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高校時代の夏休み
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「僕は、僕じゃない“誰か”として、世界に立っていた」
山中慎太郎が高校2年の夏休みに取り組んでいたのは、友人の誰にも話せない、とびきり“個人的な”研究だった。
それは、まだ世界に存在しない技術だった。
バーチャル上で、意識だけを異なる性別のアバターに「同期」させるというシステム。
見た目だけでなく、反射的な挙動、重心の違い、視界の角度、そして「他者として扱われる感覚」までを含めて、完全に異性になりきる体験装置。
名前はまだなかった。
ただ、慎太郎の中では仮称として「SSP(Self-Switching Prototype)」と呼んでいた。
開発は、誰にも知られない自宅の物置を改造した小さな実験室で進めていた。
機材の大半は、学校の研究助成金と、中学生の頃からためていたプログラミングの副収入で集めた。
技術的にはまだ粗削りだったが、それでも一つの“仮想人格切り替え体験”としては、すでに動いていた。
そして、8月のある蒸し暑い午後。
彼は、初めてそのシステムに“自分自身”を接続した。
シミュレータに映し出されたのは、16歳の女子高生の姿だった。
アバターは、現実のどこかにいそうな容姿。過度な美化は避け、等身大の「誰か」を作った。
慎太郎は、ゆっくりと両腕を動かした。指先の細さ、肘の動き、髪が肩に触れる感触。
見える世界は同じなのに、身体というフィルターが違うだけで、すべてが新鮮だった。
最初のうちは、ただ歩くだけで精一杯だった。
重心が違う。スカートの揺れが視界に入る。
仮想空間に配置された鏡の前で、彼はアバターの表情を操作しながら、何度も自分の顔を確認した。
「これが、僕じゃない“僕”か……」
もっとも衝撃だったのは、バーチャル世界で他のNPC(仮想人物)に出会ったときだった。
相手は自動生成された男子学生アバター。彼は慎太郎に(いや、女子高生の姿の彼に)対して、ごく自然に笑顔を向け、「手伝おうか?」と声をかけた。
その一言で、彼は世界が自分を“女”として扱っていることを痛感した。
それは決して不快ではなかった。けれど、妙にこそばゆく、落ち着かない感覚だった。
“これは、演技じゃない。他人になった世界だ。”
2時間のセッションを終えてシステムを解除したとき、彼はしばらく黙っていた。
汗で額が濡れ、手が震えていた。
でも心の中には、確かなものが残っていた。
\*\*「これは、人間理解の鍵になる」\*\*と。
翌日から、彼はコードを徹底的に見直し、感覚フィードバックの精度をさらに高めていった。
この“身体を通じて他者を生きる”という体験が、人間の内面のどこにどう作用するのか。
それが、彼の研究テーマになった。
この最初の体験から数年後、「スイッチハウス」と名づけられるプログラムの原型は、ついに社会実装に向けて歩き出すことになる。
あの夏の午後、仮想世界で女の子として立ったあの一歩が、すべての始まりだった。
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山中慎太郎が高校2年の夏休みに取り組んでいたのは、友人の誰にも話せない、とびきり“個人的な”研究だった。
それは、まだ世界に存在しない技術だった。
バーチャル上で、意識だけを異なる性別のアバターに「同期」させるというシステム。
見た目だけでなく、反射的な挙動、重心の違い、視界の角度、そして「他者として扱われる感覚」までを含めて、完全に異性になりきる体験装置。
名前はまだなかった。
ただ、慎太郎の中では仮称として「SSP(Self-Switching Prototype)」と呼んでいた。
開発は、誰にも知られない自宅の物置を改造した小さな実験室で進めていた。
機材の大半は、学校の研究助成金と、中学生の頃からためていたプログラミングの副収入で集めた。
技術的にはまだ粗削りだったが、それでも一つの“仮想人格切り替え体験”としては、すでに動いていた。
そして、8月のある蒸し暑い午後。
彼は、初めてそのシステムに“自分自身”を接続した。
シミュレータに映し出されたのは、16歳の女子高生の姿だった。
アバターは、現実のどこかにいそうな容姿。過度な美化は避け、等身大の「誰か」を作った。
慎太郎は、ゆっくりと両腕を動かした。指先の細さ、肘の動き、髪が肩に触れる感触。
見える世界は同じなのに、身体というフィルターが違うだけで、すべてが新鮮だった。
最初のうちは、ただ歩くだけで精一杯だった。
重心が違う。スカートの揺れが視界に入る。
仮想空間に配置された鏡の前で、彼はアバターの表情を操作しながら、何度も自分の顔を確認した。
「これが、僕じゃない“僕”か……」
もっとも衝撃だったのは、バーチャル世界で他のNPC(仮想人物)に出会ったときだった。
相手は自動生成された男子学生アバター。彼は慎太郎に(いや、女子高生の姿の彼に)対して、ごく自然に笑顔を向け、「手伝おうか?」と声をかけた。
その一言で、彼は世界が自分を“女”として扱っていることを痛感した。
それは決して不快ではなかった。けれど、妙にこそばゆく、落ち着かない感覚だった。
“これは、演技じゃない。他人になった世界だ。”
2時間のセッションを終えてシステムを解除したとき、彼はしばらく黙っていた。
汗で額が濡れ、手が震えていた。
でも心の中には、確かなものが残っていた。
\*\*「これは、人間理解の鍵になる」\*\*と。
翌日から、彼はコードを徹底的に見直し、感覚フィードバックの精度をさらに高めていった。
この“身体を通じて他者を生きる”という体験が、人間の内面のどこにどう作用するのか。
それが、彼の研究テーマになった。
この最初の体験から数年後、「スイッチハウス」と名づけられるプログラムの原型は、ついに社会実装に向けて歩き出すことになる。
あの夏の午後、仮想世界で女の子として立ったあの一歩が、すべての始まりだった。
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