性転換をするツボ

廣瀬純七

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蝶の檻(おり)

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それから数週間が経った。
雄太は“女性”としての体に、否応なく慣れていった。

最初は手にするマグカップの重ささえ違って感じた。ヒールの音が床を打つ感覚、街で向けられる視線の質、服の締めつけ、心に宿る不安の形。すべてが“別の世界”のものだった。

だが、蝶の夢に通い、蒼と語らい、同じように“変化”を経験した仲間たちと過ごすうちに、それらは少しずつ“日常”へと溶け込んでいった。

「……あなた、表情が変わってきたね」
蒼がある日、サロンのテラスでそう言った。

「変わった?」
「うん。最初はずっと防御してた。目も、声も。でも今は……もう、肩の力が抜けてる。自分の身体に馴染んでるってことだよ」

雄太は苦笑いしながら紅茶を啜った。「慣れるしかなかったっていうか……」

蒼は頷いた後、少し間を置いて言った。

「あなたは、戻るつもりなの?」

その問いは、ずっと雄太の心の底に沈んでいた感情をかき混ぜた。
戻りたい。だけど、それは今までの“何か”を壊すことでもある。

「……戻れたら、美紀とまた普通に夫婦に戻れるかもって……でも、最近はよくわからないんだ」

蒼は視線を空に向けた。「私は、戻らないって決めた。元の身体に戻るには、“代償”が必要だから」

「代償?」

「蝶の夢の奥にある“記録室”に、古文書がある。変化の術は元々、魂の均衡を取り戻すために生まれたって言われてる。でも――その均衡を“逆戻り”させるとき、別の魂の歪みを引き受けなきゃいけないの」

雄太は眉をひそめた。「つまり……?」

「戻るには、他の誰かを“変化させる”必要があるってこと。意図的にね」

その言葉は、雷鳴のように胸を打った。

「そんな……他人を犠牲にしないと、戻れないってことかよ……」

「だから私は、今のままを選んだの」

蒼はふと微笑んだ。「変化してからね、ある人と出会ったの。彼女は、私の新しい姿しか知らない。でも、“私そのもの”を好きになってくれた。私はそれで、救われた」

雄太は何も返せなかった。
頭の中で、美紀の顔が浮かんでは消えた。

あの日の、「今の“あなた”にも、私はまた恋をしてるかもしれない」という言葉。
それは、彼女なりの優しさであり、同時に“迷い”でもあると雄太は感じていた。

その夜、家に戻ると、美紀はリビングで一人ソファにもたれていた。テレビはついていたが、目はどこか遠くを見ていた。

「おかえり」とだけ言い、視線を逸らした。

「……美紀。話したいことがあるんだ」

二人でテーブルにつき、雄太は蝶の夢の“代償”のことを話した。

「一人が戻るために、誰かが変えられる……それって、どう思う?」

しばらくの沈黙のあと、美紀は静かに言った。

「……正直に言うね。私は、あなたが戻ってくれるなら、どんな代償も払うって思ってた。でも、他人を犠牲にしてまで戻ってほしいとは……思えない」

彼女は唇をかみしめて続けた。

「私、自分が思ってたよりずっと、あなたの今の姿を見て、心が揺れてる。戸惑って、困って、それでも……やっぱり、好きなんだと思う」

雄太の胸が熱くなる。

「でも、それは“元の雄太”を知ってるからでしょ?」
「……そうかもしれない。でも、“今の雄太”を見てるうちに、それがどんどん、上書きされていくの。私の中の記憶も、愛情も、未来の形も」

美紀は涙を堪えるように微笑んだ。

「あなたが戻らなくてもいいって、そう思える日が来るかもしれない。……怖いけどね」

その夜、二人は久しぶりに同じベッドで眠った。
手をつなぎながら、ただ、寄り添うように。

雄太はまだ迷っていた。けれど、心の奥で何かが確かに変わり始めていた。

“戻る”という選択だけが正解じゃない。
この変化を受け入れることでしか見えない愛や、関係や、自分という存在が――確かにあるのだと。

そして彼は、蝶の夢の“記録室”へ足を運ぶ決意をする。
すべての真実を、自分の目で確かめるために――。

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