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太陽と海の帰る場所3
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民宿ひだかの一階の廊下は日中は雨戸が大きく開かれ、網戸を閉める。それだけで充分明るくなり、そこからは中庭の様子がよく見えた。月子の趣味なのか、背が高く伸びた向日葵の周りに、小さなマリーゴールドが囲うように咲いている。時折風によって揺れる花々を奏弥はぼうっと見つめながら、月子に貰った西瓜に齧り付いた。口の中でじゅわりと甘い果汁が溢れ出す。歯触りも良くて後を引く味だ。
今朝、朝食の少し前に太洋と宿へ戻ると、奏弥は月子にお礼を言われた。二階の空気を入れ替えに行き、丁度窓から奏弥と太洋がゴミ拾いをしているのが見えたという。
「浜辺清掃はね、あの子の父親がやってるんです。夏休み中は特に海水浴客も増えるから殆ど毎日。毎週決まった曜日にボランティアの人達も来るんだけど、父さんが動けない時は自分がやるからって」
月子はふわりと微笑んだ。余程嬉しかったのだろう、奏弥は気恥ずかしくなった。
「大したことしてないですよ、たまたま早起きしてそれを手伝っただけですって」
あくまでもたまたまだったと言い張り、食べかけの西瓜に再び齧り付く。しかし月子は首を振った。
「それでも、あの子が誰かと一緒に一生懸命な姿は久しぶりに見ましたから」
少し泣きそうな顔で月子が言った。奏弥はそれ以上謙遜するのをやめ、彼女のお礼をゆっくりと受け取ることにした。
月子に貰った西瓜を食べ終えた奏弥は、昨日サボった荷物整理をしに部屋へ戻った。散歩に行く前に、着替えや鞄を整理をしておくことにした。明日以降もここに留まるのだ、シャツをキャリーバッグに詰めたままは流石にシワが寄って格好悪い。使うために持ち込んだ物たちだし、彼らも使われた方が嬉しいに決まっている。使わせてもらう部屋も、出来る限り使い勝手の良いようにしておきたいところだ。そうと決めたら、奏弥は早速大きなキャリーバッグをひっくり返す。服を取り出し、ハンガーへ掛けた。タオル類もすぐ使えるように、部屋の棚へと移動させた。洗面具を入れ込んだ袋を取り出すと、カランという音を立て、何かが足下に落ちた。
「あ……」
転がったのはキーケースから取り外された部屋の鍵だった。ここのものではなく、奏弥が住んでいたマンションのもの。適当に入れ込んだ覚えはあった。キャリーバッグの中で埋れれば良いと、そう投げ入れた覚えもある。
「もう、使わないのになぁ」
こんなところにいたのか……。
しみじみとそれを眺め、溜息を漏らした。キュッと胸が詰まって見るのが辛い。でも、持っていると不思議と安堵した。
奏弥はその鍵を履いているデニムのポケットに入れると、止めた手を再び動かした。
結局、散歩に出たのは十五時近くだった。日差しの強さは先ほどよりも弱まって、西陽が眩しい。海辺には朝行ったので、商店街の方へ足を伸ばした。海沿いの道を歩くと距離があるため、奏弥は向かい側の道路へと小走りで渡ってすぐ近くの路地へと入る。車一台分ぐらいの狭い道だったが、そこを抜けると商店街が見えると聞いていた。アパートや一軒家の陰になったその道は、眩しい陽が差し込まず、肌に当たる風は冷んやりと涼しい。少しぬかるんだ土がスニーカーの底を重くしたが、直ぐに商店街の入り口に抜け出た。
特徴的な古びた大きなアーチが顔を出し、物珍しさに奏弥はそれを見上げた。潮風に当てられ禿げかけた塗装がどことなく懐かしさをみせる。そのアーチの奥には駅が見えた。昨日は車でこの中を通り抜けたからか、そこまで長い商店街だと思っていなかったが、歩くとなるとこの場所から駅までの距離は結構ありそうだ。もっといえば、商店街は殆どがシャッターを上げて呼び込みをしている。目移りや呼び止められたら更に時間はかかりそうだ。
「あれ、お兄さん見ない顔ですね」
そう思っていた矢先、一番手前の土産物屋で呼び込みをしていた若い女性に声をかけられた。
「えぇ、まぁ……こんにちは」
街を歩いていてそんな風に声をかけられた事に驚いた奏弥は、ぎこちない返事を返す。
あれ……この子、どこかで……。
奏弥が彼女の顔じっと見ていると、その視線を不思議に思った彼女は首を傾げた。
「あ、えっと、このお店は?」
慌てて奏弥が口を開く。声が若干裏返った。
どこかで見たと感じても、流石に今のは失礼かつ不審だろう。警察を呼ばれたら冗談じゃすまなくなる。
「ここは土産物屋です。こちらどうぞ」
奏弥の裏返った声に女性は小さく笑うと、試食用の皿を奏弥に差し出した。皿の上には四等分に切られた饅頭ひとつひとつに爪楊枝が刺さっている。
「あぁ、ありがとうございます」
香ばしく甘い匂いが鼻腔をくすぐる。口の中に入れると、ふわふわとした生地の中にずっしり白餡が入っていた。見上げると、立派な木彫りの看板が暖簾の上に設置されている。店名は『みやげの津崎』と達筆な文字で彫刻されていた。
「うちで作ってるんですよ。この辺、名物っぽいお菓子ないから」
「へぇ。でも美味しいですよ」
「ありがとうございます」
彼女は嬉しそうにはにかむと、小さなカップにお茶を淹れて奏弥に手渡す。このお茶はサービスらしい。
「どちらに泊まってるんですか?」
「えっと、海沿いの民宿に……」
「あぁ、もしかして『ひだか』ですか?」
「えぇ、そうです」
言い当てられて一瞬驚いたが、この辺で海沿いにある民宿は「ひだか」だけなのは奏弥も知っていた。
「私、よくここのお土産を持って行くんですよ。ほら、カウンターのとこに箱菓子置いてませんでした?」
「あぁ、確かに。ありましたね」
何が置いてあったかはふわりとしか覚えていないが、よく旅館で見るのと同じで、この民宿でも地元の箱菓子を置いておくのだなと、思ったことは覚えている。
「ぜひ、お帰りの際はご贔屓に」
「えぇ、そうですね。ごちそうさまでした」
にこりと笑顔を返し、奏弥は土産物屋を後にした。
その後はずっと駅の方まで店を見ながら歩いていた。八百屋や魚屋といった、都内でも見かける店もあったが、奏弥には珍しくて、一軒一軒ゆっくりと周る。途中、外まで出汁の良い香りがする蕎麦屋も見つけた。すると、腹の虫まで刺激したようで、ぐぅという音が腹から鳴った。同時にひぐらしの鳴き声が耳に入る。空を見上げると、さっきまで澄んだ水色をしていたというのに、オレンジ色と群青色が混ざったような色をしている。デニムの後ろポケットに入れていたスマホを取り出すと、時刻はだいぶ経っており、月子の作る晩御飯の時間だった。
「あー……。やっちゃったなぁ……」
せっかく準備をしてくれていた彼女のことを考えると、時間にその場にいないのは申し訳ない。かと言って、もう駅の方へ来てしまっている。駅前なのにタクシーは一台もない。早足で帰っても結局待たせてしまうし、迷惑はかけてしまうだろう。それでも急いで帰らなければ、そう思った時だった。
「朝海さんっ」
車のクラクションと共に、奏弥の名前を呼ぶ声が道路から聞こえた。振り向くと、昨日の昼間にここへ来てすぐ乗り込んだバンが奏弥のすぐ目の前に止まった。
「え……太洋くん?」
「お帰りが遅いので、迎えに来ました!」
ドアを開けて出てくると、後部座席のドアを開ける。
「ごめんなさい、遅くなるつもりはなくて……」
奏弥は促されるまま、車の中へと入る。ドアを閉め、運転席に座ると、太洋は笑いながら答えた。
「あはは。良いんですよ。俺が勝手に来たっていうか、今朝のお礼ですから」
「お礼って……大したことしてないのに」
「大したことですよ。俺の気分一日中上げちゃうぐらいに」
シートベルトを締め、サイドブレーキを上げると、太洋は車を発進させた。
「え、そうだったの?」
「そうです。俺、結構単純なんで。だから夕飯一緒に食べませんかって誘いに行こうって思ってたんですよ。場所は食堂ですけど……。そしたら部屋にも風呂にもいないし、母さんに聞いたら帰ってきてないって言ってたから」
あぁ、そういうことか。
奏弥の中に罪悪感が増す。探してくれた上に、ここまで来させてしまった。それもまだ出会って二日目の人に、だ。
「う、余計ごめん……。俺の方が迷惑かけてるし……。でも、迎えに来てくれてありがとう、正直助かりました……」
運転中で見えないだろうからバックミラーに手を合わせた。すると、ミラー越しに太洋と目が合った。途端に今朝、頬についた砂を拭われたことを思い出し、目を逸らす。
いや、謝っているのに目を逸らすってなんだよ……。
自分にツッコミを入れ、奏弥はもういいバックミラーを見た。また太洋と目が合って、今度はあっちからにこりと笑みを返される。どきんと、心臓が跳ねた気がした。
「それで、朝海さん」
「あ、はい」
奏弥は背筋をピンと張った。
「俺、夕飯ご一緒しても良いですか?」
ごにょごにょと小声で「お一人旅ですし、別に無理にとは……」と言うのも聞こえたが、奏弥は背筋を張ったままもう一度バックミラー越しに太洋を見つめながら返事をした。
「……ぜひ。太洋くんともっと話、してみたいな」
「はいっ、たくさん話します!」
「あははは、なにそれ。本当、太洋くんって面白いなぁ」
二人の笑い声が車内に響く。少し空いた窓からは、夜の海の小さな波音が流れ込んできた。
その日の夕飯はカレーだった。二人が食堂の席に着いた時、他の宿泊客は半分は食べ進めている頃だった。家族で泊まりに来ているところの男の子に至っては、月子におかわりを強請っていた。
「すみません、遅くなりました」
厨房で男の子の皿におかわりを盛り付けている月子に、奏弥は頭を下げた。
「あら、おかえりなさい。ふふふ、間に合ってよかったです。うちのカレーお客様に好評みたいだから、残らなかったらどうしようかしらって思ってたんですよ」
「そこは母さん、残そうとしてよ」
月子の冗談を真に受けた太洋が呆れ顔で言う。
「だって、おかわり強請られたらさせてあげたくなるでしょう?」
クスクスと微笑むと、月子は男の子の方へカレー皿を持っていった。嬉しそうな顔で皿を受け取った男の子は、足早に自席へと戻っていく。
「すみません、次からは気をつけます」
「朝海さん」
「は、はいっ」
おっとりした月子からお咎めのセリフが飛ぶのかと思い、奏弥は身構えた。思わずキュッと目を閉じる。上司に叱責される際についた嫌な癖だった。
「お腹、空いたでしょう?今、太洋に運ばせますから、手を洗って来てください」
奏弥は強く瞑った目をゆっくり開く。
「……はい」
拍子抜けした奏弥の顔を見つめると、月子はもう一度微笑んで、太洋と一緒に二人の食事の準備に取り掛かった。
太洋と向かい合って席につき、カレーを食べた。ここに来てまだ二日目だが、久々に誰かと向き合って食事をした。人と食事をしたのが久しぶりすぎて、会話のタイミングが分からず、奏弥は黙って黙々と口にカレーを運ぶ。
「あの」
遠慮がちに太洋が口を開いた。
「ん、何?」
「朝海さんも夏休みなんですよね」
「あー……うん。そんな感じ。ずっと休めなかったからまとまった休みをもらったんだ」
奏弥は言葉を濁した。罰が悪く、顔を上げ難い。視線を皿に落としたまま、再びスプーンを口に運んだ。
「そうなんですか。やっぱり社会人って忙しいのかぁ」
「太洋くんだって、ここでは忙しいでしょ」
「いやいや、俺なんて朝海さんに比べたら全然ですよ。出来ることしかしてないし……」
「でも、それが一番良い手伝い方だよ。それに、太洋くんが楽しそうにしてくれるから、こっちも楽しいし、嬉しくなる」
奏弥は本心でそう思った。実際、ここに来てから仕事やプライベートで溜め込んでしまったものが少しずつ緩和されたのは事実だ。まだ二日しか経ってないが、奏弥にとっては、その二日間で出会った太洋の存在は大きいといっても過言ではない。
「そう言って頂けて嬉しいですっ」
太洋がにっこりと楽しそうに笑う。
「でも大学生でしょう?友達と遊びたい盛りなのに偉いね」
「まぁ、それはそうですけど。俺、卒業したらここの手伝いしながら地元で働くって決めてたから、予行練習的な」
「へぇ、ちゃんと考えているんだ。でも夏休み全部?彼女とか寂しがるんじゃないの?」
「い、いないですよ彼女は!」
上擦った大きな声で、太洋が否定する。その慌て方が見た目よりも遥かに幼く見え、奏弥は吹き出した。
「ごめんごめん。こんなにカッコよくて優しいのに、残念だなぁ」
「朝海さん……お世辞はやめてください」
「はぁい」
顔を赤らめた太洋を見て、奏弥はくすくすと笑いながら気の抜けた返事をする。
なんだ、彼女いないのか……。
口には出さず、心の中で何度もそれを噛み締める。彼みたいな優しい人なら、きっと未来の恋人も安泰だろう。
羨ましいな……。
見えない未来を勝手に想像して、奏弥の胸がチクリと痛む。
「そういえば」
顔を赤らめたまま、咳払いをした太洋が奏弥に尋ねた。
「どうしてここにしたんですか」
「ここって、民宿ひだか?」
すると太洋は首を横に振る。どうやら民宿の場所ではなく、この地のことを聞いているらしい。
「あー……うん。遠くに行きたくなったんだ、少し疲れちゃったから。近いとすぐ帰って来れちゃうし……。それで、遠くの土地で、それも海があるところに行こうって決めたの。それだけ」
「はぁ」
ざっくりした答えに、太洋は不思議そうな顔をした。
「適当でごめんね」
「いや、別に謝ることじゃ……!」
「ううん、ごめん。君の生まれたところだもんね」
適当に決めた場所なんて、失礼な言い方をしたと奏弥は謝る。
「でも、ひだかに決めたのはちゃんと理由があるんだ」
「えっ、他と比べて安いからじゃないんですか?」
奏弥は笑いながら首を振った。
「あはは。確かにここは安いからみんな長く居られると思うけどね。俺、民宿ってここが初めてでさ。ホテルと比べたら民宿って温かいイメージがあるでしょう?そういうとこに行きたいなぁって。それでここが一番そう見えたから、ひだかに決めたんだ」
確かに駅から温泉やホテルへ行くバスも出ている通り、この近辺には宿泊施設が数件在る。その中でここに決めたのは、奏弥が持った民宿への憧れに近いイメージだったからだった。すると、太洋は急に口元を片手で覆う。
「あれ、どうかした?」
「朝海さん……俺、にやけそう……」
「あはは。照れ屋だなぁ」
奏弥が揶揄うと、太洋は緩む頬を押さえながら小さな声で言った。
「ここ、何もないですけど……海だけは綺麗ですから」
「……うん。そうだね、確かに綺麗だ」
にこりと微笑んだ奏弥は、最後の一口を口に運ぶと手を合わせて「ご馳走様でした」と呟いた。
今朝、朝食の少し前に太洋と宿へ戻ると、奏弥は月子にお礼を言われた。二階の空気を入れ替えに行き、丁度窓から奏弥と太洋がゴミ拾いをしているのが見えたという。
「浜辺清掃はね、あの子の父親がやってるんです。夏休み中は特に海水浴客も増えるから殆ど毎日。毎週決まった曜日にボランティアの人達も来るんだけど、父さんが動けない時は自分がやるからって」
月子はふわりと微笑んだ。余程嬉しかったのだろう、奏弥は気恥ずかしくなった。
「大したことしてないですよ、たまたま早起きしてそれを手伝っただけですって」
あくまでもたまたまだったと言い張り、食べかけの西瓜に再び齧り付く。しかし月子は首を振った。
「それでも、あの子が誰かと一緒に一生懸命な姿は久しぶりに見ましたから」
少し泣きそうな顔で月子が言った。奏弥はそれ以上謙遜するのをやめ、彼女のお礼をゆっくりと受け取ることにした。
月子に貰った西瓜を食べ終えた奏弥は、昨日サボった荷物整理をしに部屋へ戻った。散歩に行く前に、着替えや鞄を整理をしておくことにした。明日以降もここに留まるのだ、シャツをキャリーバッグに詰めたままは流石にシワが寄って格好悪い。使うために持ち込んだ物たちだし、彼らも使われた方が嬉しいに決まっている。使わせてもらう部屋も、出来る限り使い勝手の良いようにしておきたいところだ。そうと決めたら、奏弥は早速大きなキャリーバッグをひっくり返す。服を取り出し、ハンガーへ掛けた。タオル類もすぐ使えるように、部屋の棚へと移動させた。洗面具を入れ込んだ袋を取り出すと、カランという音を立て、何かが足下に落ちた。
「あ……」
転がったのはキーケースから取り外された部屋の鍵だった。ここのものではなく、奏弥が住んでいたマンションのもの。適当に入れ込んだ覚えはあった。キャリーバッグの中で埋れれば良いと、そう投げ入れた覚えもある。
「もう、使わないのになぁ」
こんなところにいたのか……。
しみじみとそれを眺め、溜息を漏らした。キュッと胸が詰まって見るのが辛い。でも、持っていると不思議と安堵した。
奏弥はその鍵を履いているデニムのポケットに入れると、止めた手を再び動かした。
結局、散歩に出たのは十五時近くだった。日差しの強さは先ほどよりも弱まって、西陽が眩しい。海辺には朝行ったので、商店街の方へ足を伸ばした。海沿いの道を歩くと距離があるため、奏弥は向かい側の道路へと小走りで渡ってすぐ近くの路地へと入る。車一台分ぐらいの狭い道だったが、そこを抜けると商店街が見えると聞いていた。アパートや一軒家の陰になったその道は、眩しい陽が差し込まず、肌に当たる風は冷んやりと涼しい。少しぬかるんだ土がスニーカーの底を重くしたが、直ぐに商店街の入り口に抜け出た。
特徴的な古びた大きなアーチが顔を出し、物珍しさに奏弥はそれを見上げた。潮風に当てられ禿げかけた塗装がどことなく懐かしさをみせる。そのアーチの奥には駅が見えた。昨日は車でこの中を通り抜けたからか、そこまで長い商店街だと思っていなかったが、歩くとなるとこの場所から駅までの距離は結構ありそうだ。もっといえば、商店街は殆どがシャッターを上げて呼び込みをしている。目移りや呼び止められたら更に時間はかかりそうだ。
「あれ、お兄さん見ない顔ですね」
そう思っていた矢先、一番手前の土産物屋で呼び込みをしていた若い女性に声をかけられた。
「えぇ、まぁ……こんにちは」
街を歩いていてそんな風に声をかけられた事に驚いた奏弥は、ぎこちない返事を返す。
あれ……この子、どこかで……。
奏弥が彼女の顔じっと見ていると、その視線を不思議に思った彼女は首を傾げた。
「あ、えっと、このお店は?」
慌てて奏弥が口を開く。声が若干裏返った。
どこかで見たと感じても、流石に今のは失礼かつ不審だろう。警察を呼ばれたら冗談じゃすまなくなる。
「ここは土産物屋です。こちらどうぞ」
奏弥の裏返った声に女性は小さく笑うと、試食用の皿を奏弥に差し出した。皿の上には四等分に切られた饅頭ひとつひとつに爪楊枝が刺さっている。
「あぁ、ありがとうございます」
香ばしく甘い匂いが鼻腔をくすぐる。口の中に入れると、ふわふわとした生地の中にずっしり白餡が入っていた。見上げると、立派な木彫りの看板が暖簾の上に設置されている。店名は『みやげの津崎』と達筆な文字で彫刻されていた。
「うちで作ってるんですよ。この辺、名物っぽいお菓子ないから」
「へぇ。でも美味しいですよ」
「ありがとうございます」
彼女は嬉しそうにはにかむと、小さなカップにお茶を淹れて奏弥に手渡す。このお茶はサービスらしい。
「どちらに泊まってるんですか?」
「えっと、海沿いの民宿に……」
「あぁ、もしかして『ひだか』ですか?」
「えぇ、そうです」
言い当てられて一瞬驚いたが、この辺で海沿いにある民宿は「ひだか」だけなのは奏弥も知っていた。
「私、よくここのお土産を持って行くんですよ。ほら、カウンターのとこに箱菓子置いてませんでした?」
「あぁ、確かに。ありましたね」
何が置いてあったかはふわりとしか覚えていないが、よく旅館で見るのと同じで、この民宿でも地元の箱菓子を置いておくのだなと、思ったことは覚えている。
「ぜひ、お帰りの際はご贔屓に」
「えぇ、そうですね。ごちそうさまでした」
にこりと笑顔を返し、奏弥は土産物屋を後にした。
その後はずっと駅の方まで店を見ながら歩いていた。八百屋や魚屋といった、都内でも見かける店もあったが、奏弥には珍しくて、一軒一軒ゆっくりと周る。途中、外まで出汁の良い香りがする蕎麦屋も見つけた。すると、腹の虫まで刺激したようで、ぐぅという音が腹から鳴った。同時にひぐらしの鳴き声が耳に入る。空を見上げると、さっきまで澄んだ水色をしていたというのに、オレンジ色と群青色が混ざったような色をしている。デニムの後ろポケットに入れていたスマホを取り出すと、時刻はだいぶ経っており、月子の作る晩御飯の時間だった。
「あー……。やっちゃったなぁ……」
せっかく準備をしてくれていた彼女のことを考えると、時間にその場にいないのは申し訳ない。かと言って、もう駅の方へ来てしまっている。駅前なのにタクシーは一台もない。早足で帰っても結局待たせてしまうし、迷惑はかけてしまうだろう。それでも急いで帰らなければ、そう思った時だった。
「朝海さんっ」
車のクラクションと共に、奏弥の名前を呼ぶ声が道路から聞こえた。振り向くと、昨日の昼間にここへ来てすぐ乗り込んだバンが奏弥のすぐ目の前に止まった。
「え……太洋くん?」
「お帰りが遅いので、迎えに来ました!」
ドアを開けて出てくると、後部座席のドアを開ける。
「ごめんなさい、遅くなるつもりはなくて……」
奏弥は促されるまま、車の中へと入る。ドアを閉め、運転席に座ると、太洋は笑いながら答えた。
「あはは。良いんですよ。俺が勝手に来たっていうか、今朝のお礼ですから」
「お礼って……大したことしてないのに」
「大したことですよ。俺の気分一日中上げちゃうぐらいに」
シートベルトを締め、サイドブレーキを上げると、太洋は車を発進させた。
「え、そうだったの?」
「そうです。俺、結構単純なんで。だから夕飯一緒に食べませんかって誘いに行こうって思ってたんですよ。場所は食堂ですけど……。そしたら部屋にも風呂にもいないし、母さんに聞いたら帰ってきてないって言ってたから」
あぁ、そういうことか。
奏弥の中に罪悪感が増す。探してくれた上に、ここまで来させてしまった。それもまだ出会って二日目の人に、だ。
「う、余計ごめん……。俺の方が迷惑かけてるし……。でも、迎えに来てくれてありがとう、正直助かりました……」
運転中で見えないだろうからバックミラーに手を合わせた。すると、ミラー越しに太洋と目が合った。途端に今朝、頬についた砂を拭われたことを思い出し、目を逸らす。
いや、謝っているのに目を逸らすってなんだよ……。
自分にツッコミを入れ、奏弥はもういいバックミラーを見た。また太洋と目が合って、今度はあっちからにこりと笑みを返される。どきんと、心臓が跳ねた気がした。
「それで、朝海さん」
「あ、はい」
奏弥は背筋をピンと張った。
「俺、夕飯ご一緒しても良いですか?」
ごにょごにょと小声で「お一人旅ですし、別に無理にとは……」と言うのも聞こえたが、奏弥は背筋を張ったままもう一度バックミラー越しに太洋を見つめながら返事をした。
「……ぜひ。太洋くんともっと話、してみたいな」
「はいっ、たくさん話します!」
「あははは、なにそれ。本当、太洋くんって面白いなぁ」
二人の笑い声が車内に響く。少し空いた窓からは、夜の海の小さな波音が流れ込んできた。
その日の夕飯はカレーだった。二人が食堂の席に着いた時、他の宿泊客は半分は食べ進めている頃だった。家族で泊まりに来ているところの男の子に至っては、月子におかわりを強請っていた。
「すみません、遅くなりました」
厨房で男の子の皿におかわりを盛り付けている月子に、奏弥は頭を下げた。
「あら、おかえりなさい。ふふふ、間に合ってよかったです。うちのカレーお客様に好評みたいだから、残らなかったらどうしようかしらって思ってたんですよ」
「そこは母さん、残そうとしてよ」
月子の冗談を真に受けた太洋が呆れ顔で言う。
「だって、おかわり強請られたらさせてあげたくなるでしょう?」
クスクスと微笑むと、月子は男の子の方へカレー皿を持っていった。嬉しそうな顔で皿を受け取った男の子は、足早に自席へと戻っていく。
「すみません、次からは気をつけます」
「朝海さん」
「は、はいっ」
おっとりした月子からお咎めのセリフが飛ぶのかと思い、奏弥は身構えた。思わずキュッと目を閉じる。上司に叱責される際についた嫌な癖だった。
「お腹、空いたでしょう?今、太洋に運ばせますから、手を洗って来てください」
奏弥は強く瞑った目をゆっくり開く。
「……はい」
拍子抜けした奏弥の顔を見つめると、月子はもう一度微笑んで、太洋と一緒に二人の食事の準備に取り掛かった。
太洋と向かい合って席につき、カレーを食べた。ここに来てまだ二日目だが、久々に誰かと向き合って食事をした。人と食事をしたのが久しぶりすぎて、会話のタイミングが分からず、奏弥は黙って黙々と口にカレーを運ぶ。
「あの」
遠慮がちに太洋が口を開いた。
「ん、何?」
「朝海さんも夏休みなんですよね」
「あー……うん。そんな感じ。ずっと休めなかったからまとまった休みをもらったんだ」
奏弥は言葉を濁した。罰が悪く、顔を上げ難い。視線を皿に落としたまま、再びスプーンを口に運んだ。
「そうなんですか。やっぱり社会人って忙しいのかぁ」
「太洋くんだって、ここでは忙しいでしょ」
「いやいや、俺なんて朝海さんに比べたら全然ですよ。出来ることしかしてないし……」
「でも、それが一番良い手伝い方だよ。それに、太洋くんが楽しそうにしてくれるから、こっちも楽しいし、嬉しくなる」
奏弥は本心でそう思った。実際、ここに来てから仕事やプライベートで溜め込んでしまったものが少しずつ緩和されたのは事実だ。まだ二日しか経ってないが、奏弥にとっては、その二日間で出会った太洋の存在は大きいといっても過言ではない。
「そう言って頂けて嬉しいですっ」
太洋がにっこりと楽しそうに笑う。
「でも大学生でしょう?友達と遊びたい盛りなのに偉いね」
「まぁ、それはそうですけど。俺、卒業したらここの手伝いしながら地元で働くって決めてたから、予行練習的な」
「へぇ、ちゃんと考えているんだ。でも夏休み全部?彼女とか寂しがるんじゃないの?」
「い、いないですよ彼女は!」
上擦った大きな声で、太洋が否定する。その慌て方が見た目よりも遥かに幼く見え、奏弥は吹き出した。
「ごめんごめん。こんなにカッコよくて優しいのに、残念だなぁ」
「朝海さん……お世辞はやめてください」
「はぁい」
顔を赤らめた太洋を見て、奏弥はくすくすと笑いながら気の抜けた返事をする。
なんだ、彼女いないのか……。
口には出さず、心の中で何度もそれを噛み締める。彼みたいな優しい人なら、きっと未来の恋人も安泰だろう。
羨ましいな……。
見えない未来を勝手に想像して、奏弥の胸がチクリと痛む。
「そういえば」
顔を赤らめたまま、咳払いをした太洋が奏弥に尋ねた。
「どうしてここにしたんですか」
「ここって、民宿ひだか?」
すると太洋は首を横に振る。どうやら民宿の場所ではなく、この地のことを聞いているらしい。
「あー……うん。遠くに行きたくなったんだ、少し疲れちゃったから。近いとすぐ帰って来れちゃうし……。それで、遠くの土地で、それも海があるところに行こうって決めたの。それだけ」
「はぁ」
ざっくりした答えに、太洋は不思議そうな顔をした。
「適当でごめんね」
「いや、別に謝ることじゃ……!」
「ううん、ごめん。君の生まれたところだもんね」
適当に決めた場所なんて、失礼な言い方をしたと奏弥は謝る。
「でも、ひだかに決めたのはちゃんと理由があるんだ」
「えっ、他と比べて安いからじゃないんですか?」
奏弥は笑いながら首を振った。
「あはは。確かにここは安いからみんな長く居られると思うけどね。俺、民宿ってここが初めてでさ。ホテルと比べたら民宿って温かいイメージがあるでしょう?そういうとこに行きたいなぁって。それでここが一番そう見えたから、ひだかに決めたんだ」
確かに駅から温泉やホテルへ行くバスも出ている通り、この近辺には宿泊施設が数件在る。その中でここに決めたのは、奏弥が持った民宿への憧れに近いイメージだったからだった。すると、太洋は急に口元を片手で覆う。
「あれ、どうかした?」
「朝海さん……俺、にやけそう……」
「あはは。照れ屋だなぁ」
奏弥が揶揄うと、太洋は緩む頬を押さえながら小さな声で言った。
「ここ、何もないですけど……海だけは綺麗ですから」
「……うん。そうだね、確かに綺麗だ」
にこりと微笑んだ奏弥は、最後の一口を口に運ぶと手を合わせて「ご馳走様でした」と呟いた。
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祝福を授かりながらも、決して傲慢ではなく、いつも穏やかに笑っている青年。
柔らかな白銀の髪、淡い光を湛えた瞳。人々が息を呑むほどの美しさを持つ。
攻め――アーヴィス。
リュシアンと同じく祝福を授かる。リュシアン以上に人の域を逸脱した容姿。
黒曜石のような瞳、彫刻のように整った顔立ち。
王国に名を轟かせる貴族であり、数々の功績を誇る英雄。
届かない「ただいま」
AzureHaru
BL
いつも通りの変わらない日常のはずだった。
「行ってきます。」と言って出て行った貴方。1日が終わる頃に「ただいま。」と「おかえり。」を笑顔で交わすはずだった。でも、その言葉はもう貴方には届かない。
これは「優しさが奪った日常」の物語。
完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました
美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!
冬は寒いから
青埜澄
BL
誰かの一番になれなくても、そばにいたいと思ってしまう。
片想いのまま時間だけが過ぎていく冬。
そんな僕の前に現れたのは、誰よりも強引で、優しい人だった。
「二番目でもいいから、好きになって」
忘れたふりをしていた気持ちが、少しずつ溶けていく。
冬のラブストーリー。
『主な登場人物』
橋平司
九条冬馬
浜本浩二
※すみません、最初アップしていたものをもう一度加筆修正しアップしなおしました。大まかなストーリー、登場人物は変更ありません。
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