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「ばあちゃんなんか、嫌いだ」
日本海に浮かぶ隠岐諸島にある、島後にあたるN町。その、西側の島にある港の駐車場にいた少年が、誰にも聞こえない声で呟いた。
短く切り揃えられた黒髪に、少し気の弱そうな顔。赤色で無地のTシャツにハーフパンツ、それにスニーカーを履いている。
少年は海風に乗ってきた濃い磯の臭いに顔を顰めながら、水色のレンタカーのトランクを開けた。
数枚の画用紙を挟んだ画板と、絵の具のセットを取り出した少年は、お茶や水の入った二本の水筒と一緒に肩から下げた。
水平線の彼方まで広がる夏の青い空を見上げた少年は、顔を曇らせながら、観光客がまばらに往来する歩道へと出た。
「青空」
レンタカーの助手席から顔を出した母親が、少年を呼び止めた。
武田青空――それが、少年の名前だった。現在は、小学三年生である。
青空が振り返ると、母親は少し不機嫌そうな表情を崩さぬまま、言い聞かせるように告げた。
「遅くならないでね。何かあったら連絡するから、スマホの電源は切らない。遅くなるようなら、連絡をすること。いいね?」
「……わかってるよ」
青空は少し不機嫌そうに答えた。
先ほどまで別れて行動することについて、母親と言い合いをしたばかりだ。最終的に折り合いをつけたものの、双方とも未だ興奮が冷めてなかった。
青空の経験上、こういう状況になったら、次の日までは冷戦が続く。だからといって食事が出なくなることはないが、地味に夕食のおかずが減っていることが多かった。
(今日は宿のご飯だから、その心配はないと思うけど……)
それから一度も母親のほうを振り返らないまま、青空は信号機がまったく無い道路の手前に立って、左右を見回した。
N町は二つの島が一本の道路で繋がった町だが、信号機はたった一カ所、小学校の前にしかない。
島民しか居ない閑散期はともかく、夏休みの間は必然的にスピードを出す車が増えている。そのほとんどは、観光客が運転するレンタカーだ。
本土でも都市部に住んでいる青空は、こういったスピードを出す車には慣れていた。車の往来が切れるタイミングを見計らって、一気に反対側の歩道へと渡っていった。
「あ、こっちだとまた墓まで戻っちゃうかな……」
先ほどまで居た共同墓地のことを思い出し、青空は足を止めた。
青空が両親に連れられてN町に来たのは、観光のためではない。随分と前に他界した、祖母の墓参りのためだった。
祖母は青空が産まれてまもなく他界したので、思い出になるような記憶はない。しかし毎年、貴重な夏休みに往復で三日間もかけて、離島であるN町まで来るのは苦痛でしかなかった。
青空はふと、絵の具のセットを開けた。
使いかけの絵の具が並ぶ中、青色の絵の具が収まる場所だけが、ぽっかりと空いていた。
「……ばあちゃんなんか嫌いだ」
小学校での記憶を消すように頭を振ったあと、絵の具のセットを閉じた青空はトボトボと歩き始めた。
晩ご飯までに、夏休みの宿題である写生を済ませるつもりだった。近場で理想的な場所を見つけようと、青空は
辺りを見回した。
(どこで描こうかな……青色がないから、海とかは描けないし)
青空が歩きながら写生場所を探していたとき、歩道の縁に立っていた少女が、ずっと自分を見ていることに気がついた。
青空は、つい少女をジッと見つめてしまった。
年の頃は青空と同じか、少し下くらい。可愛らしい顔立ちに大きな黒い瞳、黒髪は市松人形のような髪型で、黒いリボンをしていた。肌は透き通るような白色で、足元は足首までの白いソックスに、黒い靴を履いていた。
美少女といっても差し支えのない容姿だが、青空の気を引いたのは、そこではない。
少女は真夏だというのに、フリルのある黒い長袖のワンピースを着ていたのだ。青空は今日、気温が三十五度を超えたというテレビのニュースを見たばかりだ。
そんな炎天下の中で、黒い長袖の服を着ていることが、青空には信じられなかった。
なんで見知らぬ少女が自分を見ているのか。気にはなったが、青空は初対面の少女に話しかける気になれず――そして、話しかける勇気もなく――、そのまま通り過ぎようとした。
しかし少女は青空が近づくと、にこっと微笑んだ。
「ねえ。君、この島の子じゃないよね? なにをしているの?」
突然に話しかけられて、青空はビクッと身体を強ばらせた。
恐る恐るといった表情で振り返ると、にこにこと微笑む少女と目が合い、ドキドキというより、警戒心でビクビクとしながら、画板を少しだけ上に挙げた。
「夏休みの宿題。写生する場所を探してるんだけど……」
「ふぅん」
少女は意味ありげに微笑むと、青空に顔を寄せた。吸い込まれそうな黒い瞳に見つめられると、頭の芯から思考が鈍っていく――青空はそんな感覚に気づきながらも、目を背けることができなかった。
「絵を描くなら、良い場所を知ってるよ。あたしの秘密基地なんだけど。どう? 興味あるでしょ」
「別に……秘密基地で盛り上がるほど、子どもじゃないし」
「な――自分だって子どものくせに。なんか生意気よ」
唇を少し尖らせた少女に、青空は力なく言い返した。
「生意気って……そっちのほうが、年下に見えるけど……」
「そんなの関係ないのよ。女の子は、同年代の男の子よりは大人だってことを主張していいのよ。知らないの?」
「なにそれ」
随分と理不尽なことを言わたが、青空は怒るよりも呆れてしまった。
そんな態度をまるで意に介することなく、少女は両手を後ろ手に組みながら、青空と目を合わせた。
「あたしの秘密の場所に行こうよ。ね?」
この誘いを、青空は即座に断ろうとした。しかし、少女の瞳に虹色の光が浮かんだのを見た瞬間、青空は思考が真っ白になった。
(あれ――?)
と思うが早いか、まるで自分の意思とは別の力によって操られたように、青空は少女に頷いていた。
「それじゃあ、決定ね」
少女は青空の手を取ろうと右手を伸ばしかけ――しかし、すぐに引っ込めた。そして笑みを浮かべたまま踵を返すと、「こっちよ」と手招きをした。
青空は頷きながら、溜息を吐いた。
(なんでだろう……面倒なだけなのに)
しばらく前を歩く少女についていった青空だったが、先ほど渡った道路が見えなくなってくると、流石に不安を感じ始めた。
「あの……さ。そこって遠いの?」
「んー。ちょっと歩くかな。なんで?」
「だって、もう三時半を過ぎてるし……」
船でN町に着いたのが、午後一時半くらい。遅い昼食を終えてからレンタカーで墓参りに行き、両親と別れたときには三時を過ぎていた。
「遅くなると、怒られちゃうから」
「大丈夫よ。六時過ぎても明るいんだし。もう船もないから、泊まりでしょ?」
「それは……そうだけど」
語尾を濁すように青空が答えると、少女はチラッと空を見上げてから「しかたないなぁ」という顔をした。
「それじゃあ、急ぎましょ。近道するけど、いいよね?」
「うん」
青空が頷くと、少女は民家と民家のあいだにある坂道を登り始めた。
「ばあちゃんなんか、嫌いだ」
日本海に浮かぶ隠岐諸島にある、島後にあたるN町。その、西側の島にある港の駐車場にいた少年が、誰にも聞こえない声で呟いた。
短く切り揃えられた黒髪に、少し気の弱そうな顔。赤色で無地のTシャツにハーフパンツ、それにスニーカーを履いている。
少年は海風に乗ってきた濃い磯の臭いに顔を顰めながら、水色のレンタカーのトランクを開けた。
数枚の画用紙を挟んだ画板と、絵の具のセットを取り出した少年は、お茶や水の入った二本の水筒と一緒に肩から下げた。
水平線の彼方まで広がる夏の青い空を見上げた少年は、顔を曇らせながら、観光客がまばらに往来する歩道へと出た。
「青空」
レンタカーの助手席から顔を出した母親が、少年を呼び止めた。
武田青空――それが、少年の名前だった。現在は、小学三年生である。
青空が振り返ると、母親は少し不機嫌そうな表情を崩さぬまま、言い聞かせるように告げた。
「遅くならないでね。何かあったら連絡するから、スマホの電源は切らない。遅くなるようなら、連絡をすること。いいね?」
「……わかってるよ」
青空は少し不機嫌そうに答えた。
先ほどまで別れて行動することについて、母親と言い合いをしたばかりだ。最終的に折り合いをつけたものの、双方とも未だ興奮が冷めてなかった。
青空の経験上、こういう状況になったら、次の日までは冷戦が続く。だからといって食事が出なくなることはないが、地味に夕食のおかずが減っていることが多かった。
(今日は宿のご飯だから、その心配はないと思うけど……)
それから一度も母親のほうを振り返らないまま、青空は信号機がまったく無い道路の手前に立って、左右を見回した。
N町は二つの島が一本の道路で繋がった町だが、信号機はたった一カ所、小学校の前にしかない。
島民しか居ない閑散期はともかく、夏休みの間は必然的にスピードを出す車が増えている。そのほとんどは、観光客が運転するレンタカーだ。
本土でも都市部に住んでいる青空は、こういったスピードを出す車には慣れていた。車の往来が切れるタイミングを見計らって、一気に反対側の歩道へと渡っていった。
「あ、こっちだとまた墓まで戻っちゃうかな……」
先ほどまで居た共同墓地のことを思い出し、青空は足を止めた。
青空が両親に連れられてN町に来たのは、観光のためではない。随分と前に他界した、祖母の墓参りのためだった。
祖母は青空が産まれてまもなく他界したので、思い出になるような記憶はない。しかし毎年、貴重な夏休みに往復で三日間もかけて、離島であるN町まで来るのは苦痛でしかなかった。
青空はふと、絵の具のセットを開けた。
使いかけの絵の具が並ぶ中、青色の絵の具が収まる場所だけが、ぽっかりと空いていた。
「……ばあちゃんなんか嫌いだ」
小学校での記憶を消すように頭を振ったあと、絵の具のセットを閉じた青空はトボトボと歩き始めた。
晩ご飯までに、夏休みの宿題である写生を済ませるつもりだった。近場で理想的な場所を見つけようと、青空は
辺りを見回した。
(どこで描こうかな……青色がないから、海とかは描けないし)
青空が歩きながら写生場所を探していたとき、歩道の縁に立っていた少女が、ずっと自分を見ていることに気がついた。
青空は、つい少女をジッと見つめてしまった。
年の頃は青空と同じか、少し下くらい。可愛らしい顔立ちに大きな黒い瞳、黒髪は市松人形のような髪型で、黒いリボンをしていた。肌は透き通るような白色で、足元は足首までの白いソックスに、黒い靴を履いていた。
美少女といっても差し支えのない容姿だが、青空の気を引いたのは、そこではない。
少女は真夏だというのに、フリルのある黒い長袖のワンピースを着ていたのだ。青空は今日、気温が三十五度を超えたというテレビのニュースを見たばかりだ。
そんな炎天下の中で、黒い長袖の服を着ていることが、青空には信じられなかった。
なんで見知らぬ少女が自分を見ているのか。気にはなったが、青空は初対面の少女に話しかける気になれず――そして、話しかける勇気もなく――、そのまま通り過ぎようとした。
しかし少女は青空が近づくと、にこっと微笑んだ。
「ねえ。君、この島の子じゃないよね? なにをしているの?」
突然に話しかけられて、青空はビクッと身体を強ばらせた。
恐る恐るといった表情で振り返ると、にこにこと微笑む少女と目が合い、ドキドキというより、警戒心でビクビクとしながら、画板を少しだけ上に挙げた。
「夏休みの宿題。写生する場所を探してるんだけど……」
「ふぅん」
少女は意味ありげに微笑むと、青空に顔を寄せた。吸い込まれそうな黒い瞳に見つめられると、頭の芯から思考が鈍っていく――青空はそんな感覚に気づきながらも、目を背けることができなかった。
「絵を描くなら、良い場所を知ってるよ。あたしの秘密基地なんだけど。どう? 興味あるでしょ」
「別に……秘密基地で盛り上がるほど、子どもじゃないし」
「な――自分だって子どものくせに。なんか生意気よ」
唇を少し尖らせた少女に、青空は力なく言い返した。
「生意気って……そっちのほうが、年下に見えるけど……」
「そんなの関係ないのよ。女の子は、同年代の男の子よりは大人だってことを主張していいのよ。知らないの?」
「なにそれ」
随分と理不尽なことを言わたが、青空は怒るよりも呆れてしまった。
そんな態度をまるで意に介することなく、少女は両手を後ろ手に組みながら、青空と目を合わせた。
「あたしの秘密の場所に行こうよ。ね?」
この誘いを、青空は即座に断ろうとした。しかし、少女の瞳に虹色の光が浮かんだのを見た瞬間、青空は思考が真っ白になった。
(あれ――?)
と思うが早いか、まるで自分の意思とは別の力によって操られたように、青空は少女に頷いていた。
「それじゃあ、決定ね」
少女は青空の手を取ろうと右手を伸ばしかけ――しかし、すぐに引っ込めた。そして笑みを浮かべたまま踵を返すと、「こっちよ」と手招きをした。
青空は頷きながら、溜息を吐いた。
(なんでだろう……面倒なだけなのに)
しばらく前を歩く少女についていった青空だったが、先ほど渡った道路が見えなくなってくると、流石に不安を感じ始めた。
「あの……さ。そこって遠いの?」
「んー。ちょっと歩くかな。なんで?」
「だって、もう三時半を過ぎてるし……」
船でN町に着いたのが、午後一時半くらい。遅い昼食を終えてからレンタカーで墓参りに行き、両親と別れたときには三時を過ぎていた。
「遅くなると、怒られちゃうから」
「大丈夫よ。六時過ぎても明るいんだし。もう船もないから、泊まりでしょ?」
「それは……そうだけど」
語尾を濁すように青空が答えると、少女はチラッと空を見上げてから「しかたないなぁ」という顔をした。
「それじゃあ、急ぎましょ。近道するけど、いいよね?」
「うん」
青空が頷くと、少女は民家と民家のあいだにある坂道を登り始めた。
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