そういう壁を感じたんだろう。踏み越えてほしくないっていう、徹底的に引かれたラインみたいなものを。
 私の言葉に、主任は苦々しく笑って頭を掻いた。
「んー……まぁねぇ……でも、慣れてきたから仕事も出来るようになったし。本人も克服したいみたいだし。いろいろあるよねぇ、生きてたら」
「そう、ですよね。うん」
 いろいろっていうのは、そういうこと。
 あまりスッキリはしてないけど、すとんと呆気なく腑に落ちてしまう。
「そんなわけで、これ、本人にはオフレコで……俺がバラしたって言ったら絶交されそうだし」
「絶交って」
 おどけた調子で言うから、つい吹き出してしまった。慌てて口を塞ぐけど、主任は笑ったままでいる。だから、不思議とつられて笑ってしまう。
「――なぁ、山藤」
 一息ついて言う主任。その目は、優しくてとても頼りない。
「黙っててごめん。でも、山藤や花島ちゃんが気にするのも嫌だったんだ。それは、羽崎も同じ気持ちだし。だから、このまま知らないフリをしてほしい。気にせずに、自然に……お願いします」
 主任はぺこりと頭を下げた。
 それは……卑怯だ。でも、越えてはいけないラインというものが見えてしまい、もう受け止めるしかない。
 顔を上げた主任が私を見る。そして、また椅子の背にもたれた。
「深刻な顔すんなって。ほらぁ、山藤はそういうとこあるからぁ」
「そういうとこってなんですか」
「優しすぎるんだよ、お前は。考え過ぎ」
 考え過ぎ、かぁ……そうかもしれない。
 冷やかしの笑いを浮かべる主任は、もうあの頼りなさはなくて、いつもの能天気な愛嬌たっぷりの子犬に戻った。
「でもさぁ、俺は山藤と羽崎は相性いいと思うんだよねぇ」
 ショッキングな話のあとに、突然何を言い出すんだろう。
 主任は思案げに宙を見上げた。そして、思い出す。
「ほら、今年のバレンタインの日。お前、会社の前ですっ転んだだろ? そんときに助けたのが羽崎だったんだけど、覚えてない?」
 言われて数秒、考える。
 会社の前で転んで、助けてもらった……あぁ、あれ。バレンタインだったんだ。
 いや、じゃなくって。
「なんで主任が知ってるんですか!」
 思わず仰け反って、主任を凝視する。そんな私の驚きに彼はまったく動じず、ケラケラ笑った。
「だって、後ろから見てたもん」
「えぇ?」
 恥ずかしすぎる。転んだのもそうだけど、あの場面を見られていたことを二ヶ月経った今聞くのも恥ずかしい。
 頭を抱えていると、主任は「まぁまぁ」となだめてきた。
「あれを見てさ、羽崎がもう大丈夫なんだなぁって思ったんだよ。そりゃ、あの時もちゃんと仕事はしてたんだし、大丈夫なのは知ってたんだけど、改めて見ると、ね。うん。安心したんだよねぇ」
 嬉しそうに言う。それを見れば、恥ずかしさも吹き飛んでいく。
「それに、羽崎あいつも言ってたよ? 山藤さんはなんか、不思議と怖くないんですよねーって。そそっかしいし、放っておけないんだと」
「放っておけないって……」
 まぁ、落ち着かないしそそっかしいし、間違いじゃないとは思うけども。
「そういうわけで、あいつの克服とお前のスキルアップを同時にやっちゃおうと思ったんだよ。部長には無理言ったけど、なんとか丸め込んだし、満川さんもサポートしてくれるし、もちろん、俺も気にかけるし……それで、ここまで聞いて山藤はどうかな。無理にとは言わないけど、このまま指導役、頑張ってみる?」
「それは……」
 少し、考える。でも、迷うことはない。
「できます。頑張ります」
「よっしゃ! 山藤ならそう言ってくれると思ってた! ありがとう」
 主任は安心したように肩を落として、息を吐き出した。そして、元気よく立ち上がる。
「いやぁ、スッキリしたぁ。やっぱ黙っておくのはダメだねぇ。心が痛い」
「主任、隠しごと苦手ですもんね」
「そうなんだよ、ほんと黙っとくの無理。しんどい。誰かに言わないと無理」
 自覚があるようで。
 相田主任は超がつくほど優しく、甘い。隠しごとは出来ないし、人の感情に敏感だし、純粋な子供みたいに他人のためを思って感情をむき出しにする。
 主任は羽崎さんが放っておけないんだ。大学の後輩なら尚さら。いや、それ以上のような。
 二人の隠しごとは、なんとか分かった。私もひとまずはスッキリ……と思ったけど、もう一つ分かってないことがあった。
「よーし、そんじゃ俺は経理に行ってこよっかなー」
 機嫌よく椅子をデスクにくっつける主任。その背中に思わず声を投げる。
「あの、相田主任」
「ん?」
 キョトンとした童顔が振り向く。その子供っぽい顔に「羽崎さんの好きな人って誰か分かりますか」なんて聞けず、口を開けたまま「あー」とごまかす。
 そして、言葉がうまく作れないまま、口は勝手に話した。
「おとといは、誰と飲みに行ってたんですか?」
 それについては羽崎さんに訊きたいことであって、主任じゃないのに。
 言葉を間違えたと焦っていると、主任は「あれ? 言ってなかったっけ?」ととぼけた調子で言う。
「羽崎だよ。ここずっと忙しくて、あいつが入社するまで時間作れなかったから、久しぶりに飲みに行ったんだよね」
「え? そうなんですか? だって、友達って言ってましたよね」
 思わぬ真実にびっくりする。勢い余って言えば、主任は照れくさそうに笑った。
「そりゃ、だって、友達だからな。そういうときは上司部下、先輩後輩関係なく」
 そうして「えへへ」と無邪気に笑う。同時に、私は深い溜息を吐き出す。
 まったくもう、紛らわしい。


 ***


「――ん? 待って、その話、もう一度詳しく」
 主任と話した内容を、私は翌朝の給湯室で花島さんに教えた。もちろん、羽崎さんについてのことは主任からOKをもらった(そもそも、花島さんから聞いたことだと言えば、すんなり「教えてやって」と言われた)し、他部署には内密にという約束をした上でだ。
 花島さんは赤いマグカップに注いだ砂糖たっぷりのコーヒーをズルズル音を立てて飲む。そして、一息ついて考えるように言った。
「えぇっと……それって、つまり、羽崎さんの好きな人って、主任の彼女とか?」
「あ、なるほど。その線もあったね」
 まったく気が付かなかった。て言うか、この話をしてまず行き着くものがそこって、花島さんの目の付け所が私とまったく違う。
「いや、でも待った。羽崎さんが女性恐怖症的なあれなら、彼女じゃないのか」
「あぁ、そっか。そうなるよね」
 まぁ、どこまで苦手なのかは分からないけども。
 花島さん曰く、羽崎さんは確かに女性が苦手らしい。レストラン研修のときに、出海さんの講習中に何度も席を立ったというし、言われてみればいろいろと思い当たるフシがある。
 花島さんと目を合わせなかったり、でも杉野くんとは仲が良かったり。歓迎会のときに主任と一緒にいたことも、社内の情報を集めていたのも。
 それに、ふと口走っていたことも。「経理は女性ばかり」だとか「女性に嫌われてもいい」とか。気にしなければ気づかないけど、当てはめればまぁ納得できるもので。
 彼はやはり警戒していたんだろう。
 それじゃあ、あのバーでの夜はなんだったのか。いや、花島さんに電話を教えていたし、それはどういうことなんだろう。克服のため?
 花島さんも腑に落ちないのか、低く唸っていた。
「結局……好きな人って何だろ?」
、じゃなくてか、だよね。ほんとに」
 やっぱり謎だ……。
 二人で首を傾げて唸る。それでもよく分からない。まぁ、本人に聞いてないから分かりようがないんだけども。
「ねぇ、山藤さんってさ、」
 おもむろに花島さんが言う。
「羽崎さんのことが好きなの?」
「へ? なんで、いやいや、なんでそんな」
「だって、普通、他人のことをそこまで知りたがる?」
 つぶらな瞳が不思議そうに私を見上げる。その目に捕まって、私はゆっくりと逸らす。
 普通、他人のことをそこまで知りたがるのか。それは何故か。考えてなかったけど、なんでだろう。
「自分の気持ちに鈍感なタイプっすか」
「いや、そういうわけじゃない……むしろ単純で分かりやすい、はず……」
 私も確かめながら言う。いや、どうなんだろう。自分のことって、案外分かっていなかったりするかもしれない。
 どうして羽崎さんのことが気になるのか、これに名前をつけるとしたらなんなのか。
「お、」
「お?」
「親心……? みたいな?」
「そっちかー」
 花島さんは呆れたように鼻で笑った。
「それを言ったら主任もか……あたしはそこまで羽崎さんあのひとに肩入れするのがよく分かんないなー」
「肩入れっていうか、まぁ、放っておけない感じ?」
「山藤さんもだいぶん放っておけないけど」
 さらっと言われる。
 新人にそんなことを言われちゃおしまいだわ……私、本当に先輩が向いてない。
 やめてよ、朝からへこませないでほしい。


 ***


 羽崎さんは、「普通」だった。
 簡単に言えばそんな感じで、細かく言えば、女子が苦手だなんて微塵も感じさせないくらいに自然だった。
 主任は重々しく言ってたけど、本当はそこまで深刻な話じゃないのではと、とても疑わしい。
「あの、山藤さん……」
「はい」
「なんか、今日はすごく見てきますね。どうしたんですか。俺、寝癖、ついてます?」
 二人でバスを待っている間、私の目は無意識に彼を見ていたらしい。
「いえ、寝癖っていうか、髪の毛ふわふわだし、ついてても分かんない」
「ですよね」
 じゃあどうしてそんなに見るの、って眉をひそめている。
 次第に彼は、ふいっと私から目を逸らして、やり場なくバスが来る方向を向いた。
「羽崎さん」
「はい?」
 呼べばちゃんと振り向いてくれる。
「えーっと……」
「どうしました?」
 目が合わないなんてことはない。主任の言葉は正しいんだろう。でも、彼に確かめたわけじゃないし……思い切って聞いてみようか。いや、でも、オフレコって言われたし……うーん。
「山藤さん、今日はなんかいつも以上に変ですね。何かしましたか、俺」
「え? いやー、なんかしたって言うか、なんもないって言うか……」
「顔に出てますよ。聞きたいことがある、みたいな。ずっと見てくるし」
 その言葉は少しだけ素っ気ない。
「聞きたいこと……は、」
 ある。もちろん。たくさんあって、どれを言っていいのか分からない。
 そして、どうしてこんなに気にしてるのかも分からない。
「……あの、羽崎さん」
 聞いてしまえばスッキリする。
 思い切って口を開くと、彼は私から目を逸らした。
「あ、バス来ましたよ」
「……はい」
 タイミングが悪すぎる。



 今日は朝から打ち合わせで、商店街に行く予定。羽崎さんも今日は新人研修もないし、私の仕事について回る。
 商店街の後は、広告代理店に寄って、営業回り。あとは、私が担当しているケーキ屋さんのチラシをポスティング。そこまでが午前の予定。
「あーもう。あの担当、本当に嫌な言い方しかしないんだから」
 商店街のイベントで使うポスターについて、少しだけ揉めた。振興会のメンバーが変わって、向こうの広報担当も新しい人になっていて。
 そんな中での今日は二回目の打ち合わせ。広報部から上がってきたポスターの色校正を持っていくと、担当が急な色変えを要求してきた。でも、ポスターの打ち合わせ段階では決定事項だったし、前回の担当の意向もあるし、今更だし。
 そして、明らかに意地の悪い言い方をされたから、私の気は立っていた。
「でも、きっぱり言い切りましたよねー」
 横から羽崎さんがフォローするように言う。
「そりゃあね、イラッとしたってのもあったけど、予定と違うこと言われたら困るし、振興会全体に迷惑かかるし、それに基本は私に一任してくれないとダメだし、向こうの都合でいちいちワガママは聞いてられないから」
「普通なら怖気づいて言うとおりにしちゃいそうですよね。流されちゃダメ、か」
「そう! 流されたら終わり。お客さんの話を聞きつつ、でもこっちでしっかりコントロールするのがマネジャーだから」
 気が立っているからか、妙に饒舌な私の口。それを羽崎さんはにこやかに聞いてくれる。
 なんか、気が抜けちゃうな……。
「……まぁ、これは、相田主任と満川さんの受け売りなんだけどね」
「いいじゃないですか。ちゃんと先輩の言うこと聞いて仕事できてるんだし。俺は、前の会社じゃ本当にダメで、営業向いてないなぁって落ち込みまくってました」
「本当に? そんな風には見えないけど」
 人当たりいいし、真面目だし、優しいし。
「自信がないんですよね、自分に。それに気が弱くて。特に、女性相手だと……」
 突然、羽崎さんの言葉が途切れる。私は怪訝に見上げた。
 しまった、と失敗の顔をしているのが見えた。
「……苦手、なの?」
 思わず訊いてみる。その声は、自分のものなのに固く強張っていた。
 一方、羽崎さんはちらりとこちらを見て、ゆっくりと苦笑する。
「得意じゃないですねー」
 曖昧な言い方で濁された。
 本当に苦手なんだろう。何があったのかは分からないけど、何かがあったんだろうなってことくらいは鈍い私でも分かる。それは、多分、トラウマ的な。
「そうですか……それじゃあ、」
 花島さんのことが好きって言ってたのは、嘘ですよね。
 なんて言えないな。なんでそんなことを言いかけてしまったんだろう。気が立ってるからかな。
「『それじゃあ、』なんですか?」
 この微妙な空気の中、言いかけた言葉が拾われる。
 生ぬるい四月の風が私と彼の間に吹くようで、居心地が悪くなっていく。
「なんでも、ない、です」
 目のやり場に困るので、私は持っていた紙袋の中にあるチラシを見つめた。


 ***


「――はい、それじゃあ相田にも伝えておきますね。失礼いたしますー」
 広告代理店への挨拶を終えたから、次はケーキ屋さん。近いから歩いていける。
 羽崎さんは大人しく、落ち着いた様子で私と一緒に挨拶をしていた。営業が苦手って言う割には、自然に振る舞っているから呆気にとられてしまう。私が入社した当時なんか、朗らかに笑ったりできないし、名刺の出し方もままならなかったのに。
 だから、代理店の担当に笑われる始末だった。
「山藤さんが初めて挨拶に来たときとはえらく違いますねー、あははは」
 なんだろう、この差は。気が重くてしょうがない。
「次は、ポスティングですね。昼までに戻れますかね」
 ジャケットのポケットからスマホを出す羽崎さんが言う。私も腕時計を見た。
 現在、十一時すぎ。今から周辺ビルやマンションにチラシ配りをしたら……お昼休みがなくなるかも。
「打ち合わせ、長引いちゃったせいだなぁ」
 最初に行った商店街で時間を食ってしまったのが原因だろう。後輩の昼休み確保もままならないとは。
 あれだけ偉そうに言っておきながら情けない。
 そんな私の溜息に、羽崎さんは気遣うように言った。
「昼休み、どこか行きません? チラシ配ってちょっと休憩しませんか」
 さり気なくリードされてるし。
「ですね。羽崎さんが良ければでいいんですけど」
 嫌なら無理しなくていいんだから。
「はい、全然、大丈夫ですけど?」
 こちらの心配もよそに、羽崎さんはあっけらかんと返した。



 お昼。ビル街の中にあるレストランカフェで昼食をとることになった。
 羽崎さんはやっぱり、「普通」だ。
 いや、そもそも何が普通なのかなんかもう分からないけど。「普通」がゲシュタルト崩壊しそうで、大好きなミートスパゲティも味がよく分からない。
 羽崎さんはクリームパスタを美味しそうに食べる。そして、メニューを見ながら「デザート、頼みますか」なんて言っている。
「え、デザート、食べるの?」
「だって美味しそうだし。ほら、イチゴのパフェとか」
 そう言って写真を見せてくる。まぁ、フードビジネスの仕事をするなら、食に関心を持つことはいい心がけだ。
 でも、この様子は仕事の一環ではないし、確実に「ただ食べたいだけ」だろう。スイーツが大好きなのね。それだけでも話が合いそうなのに、何故か私はブレーキをかけている。
「それにほら、疲れたときは糖分がいいって。イライラもおさまると思いますよ」
「え……」
「怒ってますよね、ずっと。機嫌が悪そうだなぁって思ってました」
 探るように見てくる目につかまる。
 そういう風に見えてたのか、私。不機嫌だったんだ、ずっと。
 そりゃ、打ち合わせで苛立ってはいたけど、その後は普通にしていた、はず……じゃなかったのね。
 私はフォークを置いて、水を飲んだ。一気に全部。
「はぁ……すみません、羽崎さん。みっともないとこを見せて」
「いえいえ。やっぱり、そういうときもありますからね。それに、」
 一息の間。
 迷うような空気に変わる。
「それに?」
 ゆっくり促すと彼は口の端を伸ばす。そして、メニューを置いて目を逸らした。
「それに、何か、俺に聞きたいことがありますよね、山藤さん」
 聞きたいこと……。
「さっきはつい、逃げてしまいました。自分から聞いといて」
 気まずそうに固い口調。
 彼の印象が今や、最初の頃とは180度変わっている。見えてなかったところが見えるようになってしまえば、なんとかしないとと使命感みたいなものが働いてしまう。多分、そういうものだろう。
 でも、
「そんな、無理はしなくていいの。無理して私に付き合わなくていいし、嫌なら嫌って言ってもらって全然いいし」
 ダメな言葉を吐いてしまった。
 言ってすぐに気がついた。
 これは言うべき言葉じゃない。まったく優しくない。
 彼は面食らったように目を瞬かせ、苦笑した。落胆の顔つきに変わっていく。
、話聞いてるんですね」
 その声はなんだか自嘲するようで、優しげな羽崎さんには似合わない色だった。
「で、どこまで聞いたんですか」
 静かな声は、明るげな店内と打って変わって、暗い。
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