太陽と海の帰る場所

杏西モジコ

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太陽と海の帰る場所2

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 次の日、奏弥は朝早くに目を覚ました。枕元に置いていたスマホを探り、眩しそうに画面を見つめると、出勤時と同じ起床時間に早朝から溜息が漏れる。
「せっかく、アラームしなかったのに……」
 奏弥はスマホをもう一度枕元に放り、布団の上で身体を大きく伸ばす。久々に眠る敷布団はなんだか懐かしくて、よく眠れた気がして身体が軽い。真夏だというのに冷房も付けないでこんなにぐっすり眠れたのには驚いた。眠る前は夏用ではあるが、用意された掛け布団を使うことに抵抗があったが、朝方は涼しくて寧ろこれが丁度良い。奏弥は布団を被り直して避暑地の気温差を噛み締めた。いつもなら休日に託けて二度寝を決め込むのだが、ここに来てまだ日も浅く、なんとなく勿体ない気がして、奏弥はゆっくりと身体を起こした。もう一度ど身体を大きく伸ばすと、フェイスタオルを首にかけて寝間着のまま廊下に出た。廊下もひんやりとしていて、真夏だということを一瞬忘れさせる。二階には奏弥以外の宿泊客はいないと聞いていたが、音を立てないようにゆっくりとドアを閉めた。ぱたぱたと小さくスリッパの音を立てながら廊下の突き当たりにある手洗い場へ行き、顔を洗う。冷たい水に触れて、さっきよりも目が冴えてきた。
 今日は何をしよう。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、濡れた顔をタオルで拭く。ここにきた目的は明確にあるにはあるのだご、それは今すぐにやることではない。
 もう少し、日を延ばしても大丈夫だ……。
 おまじないを唱えるように、奏弥は目を瞑る。数秒後、ゆっくり目を開けると部屋へと戻った。


 さて、本当に今日は何をしようか。今まで詰め込まれたスケジュールをこなす日々だったのが、昨日からはそれが一変して予定は全てまっさらだ。窓を開け、空気を入れ替える。水色の綺麗な空に、大きな海。窓から入り込んだ海風はまだ少し冷たくて、腕を摩った。ゆったりとした波の動きに思わず目を奪われる。いくらでも見ていられるその風景を暫く眺めていた。早朝のこの時間からサーフィンを楽しむ人が見え、ここへ来るまでのことを思い出す。それと同時に昨晩の夕飯時に月子から聞いた話を思い出した。
 商店街は小さいが、近隣住民には最寄りのスーパーに行くよりも近くて安いらしい。そのおかげで駅前は年中活気のある通りになっていると聞いた。もちろんスーパーやショッピングモールに行くこともあるけれど、それこそ大型連休ぐらいにしか行くことはない。ショッピングモールにはゲームセンターも映画館もあるし、レジャー施設扱いだという。
「行きたい時は言ってください、車なら出しますから」
 話を聞いていた太洋がそう言ったが、気持ちだけ受け取っておくことにした。どちらにしろ奏弥にとってその施設は珍しくもなんともない。たぶんここに来た手前、わざわざ行くことはないだろう。それに話を聞くと太洋の父親が骨折で急遽入院してしまい、一人で切り盛りすることになってしまった月子の手伝いで夏休みを使って帰省してきたという。普段は都内で大学生活を謳歌しているらしい学生に色々言い付けるのは悪い気がした。
 うん、長い休みだし、今日はこの辺を散歩でもしよう。
 どんなコースにしようかとかんがえていると、ふと浜辺を一人で歩く青年に目が止まった。



 民宿ひだかには奏弥以外にも宿泊客がいた。親戚同士で遊びに来ている、子連れの三人家族の堀内家と四人家族の大宮家。そして大学生カップルの三組だ。この三組は一階の客室を使っており、滞在日程も奏弥より短い。夕飯時に手短に挨拶を交わした。皆、都内近郊からやってきた人達で、夏休みの避暑地としてここに訪れている。そんな観光客の安全を確保するのが民宿側の仕事でもある。それは滞在時間の長さに必ずだ。長期滞在で、この土地に慣れ始めても状況は変わらない。昨日、施設内を案内された際に太洋からそう言われて奏弥は頷いた。だからこそ、どこかに出かける際は目的地と戻り時間をざっくりでも良いから伝えてほしいと念を押された。しかし、この状況はどうなるのだろうか。
 早朝で、カウンターは不在。でも、どうしても気になってしまって海辺へ向かいたい。大した理由でもないし、こんなことのために離れで休んでいる従業員を起こすのは気が引ける。目に入ったのは宿泊台帳と、その横に置かれたボールペン。近付くとカウンターの内側にポストイットが置かれているのが見えた。奏弥はそれを一枚拝借すると、走り書きでメモを残し、玄関から出て行った。


 外に出ると、室内で感じた涼しさが一変した。数分歩いただけで肌にじんわりと汗が滲む。風が吹いているだけ幾分かはましだが、昼過ぎになったらもっと暑くなると考えただけで肩の当たりがずしんと重くなった。
奏弥は玄関から宿泊者が自由に使えるサンダルを借り、舗装された海沿の道路を足早に歩く。
 これも、久々だ……。
 サンダルで朝から外を出歩くなんて、かなり久しぶりだった。思えば季節関係なく休日はとにかく家で眠っていた気がする。ベッドから出るのが億劫で、ずっと家に籠ってばかりだった。そのせいもあってか、海風に乗って飛んできた砂がサンダルの隙間から入り込むのもなんだか楽しく感じる。少し歩くと浜辺へと続く階段が見えてきた。若い女の子が一人、その階段に座り込んで浜辺をじっと見ている。サーファーの知り合いだろうかと思い、軽く挨拶すると「すみません」と小さく謝り立ち上がる。座ってても良いと伝えようと思ったが、彼女は立ち上がるとすぐに海岸沿いの道路を走って行ってしまった。
「どうしたんだろ……」
 何か邪魔をしてしまっただろうか。
 視線の先は大きくて広い海と浜辺。視界を遮ったわけでもない。しかし、行ってしまったし、何より男が女性を追いかけて不審者扱いされても困る。数秒ほどどうしようか考えたが、奏弥は考えるのをやめて、鼻歌混じりで浜辺へ続く階段を降りた。ほとんど砂に埋もれて下段は殆ど見えていない。滑り落ちないようにゆっくりと降りて、砂の上に立つ。まだそこまで熱くはなかったが、もうじきにこの砂は靴やサンダルなしでは歩けなくなる温度になりそうだ。
 奏弥は砂を蹴り上げるように歩き、窓から見えた方角へと進んで行く。こんなに砂の上が歩きにくいと実感したのはいつぶりだろうか。砂に足を取られ、よたよたと頼りない動きになっていく。
「痛っ」
 サンダルに砂ががっつり入り込み、チクリと何かを踏んだ。履いていたサンダルを脱いで砂を払い、足の裏に何か刺さっていないか確認しようと、片足を上げた。
「うわぁっ」
 奏弥はバランスを崩し、その場に思いっきり尻もちをついた。
「イタタ……」
 咄嗟のことで受け身がうまく取れず、腕や足は砂まみれだ。
「大丈夫ですかー!」
 こちらに気がついた太洋が離れたところから走ってくるのが見えた。片手に火バサミを持ち、もう片方に持ったビニール袋がガサガサと大きな音を立てている。慌てて立ち上がって砂を払うが、じんわりと滲んだ汗にこびり付いて綺麗に取れない。眉を寄せ口をへの字に曲げていると、太洋が首に引っ提げたタオルで汗を拭いながら小走りでやってきた。
「朝海さん、お怪我はありませんか?」
「あっ、えと、はいっ。怪我はない、です……」
「いえいえ、怪我がないなら良いんですけど……」
 太洋は昨日よりも不安そうな目で奏弥を見た。自分より若いだろう彼にそんな風に見られると、居た堪れなくなる。奏弥は太洋から視線をずらすと、太洋が急に吹き出した。
「ちょっ、なんで笑うかなぁ……」
「すみません、なんだか昨日と雰囲気が違う気がして」
 くすくすと笑う太洋に奏弥はジト目を向けた。転んだ所を見られて笑われるこっちの身にもなってほしい。
「そりゃ、こんな良い所に来たら毒気は少しでも減るよ。それで気が抜けたの」
「あはは。そうでしたか、もう気に入って頂けて嬉しいです」
 今度はにこりと笑う。が、また肩を揺らして笑い出す。
「そんなに面白いかなぁ……?」
「すみません、頬に砂が……ちょっと失礼しますね」
 太洋は一言断ると、奏弥の頬に手を伸ばした。奏弥は思わずきゅっと目を瞑る。触れた指は暑さによる熱のせいなのか、ほんのりと温かく、くすぐったい。人肌に触れられたのは久々な気がして、胸のあたりも騒がしくななった。
「はい、取れました」
「……ありがとう、ございます……」
 なんだか気恥ずかしくなり、奏弥はまた視線を逸らした。
「お散歩ですか?」
「へ?あぁ、目が覚めちゃって……」
「朝、早いんですね」
「まぁ、習慣的な感じで……嫌になるね、ほんと」
 苦笑いをして、本当はもう少しゆっくり眠るはずだったと、奏弥は言った。確かにこちらに来てまだ身体が緊張しているのかもしれないが、昨日まではほとんどまともに眠っていなかった。
「太洋くんはこんな朝早くに一体何を?」
はぐらかすように奏弥は太洋に尋ねた。
「あぁ、海岸のゴミ拾いです」
 手に持っていた大きな袋を持ち上げながら太洋は答えた。
「ここら辺の子どもは夏休みになると、ラジオ体操を浜辺でやるんですよ。みんな裸足で駆け回るから、ガラス片があったり、クラゲが打ち上げられてたりしたら怪我に繋がっちゃうので……。なので毎朝ゴミ拾いしながら安全確認をしています」
「へぇ……いつも一人で?」
 奏弥は浜辺を見渡しながら聞いた。
「はい、だいたい一人ですけど……」 
 どこからどこまでがラジオ体操で使うところなのかは分からないが、目の前の太洋はこの浜辺一帯を隈なくゴミを拾って歩いてそうに見える。それも、自らが進んでやっていることに関心さえ覚えた。
「あはは、すごいや」
「え、いやぁ……毎年のことなので凄いわけじゃ」
「ううん、凄いよ。てか、偉い。俺なら朝から人のためにって動くのすぐバテちゃうから」
 肘についていた砂を払いながら奏弥は言った。
「それ、俺も手伝って良い?」
「えっ、いやいやいや。ダメですよ、お客様なのにっ」
「良いじゃん、やらせてよ。クラゲは流石にどうしたら良いか分からないけど。良いことしといた方が来世に期待できるでしょ」
 奏弥はそう言って太洋の持っているゴミ袋を彼の手から奪った。
「あ、ちょっと!」
「ほら、早くしないと子ども達が来るんだろ」
「朝海さんが転んでるせいで作業遅れてるんですけど……。じゃあ、少しだけお手伝いします」
「はーい」
 軽口で返事をすると、複雑そうな顔のまま太洋が奏弥に火バサミを手渡すとハーフパンツのポケットから小さく畳まれたビニール袋を取り出し、手渡した。
「ガラス片は危ないから、絶対素手で拾わないでください。俺はもう少し向こうを見てくるので……あ、あと絶対海は入らないでくださいね」
「まさか。入らないって。ハサミ借りるけど、太洋くんこそ素手でガラス片なんて拾わないでよ?」
 すると、太洋は得意系な顔をしてビニール袋の入っていなかった方のポケットから軍手を取り出した。
「ほう、準備が良いねぇ」
「俺はいつだって用意周到ですから」
 にこりと微笑み、太洋は反対側へと駆けていく。その少しだけ遠くなる後ろ姿を見つめる奏弥の額に、じんわりと汗が滲んだ。
太陽が少しずつ昇り始めたようだった。

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