アンビバレンス

小谷杏子

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第8.5話(幕間) 羽崎壱夜の苦悩と苦労

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 結局のところ、俺は誰のせいにもできない。でも、自分が悪いと責めてしまえば、その異物を拒絶するように頭の奥が痛む。損な性格が憎たらしくても、やめられない。
 どっちつかずの思い。ゆらゆら曖昧で、自分に翻弄されてしまう。そして、今もどうしたらいいのか分からない。
 怒っているのは確かだ。俺も。そして、彼女も。
 嘘を怒っている。
 咎められても仕方ないのに、彼女が簡単に「大丈夫」だと言うから、見ていられなくて、いたたまれなくて、逃げた。
 何が大丈夫だ。ちっとも大丈夫じゃない。
 彼女は繕いか自然にか、笑っていた。それがなんだか「大したことない」と軽んじられた気がした。
 知られたくなかった。いや、知られてもいいけど、彼女にとってそれは不快なものだと思う。
 耐性がない人間に、いきなり刺激物を与えるようなものだ。驚きと衝撃、なんて易しいものじゃなく、ただただ不気味で不快をさそう。
 だって、俺がそうだったんだから。


 彼女は追ってこなかった。もう陽も暮れているから一人きりにさせるのは良くないだろうけど、俺は彼女に合わせる顔がない。むしろ、一緒にいるほうが良くない。
 俺みたいな人間が真っ白で純粋そうなあの人と罪悪を抱かずに並んで歩くのは、もうできない。
 駅の灯りから隠れるように歩いて、歩いて、歩いて、ひたすら歩いていく。嫌なことがあれば歩くのがクセになっていて、つい先日も四駅分は歩いた。そのせいで山藤さんと出くわす羽目になったけど。
 冷静、というのは残酷に現実を突きつけてくる。俺を殺す一番の凶器。浮ついたまま、ふらふらと酔いしれた気持ちのままでいられればいいのに、夢は必ず周期的に覚めてしまう。それも分かっているけど、この欲というやつは他人へと成り代わるようにコントロール出来なくなる。これほど獰猛で聞き分けのないものはない。
 そいつはどうやってもあきらめが悪いから、一歩足を進めるたびに「あの日」をまた思い出していく。

「……ああ、そうだ。なぁ、壱夜。俺さぁ、ついに彼女出来ちゃったんだよねぇ」
「は? え、誰……?」
「教えたら面白くないじゃん。まあ、職場の人なんだけどさ。付き合ってること、他のやつには内緒にしといてね」

 酒が入ったあの人は、うれしそうに愛しげに言った。
 相田渚は五年経っても相田渚だ。
 酒は好きだけど酔いやすいから誰かれ構わず絡みにいっては、自分の秘密を平気で暴露する。結局は嘘がつけないし、承認欲求のせいで口が軽くなる。他人をバカみたいに信用していて、加えて甘え上手。だから、勘違いする人が多い。そこをいつも直せと言っているのに聞かないから始末が悪い。本当、ああいうだらしがないところがキライ。
 そんなことを知りすぎてしまったくらい、俺はあの人が好きだ。好きになってしまった。人柄に惹かれたんだと思っていた。それだけだと最初は考えていた。
 でも、どうしてか彼の無防備な笑顔を見ると、全身が硬直してしまう。目が離せなくなって、息が詰まる。渚さんの指や、はだけた首元に目がいく。酒を流し込んで上下する喉仏を見逃すまいと目を開いてしまう。触りたい、と渇きが訴える。
「ん? 何、どうした壱夜」
 ぼうっとしかけた頭にハンマーで打つような衝撃が走れば俺はようやく息ができる。
 あぁ、だめだ。叶わないって思えば思うほど欲が募っていく。顔がカッと熱くなって目眩がする。だから、それをごまかそうと俺は頭を振って「なんでもない」と答えるしかない。
 下半身に血が巡りすぎて痛むから、酒に酔ったふりをして早めに切り上げた。もう昔みたいにふざけて触れることはできないから、ズボンのポケットに手を突っ込むしかなくて「それじゃあ、お疲れさまです」と事務的な言葉をかけて逃げた。
 これはもう、限りなく確定的に恋愛のそれだと認識している。受け入れてもう数年は経っているから、男も対象にできることに納得はしていた。
 俺は平等に女も男も恋愛対象にできる、らしい。人柄はもちろん、顔に惹かれることもあるし、声や仕草ひとつでも。対象はなんだっていい。その人の何が好きかで好感やら情のランクが上がっていく。
 自覚したら、思春期のころにも似たような感情を抱いたことがあったような、ないような、そんなことをあれこれ思い出した。部活の先輩とか。同級生とか。
 でも、ここまで止められなくなったのは、が原因だ。
 渚さんの前に好きだったのは、年上の女性。感触だって、すぐに思い出せてしまうくらい、のめり込んだ。そして、いまだに俺はあの人のことが嫌いになれない。酷い仕打ちを受けて、女という生き物に嫌悪を覚えるくらい恐怖を植え付けてきたあのひとを、完全には捨てきれない。いや、トラウマか。どっちにしろ忘れることができない。

 大学一年の冬。決して長くはなくても確かに甘く激しい時間が終わりを告げた日。休学届けを出して、家に閉じこもっていたら渚さんが現れた。人間が持つあらゆる欲を根こそぎ奪われて廃人さながらの中、強引に扉をこじ開けてきた彼に助けてもらった。
 多分、あれだ。吊り橋効果。
 これを本物だと悟るまではそんな認識をしていた。自身の性癖を知ろうともしなかった。そして、受け入れたくなかった。
 渚さんが頻繁に家を訪ねてきて、すれた心に入り込んでくる。
 渚さんは超がつくほどのお人好しで優しく、甘い。隠し事は出来ない、人の感情に敏感、純真無垢な子供のように他人を思って感情をむき出しにする。
 だから、あれは後輩である羽崎壱夜のために世話していただけ。
 俺が別の方へ意識を向け始めたことも知らずに、脳天気に明るく声をかけてくる。それを拒むことはできなくて、むしろ高揚して浮ついてしまう。同時に水を欲するように、心が渇いてしまう。
 ただ、一度だけ欲に溺れて彼に触れたことがあった。一度どころじゃない。何度かあったかもしれない。
 覚えてるのは、ある春の日だ。それは少し肌寒くて、俺の部屋に泊まる渚さんが毛布にくるまって深く眠っていた。何故か俺は目が覚めていて、いや冴えていて、つい熱が回った手で彼の寝顔に触れた。渚さんの首、それを筋に沿ってなぞれば指先から体内へ取り入れるように彼を感じた。同時に、自分の気持ちが確かになったということに気づいた。
 怖かった。あわてて手を引っ込めて、わき上がる思いをしずめようとその場から逃げた。だから、彼がそれに気づいているかは知らない。聞きたくもない。
 そして、冷静な思考はやはり俺を殺しにきた。羞恥が回る。そして、生み出してしまった行き場のない甘い思いを恥だと考えた。自身の否定ほど苦しいものはない。
 渚さんのせいにもした。彼が優しすぎるから、俺が勘違いしてしまうんだと。それも結局できず、彼がいない時間にさえ、この動物的な欲望は止められずおさまらなくなってしまった。
 渚さんのせいじゃない。彼のせいにしたくない。だから、仕事終わりに家を訪ねる彼を拒むこともできない。そして、彼にだけは知られたくない。
 そう決めたら、ますます息が詰まりそうで前の恋愛よりもゆるく甘く、じわじわと喉を締め付けていくようだった。
 前回が我が身を刃物で刺すような瞬間的な痛みだとしたら、今回はゆるやかに快楽と葛藤で圧迫されていくような。気がつけば痛い。痛々しい欲。


 家から出られるくらいには体調が良くなってきたからまた大学に通うことにした。でも、俺の身体は外の空気に怖気づいていた。
「また、新しく相手見つけたらいいよ。ああいう女はめったにないから、普通は」
 渚さんは嬉しそうに、まるで我がことのように喜んで言った。ケーキなんかを買ってきて、俺の家に上がり込んで食べながら。
「いやあ、良かったよ。壱夜が元気になって」
「でも……あんなことがあったから、だと思いますよ、女の人を見るだけで気分が悪くなる」
 女と分かる姿を目にすると動悸がする。頭の奥が痛む。どれだけ繊細なんだと自嘲しながらも、恐怖に勝てることはなかった。
 彼女らと話ができたのは、大学を卒業してから。アルバイトができるようになって、人と接する機会を増やした。一対一の会話くらいならこなせる。事務的な会話から雑談まで、とにかく回復しないとと気をはやらせていた。
 それに、渚さんとも会う時間が減った。熱にも慣れて季節がめぐれば、落ち着きは取り戻せた。時間というのは意外にも頼れる解決法だと学んだ。
 彼への気持ちもあれは心が弱った一時的な気の迷いだ。一時的なものだから忘れられる。
 はずだった。
 そんなことはなかった。ふと気を抜いてしまえば、彼のことを考える。眠る時なんかが特にひどい。気づいてしまえばすでに手遅れで、心と体がバランスを取り戻して回復しても尚、彼との甘い妄想を繰り広げたり、浮ついたりと着実に恋愛感情を成長させていた。半ば呆れる形で観念したのはそう遅くはない。
 今でも、一対一なら平気だが複数の女性と話すことは難しい。だから、この間みたいな新人歓迎会なんかの場では顔がひきつってしまう。対処法ももちろんあるけど、あのときは……渚さんが気を回して来てくれた。ああいうところが、ムカつくと同時にうれしくもある。それこそ、彼の行動で一喜一憂。
 彼が気を利かせて俺の担当を山藤さんにしたことも、苦手克服と称して良かれと思って彼なりに部長へ手配したのはすぐに分かった。
 でも、山藤さんと一言二言、会話を交わすとすんなり心を開きそうになった。彼女があまりしっかりしていないから危なっかしいというのもある。張り切りすぎて空回っている。それがどうにも放っておけない。
 女性に対して、そんな気持ちを抱くのは随分と久しぶりのこと。
 そして、山藤南帆という人の存在で俺のそれまで五年の認識がいとも簡単に変わってしまった。


 ***


 喉が渇いた、と気づいて辺りを見回せば、自宅を過ぎた坂道まで来ていた。
 山藤さんの顔がふと脳裏によみがえる。動揺がしっかりと顔に出ていた。あんな態度であんなことを告げたのは良くなかった。でも、あの人は少し遠慮がない。それこそ、渚さんみたいな――
 そう。彼女は渚さんに似ている。人柄が素敵だと感じる。俺にないものを持っていて、純粋で、明るくて、表情がくるくる変わる。デスクワークは苦手だけど、仕事熱心で真面目。人を信用しすぎるお人好し。なんだかんだ好かれてかわいがられて。あと、文字がキレイ。文章を書くことには慣れてないけど、読みやすく丁寧に作られたマニュアルは会社用カバンにいつも備えている。
 今までが普通じゃなかったから、この変化は馬鹿にできない。はず。
 喉の渇きを潤すため、俺は早足で家路へと向かった。
 家についてすぐ、電気もつけずに冷蔵庫を開ける。よく冷えたミネラルウォーターをつかんですぐさま口に含んだ。まぁ、喉は癒せても、肝心なところは渇いたままだけど。
 冷蔵庫を閉めれば再び暗闇が視界を埋める。窓から届く微弱な灯りで十分だろう。今は。
 夜とネオンをぼんやりと目に映すと、少し不安がよぎった。明日、花島さんになんて言おうかな、と考えているうちに、山藤さんを思い出す。あれから頭の中に彼女がずっといる。
 山藤さんは、きちんと家に着けただろうか。
 明日からどうしたらいい。この五年で作った上辺顔が、彼女にはもう通用しない気がする。
「好きな人が女性じゃない」と知ったあの人は、俺を軽蔑するだろうか。する。そっちのほうが可能性としては高い。
 でも、後にも先にも必ず訪れたことなんだろう。いずれはバレる。俺を恋愛対象として見るのは確実に女性であるから、のらりくらり拒絶するのはかえって失礼だ。無償の愛情と優しさが時に他人を殺すくらいの凶器になることは身をもって学んでいる。
 明日の彼女がどんな反応かで俺の今後が決まる。でも、こんな男が同僚なんて嫌だろう。女性なら尚更。偏見だけど、彼女たちは汚いやり方をしながら潔癖になりたがるから……まあ、山藤さんがそうとは思えないけど、逆に彼女がそんな人だったら幻滅する。
 俺にとって女性は恐怖の対象――でも、それよりもまずは渚さんの彼女が誰なのか確かめたくて、山藤さんを試した。そんな卑怯な手を使えるくらい、図太くなったらしい。花島さんにも使った。目的のためなら克服は簡単に済むようで、同時にどこまで執念深いんだろう。
 出会わなければ良かった、と何度後悔したか分からない。でも、渚さんに関してはもう五年は積んだ片思いだから、ふられても一時的な怪我として気は済んでる。多分。いや、どうかな。少し傷が深いかも。
 それに、山藤さん。もしかすると、彼女をより深く知れば変わるのかもしれない。見方が変わるのかもしれない。あぁ、でもな……どんな顔して会えばいいんだろう。
 自己分析したって無意味なのに、問題から逃げたいがためにまた現実逃避したくなる。
 俺はどっちが大事なんだろう。
 まったく、この両価性な指向が俺を的確に示していて笑える。
 気にしないで自分の嗜好をオープンにしていればいい、なんてそれはハードルの高い戯れ言だ。隠していないと、あんなふうに戸惑いと疑心を向けられてしまう。平等じゃなくなる。俺は平等に思えるのに、彼らはそうは見てくれない、と思う。俺は同じような人を求めたいわけでもなく、孤独でいたいわけでもなく、平等で公平な個人を求めているんだ。
 ワガママだな、このどっちつかずの思いは。そして欲深い。
「あー……めんどくさい」
 しばらくダイニングで立ち止まっていると、突然に電話が鳴った。着信だ。カバン……じゃない、ポケット。探り当てて表示を見る。
 あ、渚さん……
「――はい」
『あーーー! やっと出たな、この甲斐性なし!』
 突然の罵倒に耳からスマホを離す。
 なんなんだ、急に。
「ちょっと、渚さん。まさかまた酒飲んで……」
『うるせー! いいからこっち来い! かわいい部下泣かした罪は重いぞ! じゃーな!』
「あ、待った、じゃーなじゃな……い」
 電話は切れた。無情な電子音が流れる。
「はぁ……」
 肝心な部分を言い忘れてる。どこに行けばいいんだよ。だからあんだけ酒には気をつけろと言ってるのに。ああいうとこが本当にムカつく。
 しかし、渚さんの言ったこと……かわいい部下を泣かした、というのはつまり――山藤さんか。
「あー……もう」
 ペットボトルをカバンに突っ込みながら外へ出た。


 ***


 渚さんに改めて連絡すると、この間飲んだ居酒屋にいることが判明した。
 酒飲んで酔った勢いで部下を呼び出すなんてパワハラだと言ってやろうか、なんて家を出た直後は苛立っていたのに、夜風で熱は冷めていく。
 それに、山藤さんが泣いていたと聞けばそれはもう完全に俺が悪い。それを確かめるためにも現場に急行せざるを得なかった。
 タクシーで行ったほうが早い。でも、もし山藤さんが現場にいたら……気まずいどころじゃない。いや、もう一度きちんと話し合えるかもしれない。明日に回そうなんて、やっぱり良くないし。ずるい考えだったな。
 タクシーから見える夜のぼやけたネオンを見ながら、俺はまずどう謝ろうかと考え始めた。


「お! 来たなー、壱夜!」
 彼女はいなかった。生ビールのジョッキを掲げ、酔っ払いの格好を見せる相田渚しかいない。
「なんだよ……渚さんだけか……」
「悪かったなあ、俺だけで! さっきまで山藤がいたんだけどな、さすがに終電まで付き合わせるのかわいそうだから帰した!」
「それならついでに帰れよ」
 何時間居座るつもりだ。店の迷惑を考えろ。そんな小言があとを尽きない。でも、どこか安心した自分がいて、そして次第に気持ちが昂ぶる。あーもう、喜ぶな。
 不謹慎に高まる気持ちを抑えようと、顔をしかめて彼の横に座った。カウンター席、目の前ではそろそろピークを過ぎてのんびりしている店員が数人。
 おしぼりをもらって、とりあえずビールを頼んで、散らかった皿をまとめる。山藤さんがいたと思しき割り箸と皿も重ねて脇に置く。
「で、なんですか、急に。明日も仕事じゃないですか」
「残念でしたぁー。明日は休業日ですぅー。壱夜ぁ、ちゃんと出勤カレンダー見とけよ」
 酔っ払いに注意され、俺は悔しく歯噛みする。そうだった、明日は土曜日。しかも休業日。山藤さんに会ってどうのと考えていたらそもそも会えないじゃないか。
「はぁ……」
「壱夜、お前は変なところ天然だよなあ。いつもは完璧なくせに、ちょっと抜けてるし」
 うるさい。ネクタイに焼き鳥のタレついてるし。まあ、いいや。困るのは明日の渚さんだけだし。
「まあ、呼び出したのはさ、俺はお前に怒ってるわけで」
 渚さんはビールをぐいっと飲み、笑いながら言った。え、怒ってるのか……?
「帰りに山藤を見つけたから声かけたらさ、あいつ、泣いてたんだ」
 いぶかっていると、声のトーンが急に下がる。ああ、怒ってる。これは確実に。そして、彼の言葉に血の気がさっと引いていく感覚がした。これは多分、罪悪感。
「山藤さ、『目にゴミ入っただけですぅ』っつってたけどさ、んなわけないだろ。今どき目にゴミ入ったってごまかすやついねーよ」
「泣いてたって、あの、どの程度……」
 何を聞いてるんだろう。どの程度泣いてたかなんてどうでもいい。一筋でも涙を流していたんなら、それは紛れもなく俺のせいだ。
「まあ、ちょこっとな。涙拭いてるとこに遭遇したから。女の子が泣いてたらそりゃーなぐさめるしかないだろ。で、フタを開ければお前が登場したから、呼んだ」
 渚さんは瞼を半分落とし、すわった目で俺を睨んだ。息が止まる。
「女に泣かされたからって、別の女泣かすなよな」
「そんなつもりは……」
 ああ、でもその通りかもしれない。言い訳すら浮かばない。
 拳を握っていると、横にジョッキが置かれた。すぐに取って喉に流す。甘くはない。苦味しかない。あの夜、彼女と飲んだ甘ったるい味とは似ても似つかない。
 味に顔をしかめていると、渚さんがまた小さくポツポツと話し始めた。それは、少し落ち込んだように。
「でも、詳しくは教えてくれなかったんだー……てか、山藤は顔に出るからさ、俺が言い当てたってのもある」
「あー……彼女、分かりやすいですよね」
「うん。隠すの下手だよね、俺とおんなじで」
「確かに、そっくり、かも」
「でも山藤はさ、お前のせいにはしなかったよ」
 渚さんは静かにため息を吐いた。対して俺はジョッキの取っ手を握ったまま固まる。
「私が嫌がることをしたから悪いってさ。健気なんだよー、あいつ。しきりにお前をかばうし。いやあ、山藤がああ言ってくれるなんて思わなくてさぁ。壱夜のせいにしていいのに。ねえ?」
「そう、ですね……」
 俺はこの期に及んで、保身を考えてしまった。山藤さんは彼にどこまでを話したのか。本来なら、彼女の真摯な態度に感謝しなければいけないのに。いや、勿論それも感じてはいた。でも、知られたくない対象にどこまで知られたのかが分からないから動揺は拭えない。
 そんな俺の心情には気づかない渚さんは、薄く笑いながら頬杖をついた。残っていたつまみを箸でつつき、こちらをちらりと見る。
「お前、女が苦手ってことちゃんとは説明してないだろ」
「はい……」
「まあ、深くは言わなくていいだろうけど、そのせいで山藤が気を遣うとかわいそうだからな……前にも担当を変えようかと提案したんだ」
「え?」
 思わず身を乗り出すと、渚さんはそれを制するように手のひらを向けた。
「でも、やっぱり断られた。頑張れるって」
 俺はごくりと唾を飲んだ。その音が聞かれてないか少し気になる。渚さんは小さく笑うと、薄目でこちらを見やった。
「ちょっとケンカしたくらいで担当変えるほどじゃないって、言ってた。まあ、そのくらいで関係崩れるようじゃ、営業なんて出来ないし。山藤は頑張り屋だから無理してるかもしれないけど、俺は山藤を信じてるから」
 まっすぐな言葉はまっすぐに耳から心臓まで届いた。恥ずかしげもなく堂々と言い切ってしまうのは、酒のせいじゃないだろう。
 俺は自身のあさましさを恨んだ。二人揃ってそんな風にいられたら、やっぱり彼らを嫌いにはなれない。それに好感が増すばかりで目頭が痛くなる。
 すると、目ざとい渚さんは冷やかすように笑った。
「泣き虫も治らないんだな、お前」
「うるさいな」
「おぉっと、上司に向かって『うるさい』はダメだろ、ゆとり世代め」
「うるさい。ゆとりって言うな」
 反論も弱々しく、ビールを半分一気に飲んだ。喉にくる炭酸にむせて涙をごまかす。
「まあまあ。どんなケンカをしたかは知らないけど、山藤は信用できる人だから、ゆっくり歩み寄ればいいじゃん。最初から関係深く築けるわけないんだし。山藤はお前の全部を知っても見放したりはしないよ」
 渚さんは慰めるように言った。
 山藤さんは多分、何も言わないでいてくれたんだろう。それに、俺が誰を思っているかを知ってもそう言ってくれた。お人好しにも程がある。
 もしかすると、距離感がぎこちなくなるかもしれない。月曜日の彼女が、愛想笑いで接してくるかもしれない。
 無理をさせたくはない。でも、彼女は俺を見放したりはしないんだろう。だったら、俺も彼女にこたえなくてはいけない。もう逃げずに。
「渚さん……」
 俺は鼻をすすりながらうつむいた。
「あの、月曜日、彼女にちゃんと謝ります」
「当たり前だろ。土下座しろ」
「土下座……あぁ、はい、します」
「いや、冗談だからね? ……まあ、山藤がやれって言ったらやれよ」
「はい」
 そりゃ言われたらやるけど。山藤さんに限ってそれはない、と思う。多分。怖いけど。
 夜が深くなる。渚さんはそろそろ眠そうで、瞼を落としていく。この時間が続けば続くほど、永遠を望む自分がいる。その後を罪悪感が追ってくる。
 それから逃げるように、彼の横顔を見ながらゆっくりとジョッキを傾けた。
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