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私と夫の話③
しおりを挟む夫と一度でいい、愛し合ってみたかった。体の関係じゃなくて、父と母のように、やきもちを焼いて拗ねて見せたり、夜中に手を繋いでコンビニへ行ったり、そういうありふれた生活の中の甘さを感じてみたかった。
彼はそのうちきちんと心から愛する恋人を作って、今度こそ正しい夫婦生活を送れる女性と再婚するかもしれない。二人のベッドで、コロも一緒に眠るのかもしれない。そう考えたら、瞬きの瞬間に、ぽろ、と涙が溢れた、私には何も残らない。父も母も、夫も実家も、猫も、何もなくなってしまう。そう考えたらたまらなくて、ぱたぱた、と涙が太ももに落ちた。
ガチャ、と開錠する音が鳴り、今度こそとばかりにラグの端で伸びていたコロが飛び起きて出迎えに走った。
「ただいま」
「おかえりなさい。」
「出かけてたんですか。」
「はい、父に呼ばれて実家へ、あの、少しお話しいいですか。」
「手を洗ってきます。」
先日買ったばかりのほうじ茶を入れて、実家から連れ帰ったマドレーヌ入りのかごをテーブルへ移動させてダイニングテーブルへ着くと、夫が部屋着に着替えて、猫を抱いて戻ってきた。
「あの。」
「その前に。」
お茶で口を潤して、口を開くと手のひらをこちらへ向けて制されて、そのまま黙る。
そのまま指先が私の目の下に触れた。洗ったばかりの指は冷たくて、びくりとした。
「ああ、失礼、泣いていた理由を聞いても?」
「分かりますか、いえ、大した理由じゃないんです。」
慌てて目元を拭って、またひと口お茶を飲んだ。
飲み下すごくりという音がやけに響いて、ぎくりとした。
「父が、退職するらしくて、
母と別荘で暮らすと。」
「ああ、そうですか。それが悲しくて?」
夫が丁寧に個装されたマドレーヌを開けながら尋ねる。
笑った顔を見たのは、コロを連れてきた時が最後だ。
名前は決めてあるんですか、と聞かれて、まだ小さくてころころと歩く彼女が可愛くて、コロ、と答えると、
ははっ、と笑って、それは犬の名前では、と笑った彼の顔があまりに素敵で、その夜は眠れなかった。
「それで、もう父はあなたの上司じゃなくなります。」
「はい。」
「離婚していただいて構いません。」
「はい?」
「今更だとは思うんですが、ありがとうございました。大変お気遣いをいただきました。」
「ちょっと、理解が、香織さん。」
「はい。」
夫は眼鏡を外して、長い指で目頭を押さえた。
あの日、実家に初めて来た日にも、華奢なカップの取っ手を持つこの指が、長くて綺麗なのに見惚れていた。
「私が、上司に気を使って君と結婚したと、そう思っているということですか。」
「はあ」
間抜けな返事になってしまった。
「年下だと思って気を使っていたのがいけなかったのかな。本気で行くべきだった?」
夫は立ち上がって私の手を取り、ソファへ促した。2人掛けのソファへ夫は私の肩を抱いて腰を下ろし、
「じゃあ本気で行きます。
君を初めてみたのは、覚えているかな。高校3年の定期演奏会、フルートのソロがあったよね、
ライトを当てられて少し眩しそうで誇らしげで、僕は一目惚れだった。
幸い勉強は出来たから、安定のために就職した銀行でも卒なくやっていたと思うけど、つまらなくて。お義父さんとは喫煙室で一緒になってよく話し相手をさせられたんだけど、別に直属の上司ってわけじゃなかった。でもその瞬間から彼は僕の想い人の父親という巨大な存在になった。僕はすぐ家に呼んで欲しいとせがんだ。だけど会わせるのは君が高校を卒業してからだと言われた。
で、やっとあの日、許可がおりたんだ。
君は高校生だった時と変わらずに可愛らしくて、僕はまともに話せなかった。」
「あ、あの、ごめんなさい。顔が近い。」
熱心に話す夫の顔が、私を覗き込むように語りかけてくる。
「赤くなってる。君ずっと可愛いな。大丈夫?」
あなたが大丈夫?そう返したいのを堪えて浅く頷くと、夫は優しく微笑んだ。
「あれ、もっと赤くなった。」
「ごめんなさい。慣れてなくて。」
「触れても?」
夫が肩を抱いているのとは逆の手で、私の髪を撫でた。
今度は深く頷くと、夫が強く私を抱きしめた。
胸がぎゅっと苦しくなって、思わず縋りついた。
「ああ、ずっとこうしたかった。ごめん、離婚は出来ないよ。9年も我慢したんだから、いい加減ご褒美が欲しいくらいなのに、離婚だなんて勘弁してくれ。」
「修司さん、私、ずっと寂しくて、私、あなたはずっと、私になんて興味がないと思ってたから、っ、あ、ああ・・・・・・ううっ。」
「ああ、ごめんね、高校生に一目惚れした23歳の男なんて、君は気持ち悪いかと思って、君が僕に慣れるまで待つつもりだったんだ。寂しい思いをさせて本当にごめん。君が好きだよ。ずっと。可愛い。」
夫はしゃくり上げる私の顔を両手で包んで、何度も唇で涙を拭った。
そうして夫は、結婚式以来数年ぶりに、私の唇に唇で触れた。
「寝室を、一緒にしませんか。」
外はすっかり寒かったのに、急に抱きしめられた体は熱くて、首筋にかかる夫の吐く息もものすごく熱くて、背中を一筋の汗が流れた。
それが熱さのせいなのか冷や汗なのか、分かりかねて黙っていると、夫は困ったように笑った。
こんな顔は初めて見るな、と思ったけれど、私が寝室を分けるか聞かれてうなずいたときも、こんな顔をしていたかもしれない。あの時は、どんな顔をしたらいいのかわからなくて、寝室、一緒でもいいですと伝えるのが恥ずかしくて、夫の顔が見られなかった。
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