アンビバレンス

小谷杏子

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第8話 自覚症状は突然に

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 吐かれた言葉には、不愉快そうな色と微小な安心がある。小さくて脆い声だった。
 黙る私に、彼も何も言わない。ゆっくりと体を起こして改めて見上げてみれば、彼は逃げるように目を泳がせた。
「……あれこれ変に話が伝わるのが嫌なんで、先に白状しておきますね」
 無理やり笑って言う姿はかえって痛々しい。目のやり場に困って俯けば、彼の手が見えた。震えている。それからも逸らしたくなった。
「あー、どうしよう。思ったより全然、言葉が出ないな……えーっと、つまり、本当のことです。だから、これ以上、余計な詮索をしないでほしいんです。そして、誰にも言わないでください。これは、部長にも満川さんにも、渚さん……相田主任にも言ってないから……迷惑は、かけないようにするから」
 そして「花島さんには自分から言います」と、付け加えて言う。
 私はひたすらに頷いた。
「分かった。うん。分かりました――」
 答えるものの、気まずい沈黙が再び。
「……あの、山藤さん?」
 一歩、こちらに近づいてくる。すると、私の足は勝手に一歩下がった。
「……不快、ですよね」
 そんな諦めの声に、私はすぐに首を横に振る。
「ちがう。違うの。そうじゃなくって、あの、いろいろと混乱しちゃって」
「すみません」
「謝ることじゃないでしょ!」
 思わず大きな声が出てしまう。ダメだ。感情の調整ができない。
 羽崎さんは「そうですね」と投げやりに返してくる。その態度は、不安定な私の感情を大きく揺さぶった。
 もうこの話題に触れたくない、なんて、身勝手に考えている。でも、それは羽崎さんもだろう。言いたくないし、聞きたくない。
 だからか、口は話題とは違うことを話してしまう。
「じゃあ」
 思ったより声が大きく出た。
「じゃあ、あの夜に言ってたことは全部、嘘ってことよね?」
 どうして、今、それを言ったんだろう。だって、そんなの、彼の言葉を聞いていたら分かることじゃない。
 羽崎さんはしばらく考えてから「そう、ですね」とぎこちなく返した。
「嘘ってことになりますね……あの時は酔ってたとは言え、本当に失礼なことをしました」
「別に謝ってほしいってわけじゃない。違うの。そうじゃなくって……そんなことを言いたいわけじゃなくて……」
 あのままうまく騙されていれば良かったのに。裏切られたんだと、一方的な悲しみで気分が悪くなる。
 まったく、信じられる保証なんてどこにもないのに、出会って日も浅い人に何を期待しているんだろう。
「はっきり言っていいんですよ。濁されたら、それこそ今後、どうしたらいいか分からないから」
「はっきりって……でも……」
 何を言えばいいの? 頭は真っ白で、でも変なところ冷静で、どうしたら彼が傷つかないかを考えている。
 その思考を、彼は読んでくれない。
「あの時は、山藤さんのことを疑ってたんです。俺のほうがよっぽど怪しいのに、自分を棚に上げて」
「そんなこと……」
 ないのに。
 どうしたらいいんだろう。
 距離感が分からない。どう縮めていけばいいのか。複雑に絡み合った糸のように、解くことも困難だと思い知った。
「あー……うん。あの、ね、私は気にしないから。大丈夫、大丈夫。約束もするし、ね、大丈夫だから」
 顔が笑ってしまう。へらりと、軽薄に。
 すると、やっぱり彼の目を曇らせた。
 あぁ、今はもう何を言ってもダメだ。一瞬だけ見えた軽蔑的な感情が見えてしまい、もう言葉が出ない。
「……すみません、俺、もう帰りますね。今日は、もう……お疲れ様でした」
 くるりと踵を返して、迷いもなく早足でその場から離れていく。
 段々と彼の背中が人の中へ紛れ込めば、どこに消えてしまったのか分からない。私は呆然と立ち尽くすしかなく、何も考えられない。なんて言ったらいいのかなんて、分かるわけがない。
 そして、全身に重く激しくのしかかる落胆に気がついて、それなのに、心は穴が空いたように感じてしまう。いつの間にか目尻は湿っていて、鼻のてっぺんがつんと痛い。
「――山藤?」
 背後から声がした。
 振り向くと、相田主任が自動販売機の前にいる。私を不思議そうに見て、そして、驚きに目を開く。
「え? 何、どうした? 大丈夫か、山藤」
「だい、じょうぶ、ですけど」
「いやいやいや、大丈夫なわけないだろ。なんで泣いてんの。何かあったの?」
 すぐに駆けつける主任が優しい。
 鼻をすすって、曇った空を見上げて、息を吸ったら気持ちは少しだけ落ち着いた。それでも、こんな顔を見られたくなくて主任からは背けておく。
「……羽崎か?」
「え?」
「いや、だって、帰りが一緒だったからさ、羽崎と。あいつ絡みかなーって」
 察しの良さに怯んでしまう。ごまかせず、口元だけ笑った。
 すると、主任は眉を寄せて表情を強張らせた。あまり見たことがないその表情に、ドキリと心臓が跳ね上がる。
「あー……そうかぁ……」
 含みのある声。それから鼻だけで息を飛ばして、主任は手の中にある小銭を転がした。
「山藤。お前、ちょっと待てる?」
「え、なんでですか」
「一緒に帰ろ。おごってやるから、飯行こう」
 突然の誘いに、開いた口が塞がらない。
 どうしよう。いいのかな。でも、断ったら怪しいし。
 そして、私は羽崎さんの秘密を絶対に明かしてはいけない。
「……わ、分かりました」
「ん。じゃあ、すぐ終わらしてくるから。ここで待つ? 上行く?」
「一階のカフェで待ってます」
「よし」
 私の肩を軽く叩いて、主任は一緒にカフェに入ってくれた。そして、持っていた小銭を渡して「コーヒーでも飲んで待ってて」と笑う。
「すぐ戻るから」
 そう念押しすると、彼はエレベーターまで走って行った。


 ***


 相田主任が戻ってきたのは、それから三十分後くらいだった。
 今の時期、すごく忙しいのに無理をさせてしまったな。
 スーツのジャケットも着ずに、社員証も首に引っ掛けたままでカフェに飛び込んでくる主任を見れば罪悪感がのしかかる。
「ごめん、遅くなって」
「いえ。すみません、わざわざ……」
「気にすんなって。こういうの、満川さんは苦手だしね。だから俺の役目」
 うわ、ダメだ、また泣きそう。
「じゃあ、どこ行こっか。近くの、いつもの居酒屋でもいい?」
「はい」
 顔を伏せて、主任の目が逸れたところで、急いで目尻を拭う。
 頭はもう冷えたし、ただただ悲しいっていう漠然とした気持ちだけが残っている。



 いつもの居酒屋、というのは企画部での打ち上げや飲み会で使うお店で、焼き鳥が美味しい「ふくふく亭」だった。
 予約もなしに入ったからカウンター席しかなくて、私と主任は並んで座る。風景はまったく違うのに、いつぞやのバーを思い出した。
「山藤、何飲む? ビール?」
「えーっと……」
 お酒が入ると余計なことを喋りそう。
 見せられたメニューを裏返したり、悩むふりをした。
「うーん……」
「遠慮すんなよ。らしくねーな」
「じゃあ、カシオレで」
「はぁ? 何かわいこぶってんだよ。いつもビールからだろ」
「……じゃ、ビールで」
「よし!」
 こういう扱いの方が気まずくなくていいな。
 本当、主任には敵わない。
 ビールとおつまみと、それから豆腐サラダや焼き鳥なんかを選んでいく。その間にビールが到着したら、主任は嬉しそうにジョッキを取った。
「はーい、じゃあ、お疲れさまぁ」
「お疲れ様です」
 主任のようには上がらないテンションのまま、ビールを一口。でも足りない。いっぱい含んで、ごくんと飲む。
「あー……もう、疲れたぁ」
 息を吐き出すと同時に言えば、主任が笑った。
「よしよし。疲れたよなぁ。山藤、毎日頑張ってるしなぁ」
「よく言いますよ、見てないくせに」
「見てなくても分かるって。後輩二人の世話、すごく頑張ってるから悩むんだろ。部長からも聞いてるし、二人と仲良くやってるって満川さんも言ってたし、安心してたんだけどね」
「……すみません」
「謝ることないだろー、いいから飲めよ」
 なんとなく居たたまれない。私が出す言葉一つ一つが浅はかなものに思えて嫌になる。
 そんな気持ちをビールと混ぜて飲み込んでおく。
 トマトスライスがテーブルに運ばれて、主任が先に箸でつついた。私もぼちぼち箸でつつきはじめて、それまでしばらくは特に話すこともない。
 忙しい厨房、にぎやかなお座敷。でも、私たちの回りだけは異空間のようで、ゆったりとした時間が流れている。
「……そんで? どうしたの」
 いつまでも喋らないから、主任が訊いてきた。
 ついに本題に入ってしまった。私はジョッキで口元を隠して考える。やばい、もう飲み終わりそう。
「羽崎となんかあったんだろうとは思ってるけど、あいつから嫌なこと言われた?」
「いえ、そういうんじゃなくて……私が、悪いんです」
「そうなの?」
「はい」
 でも、なんて言えばいいんだろう。
 彼とのやり取りを言うわけにはいかない。でも、聞いてほしい。これから、どうしたらいいか分からないから。
「私が、彼の嫌がることを、したんです。だから、怒られちゃって。幻滅されて。羽崎さんは、私のことも、もう嫌いになったかもしれないです」
 ダメだ、声が出なくなる。喉に詰まってしまう。
 幻滅されたと思う。いや、絶対そうだ。嫌われた。
 今までは、私のことだって苦手だっただろうに、嫌だったろうにそれでも別け隔てなくちゃんと見てくれていたし、やっぱり優しくて、私だけは……ある意味特別なんだと思っていた。でも、もうそれもなくなって、信用がゼロになってしまったはず。
 もう歯止めが利かない。ジョッキを置いて顔を覆う。鼻をすすれば、主任の慌てふためく声が聞こえた。
「泣くなよぉ、もう、ほら、俺が泣かしてるみたいじゃん」
「だってぇ……私、もう自信なくなりました。やっぱり無理だったんですよ」
 荷が重すぎる。投げ出してしまえば楽になれる。
 悔しさと情けなさを吐き出した。
「まぁまぁ。何をしたのかは知らんけど、あいつも気難しいヤツだもんな。時にはぶつかるさ。あんまり気にしなくていいんだよ、そんなの。辛くなるだけだから」
 主任が言う。言葉は楽観だけど、声のトーンは真剣だった。
「あいつ、怒ると面倒くさいんだよねー。いちいち細かいし。山藤にはどうかは分かんないけど、俺には小言ばっかでさ。誰が世話してやったと思ってんだって言いたくなるよねー」
 トマトを口に放り込みながら、だんだんと羽崎さんの愚痴話へ昇華していく。
「食い物に関しては無関心でさぁ。あいつ、放っておくとお菓子ばっか食うから、よく飯つれて行ったり、作ったりしたよ。おかげでそっち方面の仕事ができて結果オーライなんだけど。でも、苦労したんだよ。好き嫌いも多いしねー、本当に苦労した」
「羽崎さんが? 全然そんなイメージないんですけど」
「いやいや、あいつ、猫かぶってるだけだよ。ああ見えて中身は小学生だから。わがままだし、生活力ないし、付き合いは悪いし、口も悪いし、人使い荒いし」
 羽崎さんの裏の顔がどんどん出てくる。キリがないくらいに。
 主任の前ではそんな風に振る舞っているということに驚きを隠せない。
「で、それを怒るじゃん? そしたら、あいつが決まって言うのが『渚さんだってだらしないし、大雑把だし、すぐ怒るし、お人好しすぎる』って。まぁ、欠点の量で言えば俺の方が少ないからいいけど」
「どっちもどっちですよ……」
 そして、主任の欠点も的を射ている。
「まぁ、弟みたいな感じかなぁ、壱夜いちやって。あぁ、普段呼びが出た。そんなヤツなんだよ、羽崎壱夜ってのは。だから気にしなくていいんだよ」
「はぁ……」
 いや、でも、それならなおさら気になるって。
 だって、本当の自分を見せられるくらいに主任のことを信頼してるってことで、この二人の関係につけ入る隙がなさすぎて、かえって落ち込む。
 あぁ、でも、羽崎さんは一つだけ主任に秘密にしていることがあるのか。
 ここまで信頼しあってても、絶対に知られたくないんだろう。やっぱり荷が重い……。
「あの、羽崎さんってどうしてうちの会社に入ったんですか? これ、聞いていいのか分かんないんですけど、あの人、契約社員だって聞きました」
 主任を絶対に避けたいはずなのに、どうしてうちの会社に、しかも同じ部署に配属なんて。
 好きな人のそばにいたい気持ちは分かるけど。
 うーん、どういうつもりかってこっちが聞きたいわ。
 すると、主任は大げさに落胆する口調で言った。
「あー、契約のこと聞いちゃったのかぁ。もしかして、それが原因?」
「いやっ……あ、えーっと、まぁ……そんな感じです」
 正直者の口が憎たらしい。下手な笑い方でごまかした。
 主任は怪しむことなく、ビールを飲んで「うーん」と唸る。
「壱夜が仕事に行き詰まっててね。前の会社でも契約で入ってて、で、ちょうど期限が切れるから、そしたら味彩うちにくるー? って俺が誘ったんだよねぇ」
 なんてことはない。入社の理由は相田主任の一声だった。そりゃ、誘いに乗るよね……。
 私は思わず指を組んで、額を押し付けた。
「酔った勢いの軽い冗談だったんだけど、まさか本当に履歴書送ってくるとは思わなくて。届いたそれを見た時はびっくりしたよね……あいつ、真に受けちゃって」
「いや、冗談に聞こえないですって、それは」
 仕事ができるなら行くに決まってるじゃない。それも好きな人に誘われちゃ、断る理由はない。
 事情をなんにも知らない相田主任は「そうかなぁ」と笑ってる。
 まったくもう、笑ってる場合じゃないよ。
「でも、結局は契約で入ったんだよな。と言うのも、まぁ……ハンデがあるからさ。途中で投げ出さないようにというのが大きな理由だろうね。期限を決めてしまえば、何がなんでもそれまで絶対に辞めないんだって。荒療治だよ、そんなの。また体壊したらどうすんだって」
 ジョッキのビールがなくなる。トン、とテーブルに置くと、主任の顔は仄かに赤くなっていた。
「でも、そういうルールを決めないと、仕事もできなかったんだろうなぁって思うとね。俺も口出しはできないから」
 そう言うと、私が口を開く前に「すいませーん」と、店員を呼んだ。
「山藤は、何飲む? カシオレ?」
 冷やかせる余裕があるらしい。まだ主任の酔いは回ってなさそう。いつの間にか引っ込んだ涙のことも忘れて、私は迷いなく言った。
「ビール! あと、たこわさも追加で」
 だんだん気は晴れてきた。それに、いつまでも主任に泣き顔を見せたくないし。無駄に強がっていたかった。
 オーダーを聞いた店員がいなくなるのを待ってから、私は少しだけ思い切って訊いてみる。
「……あの、どうして羽崎さんはその、女性が苦手になったんですか?」
「それ訊いちゃう? ダメだよ、さすがに言えない」
 すぐさま返ってくる。まぁ、ダメ元ではあったけども。
「そうですか……」
「うん。ごめんね、それだけはいくら口軽い俺でも言えないな」
 口が軽いっていう自覚はあるのね。
「失敗は誰にだってあるよ。完璧なヤツなんていないんだし、それは俺も、壱夜も、山藤も。俺もさぁ、いろんな失敗してきたよ」
 言っているうちに、ビールとたこわさとサラダと焼き鳥が並ぶ。それをちょこちょこつまみながら、主任がぽつぽつ話す。
「それこそ学生のときはさ、女の子と遊びまくって単位落としたりね。バイトとサークルにしか出ないから怒られもしたし、人間関係でも失敗したよ。大学の二年だったかな? 友達を見殺しにしちゃったことがあって」
「え?」
 急に出てきた物騒な言葉に、私の箸が止まる。主任は笑っているけど声に力がない。次第に溜息までが出てきた。
「そう、二年だった。友達がね、ある女の子に入れ込んで、捨てられて、それなのに俺は馬鹿なこと言って、面倒くさくなって無視するようになって、そしたらそいつ、いなくなったんだよねぇ。いつの間にか学校辞めちゃってて」
「………」
「そいつの気持ちを何も考えなかったんだよ。それまで適当につるんで、遊んで、気が合うよなー俺らって都合よく言って……だから、俺は逃げたのかもしれない。悩んでるのに、助けなかった。それで、謝れないままずっと後悔してる」
 いつもはおちゃらけているのに、そんなことを弱々しく言うものだから、私は顔を俯けるしかできなかった。
 主任は多分、酔いが回りはじめている。口調は軽いのに、こんな重たい話をするなんて今までにないから、私まで怖気づいている。
「まー、その後にね、壱夜が入学してきて。同じアパートで、あいつが俺ん家の下で。かわいくない後輩だったよー。愛想なくて、遊びに行こうって誘っても絶対来ないの。でも、挨拶だけはちゃんとしてくれるし、分からないことがあったら聞きにきてくれるから、それなりに可愛がってたんだけど……」
 少し、言葉を切る。肘をついて、手の甲に頭を押し付ける。項垂れるように。
「うーん……まぁ、それでね、壱夜も好きな子にこっぴどくふられて、落ち込んでて、それが友達と重なってて、俺は、絶対に助けなきゃダメだって思ったんだ」
 主任にもそんなことがあったなんて、思わなかった。
 いつでも明るくて、正義感が強くて、優しくて、頼りになる人だから、そこに行き着くまでの経緯なんて考えられるはずがない。そんな影があるなんて思いもしない。
「つまり、壱夜はまだいなくならないからさ、謝るチャンスはあるってこと! もっと悩んで仲良くしてやって。ね」
 突然に明るく言う。そして、主任は元の愛嬌たっぷりな笑顔で私の背中を叩いた。
 それでも、私はつれない態度でいる。曖昧に笑って首を傾げておいた。
「うーん……」
「嫌?」
「いやって言うか……」
 話を聞けて良かったけど、そういうことではないんだよね……。
「大丈夫だって。なんなら俺から言っとくよ? でもさ、俺の山藤がそんな無神経なこと言ったりしないし、あいつも分かってるって。そこまで子供じゃないだろ」
 何気ない言葉がぐさりと胸に刺さる。
 無神経なことをしている気がするというのは、今はもう考えたくないな……あぁ、気が重い。ビールで癒そう。
「はぁ……主任ってば、ほんと調子いいこと言いますよね。ってか、俺のってなんですか、俺のって」
「いいじゃん、俺の山藤。あ、いっそ俺と付き合う? 壱夜なんかやめて俺にしようよ」
「な! はぁ? もう、何言ってるんですか!」
 思わずドキッとしちゃうじゃない。でも軽々しすぎて、意識する余地がない。あー、もう。
「それになんで私が羽崎さんのこと……」
「あれ? 好きなんじゃないの?」
 キョトンと目を丸くする主任。いや、私も同じくらい目を丸くしている。
 首を傾げると、主任は眉をひそめて身を乗り出して近づいた。
「泣いちゃうくらい、あいつに嫌われたくないんでしょ」
「そ、れは……えーっと……目にごみが入ったからで」
 苦しい言い訳だ。
「なんだそれ、んなわけあるかよ」
「うっ……」
「そこまで感情移入できるってことは、好意的だってことだろ。お前、いつもは単純なくせにどうしたんだよ。いつからそんなに鈍くなった」
「………」
 もう言葉が出てこない。
 思えばそうだ。なんで気が付かなかったんだろう。いや、気づけるわけがない。
 彼のことで真剣に悩んで、悩んで、今も悩んでて、そして、壁が分厚くなっていくあの瞬間が堪らなく怖くて、どうしたらいいか分からなくて、ショックで……
 私は、彼のことが好き、なんだ。
 ようやく気がついてしまった。
 まさかこんな時に気づくなんて。しかも、あまりの鈍感さに笑ってしまう。
 影響を受けやすいし、惚れやすいから油断しないようにしていた。聖や花島さんから指摘されても、流されないように誘導されないようにと必死に。
 それはつまり、裏を返せば気持ちを抑えていたということで……うわぁ。
「うわぁ……そうかぁ、そうなのかぁ、私。うわぁ……」
「嘘だろ、お前」
 主任も呆れて笑っている。私も「あははー」と笑って、溜息をつく。
「いや、まさに嘘だろって感じですよ」
 こんなに自分の気持ちが分からないなんて。自分で自分に呆れてしまう。
 だって、きっかけはいつも単純だ。いつからそうなのか、なんて気にしている間もなく感情はつっ走るもので、後悔することもしばしば。
 だから、優しくされればころっと落ちてしまう、みたいな。
 あの時からすべては始まっていたのかもしれない。目の前ですっ転んだ私に手を差し伸べてくれる彼に、少なからず好意を抱くのは当然で、笑顔に騙されて、自分を騙していた。
 恋愛は大人にならなくていい、なんて。急に聖の言葉を思い出す。
 顔が熱い。あのバーでの夜みたいに、熱くて堪らない。ビールじゃ熱が冷めそうにもない。
「しかも主任にもバレてるのに、それくらい分かりやすいのに、うわぁ……」
「俺のおかげで気づけて良かったねぇ」
「むしろ気づかせないでほしかった……」
 こんなに恥ずかしくなるくらいなら、いっそ馬鹿なままが良かったのに。
 主任は「えぇ?」と不服そう。そんな彼の顔におしぼりを投げたくなる。
 いいや、話を逸らしてしまえ。
「て言うか、主任、彼女いますよね。私、知ってるんですからね」
「あれ? 山藤も知ってんの? マジかよ、誰だよ、そんな噂流したの!」
 慌ててるけど嬉しそうな主任。
 あぁ、花島さんの言ったとおりだ。これは、黒だ。
「出海さんとお付き合いされてるって聞きましたけどー? 本当なんですか?」
「本当ですよー、えへへ」
「なんで黙ってたんですか?」
「いやぁ、だって恥ずかしいじゃん。それに彼女いるってみんなにバレたら、もう経理に行けなくなるしー」
 その顔面に思わず、おしぼりを投げた。同時に「いってぇ!」と絶叫が聞こえるけど無視。
 確かに主任は毎日経理部の女の子と無駄に話しているし、スマホの待受は旬の女優やらモデルだし。そう、女の子に対して見さかいない。このマイナス要素のせいで私は主任への恋愛感情は育たなかったんだ。
 そりゃあね、入社当時は確かに惚れた。でも、実態を見てやめた。聖も「やめとけ」って言うし。
 そんな主任にまさか彼女ができるなんて。いや、できないのも問題かもしれないけど、でも、いざ直面したらなんとも言えない脱力感と敗北感を覚える。
「ってぇな、暴力はんたーい! お前、上司に向かってそれはないだろ、それはー!」
「すいません。でもこんな主任に先越されたってのがショックで。今年一番でムカつきました」
「えぇ……今、本当に胸にきた。刺さりました。あー、俺もう死ぬかも」
 大げさに嘆いてるけど知ったことじゃない。それに、鈍感だとか主任にだけは一番言われたくない。
 羽崎さんはこのことを知っているんだろう。謎がすべて解けた。
 あの夜に言っていたことはつまりはそういうこと。自分が好かれていることに気づかず、こうして笑って聞かされたに違いない。関係ない私までへこんでるんだから、彼にとっては、どうやっても実らない恋だから余計にショックで。
 私は本当に無神経だった。嫌われても仕方がない。好きだと自覚した瞬間にこれじゃあ、救いようがない。
 それを考えてさらに落ち込んでいると、主任は口元を笑わせたまま声音を落として言った。
「まぁ、真面目な話。俺もそろそろ身を固めないとさぁ……だってもうすぐ三十だよ。やべぇよ、早いよ、齢取るの」
「あー、私ももうすぐ二十五だし、そこからは時間経つのが早いって聞きますし。確かにハタチ過ぎてから時間が飛ぶように早いですね」
「あっという間だよねぇ。まぁ、ほら。俺もそろそろ人並みの幸せってやつが欲しいというか。友達の結婚式に行くと焦るし、奥さんと子どもに囲まれてるのを見るとさ、うらやましいなぁって思う自分がいるわけ。山藤もそういうのない?」
「あります。超あります。ブーケトスで毎回狙ってるんですけどね、取れないですよね」
 言うと主任はふきだして笑った。
「……だからさ、俺は壱夜と山藤がいい感じになれたらいいなって思ってるよ」
「えっ」
 何も言えなくなった。途端に、熱がよみがえってきて恥ずかしさも思い出す。せっかく鎮めたのに。
「どうにもお節介やきたくなるんだよ。あいつにも山藤にも。かわいい後輩だし、そして、幸せになってほしいし」
 恥ずかしさと嬉しさと、そして後を追ってくる罪悪と戸惑い。主任の言葉はまっすぐすぎて、直視できない。
 そして、私は羽崎さんを思い出す。彼の本当の気持ちが、やっぱりあの夜にあったことを。嘘偽りのない感情だったこと。私のように自分を騙して乗り切ろうとしていたこと。苦しいくせに、また自分の首を締めるようなことをして、どうしようもなかったこと。
 人並みの幸せってなんだろう。
 彼はそれを望んでいない。いつまでも苦しいままで、私も同じように苦しくなる。
 だって、羽崎さんは私には振り向いてくれない。絶対に、振り向かない。
 大人にならなくていい、なんて。そんなの嘘だ。
 感情だけではどうしようもないことだって、あるに決まってる。
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