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蝶たちの記憶
しおりを挟むフォーラムにログインした瞬間、画面いっぱいに美しい羽を広げた蝶の映像が現れた。色とりどりのその蝶は、まるで人間の顔を持つかのような不思議な存在感を放っている。そして画面の奥から、仮面をつけた女性のような影が現れた。
**「ようこそ、“蝶の夢”へ。中村雄太さん……いいえ、“変化者”第1082号。」**
「変化者……?」
音声とともに、ログイン直後のページにチャットのようなインターフェースが立ち上がった。その中には、同じように性別や姿を“変えられた”人々が、匿名で会話している。
> 【No.437】女にされて3年。最初は絶望したけど、今は彼氏ができて楽しいわよ。
> 【No.612】戻る方法はある。ただし、“一年間は変化を保たなければならない”。それが蝶の律法。
> 【No.890】それって呪いじゃん……。誰がそんな法則を決めたんだよ。
> 【No.122】古文書によると、元々は“魂のバランス”を整える儀式だったらしい。必要な期間が一年。
美紀が、読みながら小さく息を飲んだ。
「……最低でも、一年間はこのままってこと?」
雄太は自分の手を見下ろした。細くなった指先、肩にかかる髪、そして胸元に触れれば、違和感が“現実”として押し寄せてくる。昨日までは確かに男だったのに。
「“元に戻す術”は存在します。ただし、時が熟すまでは使えない」
そうチャットで答えたのは、“蝶の夢”の管理者とされる【Papilio】という名の存在だった。
その日以降、雄太と美紀は“蝶の夢”の情報を辿って、都内のある秘密サロンへとたどり着いた。そこは見た目こそカフェだが、奥の扉には鍵がかけられ、特定の合言葉を告げた者だけが入れる仕組みになっていた。
「……変化者です」と告げた瞬間、扉が音もなく開く。中は重厚な書物が並ぶ図書室のような空間。そこにいたのは、性別も年齢もまちまちな数人の“変化者”たちだった。
中でも一人、雄太と同じようにかつて男性だったと語る青年――いや、今は長い髪を後ろで束ねた凛とした女性、“蒼(あおい)”という人物が、雄太に近づいてきた。
「あなたも、昨日“押された”クチかしら?」
「え、ああ……そんなところかな」
「私もよ。最初は戸惑った。男としての自分が崩れるようで。でも、1年経った今、ようやくわかってきたの。これは、罰じゃなくて、再生なのよ」
蒼はそう言って微笑んだ。どこか儚げで、それでいて確信に満ちた笑みだった。
その日以来、雄太は週に何度か“蝶の夢”の集会に参加し、同じ立場の仲間たちと語らうようになった。中には、自分の性別を戻すことを望まず、新たな人生を歩み始めた者も多くいた。
そして、美紀との関係も、少しずつ変化していった。
かつての“夫婦”の形は、もはやそこにはなかった。けれど、毎朝の食卓で目が合えば自然と笑い合い、帰宅後には一緒に夕飯を作り、時には膝枕をし合いながら映画を観た。
ある夜、美紀がふと呟いた。
「不思議だね。性別って、こんなにも簡単に変わるのに、あなたの中身は何も変わってない。優しくて、真面目で、私が好きになった雄太くんのまま」
雄太は言葉に詰まりながらも、そっと彼女の手を握った。
「……ありがとう。でも、いつか元に戻ったら、もう一度ちゃんと、夫婦に戻れるかな」
美紀は一瞬、目を伏せた。
「ううん。たぶん、私たちは前の形には戻れないと思う。でも――」
彼女はゆっくりと顔を上げて、微笑んだ。
「今の“あなた”にも、私はまた、恋をしてるかもしれない」
その言葉に、雄太の胸の奥がじんわりと熱くなった。たとえこの変化が呪いのようなものだったとしても、こうして誰かと心を通わせられるなら――それは、もしかしたら新しい生の扉なのかもしれない。
蝶は一度、さなぎになってすべての形を失う。だがその先に、あの美しい羽があるのだと、雄太は初めて信じられる気がした。
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