恋の終わりは 【恋に焦がれて鳴く蝉よりも・番外編】

橘 弥久莉

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第一部:恋の終わりは

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 その顔を覗き込んでそう訊いた母の頬は、
なぜだか綻んでいた。紫月は、そのことに
少しの違和感を覚えながらも、ええ、と
頷くと、朝食の準備が整っている食卓へ
ついた。

 「少し頭が痛いけど……大丈夫そう」

 そう言って目頭を揉んでいた紫月の前に、
温かな紅茶とトーストが置かれる。

 紫月の隣に立った母は、トレーを胸に
抱えながら腰をかがめると、突然、耳元で
囁くように言った。

 「ねぇ。あなたもしかして、昨日のこと
何も覚えていないの?」

 その言葉にぎくりとして、紫月は間近に
ある母の顔を覗く。覚えていないの?と、
聞かれるということは、自分の記憶にはな
い、“何か”があった、ということに他なら
ない。

 「タクシーに乗ったところまでは覚えて
いるけど……その後のことは何も覚えてな
いわ。何かあったの?」

 ぼんやりとした記憶を辿りながらそう
答えた紫月に、母は、まあ、と頬に手を
あてて首を振った。その頬は、心なしか
赤く染まっているように見える。

 「昨夜はね、タクシーの中で眠ってしまっ
たあなたを、レイさんが部屋まで運んでくれ
たのよ。お姫様抱っこでね。お父さんは大阪
へ行っていていなかったし、景山もいなかっ
たから、お母さん助かっちゃったの。彼、
本当に素敵な人ね。あなたを抱きかかえる姿
がまるで王子様みたいで、年甲斐もなくとき
めいてしまったわ」

 うふふ、と笑ってそう言った母に、紫月は
目を見開き、頬を紅潮させる。

 そう言えば、何となくだけれど、強い腕に
抱き上げられたような感覚が身体に残って
いる。そうして、揺れる胸に顔を埋めた、
僅かな記憶も。



-----あれは、夢ではなかったのか?



 紫月は無意識に口に手をあて、必死に記憶
を辿った。が、それ以上は何も思い出せない。

 たった今、母から知らされたのは、家に
着いたタクシーの中から、電話があったこと。
 母が玄関の戸を開けると、紫月を抱き上げ
たレイがそのまま部屋まで運んでくれたとい
う事実。その光景を思い描けば、恥ずかしさ
と、自己嫌悪で悲鳴を上げたくなる。

 だいいち、敷地面積が400㎡を超える紫月
の自宅は、門を開けると玄関まで10段以上の
階段があるのだ。自分を抱いたままその階段
を上り、さらに2階の自室まで運んだなんて。

 なんて迷惑をかけてしまったのだろう……

 紫月は自分を見つめる優しい瞳を思い出し
ながら、両手で顔を覆った。隣の席に母が
座る。その気配を感じ、紫月は顔を隠して
いた手を少しずらした。

 「好きに、なれるといいわね。彼のこと」

 その言葉に、紫月は小さく頷いた。
 自分から一久を諦めたことを知る母の言葉
は、慈愛に満ちている。
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