33 / 54
第一部:恋の終わりは
32
しおりを挟む
「やっと、名前呼んでくれたね」
そのひと言に、じん、と胸の奥が震えて、
紫月は手にしていた大根の根を握りしめる。
「……そう?名前、呼んでなかったかしら」
紫月は、おぼろげな記憶を辿りながら、
務めて自然に言った。
「呼んでないよ。ずっと『あなた』だった。
だから、いつ僕の名を呼んでくれるか……
待ってたんだ」
そう言って、レイが紫月の髪に頬を寄せる。
被っていた麦わら帽子は、バランスを崩し
た時に頭から落ちている。紫月は僅かに身体
を硬くした。
「……ねぇ、もう一度呼んで」
ねだるように、甘やかな声でそんなことを
言うので、紫月は思わず肩を震わせる。
心臓はどきどきと、早鐘を打っている。
ただ、名前を呼んだだけなのに、どうして
彼はこんなにも悦ぶのだろう?
紫月はそのことに当惑しながらも、
その名を呼んだ。
「……レイ」
「もう一回」
「レイ」
声が掠れてしまわないように、
震えてしまわないように、彼の名を呼ぶ。
けれどそれでも足りないのか、レイは
さらに「もう一回」と、紫月にねだった。
「もう!何回も言わせないで」
さすがに恥ずかしくなって、紫月は大根
を持ったまま、レイの胸を押しのける。
強い力で、泥だらけの大根で胸を押すと、
あはは、と、いつもの笑い声が聞こえた。
「紫月って案外素直だね。可愛いよ」
「揶揄ったわね!“案外”は余計でしょ」
熱くなってしまった頬を膨らませて、
紫月は可笑しそうに笑うレイを睨む。
けれど数秒後、その視線を彼の服へと
動かした紫月は、「あっ」と声を上げた。
「やだ!服が泥だらけだわ!」
持っていた大根と、自分たちの白い服
とを見比べ、互いに目を丸くする。
白のパーカーと、白のカットソー。
考えてみれば、どちらも“汚れてもいい
服装”とは、言い難かった。
「これ、洗濯して落ちるかしら?」
「泥汚れは難しいかもね。残念」
両手で天を仰ぎながらそう言ったレイ
がなぜか面白くて、二人でくすくす、
と笑う。何がそんなに面白いのかわから
なかったが、それでも、とにかく楽し
かった。二人はひとしきり笑うと、思い
出したようにまた大根の収穫を始めた。
沢山の人参と大根をカゴに詰め、白菜
畑にも立ち寄る。そこでは、大きな白菜
をひとつだけ包丁で切り離し、重ねて
あったもう一つのカゴに入れた。
「さて、そろそろ戻ろうか」
収穫した野菜を両手に、そう言った
レイは、どこからどう見ても農家のお兄さ
んだったが、真っ青な空を背に微笑を向け
る彼はやはり凛として美しく、紫月は胸が
高鳴るのを意識しながら、頷く。
「お腹空いちゃった。早く自分で収穫
した野菜、食べたいわ」
歩き出した彼と肩を並べそう言うと、
レイは誇らしげに笑みを深めたのだった。
そのひと言に、じん、と胸の奥が震えて、
紫月は手にしていた大根の根を握りしめる。
「……そう?名前、呼んでなかったかしら」
紫月は、おぼろげな記憶を辿りながら、
務めて自然に言った。
「呼んでないよ。ずっと『あなた』だった。
だから、いつ僕の名を呼んでくれるか……
待ってたんだ」
そう言って、レイが紫月の髪に頬を寄せる。
被っていた麦わら帽子は、バランスを崩し
た時に頭から落ちている。紫月は僅かに身体
を硬くした。
「……ねぇ、もう一度呼んで」
ねだるように、甘やかな声でそんなことを
言うので、紫月は思わず肩を震わせる。
心臓はどきどきと、早鐘を打っている。
ただ、名前を呼んだだけなのに、どうして
彼はこんなにも悦ぶのだろう?
紫月はそのことに当惑しながらも、
その名を呼んだ。
「……レイ」
「もう一回」
「レイ」
声が掠れてしまわないように、
震えてしまわないように、彼の名を呼ぶ。
けれどそれでも足りないのか、レイは
さらに「もう一回」と、紫月にねだった。
「もう!何回も言わせないで」
さすがに恥ずかしくなって、紫月は大根
を持ったまま、レイの胸を押しのける。
強い力で、泥だらけの大根で胸を押すと、
あはは、と、いつもの笑い声が聞こえた。
「紫月って案外素直だね。可愛いよ」
「揶揄ったわね!“案外”は余計でしょ」
熱くなってしまった頬を膨らませて、
紫月は可笑しそうに笑うレイを睨む。
けれど数秒後、その視線を彼の服へと
動かした紫月は、「あっ」と声を上げた。
「やだ!服が泥だらけだわ!」
持っていた大根と、自分たちの白い服
とを見比べ、互いに目を丸くする。
白のパーカーと、白のカットソー。
考えてみれば、どちらも“汚れてもいい
服装”とは、言い難かった。
「これ、洗濯して落ちるかしら?」
「泥汚れは難しいかもね。残念」
両手で天を仰ぎながらそう言ったレイ
がなぜか面白くて、二人でくすくす、
と笑う。何がそんなに面白いのかわから
なかったが、それでも、とにかく楽し
かった。二人はひとしきり笑うと、思い
出したようにまた大根の収穫を始めた。
沢山の人参と大根をカゴに詰め、白菜
畑にも立ち寄る。そこでは、大きな白菜
をひとつだけ包丁で切り離し、重ねて
あったもう一つのカゴに入れた。
「さて、そろそろ戻ろうか」
収穫した野菜を両手に、そう言った
レイは、どこからどう見ても農家のお兄さ
んだったが、真っ青な空を背に微笑を向け
る彼はやはり凛として美しく、紫月は胸が
高鳴るのを意識しながら、頷く。
「お腹空いちゃった。早く自分で収穫
した野菜、食べたいわ」
歩き出した彼と肩を並べそう言うと、
レイは誇らしげに笑みを深めたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
行き場を失った恋の終わらせ方
当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」
自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。
避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。
しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……
恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。
※他のサイトにも重複投稿しています。
【完結】6人目の娘として生まれました。目立たない伯爵令嬢なのに、なぜかイケメン公爵が離れない
朝日みらい
恋愛
エリーナは、伯爵家の6人目の娘として生まれましたが、幸せではありませんでした。彼女は両親からも兄姉からも無視されていました。それに才能も兄姉と比べると特に特別なところがなかったのです。そんな孤独な彼女の前に現れたのが、公爵家のヴィクトールでした。彼女のそばに支えて励ましてくれるのです。エリーナはヴィクトールに何かとほめられながら、自分の力を信じて幸せをつかむ物語です。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる