7 / 18
第7話 なずみ色にフェードアウト
しおりを挟む
「どこまで……って」
言葉が詰まる。
どこまで、とは。
そして、私はどこまで言うべきなのか。
「あぁ、すみません、困らせたいわけじゃなくて」
暗がりを払拭するように彼は慌てて言う。笑う。
それが空気に馴染んでいくと、私の顔は自然と持ち上がった。
「えーっと、その、主任を責めないでほしいんですけど……羽崎さんは女性が苦手だって聞きました。それだけです」
すみません、相田主任。私も隠しごとは向いてません。
素直に白状すれば、彼は安心したように頬を緩めた。「あぁ、なんだ」と、拍子抜けのような言葉を出しながら。
「無理はしてませんよ。山藤さんが心配するほどじゃないんで……でもまぁ、そんなこと言われたらやっぱり嫌ですよね。気にさせてしまうのは心苦しいな」
なんとも返せない。
彼はきっと、気にしてほしくない。それは相田主任も言っていたことだから、理屈は解ってる。でも、どこかで心にブレーキをかけてしまうから、私は無意識に気にしている。遠慮しているから、あんな言葉が出てしまった。
「だって、ほら、苦手って言っときながら、山藤さんをこうして食事に誘ったりしてるし、普通に話してるし、それは嫌じゃないから。全然、好きでやってることなんで」
必死に弁明する彼。その慌てぶりと心配そうな声が優しい。
そこまで言われたら、気落ちしている場合じゃないよね。
肩を落として、息を吐いて、私はメニューを取った。
「羽崎さん、甘いもの食べよ。私、チョコサンデーにするから、イチゴパフェ頼んでいいですよ」
デザートのページを開いて見せる。すると、彼は身を乗り出してそのページを覗き込む。
不安が消えたように、私たちの間に壁はなくなった。
***
それからは特に何事もなく、ゆったりと忙しくなってきた。
五月の大型連休に合わせて、各方面でイベントがある。私が担当しているお店も周年記念や、定期的なサービスやセールなんかが目白押しで、一件ずつ把握しておかなくちゃいけない。
そんな中、私と羽崎さんは自然だった。
「打ち合わせ行くよー」と声をかければ、彼はすぐについてきてくれる。まぁ、三ヶ月はつきっきりじゃないといけないけど、羽崎さんならもう二ヶ月待たずに一人営業をさせても良さそうな。
いや、でも、営業苦手って言ってたなぁ……ハンデはあっても、そこまで謙遜しなくていいのに。
「羽崎さん」
商店街への打ち合わせへ行く途中、私は思い切って訊いてみた。
「営業、そろそろ一人で行ってみる?」
「え」
言った瞬間、彼が笑顔のまま固まった。
「あー……うーん……えー……っと」
段々と顔が下がっていく。そして、うなじを掻きながら苦笑した。
「そんなにダメ? 嘘でしょ」
「いやぁ、だって、挨拶するのと仕事を取るのとは違うから……それが下手で」
「それでよく企画部に入ろうと思ったね」
営業ができないなんて、そんなの仕事にならないじゃないの。
小さな不満をあらわにしてみると、彼は困り顔を見せた。
「山藤さんみたいに、こう、図太く踏み込んでいけたらいいんですけど」
「それ、褒めてないでしょ」
「褒めてますよ、すごく。尊敬してます」
「嘘っぽいなぁ……」
軽口がたたけるなら大丈夫だと思うんだけど。でも、まぁ、もう少し慣れてからがいいのかなぁ。
主任に相談してみよう。
「うーん。羽崎さんって、どうして企画部に入ったんですか? パソコンに詳しいしエンジニア方面、それこそ広報部か食品開発部か、そっちに配属でも良かったんじゃ」
素朴な疑問を投げてみた。
彼は基本的に答えてくれるから安心して話せる。それに、主任から「慣れさせろ」というお達しもあったので、極力話しかけるようにしている。
羽崎さんは「攻めた質問ですねー」とさも楽観に言った。
「広報も開発も特殊業務だから興味はありますけどね。でも、机に向かって仕事するのが性に合わなくて。俺、こう見えて体育会系なんですよ」
「え? そうなの? 知らなかったー」
「はい、バスケ部だったんです。そのせいかな、階段を見たら駆け上がりたくなるし、ボールだったらなんでもドリブルしちゃうし、バスケ部あるあるですね」
「全然分かんない……そういうものなの?」
「抜けないんですよねぇ、高校までやってたから」
「へぇぇ。そういうものなのね。私は運動やってこなかったし、部活も頑張ってなかったから尊敬しちゃう。すごいなぁ」
それに、部活の花形っていうか。男子の部活ってかっこいいし、楽しそうにコートやグラウンドを走る姿に惚れたこともあったなぁ……と、サッカー部だった高校時代の元彼を思い出した。
告白したらあっさりOKもらえて、舞い上がって浮かれた時間は長いようで意外と短かった。一年、持ったんだっけ。彼の浮気で別れたけども。
「部活と言えば、相田主任もサッカーしてたって言ってたなぁ」
私の中の禁句であるサッカー部所属という理由で、相田主任のイメージが変わったのは入社してすぐのこと。サッカー部は女の子にだらしない。そんな勝手な偏見で。
「あー、そうだった。渚さん、サッカー部だったって。大学でもサークルでサッカーしてたり、家にサッカーボールがあったり、ワールドカップのときはうるさいくらいにメールがくるんですよ」
うんざりといった様子で羽崎さんが言う。
「メール? なんで?」
「実況みたいな。長文で」
「うわ、めんどくさ!」
「でしょー? あれ、時間問わずにやってくるから、仕事してるのか休んでるのか、ちゃんと寝てるのか心配になる」
「心配になるの? うざくない、それ。毎回そんなことされたら堪んないって。やめるように言ったほうがいいよ」
「ですね。まぁ、それが楽しかったりするんですけど」
そんな雑談をしていれば、バスが到着する。乗り込むと、一人席が一つだけ空いていたから、羽崎さんが椅子を勧めてきた。
私たちの関係は極めて良好。あれ以来、特に問題が起きていない。
ただ、私は結局、彼に訊きたいことが訊けずにいたし、それをすっかり忘れてしまっていた。
***
お昼は、久しぶりに聖を誘ってカフェでの食事だった。
「進展なし、と。あーあ、脈なしだったかぁ」
ベーグルを悔しそうに噛む聖。私は「え、何が?」とすっとぼける。
すかさず、額を思い切り弾かれた。
「いったっ! え、なんで!」
「なんでじゃないよ。まったく、もう。つまんないじゃん」
そんなこと言われてもね……。
「普通はさ、ここから始まるんじゃないの。急接近して、毎回イベントが発生する感じで。そういうのがまったくなさすぎて萎えるわー」
さばさばしてる割には随分と乙女チックなことを言う。私は呆れて笑った。
「ドラマの見すぎよ、それ」
「はぁー? 昔の南帆ならすぐに惚れてたくせに。やっと就職決まった途端、ナギ主任のこと好きになりかけてたじゃん」
「やめてやめて。もう、あれは忘れたいのに!」
あぁもう、すぐ私の弱点を突いてくる。容赦ない。
あれは、仕事が決まらなくてやさぐれていた時期のこと。私は面接官だった相田主任に拾われた。
厳しくも優しくて、仕事熱心で、頼れる上司。確かに惚れた。ころっと落ちてしまった。
その後に……女子社員へのだらしなさが垣間見れて、冷めた。呆気なく。でも、熱を上げずに冷静になれたところ、私は学生のときよりも大人になれていたのかもしれない。
「そりゃあねぇ、私ももうすぐ二十五歳になりますし? いつまでも子どもじゃないのよ」
ふふん、とドヤ顔をキメる。
すると聖はウザそうに顔を歪めた。大きな溜息が吐き出される。
「あのね、南帆。恋愛は大人にならなくていいんだよ」
不思議なことをさらっと言う。
え、どういう意味だろう。
「大人でいる必要はないってこと。基本は感情のぶつけ合いだからね。ぶつからなくなったら終わり。それはもう、相手に興味がないってことで、一緒にいる必要はないからさ」
「あー……なるほど……」
それは分かるかも。
大学三年のときに付き合った人は、最初こそなりゆきだったし、ほとんどノリで付き合い始めた。楽しい時間はあっという間で、これもまた意外と短い。
彼が私に興味をなくしたのは私が就活で失敗してからで、連絡がこなくなったし、それからこっぴどくふられた……うわ、嫌な思い出。
「南帆はもう、恋愛したくないの?」
聖が言う。その問いは少しだけ寂しそう。
「……したくない、わけじゃないよ。私だって、人並みに恋愛して、彼氏つくって、結婚して。普通に自然にそうなっていけたらなーって思うけど」
改めて言うと気恥ずかしさがある。こういうの、家でお酒飲みながらしたいなぁ。仕事の合間のランチ時にしたくない。
照れ笑いをしていると、聖は「ふうん」と素っ気なく唸った。
「普通にかぁ。今のままじゃ、その普通がままならなさそうだよねぇ。と言っても、あたしもだけど」
「え? 彼氏とうまくいってないの?」
口ぶりが怪しくて、思わず前のめりに訊く。
しかし、聖は否定的に手をぶんぶん振った。
「いやいや、絶好調だよ、おかげさまで。ただ、彼氏に結婚願望がなくて」
「それは……どうなの」
「うーん、子どもなんだろうねぇ、その辺の考えが。いや、恋愛は大人にならなくていいとは思うけどさ、もう付き合って五年だよ。楽しい時期はすでに越えたんだからさ、あとは将来じゃん。別に子どもが欲しいとかはないけど、結婚してないといろいろ困ることもあるし」
「はぁ、なるほど……」
社会人になってからは仕事しか考えてなかった。普通がままならない、か。本当にその通りだなぁ。
いつか、余裕ができたら私もそういうことを考え始めていくんだろうか。いや、その「いつか」がいつ来るのかがまったく見えない。
やばいな、私、このままじゃまずい。
「私、ずっとこのままだったらどうしよう……」
「ようやく危機感を持ったね、南帆」
「うん、現状がよく分かった……まずい、めちゃくちゃまずい」
思わず頭を抱えた。その時、背後からおずおずとした声がかけられる。
「お口に合いませんでした?」
店員の女の子がポットを持って心配そうに見ていた。途端、私たちは慌てる。
「いえいえ、そういうんじゃないので、大丈夫です!」
聖が言うと、女の子は安心したように離れていく。
まぁ、聖はともかく、私個人は全然大丈夫じゃないけども。
***
部署に帰ると、疲れた顔でぼーっとしている滝田部長と、椅子を回転させてたそがれる花島さんがいた。羽崎さんはまだ昼食をとっているようで、ここにはいない。
主任と満川さんはここずっと外に出かけっぱなしで、顔を合わせることが減った。
「ねぇ、花島さん」
「はい?」
回るままで返事をされる。私はその回転を力づくで止めた。
「花島さんって、彼氏いるんだっけ」
「え、なに、急に」
脈絡のない言葉で申し訳ないけど、私だって深刻だから。
花島さんは警戒心を張り巡らせ、私から逃げようとする。それをがっしり捕まえる。
「やだやだ、そんな話したくない!」
「聞いて! お願いだから、聞いて! チョコあげるから!」
「いらないー! やだ、部長、助けてっ!」
「うるさいから外でやれー」
取り付く島もない部長。その慈悲のなさに、花島さんは威嚇する猫みたいに鼻息を荒げた。
「なんすか、突然。話が見えなすぎ!」
「私、ようやく気がついたんだよ、崖っぷちってことに! お願いだから聞いて、聞くだけでいいから!」
「面倒くささの極みっすね! クソめんどいニオイしかない!」
あまりの悪態にびっくりするけど、そんなことには構っていられない。
私は彼女を椅子に座らせ、私も自分の椅子を引き寄せた。
「彼氏、いるよね」
「だから、なんでそんな話を」
嫌がる彼女の肩をがっしり掴む。すると、私のただならぬ気を悟ったらしく、口をつぐんだ。ごくりと喉が動く。
私も少し、息を整えた。
「あのね、私、このままじゃまずいって気がついたんだよ。彼氏いないし」
「はぁ……」
「だから、花島さんのところはどうなんだろうって参考に聞きたいだけでね」
「えぇ……」
お願いだから、ドン引きの顔をしないでほしい。
真剣に見ていると、それまで眉と口を曲げていた花島さんは、段々と真顔に戻った。
「要するに、彼氏が欲しいってこと?」
「や、そんな、飢えてるとかじゃなくてね。なんか、将来のこととか考えてるのかなぁって」
「はぁ……」
気のない返事をして、しばらく考える。
そして口をもごもごさせながら、彼女はウサギのような目を恥ずかしそうに伏せた。
「別に、まだ何も考えてませんけど……てか、彼氏、まだ学生だし。年下なんで、今んところは、全然」
「……そうなんだ」
そうか、まぁ、そうよね……だって、まだ二十代前半だし、私もそうだったもん。
「ちょっと、聞いといてガッカリするとかありえないんすけど!」
こちらの落ち込みようにすかさず抗議する。そんな彼女をなだめるべく、私は自分のデスクからお菓子の袋を出した。コンビニ限定のシリアルチョコ。それを開けて目の前でちらつかせば、彼女は黙り込んで手を伸ばした。
「完全に餌付けですね、それ」
背後から羽崎さんの呆れた声がする。ランチから戻ったのか、自分のデスクについてこちらを見ていた。
「盛り上がってましたけど、なんの話をしてたんですか?」
「あ、えーっと……」
何故か口ごもる私。
しかし、花島さんはさらっと口が軽かった。
「彼氏の話」
あれだけ嫌がってたくせに、矛先が変わればどうってことないようだ。
羽崎さんは「あぁ」と納得の声を出しながら目を逸らす。一方、花島さんはお菓子をぶんどってモゴモゴと言った。
「なんかー、山藤さん、やばいらしいっすよー。彼氏欲しいって」
「ちょっと、花島さん!」
「さっきのお返し!」
それにしては手痛いお返しだ。
あぁ、もう、恥ずかしい……こういうのは女の子同士のほうが気楽でいいのに。
「ちなみに、羽崎さんはー?」
物怖じしない花島さん。それには驚いて息を飲む。
彼もまた目を瞬かせている。
「え、俺?」
「うん。これからも彼女とかいらないの?」
それはごくごく自然で、まったく地雷なんてものを気にしない口ぶりで。そういう振る舞いがいいのかどうか、判断が難しい私は黙って見守るしかない。
羽崎さんは、体ごとこちらから逸らしてしまい、それでも答えを探そうと唸る。
「まったく、考えてないかな……」
じっくり考えたにしては、出てきたのは想定内のものだった。
「そっすかー。まぁ、そういう路線もありっちゃありっすよねー」
軽く返す花島さん。そして、何故か私を見る。
「山藤さん、残念」
「なんでそうなるの!」
これも仕返しか。それにしては私への罰が重すぎる。
羽崎さんを見ると……あぁ、ほら、めちゃくちゃ困ってる。全然笑えてない。
それでも、花島さんの攻めはとどまることがなく。一体、なんのスイッチが入ったのかと疑わしいほどに、彼女は饒舌だった。
「主任は彼女いますよねー。羽崎さん、なんか聞いてます? 結局、誰なのか教えてくんないから気になるなぁ」
「いや……聞いてないね。別に聞きたくもないし、話したことないなぁ」
「そっかー、つまんないの」
「ごめんね」
「いーえ」
花島さんは、それきりもう言葉を投げることはなかった。羽崎さんもパソコンの画面に目を向けてしまったし、取り残された私だけが気まずい。
「山藤さん。このお菓子、また食べたい」
「近くのコンビニに売ってるよ、それ」
まったく。呆れるやら、気が抜けるやら。
とにかく、この空気に耐えきれない私は、花島さんの椅子をクルンと回転させた。
***
「お疲れ様っしたー」
定時になり、花島さんが帰り支度をする。
「おー、お疲れさーん」
主任が声をかけるその横を通り過ぎ、私は花島さんの肩を掴んだ。そして、そのまま廊下に出て給湯室へ拉致。
彼女も察しがよく、黙ってついてきた。
「あのね、ちょっと言いたいことが」
「昼のことっすか」
「そう。ええっと、あんまりこんなこと言いたくないんだけど……」
「羽崎さんに言い過ぎってこと?」
見透かされてるかのように、さらりと言われる。私は「そう」と声を低くさせた。
「ああいう言い方は良くないよ」
「ふうん……でも、だからって大事に優しく扱うのもどうかと思いますよ。だって、腫れ物みたいじゃないっすか、それ」
「………」
思わず言葉に詰まった。情けないことに、何も言えない。
「羽崎さんだって、そういうの嫌でしょ。あたしは嫌だな」
「う、うーん……」
釘を刺すつもりが、逆に追い詰められてしまう。
花島さんは溜息を吐いて、不機嫌に眉を寄せた。壁にもたれて項垂れる。
「あたしだって、悪意で言ってない。でも、あれは山藤さんに肩入れするつもりで言ったから、もしかするとあの人、嫌だったかもなぁって。今は思ってます」
そっか……悪意がないならいいのかな。まぁ、でも、不仲になられては困る。
それに、私のために言ったというのは想定外だった。
「そ、そうなの?」
「うん。だって、山藤さん、羽崎さんのこと好きでしょ」
「そりゃ好きだけど、別にああいう意味じゃなくて」
「でも、どうも脈がなさそうなんで、早めに諦めたほうがいいっすよ」
話が勝手に進んでいく。
その、諦めたほうがいいとか、そういうのは別にどうでもいい……けど、どういう意味だろう。
「羽崎さん、本当に女子に興味ないんだと思う。だって多分、あの人、主任のことが好き」
「へ?」
聞き間違いだろうか。いや、しっかり聞いた。
「しゅにん?」
「イエス。主任」
聞き間違いじゃなかった。花島さんは涼しい顔で頷いているけど、私は目を瞬かせたり首を小刻みに左右振ったりと忙しない。
「どういう意味?」
「山藤さん、気づいてないんすか。あたし、ずっと引っかかってたんすけど」
あいにく、私は名探偵じゃないのでいちいち他人の言葉に引っかかりは覚えない。覚えたとしてもすぐに忘れてしまう。
でも、花島さんはそうじゃないらしく、ずっと真剣に考えていたらしい。
「だって、バーで誰かにふられたって言ってたんでしょ? 飲み会は主任とだったし、さらに女性恐怖症、ここまで出揃ってる。で、確信したのは昼間のあれ。あの人、なんて言いました? 主任に彼女がいることを聞きたくもないって」
「えー……っと。ちょっと、一旦落ち着こう、ね、落ち着こう!」
さすがにキャパオーバー。畳み掛けられても処理ができない。
「山藤さんが落ち着こう」
逆になんでそっちは落ち着き払ってるのさ。
いや、えぇ? だって、えーっと、うーん……えぇ?
ダメだ。思考まで落ち着いてない。
「ちなみに、これ、主任は……」
「知らないでしょーね」
「ですね……」
そこで少し安心した自分がいる。正直に。そして、落ち込む。よく分からないけど、落胆している。
私の心情とは裏腹に、花島さんはやっぱり冷静で、大きく頷いて確信ありげに眉毛をキリッと立たせた。
「いやあ、あれはマジっすよ。ありよりのあり」
「ありよりのあり……」
羽崎さんは相田主任が好きなの、か……いや、なによそれ。真剣に考えれば考えるほど自身の思考が滑稽に思えてくる。いやいや、でも本気ならバカになんてできない。
好き、とはどの程度のことだろう。
花島さんは「そりゃ、真剣にだと思いますよー」と真顔で言ってる。真顔なのが怖い。
言われてみればそうだな、って頷ける部分がありすぎるのも怖い。好きな人がいることこそ嘘なのか。いや、あの切ない表情が演技だったら人間不信になる。
あの夜に彼が明かした「相手」というのは誰?
「主任……?」
相田主任は、男だ。これは天地がひっくり返っても変わることはない事実。
いや、よく思い出せ。彼が一度だって主任に対してあからさまな態度を取ることがあったか。ない。見てない。て言うか、彼は私が指導しているんだから主任と関わることが基本的にない。
「あぁもう! ダメ! 無理! ぜんっぜん分かんない!」
「うわぁ、やばい、山藤さんを壊しちゃった……」
ようやく事の重大さに気がついたのか、花島さんは引きつった表情で給湯室から逃げた。
それを追いかける気力もなく、私はどうしたらいいのか分からない。
て言うか、そんなの花島さんが言ってるだけで、本当のことじゃないし。何を動揺してるんだろう。女子の単なる噂話だ。あぁ、でもそういう噂自体が悪質だもんね……気にしないでおこう。
だって、私にはそんなことどうだっていいし、私には関係ない……
「山藤さん」
給湯室を出た直後、鋭い声が私の背中に刺さる。
「あ、お、お疲れ、さま、です……羽崎さん」
驚いて思わず声が裏返った。それがかえって怪しさを生んだかもしれない。
彼は色を失ったかのように白い顔で、冷ややかな目を向けていた。険しくも無情な空気を肌で感じる。
「ちょっと、いいですか」
静かな声は低い。いつもはワントーン高いのに、どこまでも深く低い音に私の肩はふるりと寒気を覚えた。
彼はもう帰る支度をしていて、部署に戻ると「お先です」と素っ気なく退勤カードを押す。私は廊下で待っていて、そこから気まずい沈黙のまま外に出る。
苛立たしげに出口に足を向け、ポケットに手を突っ込んで歩く後ろ姿をついて行きながら、私は焦りでいっぱいだった。
これは絶対に聞いていた。それは彼のあからさまな態度が語っている。
薄葵の空の端っこはオレンジかピンクか灰色か、曖昧な色が塗られていて何色か分からない。そんな空の下で、彼は探るように目を細めて私を見た。そこにはいつもの彼はおらず、敵意と疑心が私を責め立てる。
「……どういうつもりですか」
「え?」
「花島さんと、なんか、コソコソ話してましたよね」
かぶせてくる声には焦りが見えた。苛立ちと焦りと、そして戸惑いが全部混ざっていて彼の表情にはいつもの余裕さはない。
私は喉を絞った。風に負けないよう、声を調整する。
「や、あの、あれは、深い意味はなくて。お昼の延長ってだけで……あぁ、もう」
最悪だ、私。最低なことをしている。
誰だって、触れられたくない境界はあるものだ。
羽崎さんは、私から数メートル離れたまま。壁がつくられていくように思えて、怖い。
「ごめんなさい。やめさせるべきでした」
頭を下げる。そのまま持ち上がらなくて、もうこのままでいいやと思う。顔なんか見られなくて、どうしたらいいか分からない。
すると、上から溜息が落ちてきた。
「……いや、まぁ、ぜんぶ俺が悪いから。その辺はいいです。もう」
やがて彼は言葉を吐き出した。段々と冷静さを取り戻したのか、それまでトゲがあった声音が柔らかくなっていく。
でも、どこか投げやりで、私は未だに頭が上げられない。
「もういいですって。本当のことですから、全部」
「え?」
恐る恐る顔を上げる。すると、彼は眉間にシワを寄せて笑った。
悲しい笑い方だった。
「花島さんが言ってたこと、当たりですよ。あーあ、全部バレたなぁ……ほんと、最悪」
言葉が詰まる。
どこまで、とは。
そして、私はどこまで言うべきなのか。
「あぁ、すみません、困らせたいわけじゃなくて」
暗がりを払拭するように彼は慌てて言う。笑う。
それが空気に馴染んでいくと、私の顔は自然と持ち上がった。
「えーっと、その、主任を責めないでほしいんですけど……羽崎さんは女性が苦手だって聞きました。それだけです」
すみません、相田主任。私も隠しごとは向いてません。
素直に白状すれば、彼は安心したように頬を緩めた。「あぁ、なんだ」と、拍子抜けのような言葉を出しながら。
「無理はしてませんよ。山藤さんが心配するほどじゃないんで……でもまぁ、そんなこと言われたらやっぱり嫌ですよね。気にさせてしまうのは心苦しいな」
なんとも返せない。
彼はきっと、気にしてほしくない。それは相田主任も言っていたことだから、理屈は解ってる。でも、どこかで心にブレーキをかけてしまうから、私は無意識に気にしている。遠慮しているから、あんな言葉が出てしまった。
「だって、ほら、苦手って言っときながら、山藤さんをこうして食事に誘ったりしてるし、普通に話してるし、それは嫌じゃないから。全然、好きでやってることなんで」
必死に弁明する彼。その慌てぶりと心配そうな声が優しい。
そこまで言われたら、気落ちしている場合じゃないよね。
肩を落として、息を吐いて、私はメニューを取った。
「羽崎さん、甘いもの食べよ。私、チョコサンデーにするから、イチゴパフェ頼んでいいですよ」
デザートのページを開いて見せる。すると、彼は身を乗り出してそのページを覗き込む。
不安が消えたように、私たちの間に壁はなくなった。
***
それからは特に何事もなく、ゆったりと忙しくなってきた。
五月の大型連休に合わせて、各方面でイベントがある。私が担当しているお店も周年記念や、定期的なサービスやセールなんかが目白押しで、一件ずつ把握しておかなくちゃいけない。
そんな中、私と羽崎さんは自然だった。
「打ち合わせ行くよー」と声をかければ、彼はすぐについてきてくれる。まぁ、三ヶ月はつきっきりじゃないといけないけど、羽崎さんならもう二ヶ月待たずに一人営業をさせても良さそうな。
いや、でも、営業苦手って言ってたなぁ……ハンデはあっても、そこまで謙遜しなくていいのに。
「羽崎さん」
商店街への打ち合わせへ行く途中、私は思い切って訊いてみた。
「営業、そろそろ一人で行ってみる?」
「え」
言った瞬間、彼が笑顔のまま固まった。
「あー……うーん……えー……っと」
段々と顔が下がっていく。そして、うなじを掻きながら苦笑した。
「そんなにダメ? 嘘でしょ」
「いやぁ、だって、挨拶するのと仕事を取るのとは違うから……それが下手で」
「それでよく企画部に入ろうと思ったね」
営業ができないなんて、そんなの仕事にならないじゃないの。
小さな不満をあらわにしてみると、彼は困り顔を見せた。
「山藤さんみたいに、こう、図太く踏み込んでいけたらいいんですけど」
「それ、褒めてないでしょ」
「褒めてますよ、すごく。尊敬してます」
「嘘っぽいなぁ……」
軽口がたたけるなら大丈夫だと思うんだけど。でも、まぁ、もう少し慣れてからがいいのかなぁ。
主任に相談してみよう。
「うーん。羽崎さんって、どうして企画部に入ったんですか? パソコンに詳しいしエンジニア方面、それこそ広報部か食品開発部か、そっちに配属でも良かったんじゃ」
素朴な疑問を投げてみた。
彼は基本的に答えてくれるから安心して話せる。それに、主任から「慣れさせろ」というお達しもあったので、極力話しかけるようにしている。
羽崎さんは「攻めた質問ですねー」とさも楽観に言った。
「広報も開発も特殊業務だから興味はありますけどね。でも、机に向かって仕事するのが性に合わなくて。俺、こう見えて体育会系なんですよ」
「え? そうなの? 知らなかったー」
「はい、バスケ部だったんです。そのせいかな、階段を見たら駆け上がりたくなるし、ボールだったらなんでもドリブルしちゃうし、バスケ部あるあるですね」
「全然分かんない……そういうものなの?」
「抜けないんですよねぇ、高校までやってたから」
「へぇぇ。そういうものなのね。私は運動やってこなかったし、部活も頑張ってなかったから尊敬しちゃう。すごいなぁ」
それに、部活の花形っていうか。男子の部活ってかっこいいし、楽しそうにコートやグラウンドを走る姿に惚れたこともあったなぁ……と、サッカー部だった高校時代の元彼を思い出した。
告白したらあっさりOKもらえて、舞い上がって浮かれた時間は長いようで意外と短かった。一年、持ったんだっけ。彼の浮気で別れたけども。
「部活と言えば、相田主任もサッカーしてたって言ってたなぁ」
私の中の禁句であるサッカー部所属という理由で、相田主任のイメージが変わったのは入社してすぐのこと。サッカー部は女の子にだらしない。そんな勝手な偏見で。
「あー、そうだった。渚さん、サッカー部だったって。大学でもサークルでサッカーしてたり、家にサッカーボールがあったり、ワールドカップのときはうるさいくらいにメールがくるんですよ」
うんざりといった様子で羽崎さんが言う。
「メール? なんで?」
「実況みたいな。長文で」
「うわ、めんどくさ!」
「でしょー? あれ、時間問わずにやってくるから、仕事してるのか休んでるのか、ちゃんと寝てるのか心配になる」
「心配になるの? うざくない、それ。毎回そんなことされたら堪んないって。やめるように言ったほうがいいよ」
「ですね。まぁ、それが楽しかったりするんですけど」
そんな雑談をしていれば、バスが到着する。乗り込むと、一人席が一つだけ空いていたから、羽崎さんが椅子を勧めてきた。
私たちの関係は極めて良好。あれ以来、特に問題が起きていない。
ただ、私は結局、彼に訊きたいことが訊けずにいたし、それをすっかり忘れてしまっていた。
***
お昼は、久しぶりに聖を誘ってカフェでの食事だった。
「進展なし、と。あーあ、脈なしだったかぁ」
ベーグルを悔しそうに噛む聖。私は「え、何が?」とすっとぼける。
すかさず、額を思い切り弾かれた。
「いったっ! え、なんで!」
「なんでじゃないよ。まったく、もう。つまんないじゃん」
そんなこと言われてもね……。
「普通はさ、ここから始まるんじゃないの。急接近して、毎回イベントが発生する感じで。そういうのがまったくなさすぎて萎えるわー」
さばさばしてる割には随分と乙女チックなことを言う。私は呆れて笑った。
「ドラマの見すぎよ、それ」
「はぁー? 昔の南帆ならすぐに惚れてたくせに。やっと就職決まった途端、ナギ主任のこと好きになりかけてたじゃん」
「やめてやめて。もう、あれは忘れたいのに!」
あぁもう、すぐ私の弱点を突いてくる。容赦ない。
あれは、仕事が決まらなくてやさぐれていた時期のこと。私は面接官だった相田主任に拾われた。
厳しくも優しくて、仕事熱心で、頼れる上司。確かに惚れた。ころっと落ちてしまった。
その後に……女子社員へのだらしなさが垣間見れて、冷めた。呆気なく。でも、熱を上げずに冷静になれたところ、私は学生のときよりも大人になれていたのかもしれない。
「そりゃあねぇ、私ももうすぐ二十五歳になりますし? いつまでも子どもじゃないのよ」
ふふん、とドヤ顔をキメる。
すると聖はウザそうに顔を歪めた。大きな溜息が吐き出される。
「あのね、南帆。恋愛は大人にならなくていいんだよ」
不思議なことをさらっと言う。
え、どういう意味だろう。
「大人でいる必要はないってこと。基本は感情のぶつけ合いだからね。ぶつからなくなったら終わり。それはもう、相手に興味がないってことで、一緒にいる必要はないからさ」
「あー……なるほど……」
それは分かるかも。
大学三年のときに付き合った人は、最初こそなりゆきだったし、ほとんどノリで付き合い始めた。楽しい時間はあっという間で、これもまた意外と短い。
彼が私に興味をなくしたのは私が就活で失敗してからで、連絡がこなくなったし、それからこっぴどくふられた……うわ、嫌な思い出。
「南帆はもう、恋愛したくないの?」
聖が言う。その問いは少しだけ寂しそう。
「……したくない、わけじゃないよ。私だって、人並みに恋愛して、彼氏つくって、結婚して。普通に自然にそうなっていけたらなーって思うけど」
改めて言うと気恥ずかしさがある。こういうの、家でお酒飲みながらしたいなぁ。仕事の合間のランチ時にしたくない。
照れ笑いをしていると、聖は「ふうん」と素っ気なく唸った。
「普通にかぁ。今のままじゃ、その普通がままならなさそうだよねぇ。と言っても、あたしもだけど」
「え? 彼氏とうまくいってないの?」
口ぶりが怪しくて、思わず前のめりに訊く。
しかし、聖は否定的に手をぶんぶん振った。
「いやいや、絶好調だよ、おかげさまで。ただ、彼氏に結婚願望がなくて」
「それは……どうなの」
「うーん、子どもなんだろうねぇ、その辺の考えが。いや、恋愛は大人にならなくていいとは思うけどさ、もう付き合って五年だよ。楽しい時期はすでに越えたんだからさ、あとは将来じゃん。別に子どもが欲しいとかはないけど、結婚してないといろいろ困ることもあるし」
「はぁ、なるほど……」
社会人になってからは仕事しか考えてなかった。普通がままならない、か。本当にその通りだなぁ。
いつか、余裕ができたら私もそういうことを考え始めていくんだろうか。いや、その「いつか」がいつ来るのかがまったく見えない。
やばいな、私、このままじゃまずい。
「私、ずっとこのままだったらどうしよう……」
「ようやく危機感を持ったね、南帆」
「うん、現状がよく分かった……まずい、めちゃくちゃまずい」
思わず頭を抱えた。その時、背後からおずおずとした声がかけられる。
「お口に合いませんでした?」
店員の女の子がポットを持って心配そうに見ていた。途端、私たちは慌てる。
「いえいえ、そういうんじゃないので、大丈夫です!」
聖が言うと、女の子は安心したように離れていく。
まぁ、聖はともかく、私個人は全然大丈夫じゃないけども。
***
部署に帰ると、疲れた顔でぼーっとしている滝田部長と、椅子を回転させてたそがれる花島さんがいた。羽崎さんはまだ昼食をとっているようで、ここにはいない。
主任と満川さんはここずっと外に出かけっぱなしで、顔を合わせることが減った。
「ねぇ、花島さん」
「はい?」
回るままで返事をされる。私はその回転を力づくで止めた。
「花島さんって、彼氏いるんだっけ」
「え、なに、急に」
脈絡のない言葉で申し訳ないけど、私だって深刻だから。
花島さんは警戒心を張り巡らせ、私から逃げようとする。それをがっしり捕まえる。
「やだやだ、そんな話したくない!」
「聞いて! お願いだから、聞いて! チョコあげるから!」
「いらないー! やだ、部長、助けてっ!」
「うるさいから外でやれー」
取り付く島もない部長。その慈悲のなさに、花島さんは威嚇する猫みたいに鼻息を荒げた。
「なんすか、突然。話が見えなすぎ!」
「私、ようやく気がついたんだよ、崖っぷちってことに! お願いだから聞いて、聞くだけでいいから!」
「面倒くささの極みっすね! クソめんどいニオイしかない!」
あまりの悪態にびっくりするけど、そんなことには構っていられない。
私は彼女を椅子に座らせ、私も自分の椅子を引き寄せた。
「彼氏、いるよね」
「だから、なんでそんな話を」
嫌がる彼女の肩をがっしり掴む。すると、私のただならぬ気を悟ったらしく、口をつぐんだ。ごくりと喉が動く。
私も少し、息を整えた。
「あのね、私、このままじゃまずいって気がついたんだよ。彼氏いないし」
「はぁ……」
「だから、花島さんのところはどうなんだろうって参考に聞きたいだけでね」
「えぇ……」
お願いだから、ドン引きの顔をしないでほしい。
真剣に見ていると、それまで眉と口を曲げていた花島さんは、段々と真顔に戻った。
「要するに、彼氏が欲しいってこと?」
「や、そんな、飢えてるとかじゃなくてね。なんか、将来のこととか考えてるのかなぁって」
「はぁ……」
気のない返事をして、しばらく考える。
そして口をもごもごさせながら、彼女はウサギのような目を恥ずかしそうに伏せた。
「別に、まだ何も考えてませんけど……てか、彼氏、まだ学生だし。年下なんで、今んところは、全然」
「……そうなんだ」
そうか、まぁ、そうよね……だって、まだ二十代前半だし、私もそうだったもん。
「ちょっと、聞いといてガッカリするとかありえないんすけど!」
こちらの落ち込みようにすかさず抗議する。そんな彼女をなだめるべく、私は自分のデスクからお菓子の袋を出した。コンビニ限定のシリアルチョコ。それを開けて目の前でちらつかせば、彼女は黙り込んで手を伸ばした。
「完全に餌付けですね、それ」
背後から羽崎さんの呆れた声がする。ランチから戻ったのか、自分のデスクについてこちらを見ていた。
「盛り上がってましたけど、なんの話をしてたんですか?」
「あ、えーっと……」
何故か口ごもる私。
しかし、花島さんはさらっと口が軽かった。
「彼氏の話」
あれだけ嫌がってたくせに、矛先が変わればどうってことないようだ。
羽崎さんは「あぁ」と納得の声を出しながら目を逸らす。一方、花島さんはお菓子をぶんどってモゴモゴと言った。
「なんかー、山藤さん、やばいらしいっすよー。彼氏欲しいって」
「ちょっと、花島さん!」
「さっきのお返し!」
それにしては手痛いお返しだ。
あぁ、もう、恥ずかしい……こういうのは女の子同士のほうが気楽でいいのに。
「ちなみに、羽崎さんはー?」
物怖じしない花島さん。それには驚いて息を飲む。
彼もまた目を瞬かせている。
「え、俺?」
「うん。これからも彼女とかいらないの?」
それはごくごく自然で、まったく地雷なんてものを気にしない口ぶりで。そういう振る舞いがいいのかどうか、判断が難しい私は黙って見守るしかない。
羽崎さんは、体ごとこちらから逸らしてしまい、それでも答えを探そうと唸る。
「まったく、考えてないかな……」
じっくり考えたにしては、出てきたのは想定内のものだった。
「そっすかー。まぁ、そういう路線もありっちゃありっすよねー」
軽く返す花島さん。そして、何故か私を見る。
「山藤さん、残念」
「なんでそうなるの!」
これも仕返しか。それにしては私への罰が重すぎる。
羽崎さんを見ると……あぁ、ほら、めちゃくちゃ困ってる。全然笑えてない。
それでも、花島さんの攻めはとどまることがなく。一体、なんのスイッチが入ったのかと疑わしいほどに、彼女は饒舌だった。
「主任は彼女いますよねー。羽崎さん、なんか聞いてます? 結局、誰なのか教えてくんないから気になるなぁ」
「いや……聞いてないね。別に聞きたくもないし、話したことないなぁ」
「そっかー、つまんないの」
「ごめんね」
「いーえ」
花島さんは、それきりもう言葉を投げることはなかった。羽崎さんもパソコンの画面に目を向けてしまったし、取り残された私だけが気まずい。
「山藤さん。このお菓子、また食べたい」
「近くのコンビニに売ってるよ、それ」
まったく。呆れるやら、気が抜けるやら。
とにかく、この空気に耐えきれない私は、花島さんの椅子をクルンと回転させた。
***
「お疲れ様っしたー」
定時になり、花島さんが帰り支度をする。
「おー、お疲れさーん」
主任が声をかけるその横を通り過ぎ、私は花島さんの肩を掴んだ。そして、そのまま廊下に出て給湯室へ拉致。
彼女も察しがよく、黙ってついてきた。
「あのね、ちょっと言いたいことが」
「昼のことっすか」
「そう。ええっと、あんまりこんなこと言いたくないんだけど……」
「羽崎さんに言い過ぎってこと?」
見透かされてるかのように、さらりと言われる。私は「そう」と声を低くさせた。
「ああいう言い方は良くないよ」
「ふうん……でも、だからって大事に優しく扱うのもどうかと思いますよ。だって、腫れ物みたいじゃないっすか、それ」
「………」
思わず言葉に詰まった。情けないことに、何も言えない。
「羽崎さんだって、そういうの嫌でしょ。あたしは嫌だな」
「う、うーん……」
釘を刺すつもりが、逆に追い詰められてしまう。
花島さんは溜息を吐いて、不機嫌に眉を寄せた。壁にもたれて項垂れる。
「あたしだって、悪意で言ってない。でも、あれは山藤さんに肩入れするつもりで言ったから、もしかするとあの人、嫌だったかもなぁって。今は思ってます」
そっか……悪意がないならいいのかな。まぁ、でも、不仲になられては困る。
それに、私のために言ったというのは想定外だった。
「そ、そうなの?」
「うん。だって、山藤さん、羽崎さんのこと好きでしょ」
「そりゃ好きだけど、別にああいう意味じゃなくて」
「でも、どうも脈がなさそうなんで、早めに諦めたほうがいいっすよ」
話が勝手に進んでいく。
その、諦めたほうがいいとか、そういうのは別にどうでもいい……けど、どういう意味だろう。
「羽崎さん、本当に女子に興味ないんだと思う。だって多分、あの人、主任のことが好き」
「へ?」
聞き間違いだろうか。いや、しっかり聞いた。
「しゅにん?」
「イエス。主任」
聞き間違いじゃなかった。花島さんは涼しい顔で頷いているけど、私は目を瞬かせたり首を小刻みに左右振ったりと忙しない。
「どういう意味?」
「山藤さん、気づいてないんすか。あたし、ずっと引っかかってたんすけど」
あいにく、私は名探偵じゃないのでいちいち他人の言葉に引っかかりは覚えない。覚えたとしてもすぐに忘れてしまう。
でも、花島さんはそうじゃないらしく、ずっと真剣に考えていたらしい。
「だって、バーで誰かにふられたって言ってたんでしょ? 飲み会は主任とだったし、さらに女性恐怖症、ここまで出揃ってる。で、確信したのは昼間のあれ。あの人、なんて言いました? 主任に彼女がいることを聞きたくもないって」
「えー……っと。ちょっと、一旦落ち着こう、ね、落ち着こう!」
さすがにキャパオーバー。畳み掛けられても処理ができない。
「山藤さんが落ち着こう」
逆になんでそっちは落ち着き払ってるのさ。
いや、えぇ? だって、えーっと、うーん……えぇ?
ダメだ。思考まで落ち着いてない。
「ちなみに、これ、主任は……」
「知らないでしょーね」
「ですね……」
そこで少し安心した自分がいる。正直に。そして、落ち込む。よく分からないけど、落胆している。
私の心情とは裏腹に、花島さんはやっぱり冷静で、大きく頷いて確信ありげに眉毛をキリッと立たせた。
「いやあ、あれはマジっすよ。ありよりのあり」
「ありよりのあり……」
羽崎さんは相田主任が好きなの、か……いや、なによそれ。真剣に考えれば考えるほど自身の思考が滑稽に思えてくる。いやいや、でも本気ならバカになんてできない。
好き、とはどの程度のことだろう。
花島さんは「そりゃ、真剣にだと思いますよー」と真顔で言ってる。真顔なのが怖い。
言われてみればそうだな、って頷ける部分がありすぎるのも怖い。好きな人がいることこそ嘘なのか。いや、あの切ない表情が演技だったら人間不信になる。
あの夜に彼が明かした「相手」というのは誰?
「主任……?」
相田主任は、男だ。これは天地がひっくり返っても変わることはない事実。
いや、よく思い出せ。彼が一度だって主任に対してあからさまな態度を取ることがあったか。ない。見てない。て言うか、彼は私が指導しているんだから主任と関わることが基本的にない。
「あぁもう! ダメ! 無理! ぜんっぜん分かんない!」
「うわぁ、やばい、山藤さんを壊しちゃった……」
ようやく事の重大さに気がついたのか、花島さんは引きつった表情で給湯室から逃げた。
それを追いかける気力もなく、私はどうしたらいいのか分からない。
て言うか、そんなの花島さんが言ってるだけで、本当のことじゃないし。何を動揺してるんだろう。女子の単なる噂話だ。あぁ、でもそういう噂自体が悪質だもんね……気にしないでおこう。
だって、私にはそんなことどうだっていいし、私には関係ない……
「山藤さん」
給湯室を出た直後、鋭い声が私の背中に刺さる。
「あ、お、お疲れ、さま、です……羽崎さん」
驚いて思わず声が裏返った。それがかえって怪しさを生んだかもしれない。
彼は色を失ったかのように白い顔で、冷ややかな目を向けていた。険しくも無情な空気を肌で感じる。
「ちょっと、いいですか」
静かな声は低い。いつもはワントーン高いのに、どこまでも深く低い音に私の肩はふるりと寒気を覚えた。
彼はもう帰る支度をしていて、部署に戻ると「お先です」と素っ気なく退勤カードを押す。私は廊下で待っていて、そこから気まずい沈黙のまま外に出る。
苛立たしげに出口に足を向け、ポケットに手を突っ込んで歩く後ろ姿をついて行きながら、私は焦りでいっぱいだった。
これは絶対に聞いていた。それは彼のあからさまな態度が語っている。
薄葵の空の端っこはオレンジかピンクか灰色か、曖昧な色が塗られていて何色か分からない。そんな空の下で、彼は探るように目を細めて私を見た。そこにはいつもの彼はおらず、敵意と疑心が私を責め立てる。
「……どういうつもりですか」
「え?」
「花島さんと、なんか、コソコソ話してましたよね」
かぶせてくる声には焦りが見えた。苛立ちと焦りと、そして戸惑いが全部混ざっていて彼の表情にはいつもの余裕さはない。
私は喉を絞った。風に負けないよう、声を調整する。
「や、あの、あれは、深い意味はなくて。お昼の延長ってだけで……あぁ、もう」
最悪だ、私。最低なことをしている。
誰だって、触れられたくない境界はあるものだ。
羽崎さんは、私から数メートル離れたまま。壁がつくられていくように思えて、怖い。
「ごめんなさい。やめさせるべきでした」
頭を下げる。そのまま持ち上がらなくて、もうこのままでいいやと思う。顔なんか見られなくて、どうしたらいいか分からない。
すると、上から溜息が落ちてきた。
「……いや、まぁ、ぜんぶ俺が悪いから。その辺はいいです。もう」
やがて彼は言葉を吐き出した。段々と冷静さを取り戻したのか、それまでトゲがあった声音が柔らかくなっていく。
でも、どこか投げやりで、私は未だに頭が上げられない。
「もういいですって。本当のことですから、全部」
「え?」
恐る恐る顔を上げる。すると、彼は眉間にシワを寄せて笑った。
悲しい笑い方だった。
「花島さんが言ってたこと、当たりですよ。あーあ、全部バレたなぁ……ほんと、最悪」
0
あなたにおすすめの小説
課長と私のほのぼの婚
藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。
舘林陽一35歳。
仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。
ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。
※他サイトにも投稿。
※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる